“Thinking is my fighting.”
イギリスの女性作家の言葉である。
女性が小説を書こうとするなら、
自分だけの部屋が必要だということを書いた評論『自分だけの部屋』A Room of One’s Ownが有名。
昨年から、心を惹かれるアーティストたちが、こぞってヴァージニア・ウルフに傾倒していることに気づき、彼女の作品を読み始めた。
そして、数ヶ月前に出会ったのが、この言葉。
“Thinking is my fighting.”
俳優として、作品や演出家と関わったり、
オーディションやキャスティングという就活方法にも疑問を感じていたときに出会った言葉。
思考を続けることこそが、私の戦いであり、尊厳であると思った。
演劇祭に行くと、毎回楽しみにしているのが、
アーティストと観客によるシンポジウムである。
アビニョン演劇祭でも、舞台鑑賞を超えて一番魅力的な時間であり、心底フランス語を勉強してよかった、とご褒美に感じる時間でもある。
(5年前に言葉がわからないながら情熱だけで参加していた頃の記事:アーティストに物申す。(アビニョン演劇祭通信vol.9))
カナダでも本日13時から17時までノートを片手に参加してきました。
その名も「ドラマツルギー・クリニック」
まずは、多文化国家のカナダならではのテーマ、ホスピタリティについて。
海外から、異文化を持つアーティストをよぶ時の真の意味でのホスピタリティーについて、討論が繰り広げられる。
後半は、モントリオールの劇場プログラムディレクターたちを招き、
劇場の可視性(visibility)について、ディスカッションが行われた。
劇場都市であるモントリオールにはとにかく劇場が多い。
シルク・ド・ソレイユを代表するような完全にショービジネス的スペクタクルも存在するし、コンセプトアートややアート・ビジュアルとの中間に位置するような実験的な作品まで、プログラムは実に多様である。
その中で、印象に残ったのはThéâtre Espace Libreという、少し中心部からは離れたところにある劇場のディレクターの話であった。
この劇場が位置するのは、どちらかというと教育的にも不利な地域であり、
学歴的な面でコンプレックスを持つ若者が多いのだという。
そのような地域での劇場のあり方として、彼が目指しているのは、
「喋れる」劇場である。
芸術を語るという行為自体が、インテリにしか許されないイメージを持っている人々が、まだ多く存在するので、
そもそも芸術というものを神聖化することをやめ、終演後すべての人が気軽な気持ちで、作品についておしゃべりする場所をモットーとしているのだという。
そのためにも、決して敷居の高いイメージを市民に持たせないことが重要。
作品を観て、同じ作品を観た人たちに、自分個人の物語(ヒストリー)を語りたくなるような作品。
演劇が娯楽ではなく、芸術である所以は、社会のリ・プレゼンテーションすることにある。
つまり、メトロに乗っている人たちや、街を歩く人たち、その人たちそのものであり、
一部のお金持ち、もしくは、インテリが楽しむものという考えはもう時代遅れなのである。
だからこそ、劇場の風通しを良くするべきであるし、学校とのパートナー鑑賞事業等、公的な力なしには改革できないことなのである。
“Thinking is my fighting.”
思考を続ける戦いが、いつか私に寛容を運んできてくれますように。