【クロスプレイ東松山】「イディオリトミー」的デイサービス楽らくのあり方

むかしむかしあるところに、「アトス」という山があり、その山には、とても不思議な修道院が建っていました。本来、修道院というものは、イエス・キリストの精神にならって祈りと労働のうちに、共同生活をするための施設です。食べる時も祈る時も作業をする時も、そして眠る時でさえ、一切の生活を共同で行い、信仰を高めるものなのです。しかし、アトスにある、この不思議な修道院では、それぞれが「固有のリズム」を保って生活をしていました。修道士たちは個室をもち、自分の部屋でご飯を食べました。

それでも、土曜日の午後と日曜日は、号令がかかるわけでもないのに、ある場所に集まってきて、それぞれのリズムを保ったまま時間を過ごし、また自分の場所に戻って行くのです。彼らは、ひとりひとりでありながら、共同体のメンバーであり、孤独と一体感のあいだに、身をゆだねることができるのです。そんな彼らの生活は「イディオリトミー」と呼ばれていました。

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「クロスプレイ東松山」第3週目のことです。東松山市にある高齢者通所介護施設「デイサービス楽らく」で実習生として過ごした私は、まるで「アトス山の修道院」にいるような心持ちで毎日を過ごしていました。

フランスを代表する批評家にロラン・バルトという人がいます。彼は、ある一部のエリート層だけにわかるような批評ではなく、恋愛など、私たちの生活に潜むさまざまなことがらを批評した人です。また、来日の際には、「すきやき」や「天ぷら」まで批評しました。バルト氏の手にかかれば、天ぷらの衣に散在する「すきま」でさえ、「レース編み細工」と例えられてしまうのです。

脱線、脱線。

そんなバルト氏が、晩年の人生をかけて研究していた最大のテーマが「いかにして共に生きるか」でした。そこでアトス山の修道院における「イディオリトミー」という概念と運命的な出会いを果たします。

「固有な」という意味の〈イディオス〉と、「リズム」という意味の〈リュトモス〉からなるこの言葉は、ひとりひとりが「固有のリズム」を保つことができる共同体のあり方を示しています。コミュニティデザインの先駆的実践者、山崎亮氏は、自身の会社の理念にも「イディオリトミー」を掲げながら、この概念を「思い思い」という言葉で翻訳しています。

実習生初日、私は入浴介助の現場に足を踏み入れました。職員さんは、介護の勉強をしたことがない私を、お風呂場の中にまでいれてくださり、シャワーの水しぶきがかかるくらいの距離で、利用者さんの入浴に立ち会わせていただきました。利用者さんの剥き出しの背中を見ながら、こみ上げてくる感情がありました。「私は昨日までずっと『さわる』ように利用者さんを見てきたのかもしれない。そして、今、私はきっと『ふれる』ように彼らを見ている。」

「ふれる」と「さわる」の違いは、美学者である伊藤亜紗氏が著書『手の倫理』において、以下のように言及されていますが、それは触覚だけでなく「視覚」にも適用されると感じました。

その研究者と会うのは初めてで、お互いの研究について自己紹介しつつ、ざっくばらんに雑談を繰り広げていました。彼の専門は体育科教育学。私の専門は美学という哲学系の学問です。分野は違いますが、しだいに議論が白熱していき、彼は自らの体育教育の理想を語り始めました。

「体育の授業が根本のところで目指すべきものって、他人の体に、失礼ではない仕方でふれる技術を身につけさせることだと思うんです」

(中略)

序で区別したように、「さわる」は、相手との感情的な交流を考慮しない一方的な接触です。彼の意図はむしろ、相手の事情を思いやりながら、それを尊重するように接触することにあります。この双方向性を意図するなら、接触は「さわる」ではなく「ふれる」でなければなりません。

伊藤亜沙『手の倫理』

クロスプレイ東松山が始まって最初の2週間、なるべくホールに出て、利用者さんと職員さんの手つきや交流から、なにかを得ようと躍起になっていましたが、一方的に「さわる」ような視覚から得られるものは限られていました。お風呂場で、はじめて「双方向性」のある視覚を知覚し、「ふれる」ように見ることに成功したような気がしました。

そのヒントとなったのが、介護士さんの「1日たりと同じ日はないのよ」という言葉であり、それはケアに関わる態度として、「不確実性」に開かれているか否かという重要なポイントでした。社会心理学者の山岸俊男氏は、著書『安心社会から信頼社会へ』の中で、「信頼」を以下のように定義づけています。

信頼は、社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、相手の(自分に対する感情までも含めた意味での)人間性のゆえに、相手が自分に対してひどい行動はとらないだろうと考えることです。

山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』

「不確実性」をよしとする空間にしか、「信頼」というものは生まれないのではないか。「不確実性」を排除する空間では、スマートに物事が進むのかもしれませんが、そこで得られるのは「信頼」ではなく「安心」であると山岸氏は続けます。つまり、相手の行動を自分のコントロール下に置くことです。ベテラン介護士であっても、入浴介助の時は、いつも「ドキドキしてしまう」とおっしゃっていました。どんなに経験を続けても、この「ドキドキ」を継続させられることこそが、カリスマ介護士の所以なのでしょう。そして、その感覚は、カリスマ俳優にも通じることです。何十年と舞台に立ち続けていても、何十回同じ作品を繰り返し上演していても、毎回きちんと「ドキドキ」できる。それは、観客を強く信頼し、勇気をもって「不確実性」に開いている俳優にしかできないことです。

入浴介助で「ふれる」ように見るスキルを獲得した私の視界は広く、そして少し寛容となりました。きっと、前半の滞在では一方的かつ非常に能動的に「見よう」としていたあまり、眉間にしわがよっていたことでしょう。ホールに戻り、「ふれる」ように空間を見ていると、ここには、決定的に何かが欠如しているということに気づきました。それが、「中心」です。サッカーの世界で言えば、パスや他の選手への指示を出し、試合の流れをコントロールする役割を果たすチームの「指令塔」的存在。しかし、不思議なことに、「中心」が存在しなくても、空間は心地よく機能しているのです。そして、利用者さんたちそれぞれの「固有のリズム」も担保されている。

「中心」は「権力」と切っても切れない関係にあります。バルト氏も、イディオリトミーを考察する際、「権力」についてふれていますが、「イディオリトミー=全般的流動性≠確固とした地点:権力」と記述した上で、イディオリトミーの特徴を「ある宗教的権力に対する同じ自立性によって特徴づけられる」と注釈を加えています。楽らくが、イディオリトミー的に機能している所以のひとつに、この「権力の不在」が関係しているのかもしれません。職員さんそれぞれに役割がありながら、時として、すっぽりと空いてしまった空間には、誰が指示をするということなく、数秒後にはきちんと誰かの役割の中におさまっているのです。そんなイディオリトミックな楽らくだからこそ、ある共同体におけるひとりひとりの「多様性」、さらには、ひとりの人間の中にある「多様性」までをも担保することができているように見えるのかもしれません。

デイサービス楽らくで「クロスプレイ東松山」を担当する藤原顕太さんは、楽らくにおける「固有のリズム」を担保する職員さんたちの仕事を「空気のコーディネーター」と称していました。この「空気」という言葉には、その空間に流れるエネルギーのようなものも含まれるようです。

バルト氏が晩年長い時間をかけて研究し、死によって中断されてしまった「いかにして共にいきるか」の理想形としての「イディオリトミー」。その言葉を探るヒントが、デイサービス楽らくに隠されているのではないかとワクワクしています。自分が想定する方向性に突き進み、闇雲になにかを掴み取ろうと努力するのではなく、今まで培ってきた「自分の価値観」が崩れることを恐れずに、相手の「固有のリズム」に耳をすませられるよう、もう一度、現場に立ち会わせていただきたいと思います。

【クロスプレイ 東松山】デイサービスで経験するアイデンティティー・クライシス

36年間生きてきて、まだここまで打ちのめされることがあるかという、高齢者施設での1週間を過ごした。おおげさではなく、海外留学よりも衝撃的な経験。

「クロスプレイ 東松山」初日

「クロスプレイ東松山」は、埼玉県東松山市の高齢者介護施設「デイサービス楽らく」内にある素敵なワンルームで過ごすアーティスト・イン・レジデンス(以下AIR)。

謎だらけのAIRの中で、最も不思議なコンセプトが、「デイサービスに参加してもしなくてもいい」ということ。つまり、自室に籠もって、ただただデイサービスには関与せず創作をしている日があってもいいらしい。

好きなときに、ふらりとデイサービスの方に行って、ふらりと自分の部屋に戻ってきていい。

一言でいうと、「どこにいてもいい」すなわち、究極「どこにいなくてもいい」。

「いてもいなくてもいい」AIRなんて、経験したことない!

「いてもいなくてもいい」場所で、どう存在していればいいのかがわからない!

ということで、完全なる「アイデンティティー・クライシス」を経験。

アイデンティティー・クライシスとは、人が自己の役割、存在意義、目標などを見いだせず、混乱を生じたり、心理的な危機に陥ったりすること。

言葉ができずに、海外に行ったりすると、今までと同じ自分を保つことが難しく、自分が何者かわからなくなってしまい不安な気持ちになる。しかし、クロスプレイ東松山でのアイデンティティー・クライシスは、海外なんて完全に凌駕する!

日本語で「いる」と「ある」は、別々の言葉だが、英語ではどちらも【be】がそれにあたる。

私にとっては「いる」と「ある」がセットであるということは非常にしっくりくる言語感覚である。

なぜなら、私にとっては、ある環境及び場において、自分が何もので「ある」かがわかっているからこそ、そこに「いる」ことができるからである。

今回は、この「ある」が「ない」のである。

私は何者でも「ない」まま、そこに「いる」ことの不安よ。

しかし、こうなることは、ある意味想定内だったといってもいい。

私は本来アイデンティティクライシスを誘発してしまうような、「意義」や「目標」といったものに縛られがちなので、今回の滞在が始まる前に以下の二つのテーマ(また、目標という言葉をつかいそうになって、やめた)を設けていた。

それが、「エポケー」と「多孔的な自己」である。

エポケーとはギリシャ語で、「判断保留」を指す言葉。

これを、フッサールという現象学の巨匠が、本質に迫るために私たちの判断というのをいったんわきに置いてそのものを見たり、聞いたりすることによって、その本質に私たちは近づけるんだということを論じたらしい。

意味的には、英語の【suspend】に近い。ただ、私は、ぽけーっと何もしないことも、死ぬほど苦手なので、「ぽけー」とい感覚も大事にしてみようという想いをこめて、この可愛い言葉「エポケー」をテーマに掲げた。

そして、二つ目の「多孔的な自己」とは、小川公代さんの著『ケアと倫理とエンパワメント』で紹介されていた概念である。

「多孔的な自己」とは、カナダの宗教社会学者チャールズ・テイラーが提唱した概念で、まず、近代社会で求められる自立した自己像を「緩衝材に覆われた自己」(buffered self)と称する。

こちらは、「自分自身を決して脆弱ではない存在として、つまり、自らを事物の意味の所持者であると理解することができる」と説明する。これは、まさに私が10年間以上ヨーロッパ社会で培ってきた「自己」であり、「緩衝材に覆われた自己」を確立するためには、努力と時間を惜しみなく使ってきた。

それに対し、提唱する「多孔的な自己」(porous self)は、「より緩やかな輪郭をもち、一個の主体としてではなく、自己が内的世界と外的世界を行き来するような、近代では希薄になっている通気性のよい自己」と論じられているのだ。

そして、小川氏は、このふたつの自己のかたちが書かれているチャールズ・テイラー『世俗の時代』に関して、以下のようにツイートしている。

「自分を外部から分離できると考える『緩衝材に覆われた』マッチョな自己」、まさに心当たりがある。それに対して、「多孔的な自己」は、「外部との関係性が基盤」なのだ。

現在に至るまで、私は意識的に、外部との関係性をとってきたが、それは、常に「緩衝材に覆われた」自己があったからこそ、とることができていた関係性である。

自分がなにもので「ある」かということを失効した状態である私に、「緩衝材」はもうない。テーマもなにも、「クロスプレイ 東松山」のAIRのしくみ自体が、「多孔的な自己」という側面を反強制的に呼び覚ましているといっても過言ではない。

そんなこんなで、最初の2日間、私は言葉通りただただ「棒立ち」していた。

「緩衝材に覆われた自己」をひたすら追求してきた私の身体は、この無駄な自分の存在はなんなのか、むしろ、「人の役に立ちたい!」「働きたい!」「何かしたい!」「何か私に役割をくれ!」と悲鳴をあげていた。

そして、3日目が終わろうとしていたころ、少しだけ気持ちに変化が起きる。

この部分はまだ言語化できていないので、また来週考えよう。

創作現場で俳優にこれだけは担保してあげたいふたつのこと。

7月にプレ・勉強会という形で生まれた、演技とハラスメントの関係を探るプロジェクト『他者の言葉を語る身体のスキャンダル』、「4都市ツアー」無事終了しました。

数年前から、大学の特別講義や、ワークショップをやらせていただくことが増えてきましたが、毎回、お話させていただくたびに、教育の現場こそ、「上演」の最前線なのではないかと感じていた。

始まる前の準備やリハーサル、そして、変わらぬ緊張感。

同じ内容をやっても毎回違う参加者の反応に、時には、即興で内容を変更させてもらったり。

終わりの時間を気にしたり、終わった後に感想をいただいたり。

まさに、「一人芝居」そのもの!

8月末から、京都、東京、長野、大阪と、4都市で開催したワークショップ『他者の言葉を語る身体のスキャンダル』では、渡辺健一郎さんの『自由が上演される。』を参考に、「教育は上演によってのみ可能である」という裏テーマを設定。

講演会やワークショップ、大学での講義などなど、人前に立つ状況において、常にパフォーマーとして「上演」を意識することで、本来受動的な立場に置かれがちな参加者の意識を、「観客」という存在にまで引き上げ、その「上演」に対してより能動的、および「批評的な」姿勢で関わってもらう試みを実施した。

そんなわけで、わたしは、勝手に「4都市ツアー」終えた気になっているのである。

ワークショップを数年続けてみて、これだけは確信を持って言えることがひとつだけある。

それは、ファシリテーター側に発見があることは、参加者側に発見があるということと同じくらい大切なことであるということ。

フランスで演劇教育者国家資格取得のための研修でのオリエンテーションで一番しつこく言われたことは、演劇の教育者が「アーティスト」であり続けることの意義である。

アーティストとして、ワークショップを続けるためには、提供者としてではなく、自分自身が発見と追求の中に身をおく必要がある。

今回、わたしのワークショップ活動を手助けしてくれた『早稲田小劇場どらま館』宮崎晋太郎さんと『うえだ子どもシネマクラブ』直井恵さんには、参加者の存在と同じくらいわたしの活動を大切にしてくださり、わたしにもたくさんの発見があるよう最後まで工夫を凝らしてくれたことに、改めてここで感謝したい。



参加者の皆さんのさまざまな「発言」を栄養に、すくすく成長した今回の企画。

大阪で、最後の「上演」を終えビールを飲んでいると、15歳も年の離れた俳優からSOS。

現場で、主宰の方に伝えたいことが言えず、落ち込んでいる、とのこと。

創作現場に関するワークショップであれこれ持論を並べても、ここでなんのお手伝いができなかったら説得力ないな、と思いながら、彼女が主宰の方にお話をするということで、同席することに。

大概、創作現場で起こる諸々は双方の「気の遣い合い」から、生じていることも多いが、

一番の要因は、本番が迫ってくると、創作現場や稽古後の時間も、演出家はやることがたくさんあって、話し合いなんて無駄な時間はとれないだろうという俳優側の誤解。

いや、実際に、「話し合い」なんてしてる暇があったら、台詞のひとつでも稽古しろやい、という時代遅れの現場もあるのかもしれないが、創作現場において「話し合い」ほどクリエイティブな時間の使い方はない、と声を大にして言いたい。

俳優は、自分の身体という、これほどまでに信用できない道具を使って商売しているのだから、その商売道具が、「迷い」や「不安」で故障してたら、いいパフォーマンスなんてできるわけない。

それは、演出家が一番わかっているから、その「不安」を伝えてもらって、めんどくさがる演出家なんているだろうか。

この夜も、若い俳優の「不安」に、年も倍以上離れた先輩俳優や演出家が真摯に向き合い、とことん時間をとって「話し合い」が行われていた。

わたしは、心底、「クリエイティブ」な時間に立ち会わせていただいているなと感謝した。この時間に立ち会えることこそが、「演劇教育者よ、アーティストであり続けろ!」の言葉が示す真意だな、と。

創作現場で、特に若い俳優たちにこれだけは担保してあげたいことがふたつある。

「交換不可能性」と「尊厳」だ。

「演じる」という行為において、ある意味、誰しもが役を演じる上では「代替可能」である。

キャスティングされた時点では、「代替可能」である「演じる」という行為を、自分以外に「代替不可能」であると体感していくプロセスが稽古とも言えるのかもしれない。

しかし、そもそも、「演じる」という行為が、自身の存在意義や自己肯定感と切り離せていない場合(わたしも含め、こちらのケースがほとんど)、どんなに稽古でうまくいっていても、俳優という仕事から、自身の「交換不可能性」を感じることは非常に難しい。

だからこそ、創作プロセスにおける自身の態度に、俳優としてのプロフェッショナリズムの焦点を合わせ、創作メンバーとの関係性の中に、自身の「交換不可能性」を発見してほしい。

「話し合い」ができればできるほど、あなたの「交換不可能レベル」は上昇していくに違いない。

もうひとつは「尊厳」である。

これは、さまざまな方法で担保できる。

出演に対する対価として、単純に納得できる金額が支払われることなのかもしれないし、

創作チームと長い時間をかけて積み上げてきた信頼関係なのかもしれない。

もしくは、自分の発言にしっかりと耳を傾けてもらえることなのかもしれない。

自分の「尊厳」が何によって担保され、何によって損なわれてしまうのか。

創作現場で、ただただ「不安」に苛まれている時、自身の「交換不可能性」を見出せない時、「尊厳」というキーワードに立ち返ることで見えてくるものは多い。

案外、小さなことだったりするものだ。

La dignité「尊厳」または「品格」という意味のフランス語の名詞である。

これは、私が、母国語ではないフランス語という外国語を使って、演技をする上で、ずっと向き合ってきた言葉である。

どんなに専門的に発音を訓練しても、自分の発している言葉にアクセントは残る。

自分の言語レベルに演技が引っ張られて、どうしても、幼くなってしまう傾向が強かった。

声の響きや、身体のあり方。

自分の完璧ではない言語能力を誤魔化すかのように、無意識のうちに、無駄な「笑顔」をつくっていることもあった。

そんな時、憧れの先輩女優から言われたのが、この言葉、「La dignité」。

「媚びるな、La dignitéを持て!」



子供の頃から、言葉がわからない環境で生活していたことが多く、言語習得時における「プライド崩壊」慣れをしている私でも、あの「子どもにかえったような感覚」は、やはり辛い。

それでも、どんな状況でも、私たちが人間である限り、「尊厳」は絶対に決してなくしてはならない。

周りから笑われようと、そんな小さなことで大袈裟と思われても、「尊厳」は持ち続けなければいけない。



来年も、「上演」としてのワークショップは続いていきます。

演技とハラスメントの関係を探るプロジェクト『他者の言葉を語る身体のスキャンダル』は、創作現場の向上のために、全国どこへでも向かいますので、これからよろしくお願いします。

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「遠くの親類より近くの他人」呼び込み作戦

本日から始まった豊岡劇場での上映『太田信吾短編集』

ちょうど豊岡では昨日から豊岡演劇祭2023が開幕し、県外からも多くの観客が訪れています。

今回の豊岡劇場での上映も、「”勝手に!”豊岡演劇祭コラボ特集」ということで、豊岡演劇祭期間に合わせたプログラムが展開されているのですが、県外から演劇祭に訪れた観客の方々にこの特集上映情報がどれだけ伝わっているかは定かではありません。
映画館が存続するためには、「街」の力が必須です。

「遠くの親類より近くの他人」という諺がありますが、この言葉は地方のミニシアターのためにあるようなものだと思います。
例えば、舞台芸術において、同じ時と場所を共有するという特殊性のために、アーティストのフォロワー的な「遠くの親類」を呼ぶことは可能でしょう。しかし、映画館が頼れるのが、「近くの他人」なのです。

もちろん、太田信吾さんのファンが、遠方から訪れてくれることは大変嬉しいことですが、豊岡劇場というミニシアターの未来を考えた時、太田信吾さんを知らないであろう近所の方が、「なんかよくわかんないけど、近所の豊劇でやってるから行ってみるか」と、映画のある「テーマ」に反応し足を運び、作品と観客の偶然の出会いが生まれることが理想的であるように思います。

それは、この出会いが「豊岡劇場で起きた良い記憶」が生まれ、また別の映画作品とその人をつないでくれる「特定の場所」として記憶されうるからです。


新米プロデューサー竹中香子の力試しとして、太田信吾さんのことを全く知らない豊岡劇場近所の皆さまや、豊岡演劇祭に訪れた方々に向けて4作品の魅力をお伝えしたいと思います

『ソーラーボートの作り方』 〜漂着プラごみで試作編〜

普段、超高級住宅地「芦屋」で焼き鳥丼キッチンカーを出しているかのうさちあさんは、なんでもかんでも自分で作ってしまう人です。去年はガソリン代が高騰し、ガソリンを払うのがバカバカしくなり、ソーラーパネルで「ソーラーキッチンカー」を作ってしまいました。そんなかのうさんが、今回は、長崎県対馬に大陸から海洋ゴミが流れ着いているという噂を聞きつけ、それらのゴミを使ってソーラーボートを作ることを考案。出来上がった船で、対馬から釜山まで航海しよう!と言い出しました。そんなかのうさんの沈んでも沈んでも絶対諦めない手作りソーラーボートドキュメンタリー。果たして、釜山に渡航はできるのか?!

『門戸開放〜Opne the Gate〜』

太田監督得意の手法、「当事者が当事者を演じ直す」ドキュメンタリーです。本作品の登場人物たちは、自らの身に起きたことを演じ直す形で撮影に参加しています。「演じる」とはなんなのか。「演じ直される」ことで生まれる圧倒的ユーモアの力にも注目です。「肛門に日光を当てる」という一見ギャグのようなこの行為ですが、ルーツはヨガにあると聞きつけ、鬱に苦しむ主人公は、なんとインドに旅立ちます。肛門日光浴シーンが、あまりにもかっこいいので、明日からベランダで試してみたくなること間違いなしの作品です!

『秘境駅清掃人』

本人も自覚する自閉症を持つ、愛知県在住の髙橋祐太くんは、秘境駅に魅せられて、ほぼ毎週末、自腹を切って飯田線の秘境駅清掃のため長野県天龍村にやってきます。平日は工場に勤める正社員である祐太くんは、金曜日の終業後に長野まで直行することもしばしば。そして、休日ほぼ全ての時間を駅の清掃作業に費やし、また愛知に戻っていくのです。祐太くんは、なぜこの過酷な作業を楽しそうに続けているのか。そして、過疎化に直面する天龍村近辺の映像美にも注目です!!

『現代版 城崎にて』

志賀直哉の短編小説『城の崎にて』を題材に、フランスで活動する女優(わたし、竹中香子)の視点に置き換え、コロナ禍における生死を問う作品。豊岡、城崎、出石を中心にロケを観光した、ご当地ムービーです。普段、何気なく通っている風景がまた違って見えるかも。本編に登場する歌姫、唄さんは、当時、芸術文化観光専門大学の学生でした。彼女の歌声と存在感にも注目です!!また、街のみなさんにも出演協力いただいたので、皆さんご存知のあの人やあの人も登場しているかも。

そんなわけで、みなさん、『太田信吾短編集』上映情報が豊岡の「近くの他人」の皆さまに届くようどうかご協力お願いいたします!!

シビックプライドから考える映画『沼影市民プール』

「シビックプライド」という言葉をご存知だろうか。

直訳すれば、「市民の誇り」というところだろうが、調べたところ「市民としての当事者意識」が鍵となっているようだ。

シビックプライド研究会を主宰する伊藤香織氏は、「単なるまち自慢や郷土愛ではなく、『ここをよりよい場所にする ために自分自身がかかわっている』という、当事者意識に基づく自負心を意味する」言葉として定義づけている。

また、シビックプライドの例として、イギリス・バーミンガムのまちの美化キャンペーン「You are Your city」を例にあげる。

シビックプライド−都市のコミュニケーションをデザインする(宣伝会議Business Books)より引用。

このポスターは、「まちにゴミを捨てるのをやめましょう」と言うかわりに、「あなた自身があなたのまちなのです」と呼びかけている。

自分たちが住む場所をより良い場所にするために、自分たちが関わっているのだという、当事者意識がひとりひとりに市民としての「プライド」を付与するのだ。

私は、生まれも育ちも埼玉県の浦和だが、正直「シビックプライド」を感じたことは一度もなかった。

2年前くらいから、長野県に関わりを持つようになった時、長野県民の「当事者意識」のようなものに触れ、強い憧れを覚えた。

私が初めてプロデュースを担当する長編映画『沼影市民プール』が、さいたま国際芸術祭 2023のプログラムとして発表することが決まった時、

さいたまアーツカウンシルの方から、「(日本を代表する)生活都市としてののさいたま市」という言葉に加え、「現役都市」という言葉を教えていただいた。

「現役都市としてのさいたま市」とは、どんどんデトックスしていく街であり、常に現役であり続け、新しい価値を提示していかないと生き残れない街とも言えるそうだ。

言い方を変えれば、「古いものを古いまま残しておけない」街とも言える。

そんな街で今年52歳を迎えた沼影市民プールがその生涯を閉じようとしている。

さて、「現役都市としてのさいたま市」における「シビックプライド」とはなんだろう?

「東京に通いやすい郊外」として、東京を中心に考える魅力ではなく、さいたま市独自の「シビックプライド」。

アーティストの仕事がこの「シビックプライド」獲得に、一翼を担えそうな予感がしている。

私が映画『沼影市民プール』をプロデュースするにあたって特に心掛けていることが、

「複眼的思考」と「批評的思考」である。

ある物事をある一方向からだけで判断するのでなく、別の方向・角度からの景色を「複眼的に」提示することで、観客に「批評的な」視点を持って作品に向き合ってもらえるよう促すということだ。

市民としての当事者意識を育てる第一歩は自分の街を「知る」ことにあるのではないだろうか。

自分の街で起こっていることを俯瞰してみること。

アーティストの視点から「複眼的」に切り取られた映像に触れ、

「批評性」を持って、自分の街と「出会い直す」ことができれば本望である。

そして、なにより太田信吾監督こだわりの映像の美しさに注目していただきたい。

「ドキュメンタリー映画」というと、スマホや手持ちカメラで簡単に撮影されたような映像のイメージを持たれる方もいるかもしれないが、太田さんの映像が魅せる美しさをぜひ体感してほしい。

さいたま国際芸術祭のテーマともなっている概念「SCAPER(スケーパー)」にも通じるところがあるのではないだろうか。

現代アートチーム目[mé]が作り出した、景色を表す「scape」に人・物・動作を示す接尾辞「-er」を加えた造語で、「パフォーマーとそうでないものの差が曖昧になる仕掛けを展開するもので、その実態の有無自体が観客に委ねられる」と定義されている。

映画『沼影市民プール』の中にも、今まで見たことのある日常の景色が、まるで「作品」のように見えてしまう映像が、幾たびも想像するだろう。

それは、普段何気なく通り過ぎている見慣れた日常の一コマでありながら、同時に市民ひとりひとりの内側に眠っている強烈な「批評性」を呼び起こし、自分の住んでいる街への問題提起とともに、「シビックプライド」が芽生える可能性を大いにひめている映像である。

撮影も終盤に近づいた今、本作の完成が楽しみでしょうがない。


さいたま国際芸術祭2023 公募プログラム

太田信吾監督作品『沼影市民プール』試写会

日時:2023年12月6日(水) 9時半〜 /18時半〜

場所:浦和コミュニティセンター 多目的ホール

参加費:無料

申込:予約優先

お電話から:070-8470-9083

映画『沼影市民プール』公式LINEから:@636vjnfs  

googleフォームからhttps://forms.gle/bRTWX2nf6emThAeA8