映画『沼影市民プール』資金集めと産後の女性が働き続ける方法

炎天下のプールサイド、撮影チームは、熱中症で倒れることもなく、黙々と撮影を続けている。

お昼休憩中にも、撮りたい場面があると、10分でお弁当を平らげ、また機材を持ってプールサイドに戻っていく。

そして、プールの賑わいが少しだけおさまる16時すぎ、バッテリーが切れたように、控え室で10分ほど爆睡している姿が微笑ましい。

沼影市民プール、夏季営業日終了まで、あと10日。

わたしは、撮影に立ち会いながら、映画関連のワークショップをやったり、予算管理をしたり、初めての制作業務に四苦八苦している。

それでも、作品全体の進行に、常に芸術的な観点からも発言権を与えられ、耳を傾けてもらえることに、何よりもやりがいを感じる。

子どもの頃、「人生(特に女性の)とは自身の発言権を高めていく長い道のり」である、と親に言われたことがあるが、「発言権」には、その発言を受け止めてくれる人々との関係性が大きく影響している。

つまり、「発言権を高める」プロセスとは、自分の「発言権」が高められるような「人間関係」を構築するプロセスとも言えるのではないか。

同時に、年齢を重ねたというだけで獲得できてしまう「発言権」には、用心しなければならないと自戒する。

感情の起伏に任せた、思考の伴わない言葉の「吐き出し」を誘発してしまう恐れがあるからだ。

そんなプロデューサー1年目のわたしに心強い「先生」が現れた。

武蔵野美術大学大学院造形構想専攻クリエイティブリーダーシップコースで、社会人をしながら学び続けているかたが、映画という閉鎖しがちな芸術と社会の「つながり」を構築するためのアドバイザーとして、チームに加わってくださった。

まず、新たな試みとしては、助成金に頼ることなく、企業に直接アプローチすることで、資金源を複数化すること。

芸術を応援するための「助成金」ではあるが、残念ながら、公的なお金を使うということが、作品創作において足かせになってしまうこともしばしば。

お金の出所によって、アーティストが表現の幅に気を遣うことがないように、さまざまな「リソース」を見つける。

ここでいう「リソース」は財源に限らず、撮影で使う商品の協賛や、場所の提供、アイディアの提供、なども含む。

ここで、「先生」に教えてもらった重要なことが、企業とつながるためには、2タイプあるということ。

まず、一般的なのが、「ビジネス的な意味」。

こちらはもちろん、企業にどれだけ利益を還元できるかということ。

そして、もう一つが、「社会的な意味」。

私たちのようなエンターテイメントとして興行収入をあてにすることが目的ではない、

社会に「問い」を突きつけることを目的とした作品の場合、

ビジネス的につながることは、ほぼ不可能。

そこで、今後、アクセスしていくようアドバイスを受けたのが、後者の「社会的な意味」の方。

最近、様々な企業で、CSR(corporate social responsibility)部門が設立され、企業が組織活動を行うにあたって担う社会的責任をアピールする会社が増えている。

しかし、CSRの取り組みに関して、アートを支援する必然性はないし、ましてや、映画を支援する必然性もない。
よって、こちら側から、それぞれの会社に合わせた、私たちの映画とつながることでの「社会的な意味」をいかに提示できるかがポイント。

資本ではなく、「意義」!

そんなことに頭を悩ませながら悶々としていた、久々の撮影OFF日。

出産を経て、子育てをしながら、活動を続けるアーティストの方と数年ぶりに再会する。

会社ではなく、アーティストとしてフリーランスで働く女性が、産後、自分の生活のリズムを新たに獲得するまでのお話が、非常に素敵だった。

子どもが生まれた時に、必然的に、出産という行為を含め、社会活動をストップすることが一時的に女性に求められる。

この流れに無意識にのってしまうと、社会というものは、資本主義で動いてしまう。

つまり、先ほどの企業とのつながりかたでいう、「ビジネス的な意味」と「社会的な意味」でいうと、「ビジネス的な意味」が圧倒的に優先されてしまうのである。

可愛い赤ちゃんの登場という、家族の一大イベントにおいて、赤ちゃんのケアという大きな仕事が家庭の中にやってきた時、「社会的な意味」は、お金を稼いで家計を支える「ビジネス的な意味」にあっさり負けてしまうことがある。

そして、「ビジネス的な意味」を持つものが、社会的つながりを担うことになると、必然的に、収入が安定している方に軍配があがる。

しかし、「先生」にも教えていただいたように、「ビジネス的な意味」と同じくらい、「社会的な意味」は、人生におけて軽視できない重要な要素なのだ。

出産によって、必然的に「ビジネス的な意味」での働き方から、転換を余儀なくされた母親側も、「社会的な意味」での社会のつながりの大切さをしっかりと「発言」すること、そして、社会の側からは、彼女たちから「発言権」を奪わないこと。

実際、再会した知人の方は、誰よりも自らが自身の活動の「社会的な意味」を、とても大事にされている様子が、言葉の節々から感じられ、同じ女性として、勇気づけられたし、尊敬した。

もちろん、それは彼女が長い時間をかけて築き上げてきたキャリアによるものも大きいと思うが、何よりも、「社会的な意味」を発言することに、自己検閲がないという姿勢が眩しかった。

企業に作品を「社会的な意味」をアピールするということのお手本を見たような気がした。

まずは、製作者である私たちが、自信をもって、作品の「社会的な意味」を発言すること。

彼女は、仕事の質と子供と一緒にいる時間を優先的に考えられるよう、仕事の量を減らすという決断もしたと話してくれたが、これも立派な「社会的な意味」の価値を維持する工夫であると感じ、作品だけでなく、生活も非常にクリエイティブだなと感銘をうけた。

しかし、ここに行き着くまでに、さまざまな葛藤があったことだろうことは、想像に難くない。

わたしの「発言権」が、今後も年齢によって、濫用されることなく、思考と出会いによって、育っていきますように。

太田さんが激安で購入した水槽を駆使して行う水中撮影のクオリティーが圧巻。

「超マニアックなフランス語発音レッスン」受講者受付中

先日、17世紀フランスの演技論ということで、学習院大学で講義させていただいた。

アレクサンドランで書かれたラシーヌ『フェードル』を題材に実演を交えて、演技構築プロセスを話す。アレクサンドランを制するものは、フランス語の発音を制するといっても過言ではない。

なぜなら、アレクサンドラン攻略のためには、「母音」「音節」「リエゾン」「リズムグループ」という、フランス語の美しいメロディーを構成する要素が全てが入っているからである。

フランス人俳優のほとんどが、アレクサンドランを朗唱することができるが、実際、彼らのキャリアにおいて、アレクサンドランの演目は演じることはほぼない。それでも、フランス人俳優が演劇を学ぶ上で、アレクサンドラン(古典)習得が必須なのは、「歴史」を体内に宿らせるためなのではないか、と感じる。

実際、わたしが、フランス語を、単なる外国語ではなく、自身の人生における「第二言語」と呼ぶことができるのは、アレクサンドランとの関係によるところが大きい。

アレクサンドランが「美しい」、「心地よい」と思うまでに、8年間を要した。

その時間は、わたしにとっても、フランスにおける演技や演劇の「歴史」を体内に宿らせる重要なプロセスであり、細胞レベルで何かを美しいと感じるまでに、必要な道のりであったと思う。

西洋史学者の阿部謹也氏は、名著『自分のなかに歴史をよむ』で、「学問の意味は生きるということを自覚的に行う(P57)」ことと記述している。

そのためには第一に「ものごころついたころから現在までの自己形成の歩みを、たんねんに掘り起こしてゆくこと(P58)」であり、第二に「それを《大いなる時間》の中に位置付けていくこと(P60)」であるという。

まさに、今回の講義の準備は、わたしにこの二段階の学びを運んできてくれた愛おしい時間であった。

演劇の三大要素は、「俳優、戯曲、観客」と言われているが、この3つの中で、演劇を特徴づけるものは、一番に「観客」の存在だろう。映像芸術にも、「俳優」や「戯曲(シナリオ)」は存在するが、作品そのものが翻弄されるようなかたちでは、「観客」は存在しない。

劇場という空間においてのみ、「観客」は作品を翻弄し、彼らの存在は、作品をいかようにも変化させてしまう可能性を孕んでいる。「観客」という名の不特定多数の群衆が無意識に持っている特権は「文化コード」である。

演劇祭など、多数の地域から、それぞれのバックボーンを持った観客たちが集結しているような状況を別として、劇場には、ある一定の「文化コード」を共有した観客が集まりやすいという特性がある。

「文化コード」の最たるものが言語である。

彼らは、あるひとつの作品を目の前に、時として、ある「文化コード」に強烈な共鳴を感じ、熱狂する。そして、その共鳴は、その「文化コード」を共有できなかったものたちを、非暴力的に排除し、孤立させるのだ。

フランスにおける政策用語としての「統合・同化」(intégration)という概念がある。移民政策の中で語られ、ホスト社会(つまり、フランス)への参加を促すものとして積極的・肯定的な意味合いをもつ。

もとになる動詞「統合する」(intégrer)には「組み入れる」という意味があり、「ある社会の中に、その外部からやってきた人びとを組み入れ、ひとつにする」作業をさすのだが、果たして本当に促進されるべき価値観なのだろうか。

わたしが、フランスに渡り、演劇を学び始めた当初、すべての願望は、この「intégration」に集約されていたと言っても過言ではない。

日本文化を遠ざけ、なるべくフランス人と同じものを見たり、聞いたり、食べたり、読んだり、話したり、さらには、「感じたり」したいと思っていた。

この「intégration」への激しい欲求は、演劇という、「文化コード」共有の有無によって、作品への理解や接続の仕方が変化してしまう芸術に関わっていたことと深く関係があったのではないかと振り返る。

正解を「フランス人」におき、その「フランス人」に同化することが、社会的に自分の存在を確立させることだと信じて疑わなかった時代、フランス語発音矯正は、地獄でしかなかった。

自分の今までの人生をいったん「殺す」ことでしか手にいれることができないもの、「intégration」のための必須アイテムのひとつが、「アレクサンドラン」であったように感じる。

そして、「intégration」の魔力から、わたしを自由にしてくれたのが、カナダのフランス語圏モントリオールで出会ったフランス語だった。

以降、わたしの人生において、フランス語が「ホスト」ではなく、単なる「他者」という存在に生まれ変わった。ヒエラルキーのない、フラットな関係における、他者としてのフランス語。

フランス語の発音を追求することが、苦行から愉しみに変わり、一生わたしが仕事で使うことはないだろう「アレクサンドラン」が、驚異の存在ではなくなった。

そして、「現在」が更新されるたびに、わたしの「アレクサンドラン」の位置づけも変わっていく。

その変化が楽しくてたまらない。

現在、フランスで演劇学校に入りたいという現役日本人大学生の発音レッスンを受け持っているのだが、「アレクサンドラン」習得を目的とした、かなりマニアックな発音レッスンに需要があったことに大変驚いている。

本当に、普通に、フランスで生活するには、一切必要ないレベルの「超マニアックな発音レッスン」を通して、17世紀フランスの演劇に触れたい人がいればご連絡ください(笑)

まずは、「フランス語は母音が命!」ということがわかる表が、こちら。


【FTA 2023】特権と責任

FTAの最終演目は、ブラジル人の振付家、リア・ロドリゲスがコロナに制作した作品『ENCANTADO』

注目作品観劇の数日前に、アーティストと観客のトークが予定されていた。FTAのディレクターふたりは、国際芸術祭という場において、メディエーションプログラム(アーティストトークやワークショップ)の存在は、公演プログラムと同じくらい重要だと話していた。実際、先住民の問題をはじめ、作品が生まれたコミュニティーの文脈を理解していないと、なかなか作品にうまく触れられないということは、往々としてあった。文脈がないと、鑑賞体験がただの「好き」か「嫌い」に留まってしまい、それは、分断を助長することにほかならない。だからこそ、国際芸術祭は、観客が作品の文脈を理解するためのケアを決して忘れない。

実際、私も、観劇以上に、メディエーションプログラムのとりこになっている。アーティストの住んでいるコミュニティーの話を聞くだけで、作品が違って見えてくるから、不思議だ。

リア・ロドリゲスが、アーティストトークで重点的に話したのは、Privilege(特権、優遇)とResposability(責任)に関して。
彼女は、20年前、ブラジルのスラム街、マレ地区にクリエイティブセンターとダンススクールの設立したことでも有名だが、それは、自身が、中流階級のシスジェンダーである白人女性であるというこに対して生じる特権にたいしての責任を果たすためだという。

この「Privilege」という単語は、私たちのグループでのディスカッションでも度々話題になった。実際今年のグループは非常に多様性に富んでいて、国籍、ジェンダー 、人種、階層など、多角的にそれぞれが自分が持っている「Privilege」に気づくこととなる。私たちは、マジョリティーにいる限り、自身が積み上げてきたものや経験と関係なく、単に自分が属するグループのおかげで社会的に優遇されてきた、という事実自体に気づかないことが多い。

リア・ロドリゲスは、ある文脈において、自分は相手より優遇されていると気づいたとき、卑屈になったり、罪悪感を感じるのではなく、そこに生じる「責任」を果たすのみだ、と言っているのだ。

彼女が自分がもつ「優遇」に対してとった「責任」とは、行動すること。アーティストが普段行かないような場所で、自分とは違う考えを持つ人々と出会い、同盟を結ぶこと。その行動の過程で、彼女が一番大切にしているキーワードが「ズレ」と「脱中心化」だそうだ。

リア・ロドリゲスのトークにいたく関係を受けたメキシコ人のアーティストが、私たちの2週間におよぶプログラム最終日に、「特権と責任」というエクササイズを考案してきた。まずは、1分間、それぞれが自分の持っている特権について考える。それは、自分にとってごくごく当たり前のことでいい。例えば、日本人である、とか、電気が使える、とか、字が読める、とか、フランス語が話せる、などなど。その特権を、ジェスチャーに置き換え、身体を動かしてみる。そのあと、グループの前で、「私は優遇されている。なぜなら(特権をもっていること)することができる。だから(その特権に生じる責任として社会に還元できること)をしようと思う。」というフォーマットに当てはめて、自分が優遇されているからこそ気づいていない格差や不平等に意識的になろうというもの。
そして、フェスティバル最終日に観た『ENCANTADO』。頭で考えることを一切拒否するようなエネルギーと破壊力で、ただただ、パフォーマンスに飲み込まれていた。彼らにしか出せないであろう身体がそこにくっきりと、そして鮮やかに提示されていた。今年67歳になるリア・ロドリゲスの「責任」をめぐる行動はまだまだ続く。

リア・ロドリゲスが1992年にスタートさせたブラジルのコンテンポラリー・ダンスの祭典「パノラマ・フェスティバル」に関して:https://performingarts.jpf.go.jp/J/pre_interview/1202/1.html

【FTA2023】カナダにおけるジョージ・フロイドを知っているか。

芸術作品に触れたとき、その作品が持つ文化的社会的背景を踏まえた美的経験と踏まえない美的経験があると思う。昨晩観劇したカナダ先住民のアーティストの作品をテーマにしたディスカッションはおおいに盛り上がった。それぞれが、自分の文脈に合わせて、感想を共有したあと、ぜひカナダ圏のアーティストに感じたことを詳しく聞きたい、と提案があった。カナダは広いので、住む地域によって、彼らが受けてきた植民地の歴史教育も様々だそうだが、それぞれが捕捉しあいながら、カナダにおける先住民の文化的社会的文脈を話してくれた。

2020年に、先住民族アティカメクのジョイス・エチャクワンさんが病院で亡くなった。彼女は、亡くなる直前に、facebookに動画を投稿していて、そこには、看護師たちから侮辱され続ける様子が映っていた。改めて、先住民への差別は終わってないということを、カナダ全体が思い知る事件となったそう。

HUFFPOSTの記事:「お前は最高に頭が悪い」先住民族の女性、病院で人種差別を受けた後に死亡。Facebookに動画を投稿していた

インターネットで出てくる情報から私もだいぶ勉強していたが、やはり、生身の人間から聞く言葉の威力は強く、中でも、フランス語圏と英語圏での認識の違いにっは驚かされた。フランス語圏のケベックでは、悪いのはイギリス人で、フランス人は先住民に優しかったと、学校で習ったり、バンクーバーなどの英語圏における北米インディアン迫害よりはまし、という認識がかなりあったそう。実際、学校でカナダの先住民迫害の歴史を教えるようになったのも、カナダ政府が2008年同化教育に対し正式に謝罪した以降のことらしい。

今回見た作品は、英語圏の先住民による作品だったのだが、非常に秀逸な構造で、すでに公演情報から作品は始まっているので、作品の内容は口外してはいけないというアーティストとの上演後の約束のため、記述できないのが残念。ただ、いつか見る機会があれば、この作品のために、海を超える価値はあると思う。私は、直接的な当事者ではないが、観客のリアクションからもたくんさんのことを感じる仕組みになっている。そして私は、カナダから8000km以上離れたアイヌ民族のことを考えていた。

William Shakespeare’s As You Like It, A Radical Retelling by Cliff Cardinal

https://fta.ca/en/event/as-you-like-it/

現在でも、先住民を、アルコール中毒、ドラック、税金を払わなくていい(法的に)などの理由から、差別している人がたくさんいる。中等教育に関しても、先住民の子供たちは、無料で学校にいくことができるが、親たちが、以前「寄宿学校」にいれられ同化教育をさせられ、自分の家族と会話ができなくなってしまった恐怖から、自分の子供たちを学校に入れることを嫌がる傾向にあるそう。となると、教育水準が低いまま成長してしまうので、いい仕事につけず、ホームレスになってしまうという構造があるそう。同世代のカナダ圏のアーティストから、すべて彼らの言葉で聞いた。

話し足りないまま、時間切れになってしまい、後ろ髪をひかれながらも夜の観劇にいこうとすると、カナダ人のアーティストが走ってきて、大事なことをいうのを忘れたという。先住民女性に対して、つい最近(2017年)まで、出産の際に、強制的に子供を産めない体にする手術が行われていたとのこと。

これだけのことを学べる観劇体験はなかなかない。

【FTA2023】障害者っていう言葉をつかうのやめない?

芸術批評を行う際の言語的リテラシーを振り返る機会に何度も遭遇する。本日は、「障害者」及び「知的障害者」という言葉に関して。前日に見た作品の中で、健常者が障害者を演じている演出があり、グループで議論が巻き起こった。私も、文化の盗用に伴う非常に強い違和感を感じ、バック・トゥ・バック・シアターの観劇体験を踏まえ、自分の考えを述べた。知的障害を持つ方を称するときに、実際に舞台で使用されていた「メンタル・ハンディーキャップ(英:disability )」という言葉を使い、グループで議論していたのだが、ハンディーキャップという言葉が想起させてしまう、ヒエラルキーの構造や健常者と障害者を隔てるニュアンスに違和感があるという意見があり、あるアーティストから、「ニューロ・ダイバーシティ」という言葉を使おうという提案があった。

「ニューロ・ダイバーシティー」とは、neuro(脳)とdiversity(多様性)を組み合わせた言葉で、すでに、日本の経済産業省でも提案されている。経済産業省のサイトによると、「特に、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害といった発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく、『人間のゲノムの自然で正常な変異』として捉える概念」との記述がある。つまりは、ノーマルに対して、アノーマルとして障害を位置付けるのではなく、単なる「違い」として捉えていこうというムーブメントである。そして、ニューロ・ダイバーシティは、神経学的差異をジェンダー や民族性、性的指向と同様に、特性として尊重されるべきと主張する。最初に違和感を言葉にしたのは、セネガルのアーティストであり、ニューロ・ダイバーシティという言葉の使用を提案したのは、トランスジェンダーのアーティストだった。

また、健常者の俳優が障害を持つ人の役を演じることを、欧米では「Cripping up(クリッピング・アップ)」といい、「Blacking-up(ブラッキング・アップ)」と同様に問題視されているよう。

事実的に多様性が担保されているグループでのこのようなやり取りの中で、いかに自分が複数の意味でマジョリティの「特権」を持ってしまっているかを痛感する。まずは、自身の特権を可視化することから。そして、嫌悪感を持った作品にこそ、己の観劇体験のフィードバックに時間をかけられることは、非常に贅沢なことだ。