「解釈」の実演販売

座・高円寺「劇場創造アカデミー」演技基礎Ⅰ、全6回の授業が無事終了しました。俳優にとっては、非常に「やった感」のないエクササイズの連続だったと思います。台詞を使った演技は一切やらず、語ること、見ること、見られること、他者と協働すること、話し合うこと、提案すること、フィードバックすること、に留意した授業でみんなが最後までついてきてくれるのか、非常に不安でしたが、少しずつ信頼関係が築けたかなと思います。一貫性を持って何かに取り組むこともとても大切だけど、他者と協働する時、他者の発言や存在に影響され、変わっていくことも、とても素敵なことだよ、ということが伝わっていれば嬉しいし、多分伝わっていると思います。他者の存在によって、自分に起こるミラクルをみんなが受け入れ始めた最終日、たくさんのドラマティックなことが起こりました。市原佐都子『妖精の問題』第一部「ブス」のテキストを使って、4チームに分かれて、上演方法の提案を「ジャパネットタカタ」風にやってもらいました。わたしが大好きな、「解釈」の実演販売というエクササイズ。30分で、素晴らしい実演販売が生まれ、衝撃を受けました。特に、フェミニズム色が非常に強いこの作品に、男性陣が燃えていたことが印象的でした。わたしたちが2017年に初演した当時はなかったアイディア、SNS、アバター、など、俳優以外を使って上演するという提案も非常に面白かったです。『妖精の問題』が持つエネルギーは、現在も不滅で、若い俳優たちが触発され、創造性が爆発した瞬間に立ち合わせてくれて本当にありがとうございます。

創作現場で俳優にこれだけは担保してあげたいふたつのこと。

7月にプレ・勉強会という形で生まれた、演技とハラスメントの関係を探るプロジェクト『他者の言葉を語る身体のスキャンダル』、「4都市ツアー」無事終了しました。

数年前から、大学の特別講義や、ワークショップをやらせていただくことが増えてきましたが、毎回、お話させていただくたびに、教育の現場こそ、「上演」の最前線なのではないかと感じていた。

始まる前の準備やリハーサル、そして、変わらぬ緊張感。

同じ内容をやっても毎回違う参加者の反応に、時には、即興で内容を変更させてもらったり。

終わりの時間を気にしたり、終わった後に感想をいただいたり。

まさに、「一人芝居」そのもの!

8月末から、京都、東京、長野、大阪と、4都市で開催したワークショップ『他者の言葉を語る身体のスキャンダル』では、渡辺健一郎さんの『自由が上演される。』を参考に、「教育は上演によってのみ可能である」という裏テーマを設定。

講演会やワークショップ、大学での講義などなど、人前に立つ状況において、常にパフォーマーとして「上演」を意識することで、本来受動的な立場に置かれがちな参加者の意識を、「観客」という存在にまで引き上げ、その「上演」に対してより能動的、および「批評的な」姿勢で関わってもらう試みを実施した。

そんなわけで、わたしは、勝手に「4都市ツアー」終えた気になっているのである。

ワークショップを数年続けてみて、これだけは確信を持って言えることがひとつだけある。

それは、ファシリテーター側に発見があることは、参加者側に発見があるということと同じくらい大切なことであるということ。

フランスで演劇教育者国家資格取得のための研修でのオリエンテーションで一番しつこく言われたことは、演劇の教育者が「アーティスト」であり続けることの意義である。

アーティストとして、ワークショップを続けるためには、提供者としてではなく、自分自身が発見と追求の中に身をおく必要がある。

今回、わたしのワークショップ活動を手助けしてくれた『早稲田小劇場どらま館』宮崎晋太郎さんと『うえだ子どもシネマクラブ』直井恵さんには、参加者の存在と同じくらいわたしの活動を大切にしてくださり、わたしにもたくさんの発見があるよう最後まで工夫を凝らしてくれたことに、改めてここで感謝したい。



参加者の皆さんのさまざまな「発言」を栄養に、すくすく成長した今回の企画。

大阪で、最後の「上演」を終えビールを飲んでいると、15歳も年の離れた俳優からSOS。

現場で、主宰の方に伝えたいことが言えず、落ち込んでいる、とのこと。

創作現場に関するワークショップであれこれ持論を並べても、ここでなんのお手伝いができなかったら説得力ないな、と思いながら、彼女が主宰の方にお話をするということで、同席することに。

大概、創作現場で起こる諸々は双方の「気の遣い合い」から、生じていることも多いが、

一番の要因は、本番が迫ってくると、創作現場や稽古後の時間も、演出家はやることがたくさんあって、話し合いなんて無駄な時間はとれないだろうという俳優側の誤解。

いや、実際に、「話し合い」なんてしてる暇があったら、台詞のひとつでも稽古しろやい、という時代遅れの現場もあるのかもしれないが、創作現場において「話し合い」ほどクリエイティブな時間の使い方はない、と声を大にして言いたい。

俳優は、自分の身体という、これほどまでに信用できない道具を使って商売しているのだから、その商売道具が、「迷い」や「不安」で故障してたら、いいパフォーマンスなんてできるわけない。

それは、演出家が一番わかっているから、その「不安」を伝えてもらって、めんどくさがる演出家なんているだろうか。

この夜も、若い俳優の「不安」に、年も倍以上離れた先輩俳優や演出家が真摯に向き合い、とことん時間をとって「話し合い」が行われていた。

わたしは、心底、「クリエイティブ」な時間に立ち会わせていただいているなと感謝した。この時間に立ち会えることこそが、「演劇教育者よ、アーティストであり続けろ!」の言葉が示す真意だな、と。

創作現場で、特に若い俳優たちにこれだけは担保してあげたいことがふたつある。

「交換不可能性」と「尊厳」だ。

「演じる」という行為において、ある意味、誰しもが役を演じる上では「代替可能」である。

キャスティングされた時点では、「代替可能」である「演じる」という行為を、自分以外に「代替不可能」であると体感していくプロセスが稽古とも言えるのかもしれない。

しかし、そもそも、「演じる」という行為が、自身の存在意義や自己肯定感と切り離せていない場合(わたしも含め、こちらのケースがほとんど)、どんなに稽古でうまくいっていても、俳優という仕事から、自身の「交換不可能性」を感じることは非常に難しい。

だからこそ、創作プロセスにおける自身の態度に、俳優としてのプロフェッショナリズムの焦点を合わせ、創作メンバーとの関係性の中に、自身の「交換不可能性」を発見してほしい。

「話し合い」ができればできるほど、あなたの「交換不可能レベル」は上昇していくに違いない。

もうひとつは「尊厳」である。

これは、さまざまな方法で担保できる。

出演に対する対価として、単純に納得できる金額が支払われることなのかもしれないし、

創作チームと長い時間をかけて積み上げてきた信頼関係なのかもしれない。

もしくは、自分の発言にしっかりと耳を傾けてもらえることなのかもしれない。

自分の「尊厳」が何によって担保され、何によって損なわれてしまうのか。

創作現場で、ただただ「不安」に苛まれている時、自身の「交換不可能性」を見出せない時、「尊厳」というキーワードに立ち返ることで見えてくるものは多い。

案外、小さなことだったりするものだ。

La dignité「尊厳」または「品格」という意味のフランス語の名詞である。

これは、私が、母国語ではないフランス語という外国語を使って、演技をする上で、ずっと向き合ってきた言葉である。

どんなに専門的に発音を訓練しても、自分の発している言葉にアクセントは残る。

自分の言語レベルに演技が引っ張られて、どうしても、幼くなってしまう傾向が強かった。

声の響きや、身体のあり方。

自分の完璧ではない言語能力を誤魔化すかのように、無意識のうちに、無駄な「笑顔」をつくっていることもあった。

そんな時、憧れの先輩女優から言われたのが、この言葉、「La dignité」。

「媚びるな、La dignitéを持て!」



子供の頃から、言葉がわからない環境で生活していたことが多く、言語習得時における「プライド崩壊」慣れをしている私でも、あの「子どもにかえったような感覚」は、やはり辛い。

それでも、どんな状況でも、私たちが人間である限り、「尊厳」は絶対に決してなくしてはならない。

周りから笑われようと、そんな小さなことで大袈裟と思われても、「尊厳」は持ち続けなければいけない。



来年も、「上演」としてのワークショップは続いていきます。

演技とハラスメントの関係を探るプロジェクト『他者の言葉を語る身体のスキャンダル』は、創作現場の向上のために、全国どこへでも向かいますので、これからよろしくお願いします。

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「遠くの親類より近くの他人」呼び込み作戦

本日から始まった豊岡劇場での上映『太田信吾短編集』

ちょうど豊岡では昨日から豊岡演劇祭2023が開幕し、県外からも多くの観客が訪れています。

今回の豊岡劇場での上映も、「”勝手に!”豊岡演劇祭コラボ特集」ということで、豊岡演劇祭期間に合わせたプログラムが展開されているのですが、県外から演劇祭に訪れた観客の方々にこの特集上映情報がどれだけ伝わっているかは定かではありません。
映画館が存続するためには、「街」の力が必須です。

「遠くの親類より近くの他人」という諺がありますが、この言葉は地方のミニシアターのためにあるようなものだと思います。
例えば、舞台芸術において、同じ時と場所を共有するという特殊性のために、アーティストのフォロワー的な「遠くの親類」を呼ぶことは可能でしょう。しかし、映画館が頼れるのが、「近くの他人」なのです。

もちろん、太田信吾さんのファンが、遠方から訪れてくれることは大変嬉しいことですが、豊岡劇場というミニシアターの未来を考えた時、太田信吾さんを知らないであろう近所の方が、「なんかよくわかんないけど、近所の豊劇でやってるから行ってみるか」と、映画のある「テーマ」に反応し足を運び、作品と観客の偶然の出会いが生まれることが理想的であるように思います。

それは、この出会いが「豊岡劇場で起きた良い記憶」が生まれ、また別の映画作品とその人をつないでくれる「特定の場所」として記憶されうるからです。


新米プロデューサー竹中香子の力試しとして、太田信吾さんのことを全く知らない豊岡劇場近所の皆さまや、豊岡演劇祭に訪れた方々に向けて4作品の魅力をお伝えしたいと思います

『ソーラーボートの作り方』 〜漂着プラごみで試作編〜

普段、超高級住宅地「芦屋」で焼き鳥丼キッチンカーを出しているかのうさちあさんは、なんでもかんでも自分で作ってしまう人です。去年はガソリン代が高騰し、ガソリンを払うのがバカバカしくなり、ソーラーパネルで「ソーラーキッチンカー」を作ってしまいました。そんなかのうさんが、今回は、長崎県対馬に大陸から海洋ゴミが流れ着いているという噂を聞きつけ、それらのゴミを使ってソーラーボートを作ることを考案。出来上がった船で、対馬から釜山まで航海しよう!と言い出しました。そんなかのうさんの沈んでも沈んでも絶対諦めない手作りソーラーボートドキュメンタリー。果たして、釜山に渡航はできるのか?!

『門戸開放〜Opne the Gate〜』

太田監督得意の手法、「当事者が当事者を演じ直す」ドキュメンタリーです。本作品の登場人物たちは、自らの身に起きたことを演じ直す形で撮影に参加しています。「演じる」とはなんなのか。「演じ直される」ことで生まれる圧倒的ユーモアの力にも注目です。「肛門に日光を当てる」という一見ギャグのようなこの行為ですが、ルーツはヨガにあると聞きつけ、鬱に苦しむ主人公は、なんとインドに旅立ちます。肛門日光浴シーンが、あまりにもかっこいいので、明日からベランダで試してみたくなること間違いなしの作品です!

『秘境駅清掃人』

本人も自覚する自閉症を持つ、愛知県在住の髙橋祐太くんは、秘境駅に魅せられて、ほぼ毎週末、自腹を切って飯田線の秘境駅清掃のため長野県天龍村にやってきます。平日は工場に勤める正社員である祐太くんは、金曜日の終業後に長野まで直行することもしばしば。そして、休日ほぼ全ての時間を駅の清掃作業に費やし、また愛知に戻っていくのです。祐太くんは、なぜこの過酷な作業を楽しそうに続けているのか。そして、過疎化に直面する天龍村近辺の映像美にも注目です!!

『現代版 城崎にて』

志賀直哉の短編小説『城の崎にて』を題材に、フランスで活動する女優(わたし、竹中香子)の視点に置き換え、コロナ禍における生死を問う作品。豊岡、城崎、出石を中心にロケを観光した、ご当地ムービーです。普段、何気なく通っている風景がまた違って見えるかも。本編に登場する歌姫、唄さんは、当時、芸術文化観光専門大学の学生でした。彼女の歌声と存在感にも注目です!!また、街のみなさんにも出演協力いただいたので、皆さんご存知のあの人やあの人も登場しているかも。

そんなわけで、みなさん、『太田信吾短編集』上映情報が豊岡の「近くの他人」の皆さまに届くようどうかご協力お願いいたします!!

シビックプライドから考える映画『沼影市民プール』

「シビックプライド」という言葉をご存知だろうか。

直訳すれば、「市民の誇り」というところだろうが、調べたところ「市民としての当事者意識」が鍵となっているようだ。

シビックプライド研究会を主宰する伊藤香織氏は、「単なるまち自慢や郷土愛ではなく、『ここをよりよい場所にする ために自分自身がかかわっている』という、当事者意識に基づく自負心を意味する」言葉として定義づけている。

また、シビックプライドの例として、イギリス・バーミンガムのまちの美化キャンペーン「You are Your city」を例にあげる。

シビックプライド−都市のコミュニケーションをデザインする(宣伝会議Business Books)より引用。

このポスターは、「まちにゴミを捨てるのをやめましょう」と言うかわりに、「あなた自身があなたのまちなのです」と呼びかけている。

自分たちが住む場所をより良い場所にするために、自分たちが関わっているのだという、当事者意識がひとりひとりに市民としての「プライド」を付与するのだ。

私は、生まれも育ちも埼玉県の浦和だが、正直「シビックプライド」を感じたことは一度もなかった。

2年前くらいから、長野県に関わりを持つようになった時、長野県民の「当事者意識」のようなものに触れ、強い憧れを覚えた。

私が初めてプロデュースを担当する長編映画『沼影市民プール』が、さいたま国際芸術祭 2023のプログラムとして発表することが決まった時、

さいたまアーツカウンシルの方から、「(日本を代表する)生活都市としてののさいたま市」という言葉に加え、「現役都市」という言葉を教えていただいた。

「現役都市としてのさいたま市」とは、どんどんデトックスしていく街であり、常に現役であり続け、新しい価値を提示していかないと生き残れない街とも言えるそうだ。

言い方を変えれば、「古いものを古いまま残しておけない」街とも言える。

そんな街で今年52歳を迎えた沼影市民プールがその生涯を閉じようとしている。

さて、「現役都市としてのさいたま市」における「シビックプライド」とはなんだろう?

「東京に通いやすい郊外」として、東京を中心に考える魅力ではなく、さいたま市独自の「シビックプライド」。

アーティストの仕事がこの「シビックプライド」獲得に、一翼を担えそうな予感がしている。

私が映画『沼影市民プール』をプロデュースするにあたって特に心掛けていることが、

「複眼的思考」と「批評的思考」である。

ある物事をある一方向からだけで判断するのでなく、別の方向・角度からの景色を「複眼的に」提示することで、観客に「批評的な」視点を持って作品に向き合ってもらえるよう促すということだ。

市民としての当事者意識を育てる第一歩は自分の街を「知る」ことにあるのではないだろうか。

自分の街で起こっていることを俯瞰してみること。

アーティストの視点から「複眼的」に切り取られた映像に触れ、

「批評性」を持って、自分の街と「出会い直す」ことができれば本望である。

そして、なにより太田信吾監督こだわりの映像の美しさに注目していただきたい。

「ドキュメンタリー映画」というと、スマホや手持ちカメラで簡単に撮影されたような映像のイメージを持たれる方もいるかもしれないが、太田さんの映像が魅せる美しさをぜひ体感してほしい。

さいたま国際芸術祭のテーマともなっている概念「SCAPER(スケーパー)」にも通じるところがあるのではないだろうか。

現代アートチーム目[mé]が作り出した、景色を表す「scape」に人・物・動作を示す接尾辞「-er」を加えた造語で、「パフォーマーとそうでないものの差が曖昧になる仕掛けを展開するもので、その実態の有無自体が観客に委ねられる」と定義されている。

映画『沼影市民プール』の中にも、今まで見たことのある日常の景色が、まるで「作品」のように見えてしまう映像が、幾たびも想像するだろう。

それは、普段何気なく通り過ぎている見慣れた日常の一コマでありながら、同時に市民ひとりひとりの内側に眠っている強烈な「批評性」を呼び起こし、自分の住んでいる街への問題提起とともに、「シビックプライド」が芽生える可能性を大いにひめている映像である。

撮影も終盤に近づいた今、本作の完成が楽しみでしょうがない。


さいたま国際芸術祭2023 公募プログラム

太田信吾監督作品『沼影市民プール』試写会

日時:2023年12月6日(水) 9時半〜 /18時半〜

場所:浦和コミュニティセンター 多目的ホール

参加費:無料

申込:予約優先

お電話から:070-8470-9083

映画『沼影市民プール』公式LINEから:@636vjnfs  

googleフォームからhttps://forms.gle/bRTWX2nf6emThAeA8

映画『沼影市民プール』資金集めと産後の女性が働き続ける方法

炎天下のプールサイド、撮影チームは、熱中症で倒れることもなく、黙々と撮影を続けている。

お昼休憩中にも、撮りたい場面があると、10分でお弁当を平らげ、また機材を持ってプールサイドに戻っていく。

そして、プールの賑わいが少しだけおさまる16時すぎ、バッテリーが切れたように、控え室で10分ほど爆睡している姿が微笑ましい。

沼影市民プール、夏季営業日終了まで、あと10日。

わたしは、撮影に立ち会いながら、映画関連のワークショップをやったり、予算管理をしたり、初めての制作業務に四苦八苦している。

それでも、作品全体の進行に、常に芸術的な観点からも発言権を与えられ、耳を傾けてもらえることに、何よりもやりがいを感じる。

子どもの頃、「人生(特に女性の)とは自身の発言権を高めていく長い道のり」である、と親に言われたことがあるが、「発言権」には、その発言を受け止めてくれる人々との関係性が大きく影響している。

つまり、「発言権を高める」プロセスとは、自分の「発言権」が高められるような「人間関係」を構築するプロセスとも言えるのではないか。

同時に、年齢を重ねたというだけで獲得できてしまう「発言権」には、用心しなければならないと自戒する。

感情の起伏に任せた、思考の伴わない言葉の「吐き出し」を誘発してしまう恐れがあるからだ。

そんなプロデューサー1年目のわたしに心強い「先生」が現れた。

武蔵野美術大学大学院造形構想専攻クリエイティブリーダーシップコースで、社会人をしながら学び続けているかたが、映画という閉鎖しがちな芸術と社会の「つながり」を構築するためのアドバイザーとして、チームに加わってくださった。

まず、新たな試みとしては、助成金に頼ることなく、企業に直接アプローチすることで、資金源を複数化すること。

芸術を応援するための「助成金」ではあるが、残念ながら、公的なお金を使うということが、作品創作において足かせになってしまうこともしばしば。

お金の出所によって、アーティストが表現の幅に気を遣うことがないように、さまざまな「リソース」を見つける。

ここでいう「リソース」は財源に限らず、撮影で使う商品の協賛や、場所の提供、アイディアの提供、なども含む。

ここで、「先生」に教えてもらった重要なことが、企業とつながるためには、2タイプあるということ。

まず、一般的なのが、「ビジネス的な意味」。

こちらはもちろん、企業にどれだけ利益を還元できるかということ。

そして、もう一つが、「社会的な意味」。

私たちのようなエンターテイメントとして興行収入をあてにすることが目的ではない、

社会に「問い」を突きつけることを目的とした作品の場合、

ビジネス的につながることは、ほぼ不可能。

そこで、今後、アクセスしていくようアドバイスを受けたのが、後者の「社会的な意味」の方。

最近、様々な企業で、CSR(corporate social responsibility)部門が設立され、企業が組織活動を行うにあたって担う社会的責任をアピールする会社が増えている。

しかし、CSRの取り組みに関して、アートを支援する必然性はないし、ましてや、映画を支援する必然性もない。
よって、こちら側から、それぞれの会社に合わせた、私たちの映画とつながることでの「社会的な意味」をいかに提示できるかがポイント。

資本ではなく、「意義」!

そんなことに頭を悩ませながら悶々としていた、久々の撮影OFF日。

出産を経て、子育てをしながら、活動を続けるアーティストの方と数年ぶりに再会する。

会社ではなく、アーティストとしてフリーランスで働く女性が、産後、自分の生活のリズムを新たに獲得するまでのお話が、非常に素敵だった。

子どもが生まれた時に、必然的に、出産という行為を含め、社会活動をストップすることが一時的に女性に求められる。

この流れに無意識にのってしまうと、社会というものは、資本主義で動いてしまう。

つまり、先ほどの企業とのつながりかたでいう、「ビジネス的な意味」と「社会的な意味」でいうと、「ビジネス的な意味」が圧倒的に優先されてしまうのである。

可愛い赤ちゃんの登場という、家族の一大イベントにおいて、赤ちゃんのケアという大きな仕事が家庭の中にやってきた時、「社会的な意味」は、お金を稼いで家計を支える「ビジネス的な意味」にあっさり負けてしまうことがある。

そして、「ビジネス的な意味」を持つものが、社会的つながりを担うことになると、必然的に、収入が安定している方に軍配があがる。

しかし、「先生」にも教えていただいたように、「ビジネス的な意味」と同じくらい、「社会的な意味」は、人生におけて軽視できない重要な要素なのだ。

出産によって、必然的に「ビジネス的な意味」での働き方から、転換を余儀なくされた母親側も、「社会的な意味」での社会のつながりの大切さをしっかりと「発言」すること、そして、社会の側からは、彼女たちから「発言権」を奪わないこと。

実際、再会した知人の方は、誰よりも自らが自身の活動の「社会的な意味」を、とても大事にされている様子が、言葉の節々から感じられ、同じ女性として、勇気づけられたし、尊敬した。

もちろん、それは彼女が長い時間をかけて築き上げてきたキャリアによるものも大きいと思うが、何よりも、「社会的な意味」を発言することに、自己検閲がないという姿勢が眩しかった。

企業に作品を「社会的な意味」をアピールするということのお手本を見たような気がした。

まずは、製作者である私たちが、自信をもって、作品の「社会的な意味」を発言すること。

彼女は、仕事の質と子供と一緒にいる時間を優先的に考えられるよう、仕事の量を減らすという決断もしたと話してくれたが、これも立派な「社会的な意味」の価値を維持する工夫であると感じ、作品だけでなく、生活も非常にクリエイティブだなと感銘をうけた。

しかし、ここに行き着くまでに、さまざまな葛藤があったことだろうことは、想像に難くない。

わたしの「発言権」が、今後も年齢によって、濫用されることなく、思考と出会いによって、育っていきますように。

太田さんが激安で購入した水槽を駆使して行う水中撮影のクオリティーが圧巻。