『ほったらかしの領域』:舞台芸術におけるフィードバックの重要性

フランスでコロナ第2波ロックダウン中の演劇の実習クラスで、

絶対守らないといけない超めんどくさいお約束がいくつかあった。

1. マスクの着用義務。

2. 生徒同士、及び教師ともに、身体に触らない。

3. 小道具はなるべく共有しない。止むを得ない場合は、アルコール消毒をする。

4. ひとクラスの人数は、教師、生徒、見学者(実習のため)含め10人以内にすること。

今考えるとこれらのお約束を守りながら、よく実習を行ったと思う。

生徒とやりたかったエクササイズやゲームなど、私は身体を扱うものを得意としていたので、泣く泣く諦めたことも、マスクを着用したまま、大きな声で長時間しゃべって、生徒さんの前で酸欠になってしまったこともあった。

こまめにアルコール消毒をしていたり、即興でも身体の接触は意識して避けていたりと、生徒たちの中に、明らかにコロナに対する緊迫した空気はあった。

それもそのはず、私たちが実習していたサンテティエンヌのコンセルヴァトワールの演劇クラス担任がコロナ陽性になり、生徒さんたちにも、実習生の私たちにも、保健所から濃厚接触の通知が届き、1週間は自宅隔離で過ごすという時間があったからである。

それまではコロナをそこまで身近に感じてなかったため、マスクも途中で外したり、真面目にお約束を守っていなかったのだが、この事件以降演劇クラス続行のため、「めんどくさいお約束」厳守を徹底した。

その状況下で、私は演劇クラスにおけるフィードバックの重要性に心奪われていく。

まず、マスクで生徒たちの表情が半分以上見えないというのは、教師にとって非常に不安な状況である。

今、彼らが興味をもって楽しんでくれているのか、疑問をもっているのか、冷めているのか、80%以上の情報がマスクによって阻害される。

また、自分ひとりが2分以上しゃべると息苦しくなるという経験から、いかに、「発言」を分散できないかと考え始めた。「私の分も生徒さんしゃべって」作戦である。

新しい戯曲に着手する時も、こちらが内容を説明するというより、「問い」形式でしゃべることによって、生徒さんたちに「発言」を分散させる。「発言」が分散されればされるほど、彼らの興味の現状把握にも大変有効である。

私はいまだかつて、フランスの教育で重要視されている「フィードバック」というプロセスにそこまで興味をもてないでいた。理由は単純。時間がかかる。そして、自分がそこまでしゃべれない。

自分が演劇学校で過ごした3年間は11人という超少人数クラスであったが、フィードバックを始めると1時間は余裕で超える。話しが盛り上がってしまうと、3時間かかることもざら。

そこまで語学力がなかった私は、フィードバックしてる時間あったら帰って台詞の練習がしたいと常々思っていた。

最近、日本の伝統芸能や武道における「わざ」の研究書(『「わざ」から知る』生田久美子 著)に面白い記述を発見した。

そもそも、「わざ」というものは、「教える」「学ぶ」プロセスとは区別して、「盗む」プロセスであると解釈されていた。そして、「わざ」の特徴として、「模倣」「非段階性」「非透明な評価」があげられていて、日本由来の「わざ」の伝達としては「身体全体でわかっていくわかり方」が基本であったということである。

また、「わざ」に関しての言語の介在方法も非常にユニークである。

「わざ」の習得プロセスにおいて見逃せないのは、そこには特殊な、記述言語、科学言語とはことなる比喩的な表現を用いた「わざ」言語が介在しているという点である。(『「わざ」から知る』p.93 生田久美子 著)

学習者にわかりやすく翻訳するというより、教師の身体のなかの感覚をありのままに表現することによって、学習者の身体のなかにそれと同じ感覚を生じさせる効果を期待するものである。

つまり、「わざ」言語において、発話者は「教える」側に限られる。

私の人生において、伝統芸能を学んだ経験は皆無であるが、学習者側の「沈黙」が私の身体にも植え付けられていたようである。

フィードバックの主役は学習者であり、これが舞台芸術において非常に有効な理由として、舞台芸術が「再現性」を求める芸術媒体だということがあげられる。

今、つかんだ感覚を、もう一度再現する必要があるのは、教師ではなく学習者である。

「わざ」習得における「身体全体でわかっていくわかり方」と西洋的な「言語化する力」を組み合わせたところに、フィードバックの面白さを感じている。

自分が演劇学校でフィードバックの時間に参加していた時は、フランス人は、誰でも人前で自分の感覚を論理的に、普遍性も交えて言葉にするのがうまいなあ、これは、文化の違いだなと、「カルチャーショック」として処理していたのだが、

今回、高校生や20代以下の国立演劇学校受験準備クラスの生徒たちを担当して、フランス人全員が初めから「言語化する力」を持っているわけではないということがわかった。

フィードバックも、筋肉と一緒。やればやるほど上達するものなのである。

実際、私も、語学力の上達だけではなく、フィードバックという環境に何回も何回も身をおくことで、発言する前も心臓がバクバクするということはなくなった。

身体で起こった感覚を言葉にする。

まずは自分のために、そして、他者と共有するために、他者と共有することで、またその感覚がより明確となって、自分の身体に還元されるというサイクルが、理想的なフィードバックでは生まれる。

演劇教育において、私が心掛けていることのひとつに、「演劇はひとりでは学べない、と自覚する」という過程がある。

俳優というと、ひとりで頑張ってスターまでのし上がっていくというイメージが多少ある。

しかし、そういう俳優を育てることは、俳優教育ならありえるのかもしれないが、「演劇」教育ではありえないであろう。

学びの過程で、「他者が必要」だと感じること、「他者ありきの上達」があること、「他者に傾注する面白さ」を感じられることが、非常に重要だと考えている。

毎日日当たりが最高すぎる自宅にて。

『ほったらかしの領域』:言葉(聴覚)で導くか、身体(視覚)で導くか。

『ほったらかしの領域』合宿に向けて、演劇の教職研修で学んだことを回想している。

今回の合宿は、身体表現における意思ではない領域を、ワークショップと対話を通じて探索しようという企画なのだが、私が教職研修を通して、身体系の実習で常に考えていたことが以下である。

言葉で指示を出すか?/やってみせるか?

例えば、ヨガのクラスを思い浮かべて欲しい。

チャンネル登録数は58万人、動画再生回数は1億回を突破する日本一のヨガユーチューバ―と言われる

Mariko先生のyoutube動画は完全に「やってみせる」タイプである。

「やってみせる」ことに関しても、さまざまな工夫が施されており、

視聴者は、左右を気にせず、鏡のように、視覚的に捉えたポーズをストレスなくとることができる。

同時に口頭で行われる解説も、視聴者の左右に合わせて、Mariko先生が左右を逆にしてガイドしてくれるので、どんなにややこしいポーズでも迷うことはない。

さらに、ヨガマットを縦に使うか、横に使うかに合わせて、口頭のインストラクションでの左右は変化する。

太陽礼拝など、縦にヨガマットを使う場合は、視聴者と同じ左右を用い、

あぐらの姿勢で、ヨガマットを横に使い中央に座る場合などは、鏡になっているので、視聴者とは反対の左右を口頭で操る。

ここまで完璧なインストラクション動画だと、ほぼ頭で考えることはない。

Mariko先生のように完璧にポーズをとることはできなくても、とにかく「見様見真似」でやってみるのである。

毎日youtube動画をみて、繰り返しポーズをとっているうちに、だんだんとMariko先生のポーズに近づいてくる。

しかし、教職のヨガ教授法のクラスを担当した超イケメン元ダンサー、ブライアンはMariko先生とは対照的な方法で、私たちにヨガ教授法を伝授した。

初めての実習で、目を閉じることを促され、それぞれがヨガマットに横たわる。

間違ってもいいから、これから彼がいう言葉をきいて、体を動かしてみるようにといわれる。

ブライアンから紡ぎ出される言葉だけで、正解のわからないポーズを探索していくのは、

ヨガ経験のある私にとっては多大なストレス。

〇〇のポーズをやります、とか最初にいってくれれば、すぐに最終目的地(ポーズ)がわかって、身体を動かすことができるのに。

そっと目を開けて、声のする方を見ても、彼の端正なルックスがあるだけで、彼は一切ポーズをとっていない。

言葉によるインストラクションだけで、身体を動かすのは、非常に難しく、正解とか程遠くおもえるポーズをとる生徒たちが多発するなか、ブライアンは一貫して言葉のみによるインストラクションを少しづつ言葉に変化をつけながら続ける。

1時間のクラスが終わると参加者全員が輪になってフィードバック。

生徒たちは、自分の思うように動かせなかった自分の身体へのイライラを遠慮することなく吐露。

ブライアンは傷つく様子もなく極上の笑顔で肯いている。

このイケメン、メンタル強いな、と感心していると、ブライアンはただのヨガの先生ではなかったことが発覚。

彼は、コンテンポラリーダンサーなら誰でもご存知、イスラエルのバッドシェバ舞踊団率いるオハッド・ナハリンが開発した独自の身体開発メソッド「GAGA(ガガ)」インストラクターとしても活動するヨガ講師だったのである。

バッドシェバ舞踊団は、過去に何度も来日していて、2017年に公開されたドキュメンタリー『ミスター・ガガ 心と身体を解き放つダンス』で、「GAGA(ガガ)」の存在を知った人も少なくないだろう。

ちなみに、Netflixのダンスドキュメンタリーシリーズ『MOVE-そのステップを紐解く-』でも、バッドシェバ舞踊団と「GAGA(ガガ)」を視聴することができる。

まさに、この「GAGA(ガガ)」こそ、言葉で振り付けしていくダンスの時間なのである。

「GAGA(ガガ)」は、ダンサー向けと一般向けのクラスが考案されており、

演劇を志す俳優の身体訓練にも非常に効果が高いと言われている。

photo by GADI DAGON

「GAGA(ガガ)」の特徴は、自発的に己の身体の声に耳を傾けさせること。

振付家に与えられた身体の動きを自分の身体にコピーするのではなく、

振付家が言葉でなげかけるイメージによって、自分の身体と対話しながら、動きの可能性を探っていく。

「GAGA(ガガ)」にはいくつかのルールがある。

ー鏡は使わない。

ー講師はイメージと動きのタイミングを言葉によって受講者に投げかける。

ー60分ノンストップで動く。

ークラスが始まったら、私語、質問、見学はできない。

ダンス経験の全くない50代後半の教職研修生ふたりも、いつのまにか「GAGA(ガガ)」に首ったけ。

フィードバックの時間にブライアンに質問。

なんでヨガのポーズを、「やってみせる」のではなく、言葉で指示を出すの?

ブライアン曰く、言葉で出された指示を頭でイメージ身体に転化していくのには、長い時間がかかる。

1回目のレッスンではできないかもしれない。

それでも、そのプロセスを踏むことで、そのポーズがより長く身体に残るのだという。

見様見真似でやったポーズは、自分の身体感覚と必ずしも一致していなくてもとれてしまうから、

忘れるのも非常に早い。

まさに、「急がば回れ」。

私は、自分でもつくづく、この「急がば回れ」が苦手だと思う。

やってみせられると、他人の身体にお邪魔しやすい。

これは、本を読む時と一緒で、本に書かれている文章をそのまま引用すれば、

他人の感覚にお邪魔したまま感動したり、伝えたりできる。

そうではなく、自分の身体にいったん取り込んでから、自分の言葉に翻訳して、アウトプットするというプロセスがまさに重要なのだろう。

教えることと学ぶことは表裏一体。

自分が教育に携わるうえで、どのように教えるかという問いと、どのように学ぶかという問いの両方を同時に探索することを常に求められる。

自分のからだの声を傾聴し、その微妙な差異をことばで表現してみるというプロセスを伴う学びに挑戦してみる『ほったらかしの領域』合宿、参加メンバー募集中です。

詳細はこちら:https://mill-co-run.com/2020/12/14/%e3%80%8e%e3%81%bb%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%82%89%e3%81%8b%e3%81%97%e3%81%ae%e9%a0%98%e5%9f%9f%e3%80%8f%e5%90%88%e5%ae%bf%e5%8f%82%e5%8a%a0%e3%83%a1%e3%83%b3%e3%83%90%e3%83%bc%e5%8b%9f%e9%9b%86%e4%b8%ad/

『ほったらかしの領域』合宿参加メンバー募集中‼︎

みなさん、こんにちは。フランスで俳優をしています、竹中香子です。

今年は、フランスの演劇教育者国家資格取得のための研修を受けていて、日々、教育について考えています。

演劇の教職では、実技・理論と共に、今まで俳優として当たり前にやってきたことすべてを「言語化」する作業が求められます。中でも、身体へのアプローチや感覚を「言語化」することの難しさを目の当たりにしています。

ある日、地域で一番予約がとれないことで有名な歌の先生による発声教授法のクラスにて、自分が俳優として一番言われたくないことを指摘されました。

「あなたは『la volonté(意志・意欲)』が強すぎる。」

さらっと一言いいはなち、また他の生徒に指導を始める大先生。ここ10年くらい「意欲」だけで突っ走ってきた俳優としてのキャリアを完全否定された気分になりましたが、勇気を振り絞り、「ちょっとその話詳しく聞かせて頂きたい」と苦笑いで志願してみました。

『la volonté(意志・意欲)』が強い人は、努力もするし、よくできるんだけど、それ以上にはいかない。なぜなら、身体の声を聞けてないから。常に、「I must…」でものを考えている。舞台に立つ人間は、「I dream…」でものを考え、自分の意志ではなく、「こうやれたらいいなあ」くらいで、体に身を委ねる必要があるとのこと。

なんと!たしかに、私は、先生に与えられる「正解」に向かって努力するのは得意だけど、自分の中にある「正解」を見つけるために、自分の身体に耳をすますことは超苦手。ずっと「能動的」に生きてきた人生を振り返りながら、私が尊敬してやまない哲学者・國分功一郎先生の『中動態の世界 意志と責任の考古学』の本から、「中動態」という言葉を発見しました。中動態に関するインタビューで國分氏は以下のように答えています。

 能動態と受動態の対立に支配された僕らの思考に対して、能動態と中動態の対立を別の思考の型として持ってくることで、普段、見えなくなっているものを見えるようにできるのではないか。僕はそんなことを考えながら『中動態の世界』を書いたんです。 

 その中で僕が最も強調し、また強く批判的に論じたのは「意志will」という概念です。「する」と「される」の対立、能動と受動の対立は意志の概念と強く結びついているのではないかというのが、僕が本の中で提示した仮説でした。というのも、能動というのは自分が自分の意志で行うこと、受動とは意志とは無関係に強制されることを意味するからです。それに対し、中動態では、先ほどの「惚れる」がいい例ですが、意志が問題になりません。(http://igs-kankan.com/article/2019/10/001185/

ふと考えてみると、自分の「意志」によって行動していることなんて本当に少ない。「歩く」行為ひとつとってみても、自分の意志で歩いてるかと言われると自信がない。ある状態が「現れる」かもしれない「プロセス」(あえて意志を問題にしない場所)に身をおいてみること。意志の領域のそと、「ほったらかしの領域」で、私の身体は何を発見するんだろう。

と前置きが長くなりましたが、そんな「ほったらかしの領域」に、私を誘っていただくべく、創作及び身体との関係において、「プロセス」を重視しているアーティスト、武本拓也さんと奥野美和さん、フィードバックモデレーター兼アーカイブ執筆担当として、ドラマトゥルクの朴建雄さんをお招きし、意志と身体を探索する一泊二日の合宿を企画しました。

企画概要

この合宿は、創作過程・作品ともに、「プロセス」に重きを置いているアーティストと参加者が、実践(ワークショップ)と対話(フィードバック)を通し、「意志」と「身体」の関係について、言葉にしてみながら過ごす一泊二日の「プロセス」である。また、未来の「観客」の存在に向けて、新しい思考・実践の道具を作り出すための記録/発信(アーカイブ)を試みる。

日時:2021年1月23日~24日(一泊二日)

場所:藤野倶楽部 柚子の家(JR藤野駅より車での送迎あり)

参加費:食事代(3食+おやつ+宅配料)65oo円 ※宿泊費は主催者側が負担。

参加メンバー

ワークショップ担当:奥野美和、武本拓也、竹中香子(プレワークショップ)

フィードバックモデレーター・アーキビスト:朴建雄

(全員で12名程度を予定しています)

内容詳細

企画内容の詳細、タイムテーブルや参加メンバープロフィール・コメントなどを以下のグーグルドライブに保存した企画書に掲載していますので、よろしければご確認ください。https://drive.google.com/drive/folders/1rccdwyr3vqyu3kp_JbjvRAHVNkZXg4tl?usp=sharing

参加メンバー募集中!!!

私たちと一緒に『ほったらかしの領域』合宿に来てくれるメンバーを若干名募集しています。ワークショップ受講者ということではなく、「共同研究」といった感じで関わっていただける方にぜひ参加していただきたいです。参加メンバー募集にあたり、プレイベントとして企画メンバー4人でのオンライントークを開催します。ご興味ある方は、まずプレイベントに来てみてください!

プレイベントについて

12月21日(月)21:00~22:00 

  • 「身体のプロセス」

上演するパフォーマーにとっての「身体のプロセス」について話します。

12月22日(火)21:00~22:00 

  • 「創作のプロセス」

パフォーマーの上演を観てフィードバックする「創作のプロセス」について話します。

ZOOM オンライン開催 無料

(参加を希望される方は、お名前を添えて「連絡方法」のメールアドレスまでご連絡ください。参加用URLをお送りします)

連絡方法

『ほったらかしの領域』のメンバーになってみたい!という方は、以下のアドレスに、タイトルを「ほったらかし合宿」として、下記3点を本文に記載の上、12月25日(金)23:59までにご連絡ください。12月中にお返事させて頂きます。

連絡先メールアドレス:hottarakasi2021@gmail.com

  • お名前
  • 普段どういうことをしているか
  • 『ほったらかしの領域』で考えてみたいこと

(字数制限はありません)

悔しい気持ちをなかったことにしない勇気

フランスでは昨日、首相の会見があり、12月15日から再開予定であった映画館、劇場、美術館の再開延期が発表された。

現段階では、さらに3週間の閉鎖が延長され、1月7日の再開が検討されている。

11月末に、12月15日からの劇場再開が発表されてから、公演再開を楽しみに毎日過ごしていたが、

完全な糠喜び。

コロナの影響で、3月に初めて公演中止が決まった時は、涙が止まらなかったけど、

いつのまにか、予定されていた何件もの公演やリハーサルが中止になるたびに、

「しょうがない」を受け入れるのがどんどん早くなってきている気がする。

今回も、「レストランやバーの経営者の人のが、よっぽど大変だから、劇場あかなくてもしょうがない」と、

公演中止をあっさり受け入れそうになったところで、違和感。

いや、私が、悔しがらないで誰が悔しがる?!

このまま、社会での劇場の必要性がどんどん下がって、演劇という文化が消えてしまうことだって、ありえないことではない。

それぞれの分野で、その分野に関わる人たちが、

自分たちの仕事ができないことを、その度にしっかりと悔しがらないと、

いつのまにか、その分野がなくてもいいことになってしまう可能性がある。

だから、今回はしっかり悔しがろう。

なんで教会はあくのに、劇場は開かないのか?

不条理であったとしても、しっかりと不満や悔しさを感じる時間をとることも、

演劇という分野に携わっているものの責任だと今日は思う。

私が、心から信用するメンバーと2年半かかわってきた作品『千夜一夜物語』に愛と敬意をこめて。

自信がなくなる時の6割は生理のせいにしよう。

無事、2ヶ月半に及ぶ教職研修を終了し、パリの自宅に帰宅。

来年からは、めでたく実地での教育実習に駒を進める。

コロナ禍では、日本の自宅でぬくぬくと過ごしていたので、ハードな環境に耐えられるかビクビクしていたが、自分でも自分を褒めてあげたいほどやり切った。

最大限に主観を取り除いて、今回の勝因を確実にふたつあげることができる。

一つ目は、実技でも理論でも、自己紹介、発表、発言、質問は、すべて一番に答えるという謎の目標を立てたこと。

二つ目は、生理がなかったこと。

まあ、なんだかんだフランス演劇生活9年目の功も多少はあると思うが、具体的にあげるなら上記の二つの要因は大きい。

まず、「一番に答える」ということに関して。

おそらく渡仏してから9年の間、言葉の問題もあり、私が、学校のクラスや、創作の現場において、一番に発言するということは、数える程しかなかったと思う。

最初は、質問の内容がわからなかったりして、周りの人の答えを聞きながら理解しようとしていた。

場にそぐわないことをいってしまうことも怖かったので、「言わぬが花」ということで、まわりの反応を伺ってから、自分の意見をいうことが常だった。

わからないことがある時も、他の人全員がわかっているのに、自分が質問したら、みんなの時間の無駄になると思って質問を飲み込んだことも多々。

ただ、今回は、30代の厚かましさからか、「えいや!」と、精神論は抜きにして、具体的に「全部一番に答える」という目標を掲げた。

いつのまにか、週に2回は新しい講師がやってくる環境で、自己紹介はいつも私から。

質問や異議を唱えるのもいつも私。3週間後には、いつのまにか、クラスの「ご意見番」化していた。

数人の先生には、さぞかし「めんどくさい外人」と思われていたことだろうと思う。

「めんどくさい外人」「めんどくさい俳優」上等!

私がめんどくさくあるということは、クラスの学びに貢献しているということでもあるのだ。

(10年前は絶対にこんなふうには考えられなかった)

実際、ある講師と軽く喧嘩になった時、案の定クラスメートにお礼を言われたこともある。

初めてフランスにきた時は、本当にクラスで一番素直で、微笑みを絶やさない真面目な日本人だったな。懐かしい。

そして、二つ目は生理がなかったことに関して。

私は、6ヶ月前から子宮内膜症の薬を服薬していて、排卵を止めているため、生理がない。

子宮内膜症は、現在30代以降の女性に非常に増えている病気で、フランスでは10人に一人が抱えているそう。

子宮内膜症が原因でできる「チョコレート嚢腫」という病気は、

卵巣にできてしまった子宮内膜症が毎月の生理のたびに出血し、

卵巣内に血がたまってしまい、嚢腫ができてしまい、不妊の原因にもなる。

要するに、子宮内膜症というのは「子宮内にあるはずの膜が他のところにできてしまう症状」のこと。

女性の出産時期が遅くなっていることで、人生で生理がやってくる回数が単純に増えているということも原因の一つと言われている。

「チョコレート嚢腫」の場合、治療法として、服薬、もしくは、手術が考えられるが、

服薬の場合、ピルを飲んで排卵を完璧に止める。

フランスでは女性の33%以上が内服しているという低用量ピルの場合、出血期間が短くなり、月経量も減るものの、生理自体はなくならない。

月経痛や月経前症候群(PMS)も軽くなるとはいうものの完全にはなくならない。

しかし、「チョコレート嚢腫」で処方されるピルは完全に排卵及び生理をストップさせる。

生理がなくなってみて初めて、いかに生理に苦しめられてきたかということを思い知った6ヶ月だったのである。

まず、必ずと言っていいほど、月に一回やってきていた理由のない悲しみと自信の低下が訪れない。

もちろん自信がなくなる日や絶望する日があっても、どこを解決すればいいのかがなんとなく分析できるので、割と冷静に対処することができる。

生理痛で、ベットから起き上がれない日もないし、とにかく精神が安定しているのである。

男性はこのように日々過ごしていたのかと思うと、正直、上に立つ人間に圧倒的に男性が多いという現実も納得してしまう。

そして、生理のない生活を体験しなければ、女性は一生、月に一回悲しくなったり無性に自信がなくなったりする原因が生理にあるのだということに気づくことはない。

ただ、自分の能力のせいだと思うだろう。

だから、私は、自分の個人的な話を持ち出しても、女性が理由もなく自信がなくなる時の6割は生理に原因があると伝えたい。

そして、生理、及び問題は、人類存続のためにも、男性と女性が一緒に考えていくべき問題であると切に思う。

前にも、このブログで紹介した『禁断の果実 女性の身体と性のタブー』は本当におすすめ。

『生理中の舞台出演(裸)での愉快な裏話』

https://mill-co-run.com/2019/12/17/%e7%94%9f%e7%90%86%e4%b8%ad%e3%81%ae%e8%88%9e%e5%8f%b0%e5%87%ba%e6%bc%94%ef%bc%88%e8%a3%b8%ef%bc%89%e3%81%a7%e3%81%ae%e6%84%89%e5%bf%ab%e3%81%aa%e8%a3%8f%e8%a9%b1/

子宮内膜症の本で読んで、心にずっと残っていることがある。

生理は大風邪と一緒。大変な風邪を引いたら、みんな家族や職場に伝えて休ませてもらうのに、生理は我慢するものだと思い込んでいる。数日間、血を流しているなんて、身体への負担は大変なもの。職場にいうのは、さすがに難しくても、しっかりと家族やパートナーには伝えること。そして、気遣ってもらって当たり前のこと。

私は「生理がない」を経験したことで、「生理」が身体や精神に及ぼす影響を身を持って知ったので、少しでも、生理のせいにして、気持ちが軽くなる人が増えたらいいなと思う。

初めてフランスで性について扱った作品を作ったのも生理だった。

初音ミクの「女の子には生理があるの歌」で、生理のダンスを作って発表した。

女の子に生理があるのは
いらない卵子を外部に出すため♪
男の子の精子が飛び出す
子どもにつながる受精卵〜♪

もっともっと生理について気軽に話せる世の中がやってきますように!