創作における「謝罪」の効用

最近、「謝罪」についてよく考える。

「謝罪」には、ふたつの大きな役目がある。

ひとつ目に、自らの非を認めること。

ふたつ目に、相手に許しを請うこと。

年とともに、圧倒的に自分の意見を創作現場で発言しやすくなっている現実がある。

これは、経験値とともに、作品創作に関しての「提案」が持ちやすくなっているといういい面もあるのだが、

単純に、自分の立場を確立しやすくなって、発言のハードルが下がっているということに関しても認めなければならない。

今年は、城崎国際アートセンター、レジデンスアーティストとしてふたつの作品に関わっているが、

そのひとつに、フランス人との演出家フランソワ・グザビエ=ルイエとの共同制作がある。

http://kiac.jp/artist/604/

最終的には、私のソロパフォーマンスになる予定だが、今回の滞在では、リサーチと劇作を中心に行なった。

私が日本語で書いたテキストをフランス語に翻訳し、彼がフランス語で書いたテキストを日本語に翻訳しながら劇作を進めていったのだが、

フランス語と日本語、それぞれの言語が持つ文化的性格に翻弄され、「分かり合えない」状況が続くと、相手に対して言葉を紡ぐという行為よりも先に、感情の波に押し流されてしまい、ヒステリックな反応をしてしまったことは認めざるを得ない。

よくフランス語の師匠に、「リアクション(反射的反応)」から言葉を吐くのではなく、言葉というものは本来「リフレクション(内省)」と常にセットで使うものだ、と言われていた。

第二言語で会話をしている場合、どうしても母国語よりは、自分の感情を表現するための言語のパレットの色彩が乏しいので、感情が先立ってしまい、「リアクション」になりがちなのだとか。

この「リアクション」の中には、もちろん言葉が出なくなってしまい、沈黙してしまう反応も含まれる。

レジデンスの3日間はリサーチに集中していたので、フランス語で通訳をするというタスクも非常に多く、自分の能力の足りなさからくるもどかしさと疲れで、その頃から自分の中の雲行きが怪しくなり始めた。

そして、リハーサル中心の生活が始まると、ここ数年、演劇創作に関わる上で一番大切に考えてきた「稽古場におけるコミュニケーション」が崩壊していることにきづいた。

意を決して、「謝罪」を決行。

子どもの頃、「謝罪」という行為は、とてつもなく勇気のいる行為だったと思う。

いったんある関係性に「一石を投じる」というか、その「一石」を効果的なものにするために、言葉の「石」を選ぶというか、準備する長い時間が必要だった気がする。

でも、結局最後は「ごめんなさい」という一言を紡ぎ出す勇気が一番必要で、特に近しい関係の人に対して発射する「ごめんなさい」は、酩酊状態で針に糸を通すくらい難しいことである。

だから、大人になってからは、「ごめんなさい」という一言は封印したままに、翌日の態度でなんとなく場を収拾する技術を持った。

笑顔を浮かべて円滑さを取り戻し、何事もなかったことにしてしまう術をいつのまに覚えてしまったのだろう。

しかし、今回、あえて「謝罪」を決行したのは、以下の理由がある。

それは、創作現場で「間違えを認める」つまり、「意見を変える」、もっとわかりやすく言ってしまえば、

「一貫性をなくす」ということが非常に重要なこととだと考えるからだ。

創作の現場は決してひとりではないので、他者に影響され、自分の意見が変わってしまうということが、恥ずかしいことではなく、非常に「面白い」という感覚が掴めないとなかなか辛いものである。

「謝罪」という行為には、「一貫性をなくす」ことを面白がることができるという効用がある。

その一歩である、とも言える。

自らの非を認め、相手に許しを乞う、という行為のその先に希望がある。

他者の存在によって、その存在に影響され、昨日は絶対にそうだと思っていたことが、やっぱり違うかも、と思えること。

「一貫性をなくす」という姿勢を、自ら「素晴らしい」「面白い」と思えることってなかなか難しい。

「謝罪」によって、こんがらがっていると思い込んでいた糸が、すでにほどけていたと知ったり。

空気は読ませるものではなく、いちいち説明するものだ。

笑ったり、泣いたり、叫んだり、怒ったり、お昼はそうめんばっかりだったり、稽古終わりにアートセンターの前で何時間もビールを飲みながら語り合ったり、極々たまに奇跡的に意気が投合したり、そんなこんなで無事2週間のレジデンスが終了。

それにしても、フランソワ・グザビエの寛容さと忍耐力には、頭が下がる。

来年3月に2回目の滞在をし、作品を発表します。

お楽しみに!

演技力もコミュニケーション能力も、天性の才能ではない。

『ちょっとだけ “めんどくさい” 俳優になるためのワークショップ』と題し、早稲田大学どらま館で実施させていただいたワークショップは、自身にとっても非常に言語化能力を鍛えられる時間となった。

まず、「ちょっとだけ “めんどくさい” 俳優になる」という目標を抱えたワークショップに集まってきた大学生の男女比1対8であったことは、偶然なのか、はたまた社会現象なのか、これは、今後、慎重に考えていきたいと思う。

ここ数年力を入れているワークショップのかたちとして、

「創作の現場からハラスメントを排除するために、稽古場で必要なコミュニケーション能力を考える」

というテーマがある。

実際、昨年フランスで演劇教育者国家資格を取得したときの最終論文も、「創作を支える『コミュニケーション力』を育てる」というテーマで提出した。

そのとき、いろんな資料や本を読んで、頭の中で考えていたことを今年になって実践のなかで、再考する機会を与えてもらえてるのが非常にありがたい。

ワークショップを受け持つとき、感覚の言語化、他者へのフィードバック、そして、自分の意志を伝え方などのはなしになったとき、頻繁に参加者の方から「自分はしゃべることが苦手」という感想に出会う。

おそらく、参加者のみなさんに、講師もしくはファシリテーターである私は、立場上、「社交性があって明るい人」と見えているので、「あなたにはできるかもしれませんが、誰にでもできるわけではありませんよ」と思われてしまうことは想像にたやすい。

しかし、私が声を大にして言いたいのは、今、私が「ちょっとだけ “めんどくさい” 俳優」として強みにしている、創作の基盤を支えている「創作におけるコミュニケーション能力」は、完全に後天的に身につけたものである。

同じ言語であっても、いちから「外国語」を学ぶようなものとして、10年かけてこつこつ身につけてきた。

フランスの国立演劇学校で3年間、血の滲むようなスケジュールをこなしたが、演技力が身につきましたとは残念ながら言えない。

ただ、「創作におけるコミュニケーション能力」だけは、鍛えられた。

これは、単に「練習」のおかげで、私の「明るい」性格によるものでも、「おしゃべり好き」によるものでもない。

俳優は、自分とは異なるさまざまな人間や生物を演じることが仕事なのに、その人本人の「アイデンティティ」や「個性」「特性」といったものに言及されがちな職業でもある。

まず、この「特性」から自由になることが重要である。

子供のころから、〇〇ちゃんは「おとなしい」とか、〇〇くんは「我慢強い」とか、私は、「目立ちたがり」とか、性格というレッテルを一度貼られると剥がせないような環境で生きてきたように思う。

実際、私は、学級委員常連で「目立ちたがり」とか「でしゃばり」というレッテルがあったが、子どものときは、それに拍車をかけて、「演劇が好き」なんて口が裂けても言えないと思っていた。

渡仏したばかりの頃も、自分から意見をいうことは滅多になく、先生にさされるのを今か今かと待っていたが、その機会は一向に現れず、私はあやうく「やる気のない生徒」になりかかっていた。

正直、演技力に関しては、「センスの良さ」だとか、「華がある・ない」ということはあるかもしれない。

しかし、演劇は基本ひとりではできないので、「創作におけるコミュニケーション」次第で、俳優のパフォーマンスは如何様にも変わっていく。

つまり、演技力と「創作におけるコミュニケーション能力」は切っても切れない関係なのである。

自分の性格に関して「特性」という考え方をすてて、「スキル」と捉え、筋トレのように鍛えていくという感覚を、どのように参加者のみなさんと共有していくか試行錯誤をしている時に、素晴らしい本に出会った。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480815620/

二人の小さな子どもと移住した社会学者による、フィンランドから現地レポート的な本であるが、フィンランドの保育園の教育には、俳優教育の分野で真似したいところがたくさんであった。

クマの面談を受けたときは、「正直さ」「忍耐力」「勇気」「感謝」「謙虚さ」「共感」「自己規律」などなどを「才能」ではなく「スキル」と取ることについて、なんとなく狐につままれたような気分だった。でも、数日経つとなんとなく納得してきた。眼から鱗が落ちるような感じだった。

 私は、思いやりや根気や好奇心や感受性といったものは、性格や性質だと思ってきた。けれどもそれらは、どうも子どもたちの通う保育園では、練習するべき、あるいは練習することが可能な技術だと考えられている。

朴沙羅『ヘルシンキ 生活の練習』

フィンランドの保育園では、「感受性が豊かだ」「好奇心が強い」「共感力がある」「根気が続く」といった、通常なら性格や才能などと結びつけられてしまいそうな事柄が「スキル」と呼ばれているらしい。

例えば、「根気がない」という「性質」は、単に「何かを続けるスキルに欠けている」ということになり、そのスキルを身につける必要があると感じるなら、ただ単に「練習する機会」を増やせばいいことになる。

俳優教育のワークショップでは、すでに正解を持っている人が指導者となり、生徒たちはその「正解」を学びにくるという姿勢で授業を受けてしまうということが多々あると思う。

自分の憧れの演出家のワークショップであったら、尚更である。

どうにか、ワークショップの場を「創作におけるコミュニケーション能力」の「練習の場」とできないか。

それぞれが自分に足りないことを、他のメンバーの力を借りて、気づいたり、身につけようと「練習する」場所。もちろん、練習には失敗がつきもの。

2,3日のワークショップを依頼されることが多いので、短時間で、参加者ひとりひとりが安心して「練習できる」場を作れるかが、毎回成功の鍵を握っている。

私も、毎日毎日、「練習しながら」生活していきたい。

「俳優教育」とはなんぞや。

2022年最初の仕事として、映画美学校アクターズクラスで2日間講師をさせていただいた。

昨年度に続き2回目で、前回と同じ内容をやる予定でしたが、今年は3名ろう者の生徒さんがいるということで、ろう者、聴者ともに、演技について探究できるとはなにかを考え、授業をリニューアルした。

演劇の上演も授業も、そして、人生も「準備」に勝る必勝法はないと実感する。

これからさまざまな形で授業をする機会が増えても、わたしは絶対に「準備」を怠らない、と心に誓った。

「準備」をすると、自分にとって「大切な予定」になるから緊張できる。

緊張してるのは、心があるから。

つまり、はじまる前に緊張してるということは、うまくいく!

昨年度、フランス国家教育者資格取得のため、公演の合間を縫って、1年間に及ぶ研修と教育実習に明けくれた。

2ヶ月間劇場付属の学校での実地研修、そのあと3カ所の教育機関での合計4ヶ月に及ぶ教育実習。

そして、80ページに及ぶ、実習レポートと演劇教育に関する論文を書いた。

論文を読んでくれた審査員5人(驚くほど丁寧に読んでくれていて泣ける)と口頭試問をし、無事、去年の夏に教職を取得したが、俳優としての活動があったので、実習での経験が生かされるのはまだまだ先の話と思っていた。

しかし、今回の美学校での授業をさせていただいて、「今、わたしの教育実習が終わった」と言えるくらい、演劇の教育に関わると言うことに関して、さまざまなことが経験できたので、今後、ここをスタート地点とし、発展していくためにまとめておこうと思います。

考察のポイントは以下。

  • 「演劇教育」と「俳優教育」はちがう。
  • インクルーシブなエクササイズとは。
  • 俳優が「俳優教育」に携わること。

「演劇教育」と「俳優教育」を区別することについて。

フランスでは、演劇教育は身近にあるもので、将来ピアニストを目指してなくても、ピアノのお稽古をしていることもたちがたくさんいるように、将来俳優になりたいわけではないけど、演劇クラスに通っている子どもはたくさんいる。

年齢に限らずとも、大人になってから、演劇のワークショップに参加してもいい。

演劇というメディアを触れることで、日常生活、社会生活に変化をもたらすことができるような体験は可能である。

これは「演劇教育」。

私自身、今まで「演劇教育」と称して、俳優を問わず、演劇及び演技のクラスをさせていただくことがあったが、これは、俳優の人たちに敬意が足りなかったと反省した。

すでに俳優として活動している人、職業として俳優を志している人には、「俳優教育」として、「演劇教育」とはまた違った観点で、クラスをオーガナイズしていく必要をひしひしと感じた。

職業として俳優をやっているか、やっていないか、演技のスキルに言及しているわけでは全くない。

違いは、「創作(クリエーション)に関わるかどうか」。

つまり、俳優教育では、創作に関わるうえでの、

コミュニケーション能力であったり、演出家との対峙の仕方であったり、組織の中に自分をどう位置付けるかであったり、それに付随するさまざまなリテラシーだったりというものを学んでいく必要がある。

そして、一番大切なのは、俳優としての「自分自身の守りかた」。

今回は「まなざし」に関するエクササイズを行なったが、これは、創作という現場で自分をどうやって守ってあげられるかの訓練にもなる。

「(たくさんの)他者に見られて何かをすること。」

当たり前のことだけど、俳優が「見られてる」ことから受ける負荷は大きい。

稽古というまだ完成していないものも、人に見られながら仕上げていかなければいけない。

「本当にあなたたちは大変なことをしているんだよ」ということをまず伝えたいし、自覚をもってもらいたい。

それから、そんな大きな負荷がかかっている稽古という時間にも、本番という時間にも、自分自身をしっかり労ってあげられる術を身につけてほしくて、エクササイズを通して体感してもらう。

「インクルーシブ」ということに関して。

これは本当に勉強させてもらった。

私自身、フランス語がわからない状況でフランスで演劇をしていたので、「壁」は常に感じていた。

でも、インクルーシブの考えは、聴者のものさしで、だれかをたすけてあげることではない。

それぞれが、それぞれのものさしを使って最大限に力を発揮して作業できるような空間をつくること。

今まで、「語る」ということをメインにするワークを多く実施してきたが、ろう者の方たちもいるグループで、「語る」を扱うというのは、私が手話も理解できるなら可能性はあるが、私が相手方の言語をダイレクトに理解できない現状では難しいと思い、「まなざし」に特化することにした。

そして、実は、この「まなざし」が、聴者もろう者も関係なく、「演技」にとって、徹底的に向き合う必要があると認識した。

つまり、インクルーシブな演技レッスンを突き詰めていくと、エッセンシャルな演技レッスンにたどり着くのでは、という可能性を美学校のクラスに教えられたということになる。

うわべだけで「ダイバシティー」や「インクルーシブ」というのは簡単だけど、

実際に演劇クラスにろう者と聴者が混在しているという状況をつくったということは本当にすごいことで、まさに最先端だと思う。

そして、その場が、関わった人たちの多くに、「無理かと思ってたけど、なんかいけるじゃん!」と思わせている。

俳優が「俳優教育」に携わることについて。

フランスの国立演劇学校時代、パリからさまざまな著名人が講師として訪れた。演出家や俳優、振付家、ビデオアーティスト、大学の先生、映画監督、マリオネット師、などなど。

一番人気はやはり演出家。

演出家との創作は楽しい。しかし、ひとたび3週間に及ぶワークショップが終わると、その演出家の作品にとってだけ、「いい」俳優になってしまっていないかと自問する。

ついつい、俳優は「演出家」のことを、「答えを持っている人」として接してしまう。

演出家との作品創作を目的とした授業は、創作をいう環境を学ぶうえで大変意味があるし、これは演出家にしかできない。

しかし、俳優が受けもつ授業の魅力もある。

私が俳優として、授業を受けもつ理由があるとしたら、「答えを持っていない人」として、ひとりひとりの「答え」を探すお手伝いができるからだと思う。

圧倒的なカリスマ性を持って、俳優教育を引っ張っていく方法ももちろん存在すると思うが、

私はただの演劇大好きな人として、生徒さんたちのお手伝いができたらいいと思っている。

特に、エクササイズのフィードバックを生徒同士が互いに行えるようになることを最終目標としている。

1日目は、私が中心となって、みんなの意見を促したり、私の意見を言っていったけど、2日目から、エクササイズを見る側の人たちの目が肥えてきて、エクササイズをやっていた人たちに的確な分析をするということが起こった。

舞台に出て、エクササイズをやるのと同じくらい、客席側に座って、エクササイズをしているクラスメートを見ることが、俳優教育が行われる学校という場において、いかに大切な時間かということを知る必要がある。

観客側の生徒は、評価を下す「まなざし」ではなく、「安心して失敗していいよ」というまなざしを自ら育てていきながら、クラスメートにしっかり意見を言える環境を作っていく。

演技は決してひとりではうまくなれない。

フィードバックも筋トレと一緒で、トレーニングが必要なので、方法から一緒に考えていった。

チームが循環していくことで、講師としてのわたしの発言時間がどんどん減っていくことは、本当に嬉しい瞬間。

目標通り、最終フィードバックではわたしは一切手助けせず、ひとりひとりが自分の感覚を、自分のために時間をつかって言葉にしていて、心が熱くなった。

学校という場所が、

好きなことを全力で好きと言える場所であってほしい。

好きなことを全力で失敗できる場所であってほしい。

そして、他者に影響を受けたり、及ぼしたりしながら、

このグループの一員である自分最高!と思える時間を俳優教育に携わるうえで、たくさん届けたいと思う。

美学校アクターズクラスの生徒のみなさま、素敵な時間をありがとうございました。

俳優の活動と、演劇・俳優教育の活動、双方が刺激し合えるような1年になりますように。

今年もよろしくお願いします。

#MeTooThéâtre2:俳優の身体はだれのもの?

「タイトル:女優の身体はだれのもの?」としたかったけど、

あえて、演劇教育に関わる者の立場から、「俳優」とします。

前回のブログで書いた、フランスで起こっている#MeTooThéâtre運動(https://mill-co-run.com/2021/10/26/metootheatre%e3%81%ab%e9%96%a2%e3%81%97%e3%81%a6%e3%80%81%e7%a7%81%e3%81%8c%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b%e3%81%93%e3%81%a8%e3%80%82/)に関して、被害者の証言のなかで一番多かったのが、演劇学校在学中に起こった(始まった)性的・性差別的暴力である。

以下、一部翻訳。https://www.franceinter.fr/societe/metootheatre-lever-de-rideau-sur-les-violences-sexistes-et-sexuelles-en-coulisses?fbclid=IwAR2BlfQB8JyGuO3-d9FlkB8HzHlVaojdXqtak0NfAmL6w-5qNH50rr78wHE

「外から見ると、社会問題に関心の高い、とてもオープンな職業のように見えますが、実際には女性にとって非常に厳しく、暴力的な環境です」18歳から25歳までの若い女子学生は、いい女優とは、服を脱ぐことも、セックスシーンを演じることも、卑劣で屈辱的な体位をとることも、すべてにイエスと言わなければならないと教えられています。

その一方で、彼女によると、同意の問題が取り上げられることはありませんでした。「リハーサルやトレーニングコースでは、非常に露骨なシーンを目にすることがあるのですが、その際、役者は事前に何をするか、何をしないかを聞かれていないのです」とアガタは付け加えます。若手女優にとっては、「演出家に選ばれたいなら、ケツに手を突っ込まれても、胸を張られても、全力を尽くす」というプレッシャーが大きいのです。

「女優の体は演出家のもの。」
これは私たちにつきまとう決まり文句です。女優の体は演出家のものであり、芸術の名のもとに暴発やトラウマを引き起こし、多くの女優が演技をやめてしまうとアガタは残念がった。

さすがに、私たちが通っていた演劇学校でこのようなことは起きていたり、教えられていたという事実はないが、

民間の演劇学校(今回の#MeTooThéâtre運動でも告発されている学校のひとつ)では、あるクラスで

「授業開始前に女生徒は全員ハイヒールに履き替えて、演技レッスンを受けなければならない」と聞いたことがある。

記事の中にある、この言葉について。

「女優の体は演出家のもの。」

答えはノー。

少なくとも、私の学校では、いい俳優は演出家の言いなりになる俳優ではない、という認識があり、

すべての生徒たちが、3年間の学校生活を通して、いい意味で「めんどくさい俳優」に育っていったと思うし、

私はそれを誇りに思っている。

学校や養成所で演劇を学ぶ生徒たちに伝えたいのが、大前提として、学校は、なんらかの結果または技術を身につける場所ではなく、そこにたどり着くための、安全かつ持続可能なプロセスを学ぶ場である、ということである。

先生から教えてもらうのは、うっとりするような発声でも、並外れた身体能力でも、すばらしい演技力でも、ましてや、演出家にいわれたら瞬時に服を脱げるようになることでも、歯を食いしばってセックスシーンを演じられるようになることではない。

どんなシーンであるかを俳優自らが的確に理解し、

そのシーンを実現するための演技を構築し、

心身ともに安全性を保った状態で、

演出の効果を存分に発揮できる「再現可能」なものにするためのプロセスを学ぶのである。

もし、このプロセスをすっ飛ばして、結果だけを求めてくるような講師がいれば、

それは教育と言えるものではないので、

疑ってみた方がいい。

演劇教育において、先生は答えを持っている人ではいけないと思う。

なぜなら、「私」と「先生」の身体は違うから。

生徒たちの身体の内部で起きること、外部で起こしたいこと、そのことに一番敏感であり、知識と体感をもっているのは自分自身である。

ただ、そこにたどり着くために、

俳優の心身の安全を第一に考え、その演技を持続可能なものにするためのプロセスを示唆し、伴走してくれる人。

演劇の講師は、それ以上でもそれ以下でもないと思う。

フランスでも日本でも演劇の講師は、

現役の演出家である場合が多い。

新米の俳優たちにとっては、学びの場であるとわかっていながらも、

仕事につながる可能性もある「オーディション」的な意気込みで挑んでしまいがち。

この態度が、生徒と講師のヒエラルキーを助長し、#MeTooThéâtreに発展する空気を作ってしまうこともある。

私も在学中に、講師として学校にやってきた、現役の演出家のもと、パゾリーニの戯曲で、人生はじめての全裸シーンに挑戦した。

その時は、演出家にまず作品を読み込んで準備ができたら言ってというようなことをいわれたので、

戯曲を読み解くと同時に、ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』をすり切れるほど読んだ。

動物は生殖活動としての交尾しか行わないが、エロス的行為を行うのは人間だけである。

エロス的行為と交尾は、生物学的に共通点があるとしても、その意味や価値という点では本質的に異なるものとバタイユはこの本で言及している。

この本を通して、徹底的にエロス的行為を自分の身体を使って「再現」することの意味や価値をドキドキ、おどおどしながら考えた時間は、今思い出しても、必要不可欠であったと思う。

この本について演出家とも一緒に議論しながら、服を脱いで稽古していく段取りを決めた。

まず、ファーストステップとして、スタッフ、シーン以外の共演者を介入させず、

演出家と私とパートナー役の3人だけでリハーサルをし、シーンが固まってきたら、スタッフも含めての稽古に移行した。

すべて次のステップに移行するタイミングを決めたのは私だ。

今思い出すと笑ってしまうけど、

昼ごはんのあとのリハーサルで、「今日は食べ過ぎてしまってお腹がでていて恥ずかしいので、脱げません」と演出家に言いにいったこともあるが、笑われることなく「わかりました」と言われた。

俳優の身体はどこまでも俳優のものである。

作品のものでも、演出家のものでもない。

稽古で勇気なんかださなくていい。

稽古は本番じゃない。

「俳優魂」「女優魂」ということばが、最終的に生まれた大胆な演技に対するものではなく、

安全、持続可能でその素晴らしい演技にたどり着いたプロセスを称賛することばになることを願って。

#MeTooThéâtreに関して、私が考えること。

今年6月に行われた「#BalanceTonCirque」のハッシュタグで、サーカス業界でのmetoo運動がおこり、とうとう演劇界でもmetoo運動が勃発。

ナンシーの芸術監督、ミシェル・ディディムに対する性的・性差別的暴力の告発を受けて、「#METOOTHEATRE」運動が展開されている。

英語の記事:https://lejournaldupeintre2.wordpress.com/2021/10/03/michel-didym-accused-of-sexual-misconduct-and-rape/


私は公演中で参加することはできませんでしたが、10月16日(土)11時にパレロワイヤル前で大規模な集会があった。

https://www.franceinter.fr/societe/metootheatre-lever-de-rideau-sur-les-violences-sexistes-et-sexuelles-en-coulisses?fbclid=IwAR2BlfQB8JyGuO3-d9FlkB8HzHlVaojdXqtak0NfAmL6w-5qNH50rr78wHE

今回の告発、証言で注目すべき点は、なんといっても、演劇学校時代に受けた性的・性差別的暴力の実態だと思う。

映画界でのmetoo運動の時は、すでにキャリアをスタートした若い女優たちが、数々の被害を証言したが、

演劇界における証言は、演劇学校時代に受けたとされる暴力が非常に目立った。

ことの発端となった、ミシェル・ディディム氏に関する告発も、被害者が演劇学校時代に受けた暴力で、ふたりは生徒と講師の関係だった。

私自身も、このブログを通して、フランスの国立演劇学校に関して、多くのポジティブでクリエイティブに溢れためぐまれた環境に言及してきたので、

同等に、性的・性差別的暴力が演劇学校で起こっている現実に関しても考えてみたいと思う。

立場の弱い人間が声をあげ、社会単位のムーブメントとなっていくことの重要性は、

本来、自分はその問題に関係していないと思っていた人たちの記憶も修正されることであると思う。

自分が弱い立場、もしくは経験が浅い時分に受けた被害は、

往々にして、「自分のせいだ」と思い込んでいるものである。

私の場合も同じで、卒業公演のリハーサルをしている時に、

ゲオルク・ビューヒナーの『ダントンの死』という戯曲をある若手の演出家と創作した。

フランス革命を描いた戯曲で、女性の役が非常に少なかったが、

女子学生たちも、男性のフランス革命家たちを演じることになった。

そんな中、私は、数少ない女性の役、高級娼婦マリオンを配役され、天にも昇る気持ちだった。

フランス演劇界で、『ダントンの死』のマリオンといえば、非常に有名な人物で、

若い女優なら誰もが、マリオンの有名なモノローグを演じることを夢みるといっても過言ではないと思う。

私は自分で演出の構想を練っているところに、演出家がやってきて、

「小津安二郎の映画のようなマリオン」をイメージしているというようなことを言われ、目が点になった。

フランスで日本人として女優をしていると、小津安二郎作品にでてくるような女性像を想像されたり、求められたりすることは、それまでも頻繁にあり、それだけ、小津が浸透しているフランスを逆に尊敬していたが、

マリオンと小津のつながりは、全くわからなかった。

なんといっても、マリオンの有名なモノローグは、女性として自身の性欲を全肯定し、性への欲望を言葉にして紡いでいくところに、この作品のもうひとつの「革命」が起こるシーンなのだ。

私が、呆然としていると、その演出家は、「明日オリーブのマッサージオイルを持ってくるから、ダントンにオイルマッサージをしてあげながら、このセリフを言ったらいいと思う」と続け、

日本で東南アジアの女性がマッサージとかする店があるよね、というようなことも言った。

当時は、この発言の重大さがよくわからず、単純に演出としてダサいと思い悶々としていると、

当時から、人種差別や性差別に敏感だった同級生が、

その演出家の発言を聞いていて、「絶対にありえない!」と私のところに言いにきた。

もし、マリオンの役をできなくなってしまったらどうしようという気持ちもあったが、

勇気を振り絞って、「オリーブオイルは使いたくないので、一度自分たちだけでシーンを作らせてください」と演出家にいいに言った。

演出家は少し驚いた様子だったが、私に任せてくれて、最終的に、自分のイメージ通りのシーンとなり、上演はいい思い出として昇華されてしまっていた。

数年後、この演出家は性暴力である女子学生から訴えられた。

その時、私は、この「オリーブオイル演出事件」を反芻し、なんともいえない気持ちになっていた。

metoo運動に関して、なぜ数年もたってから告発するのかと疑問をもつ男性がいるが、

特に、学校のような環境では、まず「自分に問題がある」と学生たちは思うものである。

フランスの国立演劇学校はそれだけ力を持っているし、

入学するのも非常に大変だし、入ってからも、いろんな意味でプレッシャーは絶えない。

外部からやってくる講師との出会いは、卒業後の仕事にもつながるし、非常に重要な関係づくりを求められる。

何年間も、「自分に問題があった」から起こってしまったと、苦しんでいる女性たちがたくさんいる。

先月アテネの演劇祭に招待され、訪問した際、

私が一緒に仕事をしている演出家の事務所のカナダ人の社長とタクシーで劇場に向かう機会があった。

アテネの市街をでて、移民がたくさん住んでいる地区を車で走っている時、

タクシーの運転手が私たちに、

「ここは、アテネじゃないから、美しくないよ」と笑いながらいった。

カナダ人の社長はすぐに反応して「移民が住んでいる場所だからそういうことをいうの?カナダはギリシャ人の移民だってたくさん受け入れている。私はそれを誇りにおもっている。」と返した。

運転手は「ギリシャ人の移民とアラブ人の移民は違う。」という発言をし、

社長は怒って、「人種差別的な発言だから、もう話したくない」とその場ではっきりと自分の立場を明確にした。

劇場についてすぐに、フェスティバル事務所にタクシーの車内で起こったことを報告し、

タクシーの会社に電話するように指示していた。

私は、起きた出来事にあっけにとられて、その社長に「なんか、すごい感動しました」と意味のわからないコメントをすると、細かいことでも、気づいたときにすぐに行動しないと差別は絶対なくならない、と言われた。

しかし、この「気づいたときにすぐに行動」が一番難しい。

先日、とある撮影の衣装合わせで、大手プロダクションの衣装部門を訪れた時、

自分が演じるのは日本人の役だったので、

服の細部が、「ここはちょっとヨーロッパ的かも」とコメントしたら、

「日本人も韓国人も中国人も、みんなフランスに憧れて、フランスの真似してるんだからいいのよ。ヨーロッパの洗練さはないもの」

といわれ、その発言はおかしいのではないかとその場で思ったが、何もいえなかった。

「#METOOTHEATRE」から、話はずいぶん逸れてしまったが、性的・性差別的暴力の根源にあるのは、もっともっと小さな、どこにでも転がっているような差別する気持ちなのだと思う。

だから、どんなに小さなことでも、気づいた人が、その発言はよくないと思う、その行動はよくないと思うと、伝え続けていくということが、私には非常に重要に思えてならない。

自分たちが恵まれている環境にいるということは、それだけ、その恵まれた環境を濫用する人たちも多く存在する可能性があるということである。演劇学校に関しては、素晴らしい3年間を過ごした場所なので、美化したい気持ちもあるのだが、現実から目を逸らさないよう、今起きていることを自分なりに考えていこうと思う。