「遠くの親類より近くの他人」呼び込み作戦

本日から始まった豊岡劇場での上映『太田信吾短編集』

ちょうど豊岡では昨日から豊岡演劇祭2023が開幕し、県外からも多くの観客が訪れています。

今回の豊岡劇場での上映も、「”勝手に!”豊岡演劇祭コラボ特集」ということで、豊岡演劇祭期間に合わせたプログラムが展開されているのですが、県外から演劇祭に訪れた観客の方々にこの特集上映情報がどれだけ伝わっているかは定かではありません。
映画館が存続するためには、「街」の力が必須です。

「遠くの親類より近くの他人」という諺がありますが、この言葉は地方のミニシアターのためにあるようなものだと思います。
例えば、舞台芸術において、同じ時と場所を共有するという特殊性のために、アーティストのフォロワー的な「遠くの親類」を呼ぶことは可能でしょう。しかし、映画館が頼れるのが、「近くの他人」なのです。

もちろん、太田信吾さんのファンが、遠方から訪れてくれることは大変嬉しいことですが、豊岡劇場というミニシアターの未来を考えた時、太田信吾さんを知らないであろう近所の方が、「なんかよくわかんないけど、近所の豊劇でやってるから行ってみるか」と、映画のある「テーマ」に反応し足を運び、作品と観客の偶然の出会いが生まれることが理想的であるように思います。

それは、この出会いが「豊岡劇場で起きた良い記憶」が生まれ、また別の映画作品とその人をつないでくれる「特定の場所」として記憶されうるからです。


新米プロデューサー竹中香子の力試しとして、太田信吾さんのことを全く知らない豊岡劇場近所の皆さまや、豊岡演劇祭に訪れた方々に向けて4作品の魅力をお伝えしたいと思います

『ソーラーボートの作り方』 〜漂着プラごみで試作編〜

普段、超高級住宅地「芦屋」で焼き鳥丼キッチンカーを出しているかのうさちあさんは、なんでもかんでも自分で作ってしまう人です。去年はガソリン代が高騰し、ガソリンを払うのがバカバカしくなり、ソーラーパネルで「ソーラーキッチンカー」を作ってしまいました。そんなかのうさんが、今回は、長崎県対馬に大陸から海洋ゴミが流れ着いているという噂を聞きつけ、それらのゴミを使ってソーラーボートを作ることを考案。出来上がった船で、対馬から釜山まで航海しよう!と言い出しました。そんなかのうさんの沈んでも沈んでも絶対諦めない手作りソーラーボートドキュメンタリー。果たして、釜山に渡航はできるのか?!

『門戸開放〜Opne the Gate〜』

太田監督得意の手法、「当事者が当事者を演じ直す」ドキュメンタリーです。本作品の登場人物たちは、自らの身に起きたことを演じ直す形で撮影に参加しています。「演じる」とはなんなのか。「演じ直される」ことで生まれる圧倒的ユーモアの力にも注目です。「肛門に日光を当てる」という一見ギャグのようなこの行為ですが、ルーツはヨガにあると聞きつけ、鬱に苦しむ主人公は、なんとインドに旅立ちます。肛門日光浴シーンが、あまりにもかっこいいので、明日からベランダで試してみたくなること間違いなしの作品です!

『秘境駅清掃人』

本人も自覚する自閉症を持つ、愛知県在住の髙橋祐太くんは、秘境駅に魅せられて、ほぼ毎週末、自腹を切って飯田線の秘境駅清掃のため長野県天龍村にやってきます。平日は工場に勤める正社員である祐太くんは、金曜日の終業後に長野まで直行することもしばしば。そして、休日ほぼ全ての時間を駅の清掃作業に費やし、また愛知に戻っていくのです。祐太くんは、なぜこの過酷な作業を楽しそうに続けているのか。そして、過疎化に直面する天龍村近辺の映像美にも注目です!!

『現代版 城崎にて』

志賀直哉の短編小説『城の崎にて』を題材に、フランスで活動する女優(わたし、竹中香子)の視点に置き換え、コロナ禍における生死を問う作品。豊岡、城崎、出石を中心にロケを観光した、ご当地ムービーです。普段、何気なく通っている風景がまた違って見えるかも。本編に登場する歌姫、唄さんは、当時、芸術文化観光専門大学の学生でした。彼女の歌声と存在感にも注目です!!また、街のみなさんにも出演協力いただいたので、皆さんご存知のあの人やあの人も登場しているかも。

そんなわけで、みなさん、『太田信吾短編集』上映情報が豊岡の「近くの他人」の皆さまに届くようどうかご協力お願いいたします!!

シビックプライドから考える映画『沼影市民プール』

「シビックプライド」という言葉をご存知だろうか。

直訳すれば、「市民の誇り」というところだろうが、調べたところ「市民としての当事者意識」が鍵となっているようだ。

シビックプライド研究会を主宰する伊藤香織氏は、「単なるまち自慢や郷土愛ではなく、『ここをよりよい場所にする ために自分自身がかかわっている』という、当事者意識に基づく自負心を意味する」言葉として定義づけている。

また、シビックプライドの例として、イギリス・バーミンガムのまちの美化キャンペーン「You are Your city」を例にあげる。

シビックプライド−都市のコミュニケーションをデザインする(宣伝会議Business Books)より引用。

このポスターは、「まちにゴミを捨てるのをやめましょう」と言うかわりに、「あなた自身があなたのまちなのです」と呼びかけている。

自分たちが住む場所をより良い場所にするために、自分たちが関わっているのだという、当事者意識がひとりひとりに市民としての「プライド」を付与するのだ。

私は、生まれも育ちも埼玉県の浦和だが、正直「シビックプライド」を感じたことは一度もなかった。

2年前くらいから、長野県に関わりを持つようになった時、長野県民の「当事者意識」のようなものに触れ、強い憧れを覚えた。

私が初めてプロデュースを担当する長編映画『沼影市民プール』が、さいたま国際芸術祭 2023のプログラムとして発表することが決まった時、

さいたまアーツカウンシルの方から、「(日本を代表する)生活都市としてののさいたま市」という言葉に加え、「現役都市」という言葉を教えていただいた。

「現役都市としてのさいたま市」とは、どんどんデトックスしていく街であり、常に現役であり続け、新しい価値を提示していかないと生き残れない街とも言えるそうだ。

言い方を変えれば、「古いものを古いまま残しておけない」街とも言える。

そんな街で今年52歳を迎えた沼影市民プールがその生涯を閉じようとしている。

さて、「現役都市としてのさいたま市」における「シビックプライド」とはなんだろう?

「東京に通いやすい郊外」として、東京を中心に考える魅力ではなく、さいたま市独自の「シビックプライド」。

アーティストの仕事がこの「シビックプライド」獲得に、一翼を担えそうな予感がしている。

私が映画『沼影市民プール』をプロデュースするにあたって特に心掛けていることが、

「複眼的思考」と「批評的思考」である。

ある物事をある一方向からだけで判断するのでなく、別の方向・角度からの景色を「複眼的に」提示することで、観客に「批評的な」視点を持って作品に向き合ってもらえるよう促すということだ。

市民としての当事者意識を育てる第一歩は自分の街を「知る」ことにあるのではないだろうか。

自分の街で起こっていることを俯瞰してみること。

アーティストの視点から「複眼的」に切り取られた映像に触れ、

「批評性」を持って、自分の街と「出会い直す」ことができれば本望である。

そして、なにより太田信吾監督こだわりの映像の美しさに注目していただきたい。

「ドキュメンタリー映画」というと、スマホや手持ちカメラで簡単に撮影されたような映像のイメージを持たれる方もいるかもしれないが、太田さんの映像が魅せる美しさをぜひ体感してほしい。

さいたま国際芸術祭のテーマともなっている概念「SCAPER(スケーパー)」にも通じるところがあるのではないだろうか。

現代アートチーム目[mé]が作り出した、景色を表す「scape」に人・物・動作を示す接尾辞「-er」を加えた造語で、「パフォーマーとそうでないものの差が曖昧になる仕掛けを展開するもので、その実態の有無自体が観客に委ねられる」と定義されている。

映画『沼影市民プール』の中にも、今まで見たことのある日常の景色が、まるで「作品」のように見えてしまう映像が、幾たびも想像するだろう。

それは、普段何気なく通り過ぎている見慣れた日常の一コマでありながら、同時に市民ひとりひとりの内側に眠っている強烈な「批評性」を呼び起こし、自分の住んでいる街への問題提起とともに、「シビックプライド」が芽生える可能性を大いにひめている映像である。

撮影も終盤に近づいた今、本作の完成が楽しみでしょうがない。


さいたま国際芸術祭2023 公募プログラム

太田信吾監督作品『沼影市民プール』試写会

日時:2023年12月6日(水) 9時半〜 /18時半〜

場所:浦和コミュニティセンター 多目的ホール

参加費:無料

申込:予約優先

お電話から:070-8470-9083

映画『沼影市民プール』公式LINEから:@636vjnfs  

googleフォームからhttps://forms.gle/bRTWX2nf6emThAeA8

国から映画撮影を禁止された監督が選んだ極上のロケ地

第65回ベルリン国際映画祭(Berlin Film Festival)で、
最高賞の「金熊賞(Golden Bear)」を受賞し、
現在、フランスで公開中の映画、
『Taxi Téhéran』を観てきました。
taxi-teheran.png


タイトルが示す通り、
撮影場所は、タクシーの中、
もしくは、タクシーの窓から見える範囲のみ。
監督自らが、主演し、彼がタクシーを運転しながら、
運転席の前に設置されているであろうカメラを動かしながら、撮影していく。
時には、そのデジタルカメラで撮影されたり、
i phoneであったり、
i podであったり。
撮る/撮られる
見る/見られる
カメラの前にいる人、後ろにいる人たちが、
常に、入れ替わりながら、
意識的に、
「映像」という芸術媒体を使って、
「映画」という芸術を作り上げていく。
そして、映画全般を通して、
様々なかちで、
漂い続ける、
「検閲」の影。
最終的に大勢の人目に触れることになる「映像」、
つまり、「映画」を撮っているカメラの前で、
言っていいこと、悪いこと。
言いたいこと、言いたくないこと。
言いたいけれど、聞かれたくないこと。
聞かせたいけど、言えないこと。
監督はイラン映画の巨匠、
ジャファール・パナヒ(Jafar Panahi)監督。
この作品の前に、すでに、
カンヌ国際映画祭、
ヴェネツィア国際映画祭、
ベルリン国際映画祭にて、
賞を受賞している。
国際的には、
映画監督として、大いなる成功をおさめている彼ですが、
母国イランでは、
処女作『白い風船』以外は、すべて上映禁止とされているそう。
しかも、過去に2回投獄されており、
ジュリエット・ビノシュを始めとする、
各国の映画関係者たちが、パナヒ監督の釈放を要求し、
多大な保釈金のもと、
解放された今も、
国内での映画撮影を一切禁止されている。
かつ、国外へ出ることも許されていないので、
つまり、映画監督としての職業を剥奪されたも同然。
ベルリン国際映画祭の授賞式では、
出演者で、パナヒ監督の実のめいでもある、
ハナ氏が、代理でトロフィーを受け取ったそう。
http://www.afpbb.com/articles/-/3039680?pid=15277934
2011年、自宅軟禁を余儀なくされたパナヒ監督は、
モジタバ・ ミルタマスブ監督と共同で、
自宅で、本人主演のドキュメンタリーを撮影。
その名も、『これは映画ではない(This is not a film)』
http://moviola.jp/eigadewanai/

しかも、この作品は、
USBに保存され、お菓子箱の中に隠されて、
協力者たちのもと、
カンヌ映画祭までたどり着いたという。
とにかく、
映画への愛と、
執念を感じずにはいられない、
超社会派なパナヒ監督の映画は、
常に、「軽さ」と「笑い」にあふれているのだから、
不思議。
どこまでも、
映画を撮るという行為そのものに、
真剣に監督の姿が、
こんな言い方をしては失礼だが、
お茶目で、愛らしくて、
いっぺんにファンになってしまう。
名匠でいながら、
このお茶目さを保てる秘訣とは、
一体何なのだろう?
何かモノを創るときに、
あっても、
逆に、なくても困るもの:「制約」
彼にとって、
この厄介な「制約」たちは、
最強の相棒であり、
映画を撮り続けることの、
最大の「理由」なのであろう。
彼の仕事が、
どんな状況でも、
カメラを回すことなら、
彼の作品に魅了された私の仕事は、
この映画の素晴らしさを語ることだろう。
もはや、
この映画に立ち会ってしまったの者たちの宿命とすら感じる。
『Taxi Téhéran』が日本で公開されることを願って、
私の拙いけれど、
この作品に対する熱い想いを書き残します。

チョン・ジュリ初監督作品『扉の少女』 A Girl at My Door / DOHEE YA

先週、パリの韓国映画祭(FFCP)にて、
1枚の宣伝用ポストカードが目に入った。
じゅり
「目が釘付けになる」とは、
こういう時に使うのだということを、
一瞬に理解した。
男の子と女の子なのか。
女の子と男の子なのか。
男の子と男の子なのか。
女の子と女の子なのか。
中性的でありながら、
どこまでも強く性の香りを漂わせる、
ふたりの表情に、
私の目は、
まさしく「釘づけ」られた。
コメントを読んでみると、
大好きな映画監督イ・チャンドン氏製作の映画で、
今年のカンヌ映画祭「ある視点部門」オフィシャル セレクション作品であった。
http://www.festival-cannes.fr/jp/archives/ficheFilm/id/100010477/year/2014.html
ちなみに、プロデューサーであるイ・チャンドン氏の、
監督作品は、
強烈な映画しかないので、
すべてオススメ。
出口のない部屋に、
閉じ込められ、
四方の壁が、
じわりじわり、
すこしづつ、すこしづつ、
中央に向かって迫ってくる感じ。
ただ、地球の自転と同じくらいの速さのため、
どうしてもその事態に気づくことができないのである。
個人的に特にオススメなのは、
30歳を目前に出所してきた青年と脳性麻痺の女性の恋愛を描いた、
2002年公開の『オアシス
脳性麻痺のヒロインを演じたムン・ソリは、
撮影後、1ヶ月間、
顔がもとにもどらなかったという。


ちなみに、外せないのは、
シークレット・サンシャイン』(2007年)

ラッパーの宇多丸氏も絶賛しています。
さて、そんなイ・チャンドン氏製作、
チョン・ジュリ(JUNG July) 初監督作品、
『扉の少女』 A Girl at My Door / DOHEE YA

カンヌ映画祭での監督インタビュー
舞台は、ラース・フォン・トリア監督作品『ドッグヴィル』を想起させる、
住人全員顔見知りレベルの小さな港町。
ソウルから派遣された女性警官と、
ひとりの少女をとりまく世界を描く。
なんとこの映画、
今月22日から始まる「東京フィルメックス」のコンペティション 作品。
http://filmex.net/2014/fc08.html
私は、幼少期から、
とにかく落ち着きがないタイプで、
今でも、靴を履いたまま映画を鑑賞することができないし、
じっとしていることが大の苦手。
そんな私が、
自分でも自分を褒めてあげたくなるくらい、
実に「お行儀よく」映画を観た。
静かな静かなホラー映画だったせいなのかもしれない。
それとも、
ドアをノックする音があまりにもうるさすぎたせいなのかもしれない。
マイノリティーは、
その分母が大きくなればなるのど、
脅威を発揮すると考えるのが普通である。
ただ、
分母が小さくなることで、
マイノリティーのマイノリティーであるが所以は、
10倍にも100倍にも増幅してしまうのである。
アジアでしか扱えない、
マイノリティーへの、
ひとつの確かな問いがあった。
分母が小さくなることで、
マイノリティーは薄れるどころか、
浮き彫りにされる。
「匿名」ではなく、
「実名」としての、
「世間体」として。
チョン・ジュリ監督は、
人間の「眼」を撮る天才だと思う。
目でも、
瞳でもなく、
眼球の「眼」
ま-な-こ 【眼】
名詞
①黒目。目玉。目。
②物を見たり、本質・価値を見通す力。眼力(がんりき)。
(学研全訳古語辞典より引用)
その「眼」に映る世界を、
見るだけではなく、
見通す力。
物事を、
限りなく「能動的」にみつめる「眼」
彼女たちの「眼」を思い浮かべながら、
「受動的」に酷使した、
私の「目」を、
そっと閉じる。

「赤」にみる、最近の一押し映画3選。

「赤」の取り扱い方がうまい映画は、
それだけで、いい映画のように感じる。
「赤」の発信力には、どこか凄まじいものがある。
おそらく、
それが、
「生」の色であり、
「死」の色であり、
そして、
「愛」の色だからであろう。
最近観た、
とっておきの3本の映画の「赤」も、
私の中で、
時間の経過とともに、
色あせるどころか、
ますます、鮮やかにうごめき回っている。
1作目。
先日、日本で公開になった、
映画『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』


スカーレット・ヨハンソン演じる、
美しすぎるエイリアンが、
余りにもナイーブな空気を漂わせながら、
自らの唇になでつける、
ルージュの「赤」
彼女は、この10年の間に、
40本近い映画に出演しているのですが、
毎回、イメージを完全に変えてくるため、
中盤まで、わからないことが多々。
ウッディー・アレン『マッチ・ポイント』のイメージが強かったからかも。

この人は、
人間が背後に漠然と背負っている過去さえも
変えることをやってのける女優だと思う。
この映画の恐ろしいところは、
完全に時間の感覚を歪ませしまうところ。
上映中、
良くないことだとはわかっていながら、
携帯を鞄の中でそっとつけて、
時間を何回も確認した。
確認せずにはいられなかった。
現実の時間感覚を保っていないと、
このままこの映画にさらわれて、
現実世界に戻ってこられないような恐怖に陥った。
スクリーンが、スクリーンの外にも、
少しずつ浸食して、
側面の壁までも、
スクリーンとなって、
いつのまにか、
映画館の出入り口さえも、
ぐるりと呑み込まれているんじゃないか。
そんな感覚に身体を危ぶまれながらも、
彼女のルージュの「赤」の美しさと、
とろりとした地面から、
一切目を離すことができなかった。
2作目。
映画『2つ目の窓』

ヤギの血を抜くシーンの「赤」に、
この映画の美しさは完全に凝縮されていると思う。
おそらく本物の血だったからだと思うが、
あそこまでスクリーンを通して、
血というものが、
生き生きと、
死よりも、生を感じさせている「赤」を発していたことを、
目にしたことはなかったであろうと思う。
なにもかもが「近い」島での生活。
人と人。
人と動物。
人と自然。
人と命。
そして、
人と死。
生きるということが、
こんなにもシンプルで、儚い。
なにしろ、
死ぬということが、
こんなにもシンプルで、儚いのだから。
それでも、私たちは、
人を愛して、
未来に目を向ける。
彼女のドキュメンタリー『玄牝 -げんぴん-』を思い出す。

一番シンプルな人間の行動、
人間の始まるところと終わるところに、
そっと寄り添い続けた、
河瀬監督な最新作だったと思う。
そして、3作目。
今年の第67回カンヌ国際映画祭において、
ゴダールに並び最年少で審査員賞を受賞した、
Xavier Dolan(グザヴィエ・ドラン)『Mommy』
まだ日本公開は決まってないようなので、
cinemacaféのページをリンクさせて頂きます。
http://www.cinemacafe.net/article/2014/05/28/23702.html

普段、俳優でもある彼は、
自分の映画に主演しているが、
今回は、彼の出演は3分くらいにとどまっている。

ケベック地方のフランス語なので、
フランス語なのに、フランス語の字幕がつく。
フランスでは、今週の水曜日に封切りになってから、
この映画の話題で持ち切りだった。
注意欠陥・多動性障害(ADHD)を持つSteveの母親役には、
2009年に公開された『J’ai tué ma mère 』(マイ・マザー)でも、
グザヴィエ・ドラン演じる主人公の母親役を演じた、アンヌ・ドルヴァル。
この作品でもこのシーンのペンキの「赤」に、
完全に持っていかれた。

『Mommy』の場合は、
彼が母親にキスするシーンのほの暗い赤い光が、
じんわりと呼吸を苦しくさせた。
むしろ、
2時間15分、
全体に渡って、
透き通ったと思ったとたんに、
濁っていくような、
母と息子の「赤」の変化に、
二人のやりとりに思わず吹き出してしまったりしながら、
ラストシーンに向かうまで、
すこしずつ、すこしずつ、
じりじりと、
絶え間なく、
締めつけられていった。
カメラワークも、実に遊びごころに溢れていて、
演劇的だった。
彼の自分の目の前にある「なにか」に対する、
突破の仕方は、
実に気持ちがいい。
彼の作品にも、
余すところなく、
溢れ出ている。
強気にならなきゃいけない時の歌、
ASIA SunRise 『羽』

目の前に現れる壁は
 飛び越えられるものに 現れる
 飛び越えられない 壁はない
 飛び越えてゆくしか 道はない

皆様からのこの映画は「観ずに死ねない!」情報、
随時お待ちしています。