【FTA2023】Journée d’écologie décoloniale(脱植民地エコロジーの日)

現代の生態系危機と近代の植民地史の関係を探求する研究者、Malcom Ferdinand氏の著書『Decolonial Ecology: Thinking from the Caribbean World』にインスパイアされた本日のイベント。

https://fta.ca/en/event/decolonial-ecology-day/

この本では、環境危機の解決には、植民地主義や帝国主義から受け継いだ社会的・人種的不平等を考慮に入れなければならないと主張されている。イベントのプログラムのひとつ、サーミのアーティストElle Sofe Sara とイヌイットのアーティストLaakkuluk Williamson Bathoryの対談を聞きにいきました。アーティストであり、母親でもあり、そして、自然と共存する先住民の血を引き継ぐ彼女たちの女子トークは非常に魅力的だった。

© Vivien Gaumand

後半、会場に質問が開かれた時、イヌイット族の男性が、あえてイヌイット語で質問し、続いて、自身で英語に翻訳した。登壇していたイヌイットのアーティストBathoryさんも、イヌイット語で応答し、自身で英語に翻訳した。おそらく、会場でイヌイット語が分かる人は、彼ら二人だけだったと思う。それでも、公共の場で、あえて独自の言語を用いて質問し、彼女も独自の言語で応答した。全身が震えるような体験だった。

カナダ統計のデータによると、先住民の若者の自殺率は非先住民族の若者より5~7倍高く、イヌイットの若者の自殺率は全国平均の11倍で世界でも最上位に入る。(TORJAサイトより:https://torja.ca/native-canadian/

自身の文化や言語を恥じる気持ちを抱える次世代の存在のうえに、あえてその言語を社会に響かせる行為に、どれだけの勇気を有するのだろう。芸術作品を超えた、芸術的な瞬間に立ち会った、と感じた。

それにしても、モントリオールのエコ意識は相当高い。近所のスーパーは、瓶を洗って返しにいかないといけないし、若者は、古着屋で服を買うことが多いらしい。私も、劇場通いの合間に、古着屋に行って、ファストファッションの店では絶対お目にかかれないような超可愛いワンピースをゲット。

【FTA 2023】Reconnaissance du territoire(領土を承認すること)

Festival TransAmériques1本目はオープニング作品にふさわしい、北極圏の先住民族サーミのアーティストElle Sofe Saraの作品『Vástádus eana – The answer is land(https://fta.ca/en/event/the-answer-is-land/)』。今年のFTAは、21か国から、24作品がプログラムされていて、そのうちの6作品が先住民族のアーティストの作品。多国籍だけでなく、多民族を意識した国際演劇祭はめずらしいのでは。今までも、己の無知はすべて劇場で学んできたが、今回も上演体験を通し、サーミの文化について知りたくなる、非常に質の高いダンス作品だった。サーミの迫害の歴史など全く知らないまま観劇したが、当事者の身体からしか滲み得ない物語の強度に涙が出た。アフタートークで、サーミ人であるダンサーの「私たちの身体は恥の歴史を背負わせられている。だから、その恥を超えて、自分の身体に誇りを持つためのプロセスだった」という言葉が苦しかったし、救いだった。

早速、『サーミの血(https://www.uplink.co.jp/sami/)』という映画をみた。サーミの子供たちは「移牧学校」という寄宿学校に入学させられ、スウェーデン語を押し付けられる反面、スウェーデン学校に行くことは禁じられた。映画の中で、サーミの外見はスウェーデン人と変わらないのにもかかわらず、子供たちがみんなの前で裸にされて骨格を調べられるシーンがあった。この映画の主人公も、生粋のサーミ人。当事者にしか演じられないパフォーマンスというものを改めて考える。

Festival TransAmériquesにおいて、先住民族のアーティストをプログラムすることが、なぜ大切か。フェスティバルの公式パンフレットの6ページ目に、以下のマニフェストがあります。

「領土の承認は、和解への長い道のりの一歩である。私たちは学び、対話し、協力し合う人々に、先住民やその言語、歴史の抹殺に対して思慮深い行動をとるように促します。」(https://fta.ca/reconnaissance-du-territoire/

2017年に初めてFTAに参加した時、植民地支配の歴史への知識が欠けていたため、作品を見た後のディスカッションにおいても、自分が生きている世界の半径5メートルくらいから出てくる感想しか言えなかった。「知らないということを知らない」ということほど恐ろしいことはないと痛感した出来事だった。

カナダでは19世紀から1990年代まで、政府とカトリック当局が先住民の子どもを親元から強制的に引き離し、各地の寄宿学校で生活させた。学校は139カ所にも上り、伝統文化や固有言語の伝承を絶つ同化政策を進めた。対象となった子どもは15万人以上で、学校では暴力や性的虐待、病気や栄養失調が多発したとされる。

そして、現在でも、先住民族女性・少女の失踪や殺害は続いている。見えないことになっている人種差別は確実に存在する。

劇場という場で、このような社会的問題を直接的に告発するような作品は少ない。しかし、舞台芸術という媒体を通し、当事者の身体が語る圧倒的なヒストリー(物語/歴史)を目撃した時、私たち観客は、もう無関係でも無関心でもいることができなくなる。

昨晩見たサーミ民族の作品は、劇場ではなく、街の中心部、道路のど真ん中で開演した。誘導の手間を含め、わざわざこんなめんどくさいことをしなくてもと思ってしまったのだが、改めて、プログラムに記載されているこのマニフェストを読み、街の中で開演したフェスティバル側の覚悟を感じた。

©Vivien Gaumand

【FTA2023】知的障害者でプロの俳優は存在するか

答えは、イエス。先日観劇したサーミ人によるダンス作品で、私はパフォーマーの身体が持つ当事者性に痛く心を掴まれたのだが、知的障害者の劇団員を持つバック・トゥ・バック・シアターの作品では、全く当事者が当事者を演じているとは思わなかった。なぜなら彼らは列記としたプロの俳優だから。バック・トゥ・バック・シアターは、オーストラリアの劇団で、過去に来日公演もしている。

今回FTAで招聘されている『The Shadow Whose Prey the Hunter Becomes(https://fta.ca/en/event/the-shadow-whose-prey-the-hunter-becomes/)』は、劇団の代表的な3人の俳優による公開ミーティング形式の作品。抑制された人権、食の倫理、人工知能の支配をテーマに、彼らは自分たちが知的障害者であるという事実から、会議を進めていく。何かの演じるのではなく、自分というアイデンティティーを保ったまま、いくつかのフィクションのレイヤーを巧みに使いこなし、観客をフィクションと社会問題のはざまに巻き込んでいくスタイルは、俳優にとって相当高度なテクニックが求められる。時として、アーティストが障害を持つ人たちと作品を創作しようというプロジェクトもあるが、バック・トゥ・バック・シアターは、1987年から続く劇団で、プロの所属俳優によって成立している。
終演後に、「障害を持っていても、堂々としている姿に涙が出た」と、隣の観客が話していたのだが、私はそれは違うと感じた。なんでもかんでも、当事者が当事者を演じているから感動するものではない。単に俳優が「当事者性を用いて」演じている、のではないか。今回の作品において、自らの障害をテーマにして泣かせるような仕組みは一切ないし、ただただ彼らのパフォーマンスのクオリティが高いがために、ドキュメンタリーかのように見えているだけであると、私は感じた。ただ、彼らの特性ゆえ、まるで演技をしていないように見えるというのは事実で、演出家は、その特性と非常に緻密に付き合っている。そして、痛烈な問いをいくつも突きつけられた。


今月から始まったNHKBSプレミアムドラマ「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」で、ダウン症の男の子がメインキャストに抜擢されたことが話題になっている。2022年には、ろう者の当事者たちを起用した「コーダ あいのうた」がアカデミー賞の作品賞を受賞して話題になったが、日本ではまだ名のある俳優が、迫真の演技で障害のある役を演じるということも多いそう。ディレクターの大九明子さんは「当事者の俳優がいる中で、その人達にとってそういう役が描かれている作品に出会うことがすごく少ないし、せっかくあっても当事者ではない人にその席を奪われるのは不公平じゃないかと思っています。」とインタビューで答えている。このドラマの中で、ダウン症の吉田葵さんの「演技」は秀逸で、彼が実際にダウン症かどうかというところに焦点がいくものではない。ただ、それは障害にあるなしにかかわらず、この人からしか出てこなかっただろうなという心から信用できる表現がちらほら見られる。(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230517/k10014067761000.html

環世界 という言葉がある。環世界 (かんせかい、Umwelt)は ヤーコプ・フォン・ユクスキュル が提唱した生物学の概念。すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、それを主体として行動しているという考え。

障害をもつ人の感覚を分かろうとする時に、さぞかし大変だろうなとか、頑張っててすごい、と自分の環世界に合わせて他者を規定するのではなく、単純に生息している環世界が違うということに繊細になった方がいいのではないか。私には想像も及ばないような環世界の中で身に付けてきた、私とは違う知覚世界を持っているということが前提にある。

違う環世界に住む人たちが、創作という場所を通して、同じ空間と時間を共有するプロセスは非常に有意義なものだと思う。舞台芸術を観る時のポイントとして、結果として現れている作品だけでなく、この作品が出来上がるまでに流れたプロセスを想像しながら観劇してみると非常に面白いということがよくある。

特に、違う環世界を生きるもの同士の創作は、いかにして、この人たちに間に信頼関係が生まれたかというところに注目すると舞台の上には見えない奥行きが一気に広がる。

コミュニケーション強制強化合宿

毎年モントリオールで開かれている舞台芸術フェスティバルFestival TransAmeriqueの若手アーティスト研修に参加してきました。

(シアターアーツでこのフェスティバルに関して詳しく紹介されています:http://theatrearts.aict-iatc.jp/201610/4837/

(前ディレクターのインタビュー記事も国際交流基金のページで紹介されています:http://www.performingarts.jp/J/pre_interview/0809/1.html

この若手アーティスト研修は、世界各国から集まったフランス語圏のアーティストたちによる国際ミーティングの場。

今年は、フランス、ケベック、カナダ、キューバ、ハイチ、イタリア、ドイツ、イラン、ベルギー、メキシコ、スイスから集まった24人のメンバーで11日間を過ごす。

応募条件は25歳から35歳までの舞台芸術に関わる「クリエイター」

年によって、多少ばらつきはあるものの、今年は参加者のほとんどが、演出家、もしくは振付家で自分のカンパニーやアソシエーションを運営する主宰の立場のアーティストがほとんど。

演劇、ダンスに限るという条件はないので、サウンドパフォーマンスや、インスタレーション、美術よりのパフォーマンスと、それぞれの参加者が関わっている分野も多岐にわたる。

そもそも、このフェスティバルのプログラムの特徴が、まさに最近よき聞かれる「マルチディシプリナリー」なものなので、このプログラムに興味を持った人たちも、いい意味でカテゴライズできない場所で活動している人が多かった。

応募締め切りは今年の1月初め。

履歴書とモチベーションレターを提出する。

フェスティバル側とともに財政援助を行う各国の事務局が選考に関わるので、合格の通知がきたのは、1ヶ月以上経ってからだった。

日本に窓口は設けられていないので、私はフランスの選考に応募したのだが、外国人を受け入れているのは、フランスだけで、他の国は、その国の国籍を持つ人が優先して選ばれたようだった。

フランスからは私の他にも、フランス在住5年目のイラン人のアーティストと、リヨンで活動するドイツ人のアーティストが含まれており、やはりフランスの懐の広さを感じずにはいられない。

俳優をメインでやっているのは、私くらいのものだったので、まずは他の参加者の経歴に圧倒されるところから始まり、フランス語を第二言語として使用している参加者たちの言語能力の高さにも打ちのめされ、やはり何年ヨーロッパにいても、この感覚はなかなか消し去ることができないと実感。

プログラムは連日9時から23時まで。

23時からは、もちろんフェスティバルバーでほぼ連日イベントが開催され、睡眠時間はどんどん削られていく。

具体的な活動内容としては、毎晩、フェスティバルのプログラムを観劇し、その作品について、朝から、まずはメンバーのみでの、クリティックを行う。

午後は、主に前日に鑑賞した作品の演出家や振付家が私たちのグループに参加し、ディスカッションが続けられる。

その他には、モントリオールの劇場ディレクターに会ったりと、モントリオールを中心としたケベックの舞台芸術プラットフォームを探っていく。

ケベックという特殊な土地柄もあって、ディスカッションの内容は、政治的な話題がほとんど。

正直、全く自分の社会に対する知識量が追いついていなかった。

連日ぶちあたる壁の量は、ひとつやふたつではない。

そもそも、23人を前に自分の意見をフランス語で理論立てて話すということだけでも、毎回手に汗を握る思いで、この緊張でアドレナリンが出る感じ、なんて演劇的なんだろう!と思っていた。

俳優、演出家という立場にかかわらず、

「批評」というキーワードが、

いかにアーティストを一人前にするかということを痛感する。

「批評」とはつまり、「問題意識」を持つこと。

その「問題意識」こそが、具体的な続ける理由を生み出す。

一言で言ってしまえば、30代という年齢が幕をあけるとき、

夢が、夢のままでは、物足りなくなるのだと想像する。

芸術家というと、なんとなく夢追い人みたいなイメージから逃れにくいのだが、

彼らの熱意と知識量、そして、社会への目の向け方に触れていると、

この人たちが、これから世界を動かしていくんだと信じずにはいられない。

結局はそのフィールドに関わる人たちの姿勢が、

そのフィールドの社会における立場を左右する。

演劇が世の中に必要とされるか、されないかも、

つまりは、演劇に関わっている人たち次第という単純な回路なのではないかと想像する。

それにしても、自分の無知を知り続けるということほど、地獄、かつ、刺激的なことはない。

私がおそらく一番世間知らずだったから、一番得をしたのではないかと自負する。

フランスにきてから、常々実感するのは、

コミュニケーション能力は、筋肉と同じだということ。

筋トレしなければ、育たない。

語彙を豊かにするために、同じレベルの筋トレではなく、

負荷を少しづつあげていく必要がある。

例えば、二、三人の間で、自分の意見を言うことと、数十人の前で意見を言うのとでは、

これまた、全く違う筋肉が求められる。

いつも、ここまで打ちのめされて、体に毒じゃないかと危惧するが、

どこをどうトレーニングしなければいいかわかってさえいれば、あとは時間さえあれば、人間は割とすぐに変われる生き物なのだと思う。したくなくても、ついつい成長してしまうのが、人間。

自分が底辺に位置するであろう場所に身をおくことは、

怖いし、苦しいし、惨めであるに決まっている。

ただ、「そんな屈辱的な場所」で得るスピードとインパクトは超絶である。

だからこそ、気づかないうちに「そんな屈辱的な場所」に入ってしまっていたというのは理想的だ。

しかも、高い確率で、知らない世界に足を踏み入れるという行為は、「そんな屈辱的な場所」に連れて行ってくれる。

そんなわけで、今回も、最高に屈辱的で最高にハッピーな出会い、終了!

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リミニ・プロトコルと朝ごはん。

ベルリンを拠点に活躍する、

アイディアが溢れて止まらないアーティスト集団『リミニ・プロトコル』

日本でも2013年に公演された『100%シリーズ』がモントリオールに登場。

100%トーキョー

 

リミニ・プロトコルの作品に初めて出会ったのは、なんと9年前。

『CALL CUTTA IN A BOX』

インドのコールセンターで働く人と、スカイプで一対一でお話しする作品。

(その時の様子を描いた過去の記事:『世界の小劇場-〜vol-1ドイツ編〜』@神奈川芸術劇

今、思い返しても、この作品によって、自分が勝手に作り上げていた演劇観というものが、完全に覆され、そのおかげで今も未知であり続ける演劇の魅力にとりつかれているのだと思う。

このような作品に出会えるのは、10年に1本だと思っていて、実際、あれから9年、国境を越えて演劇を見続けているけれど、『CALL CUTTA IN A BOX』を超える衝撃はない。

 

そんなリミニ・プロトコルのメンバーと朝ごはんを食べるチャンスが巡ってきた。

日曜日の10時半。

会場には、すでに、コーヒー、パン、ジャム、ピーナッツバター、ジュース、そして、なんとトースターまでセッティングされている。

 

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参加者はとなりの人に気を使いながら、

自分の朝ごはんを用意。

ノートも用意して準備万端。

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そして、朝ごはんスタート。

まずは、リミニが簡単に今までの活動を語り、

あとはいたって、インフォーマルなディスカッション。

俳優を使わないで、現地の人と作品を作るリミニのスタイルにぴったりあったシンポジウム。

途中でトースターのタイマーが、チンッ、と鳴ったりして会場はフレンドリーな雰囲気。

改めて、人は同じものを口にすると、他者に心を開いてしまう動物なのだと実感する。

 

午後、劇場に『100% Montréal』を観に行くと、

会場はまさに、朝ごはんのときと同じ雰囲気。

15分も経たないうちに、会場にいる観客は、

笑うだけじゃなく、拍手したり、ブーイングしたり、

つまるところ、「思わず」しゃべってしまうのだ。

 

リミニの演劇は、決して参加型だとは思わない。

観客は、いつのまにか、もしかしたら、自分も舞台に立つことになっていたのではないか?と錯覚してしまう。

そこで、舞台にいる出演者に、シンパシーを感じずにはいられず、しゃべり出してしまう。

 

さて、この公演、実はお土産付き。

100人の参加者の写真と紹介が書かれた本がすべての観客に配られる。

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これまた、100人全員知り合いになったと錯覚してしまうのが、リミニ・マジックである。