池澤夏樹×『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』

去年の終わりに観たピナの映画、
『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』
http://


私は、この映画をひどく気に入ったのですが、
この熱い熱い気持ちを、
「感動した!」
とか、
「すごい!」
とか、
「めっちゃいい!」
とか、そんなありふれた言葉でしか、
表せませんでした。
面と向かって、
私のしゃべりのエネルギーと一緒なら、
これらの言葉をやたら繰り返し、
相手に伝えることは出来ても、
悔しいけど、
文字になってしまったら、
マンガのふきだし程度の重みしかありません。
朝日新聞の文化欄に、
小説家、翻訳家、そして批評家でもある、
池澤夏樹氏のこの映画に対する評を見つけました。
文章の力って、
すごい。
わたしのパンの生地みたいな想いは、
勝手にこねられて、
寝かされて、
あっという間に、
熟成されました。
「これが踊りか。
これが踊りだ。精神の動きを肉体が表し、
肉体の勝手な衝動を精神はとまどいながら受け止めて
また肉体に返す。
我々が毎日とても稚拙にやっていることのエッセンスを抽出し、
純化し、
最も美しい形に仕立て上げたもの。」
(朝日新聞 2012/04/03)
読んだ瞬間、
パソコンで、
ひらがなで、思ってること全部かきまくって、
それが、いっぺんに漢字に「変換」された感じ。
【稚拙美】 幼稚でつたないが、素朴さ・純粋さが感じられる美。
ピナのダンスは、
彼女の、
ダンサーたちの、
人間の、
そして、わたしたち全員が所有しているもの。
もしくは、していたもの。
それは、
究極に洗練された子どもの「精神」による、
大人の「身体」のダンス。
だから、
わたしは、
心底嬉しくて、
心底悲しくて、
心底怒ってしまう。
芸術批評は、
時に、
芸術以上に、
アーティスティック。
池澤氏の書いた文章の力が、
完全に、
この映画の記憶にぬりえした。
鮮やかすぎる。

『ヒロシマ・モナムール』@THÉÂTRE DES ABBESSES

パリ市立劇場のアベス劇場にて、
去年の静岡の「ふじのくに⇄せかい演劇祭2011」にて
招聘された作品『HIROSHIMA MON AMOUR』のパリ公演を観ました。
スクリーンショット(2012-04-21 21.58.24)
http://www.theatredelaville-paris.com/spectacle-hiroshimamonamourchristineletailleur-351
『ヒロシマ・モナムール』は、
フランスの女流作家マルグリット・デュラス(http://ja.wikipedia.org/wiki/マルグリット・デュラス)が脚本、
アラン・レネ、監督の映画「二十四時間の情事」で世界的に公開されています。
被爆地ヒロシマで出会った、
日本人男性とフランス人女優。
二人はそれぞれ、第二次世界大戦により悲しい「過去」を持っていた。
フランスでの、マルグリット・デュラスの人気は絶大。
人気というか、圧倒的に特別な存在。
例えば、戯曲にしても、
コンセルバトワールでも、いくら好きでも、
若者には、恐れ多くて手が出せない…
そんな存在。
よく「フランス人はフランス語が世界で一番美しい言語だと思っている」
言われますが、
それは、
こういう人たちの言葉、そして文章をさしているのだと思います。
そんなデュラスのテキストに挑んでいたのが、
日本人の太田宏さん(青年団)
去年、静岡で公演されたときは、
フランスの作品として紹介されていたような印象を受けましたが、
これは、まぎれもなく太田さんなしには、成立していない作品でした。
作品が始まって、
太田さんの一声目の台詞で、
すでに明確でした。
耳を通して脳に伝わるのではなく、
身体に直接、触れられてる感じ。
それは、太田さんが日本人というアイデンティティーを持ったまま、
フランス語の台詞を話していたから。
どんなにフランス語がうまくても、
日本人のアイデンティティーを持ってない俳優には出せない音だったから。
言葉は、まだ言葉である間は「平面的な」意味しか持たない。
言葉が、音になってはじめて「立体的な」意味を持つ。
(日本人の)役者が、
(フランスの)舞台で、
(フランスの)観客の前で、
(フランス)語を語る。
この( )部分がこの作品は既に幾度となく、変容している。
そして、その度に、新たな「面」が追加されていって、
どんどんどん「球体」に近い「多面体」になって行く。
こういう奇跡的な現象を、
「作品が一人歩きしはじめた」
というんだろうな、と思い、
そんな作品を目撃できたことに心から感謝しました。
公演後の役者と演出家による、アフタートークでも、
お客さんは、主に日本で演劇の活動している太田さんに興味津々。
稽古の進め方について、
太田さんと、相手役のヴァレリーさんは、
とにかく、言葉ひとことひとことと、どう対峙するかを、
徹底的に追求したと言っていました。
状況とか、感情とか、そういう大まかなものではなく、
とにかく、
言葉、
言葉、
言葉。
そして、そこにそっと生じてくる「静寂」の白。
その空白が、なんともダンス的でした。
よくいろんな批評で「詩的」と言う言葉を目にしますが、
私には、この「詩的」という感覚が未だによく分かりません。
ただ、ひとつ言えるのは、
この作品のストーリーとかテーマとかを超えて、
音と静寂の狭間を感じることが出来たこと、
これを「詩的」と言う言葉を当ててみたい気持ちがあります。
ちなみに、
自称デュラスのスペシャリストと豪語していたマダムもこの作品に大満足。
大好きな作家の、もう幾度となく熟読している作品を、
劇場という空間で、もう一度満喫できるなんて、
さぞかし贅沢な気分だっただろうと思います。

波乱の2次試験、アスリート的演劇の捉え方

例えば、
今日の夜この場所でこの時間、本番をむかえるのは、
昨日の私でもなく、
明日の私でもなく、
今日の午前中の私でもなく、
いま、今夜のわたしだ。
ロンドンオリンピックの選考会で日本代表選手が決まったそうです。
選考基準、厳しい。
http://swimmingview.net/news/maingame/2012londonolympics/2012年ロンドン五輪日本代表選考基準.html
その日、1日で、すべてが決まる。
国立コンセルバトワールの2次試験、
審査員15人の前で、
3分のシーンを1日1作品づつ2日間かけて発表します。
私は、この試験に失敗しました。
絶対受かるだろうと思われていた子が落ちたり、
いろいろ波乱な結果ではありましたが、
私は、確実にベストが出せなかった。
ということで、納得しています。
というか、納得せざるを得ません。
空間を、揺さぶれなかった。
365日中、
300日だけ輝くのか、360日輝けるか、
はたまた365日毎日輝けるのかの差だと感じました。
練習でいくら新記録を更新しても、
本番で更新できなければ意味がない。
ということで、
5月からの試験に向けて以下の記事を読んで勉強しています。
一流アスリートに学ぶ“本番力”
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100520/92444/?ST=career&P=1
余談ですが、
試験会場には、
なんだかんだ美男美女が多かった。
美男美女というか、
やっぱり自分のことが好きな人には、
外見に表れるものだと実感。
私の身体と顔が、
既に履歴書みたいなものだ。
もっともっと、たくさん、
書き込みまくろう。
受験失敗後の母からの手紙。
「どんなグループにも分母と分子がいる。
誰だって選ばれた分子になりたいけれど、
大半は分母で終わる。
でも、分母が大きくなければ、
分子の価値も認められない。」
やるだけのことはやって挑んだ2次。
いまのところ、割と質のいい「分母」ですね。
わたし。
写真(2012-02-22 09.01) #2
しっかり鮮やかに落ち込んで、
これからは、
脳も、身体も、
演劇アスリートを目指します。

フランス演劇界の巨匠 ~featuring美空ひばり!!

すでに、私の定番になりつつあるシーン、ポール・クローデルの『交換』
1月頭から稽古を初めて、
受験でもすでに、2回発表していて、
クラスでも、何度となく発表しているシーン。
いかに、くりかえし行われる「本番」をフレッシュに保つか。
うまくいった次の回こそが、恐怖なのが演劇。
先週の月曜日にクラスで発表したときは、
あり得ないほど最悪で、
自分でも吐き気がするほどでした。
なにもかも完璧なのに、
なにも「生まれてない」
思わず、「稽古のやりすぎ」だと思って、
距離を置こうかとも思ったのですが、
冷静に考えてみると、
気持ち悪いときは、
きっと、相手が変わっても同じ演技するんだろうな、
ハイパーエゴイスト人間になってしまったとき。
稽古をやめるなんて、
あまりにも若造のくせに怠惰ですし、
「やれば、やっただけのこととが確実にある」
という確信が失われるのも癪だったので、
とりあえず、スタジオへ。
というか、「稽古のやり過ぎ」という悪化原因を認めてしまったら、
もはや、演劇の「反復性」を無視することになる。
などと、もやもや考えながら台本を読んでいたら、
ふっと、美空ひばりの『真っ赤な太陽』が頭の中に流れてきました。
速攻、家に帰って、
you tube検索したら、
最高な動画を発見!!


これは、もう「レキ」という私が演じている役のために存在するような歌だ!!
何故か、
必死に物まねを練習して、
気づいたら、早1時間。
思わず、自分の必死さに笑ってしまいました。
はやく皆に発表したくて、
昨日、ルクソンブール公園でのミーティングがあったので、
そのときに皆に『真っ赤な太陽』をお披露目。
みんな、大爆笑で、
速攻覚えて、
「真っ赤に燃えた〜♪」と、
歌っていました。
そして、今日、クラスで発表。
ただのクラスでの発表なのに、
うまくいくか、
死ぬほど緊張。
「真っ赤に燃えた〜、太陽だから〜♪、
 真夏の海は〜、恋の季節なの〜〜♪」
そこから、台詞に突入。
今まで通りの演出プランなのに、
ぷるぷるの感触でした。
パートナーもご機嫌。
スクリーンショット(2012-04-02 22.12.20)
終わってから、鼻歌で『真っ赤な太陽』歌いながら、
二人の絵を書いてくれました。
右側が、私らしい。
それにしても、美空ひばりは、やっぱり伝説の人だと改めて認識。
外国人が聞いても、
いっぺんで、
歌詞も曲も覚えてしまって、
みんな頭から離れないー!!
と、困っていました(笑)

私が一番嫌いなエクササイズと演劇における『不確か性』について

演出クラスの授業で、ウォーミングアップとして行われるエクササイズの中で、
私が一番嫌いなエクササイズがあります。
最大を10として、
空間を全員で歩き回る早さをランダムに4つ決めます。
たとえば、「2・4・9・5」とします。
全員が空間全体に、散らばって立っているところから、
同時に速度2で歩き始めます。
早さの切り替わりは、全員で相手を感じながら変えていきます。
オプションとして、
ひとつめの速度2のときに、
パートナーを決めます。
もちろん、エクササイズの間、一切おしゃべりは禁止。
とにかく、他者、そして、空間を、「聞く」
3つ目の速度9のときに、
速度2のときに決まったパートナーとおなじになるように、
ある「場所」をフィーリングで決めます。
4つ目の速度5のおわりに、
全員で同時に歩くのをやめます。
そして、1つ目の早さのときに決まったパートナーと一緒に、
3つ目のときに選んだ場所に行って、
抱き合います。
ここでの、パートナー選びが最大の難関…
常に空間を歩き回っているので、
お互いに見つめ合っていることも出来ないし、
相手も、自分をパートナーだと思っているか確認できないので、
勘違いかもしれない。
かつ、パートナー選びにばかり集中していると、
全員と速度をあわせられなくなってしまう。
私は、一回自分がパートナーだと思っていた相手が、
すでに他の人とパートナーを組んでいたので、
一人余ってしまい、
それ以来、
勘違いが怖くて、
このエクササイズが大嫌いです。
冷静に、このエクササイズについて、
分析してみると、
他の人が何を考えているか、何を感じているかわからない、という、
当たり前の「不確か性」が、
他者を「聞こう」とすればするほど、
膨れあがっていき、
空間をより危うい場所にしてくるのです。
去年、AICT演劇評論賞を受賞した、
平田栄一朗先生の『ドラマトゥルク―舞台芸術を進化/深化させる者』の、
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http://www.amazon.co.jp/ドラマトゥルク―舞台芸術を進化-深化させる者-平田-栄一朗/dp/4883032787
「第6章 ドラマトゥルクと日本演劇」の中で、
上演分析中心の入門書として必読3冊があげられています。
『ポストドラマ演劇』ハンス=ティース レーマン (著)
http://www.amazon.co.jp/ポストドラマ演劇-ハンス-ティース-レーマン/dp/4810201376
『パフォーマンスの美学』エリカ フィッシャー=リヒテ (著)
http://www.amazon.co.jp/パフォーマンスの美学-エリカ-フィッシャー-リヒテ/dp/4846003280
『演劇学の教科書』クリスティアン ビエ (著), クリストフ トリオー (著)
http://www.amazon.co.jp/演劇学の教科書-クリスティアン-ビエ/dp/4336051054
2冊目の『パフォーマンスの美学』
この本には、もはや世の中にこれ以上、革新的な出来事なんて起こりえるのかと思えるほど、
舞台芸術史において、
「起こった」出来事が、
余すところなく書かれていて、かつ、見事に分析されています。
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すべての事柄は、
「新しい」「革新的な」ものとして、そのとき、その場所で、起こっったものであり、
そして、いま、「過去」の出来事とみなされているだけなので、
ここを知らない限り、
「新しい」ことを目指すのは危険だと、
改めて感じました。
この本の「第3章 俳優と観客の身体(ライブ)の共在」 
の中で、以下のようなことが書かれていました。
「ヘルマンが論じたように、上演の表現媒体(メディア)上の条件は身体(ライブ)の共在にある。これが成立するためには、俳優と観客の『行為する』人々と『観る』人々の二つのグループが一つの場所に集まり、ある一定の時間を共有しなければならない。(中略)
観客は、笑い、おもしろがり、ためいきをつき、うめき、しゃくりあげ、泣き、足を踏みならし、椅子の上で前後左右に身体を動かし、緊張した面持ちで前のめりになって舞台に集中し、あるいは、リラックスして背もたれに寄りかかるかと思えば、ほとんど動かなくなることもある。(中略)
俳優の演技は、観客の反応によって集中力が変化し、声が大きく深いにも、逆にますます魅力的にもなる。(中略)
このような不確定性は、十八世紀末以来、舞台芸術の欠点ないし厄介ごととして見なされて、いかなる手段によってでも取り除くこと、あるいは、最小限にすることが求められていた。(中略)
1876年、バイロイト祝祭劇場の最初の公演において、リヒャルト・ワーグナーは観客席を完全な暗闇にした。
つまり、今では当たり前とされている、
上演中、客席を暗転にするという行為は、
観客の「不確定性」を排除しようという、
舞台芸術において、
最も意地悪で、不条理な行為だったのです。
私の大嫌いなエクササイズと同じように、
「不確か」なことがらは、
いつも、私たちを不安に、
そして、臆病にする。
でも、同時に、
「俳優と観客の身体(ライブ)の共在」の場で、
起こった小さな行為は、
ありえないほどの、
「どきどき」と、
「わくわく」を、
孕んでいる。
私は、この「不確か性」に、
舞台芸術の情熱を感じる。
客席の明かりをつけたまま舞台に立つ強度を、
パフォーマーに課すこと、
そして、
くりかえし同じものを上演するという、
上演芸術の「反復性」が、
いつ、どんなときでも「一回性」のものになることを期待します。