コメディ・フランセーズ『愛と偶然との戯れ』、そして、「型破り」について

2週間前に、先生に、やってみたらと渡された戯曲、
マリヴォー『愛と偶然との戯れ』が、
世界で最も古いと言われている国立の劇団コメディー・フランセーズで、上演中だったので、
学校の友達と、観劇してきました。
gp1112_jeuamourhasard.jpg
http://www.comedie-francaise.fr/spectacle-comedie-francaise.php?spid=285&id=516
コメディ・フランセーズ(Comédie-Française)
1680年に結成された、フランスを代表する、王立の、後に国立の、劇団である。また、その劇団が本拠とする、パリのパレ・ロワイヤルに建つ劇場の名称でもある。レパートリーは約3000と言われる。古典に「当代もの」をまじえた300余年間の公演を集計して、多く上演された作家は、モリエール、ラシーヌ、コルネイユ、ミュッセ、マリヴォー(Marivaux)、フローラン・カートン・ダンクール(Florent Carton Dancourt)、ジャン・フランソワ・ルニャール(Jean-François Regnard )、ヴォルテール、ボーマルシェ、ユーゴーであるという。
300px-Paris_Comedie-Francaise.jpg
ウィキペディアより:http://ja.wikipedia.org/wiki/コメディ・フランセーズ

ちなみに、フレデリック・ワイズマン監督によって制作されたドキュメンタリー映画「コメディ・フランセーズ 演じられた愛」は、必見です。
1枚目の写真からもわかるように、
衣装も装置も、
こてこてな、古典演劇。
専属の俳優は、30人いて、
演目によって、出演者が異なるそうです。
定員が決まっているので、
誰かがやめるときにだけ、すごい倍率のもと、
オーディションが行われるそう。
俳優のほとんどは、国立コンセルバトワールの卒業生だそうです。
2枚目の画像でいうと、
上手の、バルコニー席から観たのですが、
もちろん、上手はほとんど見えない。
そこで、役者が上手で演じているときは、席から立って覗き込みます。
下手側の客席の人たちも、
同じことしてて、
観る方も、まさに、
スポーツ!
ここで、やっぱり想起するのが、
日本の歌舞伎。
もちろん、能も狂言もそうだけど、
ほとんどがレパートリー作品だから、
ストーリーは、もう分かっているのに、
やっぱり、盛り上がる。
コメディー・フランセーズも同じで、
台詞なんて覚えてしまっている観客もいるほどなのに、
やっぱり決まったシーンで、
爆笑。
日本に、来日しているフランスやヨーロッパのカンパニーを観ても、
わかるように、
とにかく、前衛的な作品が多い環境で、
フランス人の生徒たちは、
古典作品なんて、あんまり興味ないんじゃないかしら?
と、思っていたのですが、
大間違い!!
例えば、授業でも、
課題戯曲が自由選択になったとたん、
みんな自ら進んで古典戯曲を選び出しました。
今回のお芝居も、
2ヶ月以上公演されているのですが、
結構、みんな観に行っているみたい。
舞台を観に行くとき、
演出家や、劇団で選ぶのではなく、
やはり演目で選ぶということが、多いようです。
日本の古典芸能とかで、
「型破り」と言う言葉をよく耳にします。
型破り[名・形動]
一般的、常識的な型や方法にはまらないこと。また、そのようなやり方であるさま

でも、「型破り」って、
「型」をもっていないと、
破れない。
日本の「古典」芸能の、
この原則なルールが、
フランスの「現代」演劇の根源なのだと思います。
「現代」演劇の基礎が、「古典」演劇なのではなくて、
現代演劇には、現代演劇の基礎がある。
たとえば、よく私に、
学校の友達が、歌舞伎とか能とか、
大学でどういうふうに、勉強したの?
と、聞いてきます。
つまり、いま、私たちは、
同じ時代に、
現代演劇というものを学んでいて、
彼らは、そのベースとして、コメディーフランセーズで扱われる演目のような、
クラシックの戯曲を当たり前に勉強していて、
知っています。
一方、日本の現代演劇のベースは、
歌舞伎や能に、あると思っているのです。
しかし、日本で現代演劇を考える場合、
ここが、イコールにならないのが、
ミソなのではないかと、感じます。
つまり、「教育」または、「育成期間」として、
ある程度、決められた、
俳優になるために「やるべきこと」「知っておくべきこと」
が、存在しないのです。
私は、
フランス人の古いものに対して、
敬意を持って、
大事にして、
だからこそ、謙虚でいられるところがすごく好きです。
それは、保守的とは違うと思う。
革新的なことは、
自分の後方から攻めないと、
どうやら得られないようで、
なかなか、時間がかかるようです。
「前衛」と呼ばれるものが、
「型破り」と同じように存在するなら、
偶然とか、思いつきとか、
瞬間のものではなく、
ゆっくりゆっくり熟成された
「確信犯的な」ものでしかないと思う。

三島由紀夫『熱帯樹』、そして、外国語で演じることについて

秋休み明けの課題戯曲は、個人選択。
それぞれが、自分のやりたい戯曲を探して来て、
相手役を他の生徒に依頼。
まずは、みんなの前で、本読みをして、
それから、みんなの意見、先生の意見をもとに、
自分たちで、稽古をして、
(台詞を覚えて、)
そして、発表する。
クラスでディスカッション。
うまく行けばさらに稽古を続けて、また発表。
基本的に、このサイクル。
基本的に、コンセルバトワールの受験は、課題戯曲を自分で選択するように指示されるので、
自分にあった戯曲を、選択できるかということも、
一つの大きな評価基準。
こっちのオーディションは、
常に、俳優に自己プロデュース的なことが求められている気がします。
戯曲選択にあたって、
先生から、生徒ひとりひとりに、
戯曲と役の提案メールが来ました。
私は、マリヴォー『愛と偶然との戯れ』、
そして、
ジャン・ジロドウ『間奏曲』
もちろん、これはただの提案なので、
やらなくても可。
割と、よく一緒に作品を作っていた男の子は、
三島由紀夫『熱帯樹』を提案され、
主人公の母親と関係を持ってしまう男の子、
勇(イサム)役を提案され、
私に、彼の妹役の郁子(イクコ)を依頼してきました。
三島由紀夫が、
15区のコンセルバトワールでちょっとしたブームになっていて、
嬉しい(笑)
フランスで実際に起こったギリシア悲劇『エレクトラ』を思わせる事件にインスパイアされた作品。
母親が父親を殺そうとしていると思い込んだ妹が兄に母殺しをそそのかすという話。
私たちが、選択したのは、
郁子が勇に、
母親殺しを依頼するシーン。
ここで、初めて、二人の近親相姦的な、
行き過ぎた兄妹愛が、
露出するシーンでもあるます。
フランス語に翻訳された戯曲は、
三島由紀夫の耽美感がどうしても薄れてしまっていて、
例えば、
「キスしてあげるわ、お兄さま。」
という台詞が、
主語が「私たち」で、
「キスしましょう。」
と、翻訳されていたので、
そこだけは、主語を郁子「私」に変えさせてもらいました。
稽古をしているうちに、
結構盛り上がって来て、
いろいろ演出プランが出来てくると、
どうしても台本を持ちながらだと限界が出て来てしまいます。
そこで、今回は、
台詞を覚えることに…。
3分間のシーンを覚えるのに、
かかった時間、
なんと2日間で約11時間…。
これは、単に外国語の問題ではなく。
個人の能力に影響されているところが大きいと思うのですが、
それにしても、
演じるところまで行くには、
どうしてもこれぐらいかかってしまいます。
そして、
こういう時に、
一瞬たりとも、
この不毛ともとれる行為に疑問を感じてしまうと、
もう先には進めなくなるので、
ひたすらやる。
というか、
一番怖いのは、やらなくても、
誰にも何も言われないこと。
大学の両立しながら、
通っている子たちなんかは、
どうしても、作品を準備して発表する機会が少なくなってしまって、
クラスでの影も薄れてしまいがち。
でも、それは、自分自身が選んでいることだから、
だれにもなんにも言われない。
つまり、
クラスで目立ちたかったら、やるしかない。
というか、
私は、目立ちたいと思っている。
年頃の男の子が、
女の子にモテたいという理由だけで、
身体を鍛えたり、
演劇始めたり(?)、
という、理由に似ていると思う。
でも、私は、
演劇に対して、
絶対に、「現実」というものに勝てない、「虚構」の世界に、
こんなに「不確か」で、
明日には、みんなの記憶からも、消えて、
作品が存在した「証拠」も残せない、
幻と言ってもいいような
一定の「時間」と「空間」に、
もちろん観ている人も含め、
全身全霊になってしまう、
人間っぽさが、
やっぱり、ダサイと思うし、
それでいて、心から美しいと思う。

ロメオ・カステルッチ『SUL CONCETTO DI VOLTO NEL FIGLIO DI DIO』

先月から、パリにて大騒動を巻き起こしていた、
ロメオ・カステルッチの新作『SUL CONCETTO DI VOLTO NEL FIGLIO DI DIO』
東京にも、フェスティバルトーキョーで2回来日してします。
ロメオ・カステルッチ プロフィール
http://festival-tokyo.jp/artist/RomeoCastellucci/
たいてい、どこの劇場でも早くから並べば、
当日券がとれるので、
前売を買わなかったことが、間違い…
パリのテアトル・ド・ラ・ヴィルでの初日に、
カトリックの人たちによる暴動が上演中に勃発。
一言で言えば、
介護問題を扱った作品なのですが、
舞台美術として、
背景全面に、
キリストの顔があり、
徐々に破壊されていきます。
スクリーンショット(2011-11-12 17.40.47)
スクリーンショット(2011-11-12 17.40.58)
http://www.theatredelaville-paris.com/spectacle-sulconcettodivoltoromeocastellucci-358
このシーンに対し、
カトリックの人たちが、猛反発。
卵を投げたり、煙をたいたりと、
大混乱だったそうです。
次の日から、劇場の周りを警察が取り囲んで、
完全警戒体制。
当日券どころか、チケットを持っていない人は、劇場付近に近づくことも出来ませんでした。
それでも、マニフェストを行おうと、
カトリックの人たちが、
毎日劇場前に集結し、
賛美歌を歌ったり、
叫んだりして、公演の中止を求めていました。
その次の週には、
テアトル104という、
パリ市内の別の劇場でも、
公演があったのですが、
ほぼ同じ状況。
さらには、アーテイストの表現の自由を求める人たちが、
劇場前で、署名活動まではじめ、
もはや、収集のつかない状態。
それでも、公演は予定通り、
千秋楽を迎え、
続いて、フランスのレンヌというところで行われている、
演出家フェスティバルに参加。
http://www.t-n-b.fr/fr/mettre-en-scene/fiche.php?id=295
ここで、私は、ようやくチケットを購入することができ、
9ユーロのチケットと、
100ユーロの交通費を使って、
公演を見ることが出来ました(笑)
当日、なんと携帯に、
劇場から、メッセージが。
劇場前の大通りでマニフェストが行われるから、
通行止めにするとのこと。
よって、観客はかなり遠回りをして、劇場に向かうことに。
劇場に着くと、いっさいの荷物をフロントにあずけ、
念入りなボディチェックのあと、
ようやく客席に。
パリでは、カットされたシーンも、
観ることが出来ました。
公演後、
大通りは大変なことになっていて、
200人から300人近い人たちが、
ろうそくを片手に道に座り込んで、
抗議をしていました。
中には、泣いている人までいて…
これも、芝居の一部なのかと、
感じるほど、衝撃的な光景。
この作品に対しての感想は別として、
この作品をめぐるこれらの現象に、
私は、やはり強く強く魅力を感じてしまいました。
演劇、そして、劇場の持つ力の大きさ。
劇場=人の集まるところ
つまり、そこで、
作品を発表するということ、
『革命』??
日本で、学生運動が盛んに行われていたあの時代って、
こんな感じだったのかしら?
と、想像して、
思わず羨ましくなりました。
『自分の意志を表明する』
ということの、
ありがたみとか、責任とかを、考えたら、
こんなに嬉しい権利ったら、他にないと思う。

ジャン・ジュネ『女中たち』の演出と、日本の現代演劇について

秋休み前に始めたジャン・ジュネ『女中たち』の稽古を、
授業外の時間に行いました。
ちなみにこの作品は、
実際にパリで起きた女中姉妹による奥様殺人事件をもとに、
犯罪者でもあるジャン・ジュネが、
なんと獄中で戯曲として書いたものです。
bf0067_m.jpg
授業外の時間に、スタジオをとって稽古するのは初めてだったので、
極度の緊張。
しかも、私が演出。
先月、ある男の子が、他の作品で、
ワンピースを来て、女性の役をやったときに、
彼で、『女中たち』やったら、
絶対美しい!!と、直感して、
もう一人他の男の子に頼んで、
男の子2人に、女中姉妹を演じさせることに。
実験的に、一度、
授業で、ひたすら舞台上を雑巾で拭きながら、
それでも、女性であることを忘れずに、
という謎の演出をして、
バッハのクラシック音楽をかけて、
発表したら、
どうして、男二人でやるのか、
とか、
どうして、雑巾でふきながらだったのか、
とか、
興味をもってくれて、
しっかり稽古して発表しようということに。
ジャン・ジュネは、
この戯曲の中で、『「女中たち」の演じ方』として、
以下のような文章を残しています。
「女優たちは、生の色気を引きずって舞台にのってはならない。個人的な色気などというものは、芝居では舞台を下落させるだけである。」
「演出家は、わたしが戯曲を書いていたときに自分の中にあったもの、というか、はなはだしく欠けていたもの、つまり、ある種の人の好さというものを表に出さなければなるまい。つまり、これは一つの作り話(コント)なのだから。」
演出プランとしては、
上演中に役者はその役を演じていることを隠せないし、隠さない。
「所詮、フィクションでしょ?」という、
演劇に対する「批評性」を絶えず、持ち続けること。
そして、高尚な文豪の戯曲なんて、だしにして、
自分たちが目立つ!!!
「形式」というものを、
とにかく「裏切り」まくりたかったので、
あなたが夢中になっている「演劇」というものを「馬鹿にして」みて、
というニュアンスをつたえたかったのですが、
ここで、大きな文化差を発見。
日本で演劇というと、
ジャンル的に言えば「芸術」のカテゴリーに入ると思います。
だから、演劇をしている私たちの社会的な立場というものは、
どう考えても、そんなに高いものではありません。
フランスはと言うと、
演劇は、わりと高尚な「文学」から派生したもので、
中学、高校の試験でも必ずと言っていいほど、
マリヴォー、ラシーヌ、モリエールなどの古典が出題されます。
コンセルバトワールの存在といいい、
役者・演出家・戯曲家に対する社会保障といい、
演劇というものが、社会的にも一定の地位を占めていると言えると思います。
私は、日本の現代演劇とは、
「迫害」によって生まれたアートだと思っています。
近所の人に、
「私、演劇やってます。」とは、
なんとなく言いにくい、
この環境の中でしか、生まれなかった作品があると思います。
「演劇」をやっている自分たちに、
なにかしらの不安や恥ずかしさを抱えているからこそ、
生まれる「演劇」に対する批評性が、
コンセルバトワールという恵まれた環境で、
「演劇」を勉強している彼らには、
良くも悪くも、
薄いように感じます。
自分たちが存在する「演劇」というものを、
「馬鹿にする」ということが、
いまいちピンとこなかったようです。
でも、8ページもある台詞を全部しっかり覚えてきてくれて、
私のつたない演出も一生懸命、
聞いてくれて、
二人とも黒のワンピースを着ていたのですが、
それでも隠せない、
男の子にしかない身体の感覚とか、癖とか、
そのアンバランス差は、まさに絶妙。
とにかく、
「リアル」ではなく、「フィクション」を保ちたかったので、
身体を極力、不自由に演出してみました。
とりあえず、
明日授業で、
中間発表してみます。

仏語能力試験と語学力の低下について

先週から、はじまったコンセルバトワールの秋休みを利用して、
語学学校の集中講座+個人レッスンの日々を送っていました。
まず、唖然としたのが、
明白なフランス語力の低下…。
7、8月と週に15時間の授業と自宅にてひたすら課題をこなす生活を送っていたところから、
一変。
9、10月とこの2ヶ月はほぼ24時間フランス人の中で過ごす環境にいたにも関わらず、
私の語学力は確実に悪化していました。
11月に、語学認定の試験があることを思い出し、
いきなり焦っています。
DELF・DALF(フランス国民教育省認定公式フランス語資格)は、
A1,A2,B1,B2,C1,C2
と6段階にわかれています。
http://www.calosa.com/delfdalf/generalites_jp.htm
これは、ヨーロッパ言語共通参照枠(CECRL)が定めたもので、
ユーロ圏内だったら、どこ国でも、
このようなレベルの分け方をします。
スクリーンショット(2011-11-02 8.38.32)
大学受験には、最低でもB2は必要とされていて、
コンセルバトワールの受験の際にも、
語学力を証明する、重要な試験です。
語学勉強というと、
つい他の専門分野の勉強と区別してしまいがちですが、
語学は明らかに「学問」なのだと実感。
たとえば、毎日数字を見ているだけじゃ、
数学が学べないのと一緒で、
普通に机に向かって勉強しなければ、
絶対に上達は出来ないと実感しています。
もちろん、聞き取りなどは、
毎日フランス語を聞いていれば、
「耳の慣れ」によって、上達しますが、
「習得」とは違う。
フランスで、大学卒業レベルの語学力認定を取得した、
日本人の知り合いに、
「外国語を流暢にしゃべっている人を見ると、
きっと海外生活長いんだな、とか、
外国語しゃべれていいな、とか、
そんな軽いことを思ってしまいがちだけど、
想像を絶するほどの努力なしに、
外国語を習得した人はいないから。」
と、言われ、
フランス人の環境にいれば自然にしゃべれるようになるだろう
と思っていた、
自分の考えがいかに甘かったかを思い知らされました。
通じるようになってきたと、おもっていたのは、
自分の進歩というより、
周りのフランス人の理解力の賜物だと思います。
現に、語学学校でレベル分けテストをやって、
レベルが落ちていたのは事実なので。
何事に対しても、
謙虚に、
丁寧に、
誠実に。
人、
もの、
ことがら。
なんでも、
「一目置いて」みると、
努力がしやすくなる。