自信がなくなる時の6割は生理のせいにしよう。

無事、2ヶ月半に及ぶ教職研修を終了し、パリの自宅に帰宅。

来年からは、めでたく実地での教育実習に駒を進める。

コロナ禍では、日本の自宅でぬくぬくと過ごしていたので、ハードな環境に耐えられるかビクビクしていたが、自分でも自分を褒めてあげたいほどやり切った。

最大限に主観を取り除いて、今回の勝因を確実にふたつあげることができる。

一つ目は、実技でも理論でも、自己紹介、発表、発言、質問は、すべて一番に答えるという謎の目標を立てたこと。

二つ目は、生理がなかったこと。

まあ、なんだかんだフランス演劇生活9年目の功も多少はあると思うが、具体的にあげるなら上記の二つの要因は大きい。

まず、「一番に答える」ということに関して。

おそらく渡仏してから9年の間、言葉の問題もあり、私が、学校のクラスや、創作の現場において、一番に発言するということは、数える程しかなかったと思う。

最初は、質問の内容がわからなかったりして、周りの人の答えを聞きながら理解しようとしていた。

場にそぐわないことをいってしまうことも怖かったので、「言わぬが花」ということで、まわりの反応を伺ってから、自分の意見をいうことが常だった。

わからないことがある時も、他の人全員がわかっているのに、自分が質問したら、みんなの時間の無駄になると思って質問を飲み込んだことも多々。

ただ、今回は、30代の厚かましさからか、「えいや!」と、精神論は抜きにして、具体的に「全部一番に答える」という目標を掲げた。

いつのまにか、週に2回は新しい講師がやってくる環境で、自己紹介はいつも私から。

質問や異議を唱えるのもいつも私。3週間後には、いつのまにか、クラスの「ご意見番」化していた。

数人の先生には、さぞかし「めんどくさい外人」と思われていたことだろうと思う。

「めんどくさい外人」「めんどくさい俳優」上等!

私がめんどくさくあるということは、クラスの学びに貢献しているということでもあるのだ。

(10年前は絶対にこんなふうには考えられなかった)

実際、ある講師と軽く喧嘩になった時、案の定クラスメートにお礼を言われたこともある。

初めてフランスにきた時は、本当にクラスで一番素直で、微笑みを絶やさない真面目な日本人だったな。懐かしい。

そして、二つ目は生理がなかったことに関して。

私は、6ヶ月前から子宮内膜症の薬を服薬していて、排卵を止めているため、生理がない。

子宮内膜症は、現在30代以降の女性に非常に増えている病気で、フランスでは10人に一人が抱えているそう。

子宮内膜症が原因でできる「チョコレート嚢腫」という病気は、

卵巣にできてしまった子宮内膜症が毎月の生理のたびに出血し、

卵巣内に血がたまってしまい、嚢腫ができてしまい、不妊の原因にもなる。

要するに、子宮内膜症というのは「子宮内にあるはずの膜が他のところにできてしまう症状」のこと。

女性の出産時期が遅くなっていることで、人生で生理がやってくる回数が単純に増えているということも原因の一つと言われている。

「チョコレート嚢腫」の場合、治療法として、服薬、もしくは、手術が考えられるが、

服薬の場合、ピルを飲んで排卵を完璧に止める。

フランスでは女性の33%以上が内服しているという低用量ピルの場合、出血期間が短くなり、月経量も減るものの、生理自体はなくならない。

月経痛や月経前症候群(PMS)も軽くなるとはいうものの完全にはなくならない。

しかし、「チョコレート嚢腫」で処方されるピルは完全に排卵及び生理をストップさせる。

生理がなくなってみて初めて、いかに生理に苦しめられてきたかということを思い知った6ヶ月だったのである。

まず、必ずと言っていいほど、月に一回やってきていた理由のない悲しみと自信の低下が訪れない。

もちろん自信がなくなる日や絶望する日があっても、どこを解決すればいいのかがなんとなく分析できるので、割と冷静に対処することができる。

生理痛で、ベットから起き上がれない日もないし、とにかく精神が安定しているのである。

男性はこのように日々過ごしていたのかと思うと、正直、上に立つ人間に圧倒的に男性が多いという現実も納得してしまう。

そして、生理のない生活を体験しなければ、女性は一生、月に一回悲しくなったり無性に自信がなくなったりする原因が生理にあるのだということに気づくことはない。

ただ、自分の能力のせいだと思うだろう。

だから、私は、自分の個人的な話を持ち出しても、女性が理由もなく自信がなくなる時の6割は生理に原因があると伝えたい。

そして、生理、及び問題は、人類存続のためにも、男性と女性が一緒に考えていくべき問題であると切に思う。

前にも、このブログで紹介した『禁断の果実 女性の身体と性のタブー』は本当におすすめ。

『生理中の舞台出演(裸)での愉快な裏話』

https://mill-co-run.com/2019/12/17/%e7%94%9f%e7%90%86%e4%b8%ad%e3%81%ae%e8%88%9e%e5%8f%b0%e5%87%ba%e6%bc%94%ef%bc%88%e8%a3%b8%ef%bc%89%e3%81%a7%e3%81%ae%e6%84%89%e5%bf%ab%e3%81%aa%e8%a3%8f%e8%a9%b1/

子宮内膜症の本で読んで、心にずっと残っていることがある。

生理は大風邪と一緒。大変な風邪を引いたら、みんな家族や職場に伝えて休ませてもらうのに、生理は我慢するものだと思い込んでいる。数日間、血を流しているなんて、身体への負担は大変なもの。職場にいうのは、さすがに難しくても、しっかりと家族やパートナーには伝えること。そして、気遣ってもらって当たり前のこと。

私は「生理がない」を経験したことで、「生理」が身体や精神に及ぼす影響を身を持って知ったので、少しでも、生理のせいにして、気持ちが軽くなる人が増えたらいいなと思う。

初めてフランスで性について扱った作品を作ったのも生理だった。

初音ミクの「女の子には生理があるの歌」で、生理のダンスを作って発表した。

女の子に生理があるのは
いらない卵子を外部に出すため♪
男の子の精子が飛び出す
子どもにつながる受精卵〜♪

もっともっと生理について気軽に話せる世の中がやってきますように!

念願のハラスメントに関する実技授業をフランスの若者たちへ!!

私はこの15年間、自分でも問題にしてこなかったけど、フランスに旅立つ前、創作現場で壮絶なパワハラを受けた可能性がある。

そもそもハラスメントには2種類あると思っていて、

双方に原因がある場合と、片方だけに原因がある場合である。

私の場合は、あきらかに前者だったので、今でも、ハラスメントをうけた「可能性がある」というぐらいにしか言えない。

当時、自分の俳優としての態度にも相当問題があったし、俳優とは演出家に言われたことを「実行に移す」人のことだと思っていた。

そもそも創作という「プロセス」よりも、本番という「結果」が、常に人と関わることを必要とする演劇という媒体においても、重視されてきたことにも問題がある。

俳優や演出家の「心構え」を変えれば、ハラスメントがなくなるかというと、ことはそんなに簡単ではない。なんとなく、俳優と演出家の関係ってこんなもんだろうと「出来上がってしまっている」関係は、「心構え」なんかで変化するほどやわなものではない。

具体的な「実践」を伴う必要がある。

そこで、私が若者たちに伝えたかったのは、「俳優は常に自分のプロポジション(提案)を持つ」ということである。

自分の「提案」を持つとは具体的にどういうことか。

演出家があれこれ言ってくる前に、自分だったらどう演出するか、自分だったらどう演じるか、自分だったらどう解釈するか、ある程度自分のプロポジションを「持って」リハーサルに出向く。

提案を持つことによって、俳優は圧倒的に、「自分」を守ることができる。

なぜならば、提案には、「私自身 (what I am)」と「私がやっていること (what I do)」を切り離してくれる力を持っているからである。

「私自身 (what I am)」を批判されることは、耐えられない苦痛だが、

「私がやっていること (what I do)」を批判されたなら、「じゃあ、これは?」とめげずに新しい提案をすればいいだけのこと。

このことを、実技クラスで伝えるために、生徒さんたちに宿題を出した。

一つ前のクラスで「戯曲(舞台空間)において『女性』が発言するということ」というテーマで授業をしたのが、その中で扱ったスキャンダラスなさまざまな女性モノローグから、好きなテキストを選んでもらい、そのテキストを自分が演じるならどういう提案をするかを考えてきてもらった。

男子生徒たちは、自分が男性として、女性のモノローグを演じるならというところまで言及して準備してきた。

なによりも、自分たちが考えてきた演出プランを語るときの生徒の目の輝きが忘れられない。

ひとりの生徒が持ってきた提案をもちいて、みんなで「創作」をしてみた。

最初は、私に「答え」や「評価」をもとめていた生徒たちも、私が、「んーん、どうだろう。わたしもわからない。だれかわかる人いる?」を繰り返していたら、自分たちで、さまざまな「提案」をだしてきて、全部やってみながら、適切な「提案」を探して行った。

ハラスメントをなくすということは、演出家が俳優に率直に意見を言えなくなるということではない。

どんな演出や意見を受けても、「私自身 (what I am)」が批判されたのではなく、「私がやっていること (what I do)」に意見をいわれたのだなとすんなりわかる環境を構築することであると私は思う。

それは、俳優同士がお互いに意見をいいやすくなる環境にもつながる。

日本の文脈で起きたことに関して、

日本語でずっと考えてきたことを、

フランス語に言語化して、他者に「伝える」という作業は思いの外大変だった。

実習を担当していた先生に言われた言葉:

「教育とは、今まで自分が当たり前にやってきたすべてのことがらを、ひとつひとつ言葉に変換していく作業」

自分が興味があるテーマ、

俳優として感覚で気をつけていること、

コツやカン、

自分がなんとなく大切だと思っていること、

それらすべてに「なぜ?」を突きつけ、言葉にして答えを出していく。

果てしない作業に、絶望しそうになるけど、

生徒さんたちのマスクの下に隠れる笑顔を想像すると嬉しくなっちゃう。

一刻も早く、マスクなしで演劇の授業をさせてくれ、と願う今日この頃。

そして、なんとフランスは12月15日から劇場再開で、去年からツアーしている『千夜一夜物語』最終公演が、12月15日から17日にマスタードの街ディジョンで上演できるとのこと!! 

去年の9月に初演して、コロナに阻まれながらも、1年以上公演した作品の最後。

無事に舞台に立てますように。

芸術観賞教室『視点の学校』

教職研修も後半戦にさしかかった今週の課題は、芸術観賞教室におけるファシリテーションについて。

リヨンから『école des regards(視点の学校)』という名前で活動している、

芸術観賞教室のスペシャリストを招いて、観劇後のディスカッションにおけるファシリテーションについて学ぶ。

小学校中学校を通して、日本で芸術観賞教室をやった記憶があるが、

「芸術作品に触れる」ということが、芸術観賞教室の目的だと思っていた。

『視点の学校』の目的は、「好き・嫌いの感想を超えて、自分の言葉で観賞時に得た感覚を言語化する」ということ。

また、言語化する過程で、「好き・嫌い」という感想が「可変」的なものであると気づくことも大切。

本来なら、演劇作品を観て、そのあと生徒さんたちとディスカッションをするというクラスなのだが、今回はコロナで11月以降に予定されていた観劇がすべて中止になってしまったので、映画観賞で実施。

お題は以下のふたつ。

16年間で44本の映画作品を発表し、37歳の若さでこの世を去った天才、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『不安と魂』(1974)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%AE%89%E3%81%A8%E9%AD%82

近年フランス演劇界でドキュメンタリー演劇作家として注目を集める演出家、モハメッド・エル・カチブ監督作品『Renault 12』(2018)

https://fr.wikipedia.org/wiki/Mohamed_El_Khatib

『不安と魂』は、発表当時カンヌ映画祭で二冠をとり、ファスビンダーの名を一躍有名にした作品。掃除婦として働くドイツ人のおばさんとドイツで外国人労働者として働く若いモロッコ人男性の、歳の差、国際カップルの愛と苦悩の話。

『Renault 12』の方は、モロッコ系フランス人である作家の母が死んだことをきっかけにフランスに暮らす作家が、母との思い出を辿りながら、モロッコまでルノー社の車にのって旅するロードムービー。モロッコに住む作家の家族も登場し、「ドキュメンタリー」を思わせるつくりになっているが、実はシーンによっては俳優や作家自身が「ドキュメンタリー」を演じていたりと謎の多い作品。

今回は6人の研修生が2グループにわかれ、3人ひと組でファシリテーションを行う。今までは、一人で生徒さんたちへのクラスを準備する課題ばかりであったが、ここにきて、共同で準備することの難しさを思い知る。

わたしは、『Renault 12』に配属されたが、生徒さんとのディスカッションが始まる前に、まず、わたしたち3人の扱いたい方向性が全く違うので、その違いをわかり合うことに多大な時間と苦労を要する。

例えば、わたしの日本人でフランスで演劇をしているという立場からこの作品を分析すると、自分の母国(家族がいる国)と自分の働いている国の文化の違いや、多言語での生活とは、というところに焦点を当てたいと思う。

もう一人は、映画にも詳しかったので、「フィクション」「ドキュメンタリー」「ルポルタージュ(報道)」の違いに関して。

さらにもう一人は、家族の死を作品として扱うことに関して。

それぞれの想いを汲み取りながら、私たちが私たちの考えをベラベラ話すのではなく、生徒さんたち自身に語らせるためのさまざまな「問い」を構築していく。

もうひとつ重要なのは、ひとつの作品から派生して、いかに多くの芸術作品を参照するきっかけとなるか。

つまり、ファシリテーターとして、『Renault 12』を新しい視点で考察するきっかけとなるような絵画、映画、演劇、本、美術などから、紹介する。

『Renault 12』に関しては、モハメッド・エル・カチブが、多大なる影響を受けた映画監督アラン・カヴァリエ氏の自分の妻の死に関するドキュメンタリー的作品『Irène』の一部をみんなで鑑賞した。私たちには馴染みのある映画監督でも、15歳近く年の離れた生徒さんたちは、名前も聞いたことがないという。

私は、是枝裕和監督の助監督としても知られる砂田麻美氏の初監督作品『エンディング・ノート』を紹介した。この作品は、末期がんを宣告された砂田氏の実のお父さんが、”エンディングノート”を作成し自らの死に向けての準備を始める姿を追ったドキュメンタリー作品。http://www.bitters.co.jp/endingnote/about/index.html

『Renault 12』では、作家の家族が、「家族を見せ物にするな」と言って、映画に撮られることや、プライベートの生活を暴露されることを嫌悪するというシーンがあるのだが、「エンディング・ノート」は、作家の実の父親の映像作品として、自分の死が残されることへの同意がある。

自分がアーティストとして生きていく上で、さまざまな局面での「家族の同意・不同意」について、生徒さんに考えてほしいと思った。

私自身が、家族とコミュニケーションをとる言語(日本語)では言いにくい(例えば性的なセリフや暴力的なセリフ)も、フランス語では躊躇いなくいえてしまう。フランス語は自分にとって、「フィクション」を扱うための言語なのかもしれない。

という話をしたら、2時間くらいディスカッションにほとんど参加しないで、黙っていたチュニジア人の両親を持つ男の子が、「自分にとっては、家族と話す言葉がチュニジア語だから、フランス語では「親密」なことはなかなか話しにくい」と自分の想いを言葉にしてくれた。

自分の意見を人前でいうことは、誰にとっても難しい。

それでも、安心して自分の気持ちを「言語化」できる「空間」と「問い」と、自分を自身と距離を保つことができるような「材料」を準備してあげることによって、自分の口からはじめて出てきた「言葉」たちと出会えたらいい。

「『ドキュメンタリー』と『ルポルタージュ』の違いはなんだと思う?」の問いに対して、5分くらいひとりであーでもないこーでもないとしゃべっていた女の子が、自分の「答え」にたどり着いて、思わず「やったー!!!!!言えた!」と叫んで、水をごくごく飲んでいる姿がこの日の宝物だった。

先生だって、わからない時は「わからない」と言っていい!?

わたしには絶対無理と諦めていた、

戯曲を用いた教育実習が、まさかの「有終の美」を飾り終了。

課題戯曲は4つ。テーマは「亡命」。

1, ギリシャ悲劇 アイスキュロス『救いを求める女たち』

2. アレクサンドラン コルネイユ『王女メディア』

3. 現代イタリア戯曲 Lina Prosa 『ランペドゥーザ・ビーチ』

4. 現代イスラエル戯曲 Maya Arad Yasur『アムステルダム』

ある理由により、自分の国を離れなければならず、他の国に亡命するということはどういうことか、古典と現代戯曲を用いて生徒さんたちに考察させることが目的。

まず、私たちがドラマツルギーに関する授業を受けるが、古典、現代戯曲ともに全く言語についていけない。

歴史的、宗教的、政治的背景がわからないと戯曲って、こんなに身体に入ってこないものかと思い知らされる。

基本的には、

ードラマツルギーからのアプローチ

ーテキストを身体化するエクササイズ

ー戯曲の文体にあった「発話」の場所を探していく

上記の3点からのアプローチを求められる。

例えば、アイスキュロス『救いを求める女たち』は、コロスである50人の黒人女性たちが主役の作品。ドラマツルギー的背景として、ぶどう酒の神様である「ディオニュシオス神の祭典」を理解しているかどうかで演技のアプローチは大きく変わる。

ディオニュシオスは、アテナイ人が抑制しようとした野蛮な生まれながらの野性的な人間性をあらわす神様。つまり、演劇の機会というのは、人々が抑圧されたものを発散する機会であり、日常生活の中では、普通には話されることのない考えを浮き彫りにすることが許される場。

外国人や女性といった、社会的立場の低い人たちにも「発言」の機会を与えてくれる画期的な場なのである。

わたしは、コルネイユ『王女メディア』とMaya Arad Yasur『アムステルダム』を選択。

子殺しで有名な『王女メディア』は、以前自分が演じたことのある、ドイツ現代戯曲ボート・シュトラウス『時間と部屋』という戯曲より、カップルが『王女メディア』に関して喧嘩をしているというシーンをモデルに、三人称単数で「メディア」という人物をインプロビゼーションを通して、生徒さん自身で発掘していってもらった。

大苦戦したMaya Arad Yasur『アムステルダム』は、アムステルダム在住のユダヤ系イスラエル人移民女性の話。第二次世界大戦以降のアムステルダムの政治状況や移民の大量受け入れからの多文化主義破綻の現状を一から勉強。

アムステルダムという都市において、イスラム教であること、ユダヤ教であることとはどういうことか。移民であることとはどういうことか。

自分が他者から受けた「偏見をはらんだ視線」と、自分が他者にむけてしまった「偏見をはらんだ視線」をテーマにディスカッションをしてもらう。

生徒さんに何か質問された時に、答えられなかったらどうしようという恐怖と戦いながら、辞書を片手にめちゃめちゃ準備していたら、人生の師匠であり、フランス語の師匠から一言。

「質問されてわからなかった時は、生徒と一緒にスマホで調べればいい」

生徒さんたちにとっては、先生から教えてもらった答えより、自分で考えたり、調べたりして見つけた答えの方が、圧倒的に彼らの身体に残る。

だから、先生がすべての答えを知っている必要はないのだという。

それよりも、いかに彼らに自ら考えたくなる「問い」を与えられるが勝負。

一気に肩の荷がおりると、難しいフランス語の発音も生徒さんが助けてくれる。

そんな「学術的」には頼りない先生でも、「演劇」への愛と熱意とみんなよりもちょっとは多い経験では負けないので、夢中になってクラスを引っ張る。

こちらが堂々としていれば、生徒さんたちも、外国人からフランス語の戯曲をつかったクラスを受けるということに対して、なんの違和感も不信感もない様子。さすが、多文化多民族国家フランス。

アート教育全般において、何よりも重要なことは、

現在の教育制度の基本的なアプローチである「結果思考」に対して、

「結果に至るプロセス」に重きを置くということ。

芸術における教育者は、結果を出せる生徒さんを育てるのではなく、

生徒さんひとりひとりの探究のプロセスに寄り添い、そこに一緒に意味を見出していくことと、わたしは考える。

しかし、現実は芸術教育業界でも「結果思考」が蔓延っていて、

例えば、何人の生徒が自分のクラスから、国立演劇学校や有名ボザール(高等美術学校)に合格したとか、その結果をいい教育としている先生たちがいるのも現実。

有名芸術学校に進学するためには、それなりのテクニックも必要。

ただ、そこだけに特化するのではなく、将来、アーティスト以前に「自律的市民」となっていくような自立した学習者を育てていくべきではないか。

主体的な学習を促すことで、演出家やプロダクションに対し従属的立場をとる俳優ではなく、ひとりの主権者としての俳優を育てる方を選びたいと心から思う。

相変わらず仕事以外での外出禁止が続くフランス。

せめてもの救いは暖冬と日光!

教育とは、全身全霊をかけて、生徒たちに「自己検閲」を避けさせること。

現在、私が教職研修のため滞在している街サンテティエンヌでは、コロナ感染者の率が非常に高い。1週間の10万人当たり発生率はナンバーワンで、国内平均は250人のところ、サンテティエンヌは1000人以上を記録している。

リヨンの近くにある、そんなに大きな街ではないので、フランスのSNSでも、なぜサンテティエンヌが最大警戒地域?と話題になっていたほどである。

今朝のテレビで、コロナ感染者の率は貧困と関係しているというニュースは流れていた。貧困層が多ければ多いほど、コロナ感染率も高いということだ。

サンテティエンヌには、工場労働者のための集合住宅なども多く存在し、貧困を理由に共同生活を強いられている層もたくさんいるそう。

衣食住を共にする他人が多ければ多いほど、感染の可能性、及びクラスターが発生する可能性が高くなるのは当然である。

教職研修はパリでも受けることは可能だったのだが、私があえて、このサンテティエンヌという街を選んだのには理由がある。

ひとつには、教職のプログラム及び国家資格試験の審査を務める La Comédie de Saint-Etienneという劇場が芸術的にとても充実している点。

ふたつめは、サンテティエンヌから始まってフランス全国に広がったプロジェクト「L’égalité des chances(機会の平等)」に興味があったからである。

https://ecole.lacomedie.fr/egalite-des-chances/

「L’égalité des chances(機会の平等)」は、貧困層や移民が多く住む地域の生徒たちにも、国立高等演劇学校への受験を促そうという取り組みである。

フランスの国立高等演劇学校はグランゼコール(Grandes Écoles )という位置付けで、フランスの大学と違い、高校を卒業してバカロレアを取得しただけでは入学できない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB

通常、高校卒業後、グランゼコール準備級(予備校のようなもの)に通い、試験に備える。

国立高等演劇学校の場合にも、民間及び公立の準備級に通うのが通常である。

しかし、経済的理由により、準備級に通えない生徒たちもいる。そのような生徒たちに特化して門戸を開いたのが、「L’égalité des chances(機会の平等)」である。

具体的には、18歳から23歳の国立高等演劇学校受験を目指す生徒たちに、1年間週30時間の演劇クラスを開講するとともに経済的援助を受けることができる。

フランスにおける経済格差が一番顕著に現れるのが子供たちの教育である。

2週間前から、実習の一貫で、中高生を対象とした様々な場所でワークショップを受け持ったが、生徒たちの集中力や自己肯定力の高低と、貧富の差が関係がないとは決して言えない。

ただ一回心をひらいてもらえたら、彼らの芸術への貪欲は凄まじい。

街のコンセルバトワールに実習でクラスを2時間受け持った時、

若者に混じって50代後半の黒人女性がいた。

彼女は、経済的理由でずっと演劇がやりたかったけどできなかったそう。

体を動かす課題をたくさん準備してきたので、マスクしたままで苦しかったらいつでもやめていいよ、といったら、

「コロナで、演劇に飢えてるから、ちょっとくらい呼吸が苦しくてもやりたいんです!!」と目を輝かせながら言われて言葉につまってしまった。

貧困地域に生まれた子供たちは、自己肯定感が低いと言われる。

でも、演劇は「物語」を紡ぐ仕事だがら、自分の人生の「物語」をきちんと語れる人になってほしい。

私が、演劇教育に興味を持ち始めたときから、ずっと大切にしている文章がある。

スーザン・ソンタグ『良心の領界』の「若い読者へのアドバイス」という文章。

検閲を警戒すること。しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。

教育に関わるものとして、どんな状況下にあっても、

生徒たちを「【自己】検閲」の危険から守らなけれないけないと思う。

自分で自分に制限をかけてしまうこと。

私の人生の師である、フランス語の先生から研修の前に言われたこと。

「自己紹介のときに、必ず、フランス語が母国じゃないということを伝えろ、そして、言葉がうまくしゃべれなくても決して謝るな。」

教職を受けようと決めたとき、どうやってアクセントや語彙力のなさを隠そうかとそればかり考えていた私は度肝を抜かれた。

「え?それじゃ、『先生』としての威厳がなくなっちゃう!」

師匠に言わせれば、言葉の問題なんて特性のひとつだという。堂々と自分の特性を生徒たちに伝える。

今思えば、言葉がしゃべれないことが、「先生」としてマイナスになると思い込んでいたことも「【自己】検閲」だったのだろう。

師匠のいうとおり、毎回、自己紹介で言葉のことをいうと、自分が堂々としていられることに気づいた。2回目からは、「みんなのがフランス語うまいんだから、助けてね!」とちゃっかりお願いまでしていた。

「【自己】検閲」さえしなければ、道は開ける!

Susan Sontag, Cambridge, Massachusetts, ca. 1970s. Donald Dietz.

若い読者へのアドバイス……

(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)

人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。

検閲を警戒すること。しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。

本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。

言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。

言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。たとえば、「戦争」というような言葉。

自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。

動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。

この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。

暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。

少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券を【もたず】、冷蔵庫と電話のある住居を【もたない】でこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことの【ない】、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。

自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。

恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。

自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。

他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません──女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。

傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。

傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしてください。

良心の領界を守ってください……。

2004年2月

スーザン・ソンタグ

【『良心の領界』スーザン・ソンタグ/木幡和枝〈こばた・かずえ〉訳(NTT出版、2004年)】