永谷園『すし太郎』とハナマルキのおみそ汁で、インプロビゼーション60分。

2週間前から始まった、
パリを拠点に活躍する若手演出家Julie Deliquetとのスタージュ。
彼女は、パリ最大の秋の舞台芸術祭、LE FESTIVAL D’AUTOMNEにて、
なんと3作品も作品をプログラムされた。
Collectif In Vitro/Julie Deliquet『Des années 70 à nos jours…』
彼女は、最近、フランス演劇界でモードなスタイル、
“collectif”というカンパニー形態をとっている。
これは、グループで創作されるというもので、
形式上、彼女は、演出家という役割を担っているが、
実際には、グループのリーダーとして、
俳優たちとともに創作を行っているそう。
今回のスタージュでは、
彼女のカンパニーで実際に行われている創作形式、
”l’écriture sur le plateau”(舞台上での劇作)がテーマである。
これは、俳優たちが、
すでに配役された状態で、
一定の条件のもと、
インプロビゼーションをしながら、
登場人物間の関係性や、
その場で起こりうる事件、
つまり、「プロット」を構成していくというもの。
ここでいう「インプロビゼーション」は、
あくまでも、即興で作品を構成することが目的なのではなく、
演劇の根底である「再現性」可能な上演を目的とする、
過程としてのインプロビゼーションである。
今回のテーマは、
「結婚式」と「お葬式」の食事。
初日に、くじ引きで決められた配役をもとに、
11人が、
11通りの主題に基づいたプロットを提案し、
11回にわたる60分程度のインプロビゼーションを行う。
まず、最初の2日間で、
Julieとの会話、もしくは、
登場人物同士の対話によって、
基本的な設定を構築する。
3日目から、1日2回の食事インプロビゼーション。
一通りの流れとしては、
その日のリーダーが、
11人分の食事、舞台セット、プロットを準備してくる。
20個以上の条件を満たしたプロットを他の10人に伝える。
つまり、インプロビゼーションを進める上で、
最低限必要なポイントを全員で共有する。
そして、60分を目安としたインプロビゼーションスタート。
Julieとのフィードバック。
これを、1日に2回繰り返していたので、
つまり、1日のうち、
2回は舞台の上で、食事をとるということ。
週の後半には、完全に自律神経破綻していた。
インプロビゼーションということで、
事前に決められた台詞は一切ないので、
一週目は、そもそも自分と限りなく近い「役」と自分の間の境界線を、
言葉のハンデによって、
完全に崩壊される。
2日間は、かなり重度の吃音的症状が出た。
実際に、物を食べるという行為をしている事実であるとか、
言葉がうまくしゃべれないという事実であるとか、
フィクションを作り上げることに邪魔と思われる要素に満ちあふれていた。
このフラストレーションをJulieに打ち明けると、
それは、「役」のイメージを無意識につくってしまっているせいだということ。
俳優は、戯曲を渡されたときに、
戯曲を読み解くと同時に、
自分に渡された役が、
どのような性格なのか、
どのような喋り方をするのか、
どのように振る舞うのか、
イメージをつくってしまいがち。
ただ、これらは、
その人が、今、初めて出会った人たちの中にいるのか、
心の知れ渡った友人たちの中にいるのか、
その時の状況により、
不確定なもの。
「役」がおかれている環境において、
「役」、もしくは、俳優の身体に起きる「リアル」を探していく作業が、
このインプロビゼーション。
つまり、うまく言葉がでなくなるという事実や、
この状況では、食べ物も喉を通らないという事実、
すべてが、発見なのである。
まっさらな状態から、
事前に共有した設定だけを頼りに、
他の登場人物との関係性を作っていく。
そして、8回目のインプロビゼーションとなった、
私担当の回は、
以前、このブログでも扱った、
ロラン・バルトが日本について書いた本、
L’empire des signes『記号の国』より
「中心のない食べ物」をテーマにプロットを作りました。
(過去ブログ記事:芸術作品としてのフランス語で綴られる日本の姿が愛おしすぎる件
準備した食事は、
ちらし寿司‼︎
当日は、いかに他の10人に、
自分のプロットを効率良く伝えられるか、
そして、準備の指示が出せるかということにテンパっていて、
(ちなみに、「テンパる」とは、麻雀用語の「あと一枚で上がれる状態」を意味する『聴牌(てんぱい)』から来ているらしい。そして、まさしくそんな心中穏やかでない状況だった。)
写真を撮り忘れたけど、
超豪華なちらし寿司ができた。
susi.png
中心のない食べ物。
中心のない装飾。
中心のないテーブル。
中心のない人間関係。
そして、
中心のない会話。
最近、グループ創作というものに強く関心を抱いている。
そもそも、演劇は、グループ創作なのだが、
俳優という職業で考えれば、
なんとも、競争に満ちた、
個人競技的なイメージがどうしてもある。
私も、もともと、
団体競技より、断然、個人競技のが得意なタイプなので、
今まで、グループで創作するということにあまり魅力を感じていた方ではなかった。
Julieは自分たちのカンパニーにおいても、
俳優ひとりひとりが、
グループの「トップ」に立つ機会を必ず与えるのだという。
自分の構想を、
他者に伝え、
それを、実現していくことの難しさと魅力。
他者とのずれ。
そして、
ずれから生まれる奇跡的なハプニング。
全部が大きな発見となって、
自分に返ってくる。
この過程を踏むことで、
本番、俳優たちは、
ストレスのない状況で自分たち自らが創りあげた
時間と空間を、
「再び」生きることができるのだと思う。
他者が、責任を担っている場所で生きるということは、
時として、多大なストレスを生じさせる。
演出家が全責任を背負っているような舞台に立っている場合、
俳優としては、責任を背負えない分、
失敗するのが怖い。
リスクは、背負わないと、冒せない。
来週からは、この2週間の11回に及ぶインプロビゼーションから生まれた
山のような素材をもとに、
最終的なプロットをより細かく書いていくことになる。
この私たちの通ってきた道から、
どんな結果が生まれるのか楽しみ。
そういえば、今、日本で公開中の映画『6才のボクが、大人になるまで。


『ビフォア』シリーズなどで有名なリチャード・リンクレイター監督作品。
6歳の­少年とその家族の12年にわたるストーリー。
なんと主人公を演じたエラー­・コルトレーンをはじめ、
主要人物4人を同じ俳優が12年間演じた。
撮影当初、エラー­・コルトレーンが小学生だったこともあり、
撮影は、毎年、夏休みに行われていたそう。
この映画を絶賛する映画評論家の町山智浩氏は、
この映画の成功の秘訣は、
終着点を決めなかったことにあるという。
12年前、この映画の撮影が始まったころ、
ストーリとして、3年分くらいの構想はあったそうだが、
そのあとは、実際にそれぞれの俳優に起きた変化から、
監督が影響を受けながら、ストーリーが展開していったという。
「ラストシーン」を決めない創作こそ、
リスクの共有につながると思う。
「ラストシーン」の決まっていない人生も、
リスクは多いけど、
重いリスクを背負ったら、
身体は意外に軽くなったりするのかも。
リスクは、背負えば、冒せるのだから。

誰にもわかってもらえないけど、今日からは新しいわたし。

ひとつの経験を通して、
自らの変化を感じる時(内)と、
世界の変化を感じる時(外)が、
存在する。
今回のスタージュが始まる前の、
一ヶ月前に見ていた景色を、
おそらくもう見ることはないのだろうと思う。
外の世界と自分がどうコミットしていくかという問いを、
社会人として研ぎすましていくことで、
表現媒体(自分自身)を高めていく、
モチベーションが保たれていく感覚。
自分が変わらなくても、
世界は変わる。
世界が変われば、
自分も変わる。
いま、目に見えているものに、
新たな視点を与えること。
そして、「見えてしまうもの」を創ること。
このシンプルなようで、
時として、
革命的な力を発揮するアーティストたちの仕事に、
とてつもなく影響を受け続けた30日間。
と、同時に、
自分のl’instant(直感)にしたがって、
琴線に触れるものを、
Le discernement(判断力)とともに、
突き詰めていく。
1970年にカントにより刊行された哲学書、
Kritik der Urteilskraft(『判断力批判』)は、
今でも、芸術理論に大きな影響を与えている。
この本の前半部「美的判断力の批判」で、
カントは、
「趣味」判断の分析というものを行っている。
ここでいう「趣味」とは、
hobbyではなく、tasteという訳で、
何かを美しいと感じる気持ちのこと。
彼によれば、
趣味判断は認識判断とは異なり、
対象の性質に左右されることがない。
しかし、
「共通感」という前提のもとでのみ、
趣味判断は可能なのである。
趣味判断は、共通感(我々の言う共通感とは、外感のことではなくて、我々の認識能力〔構想力と悟性〕の自由な遊びから生じる結果のことである)が存在するという前提のもとでのみ――いま一度言うが、かかる共通感という前提のもとでのみ、可能なのである。
(引用:カント(1790=1964)『判断力批判』、篠田英雄訳、岩波文庫.)

いわば、共通感とは、
他人と普遍化できる可能性の状態、
つまり、
非常にユニバーサルな状態と言える。
30日後、
世の中の美しいものたちに出会い続け、
2冊目のノートが終了する頃、
自分が「美しい」と感じたものを掘り下げながら、
自分が「美しい」と思う感覚で、
映像、写真を撮影し、
テキストと共に、
作品を創った。
先週扱った、
オートフィクション」という言葉を手がかりに、
どこまで、自分と親密な作品を創れるかを目指した。
自分にとっての「美しい」を探した。
ただ、振り返ってみると、
カントが言うように、
個人的な「美しさ」なんて、
存在しないのだと気づく。
主観的普遍性を前提に成り立つ、
「美しい」と感じる気持ち自体が、
「私」と「美しい」ものとの関係を、
「私」の中だけに、
とどめておくことができないのだから。
言葉にするのは、
とても難しいのだけれど、
映画を観るにしても、
本を読むにしても、
演劇を観るにしても、
ダンスを観るにしても、
音楽を聴くにしても、
このスタージュ以降、
やたら「広大」なのである。
どうしても、
「広大」なのだ。
広々とした ・ 広大無辺な ・ 限りない ・ どこまでも広がる ・ 無限の ・ どこまでも続く ・ 果てしなく広がる ・ 果てしなく続く ・ 広大無辺の ・ 広い ・ 広々の ・ 宏大な ・ 広漠とした ・ 茫漠とした ・ 雄大な ・ 芒洋とした ・ 広漠な ・ だだっ広い ・ 漠々たる…
自分の外に広がっていくことは、
自分の中に広がっていくこと。
自分の中に広がっていくことは、
自分の外に広がっていくこと。
極めつけは、
最終日に、取り扱った二人のアーティストだった。
パリの現代アーティスト:ジョルジュ・ルース
http://www.georgesrousse.com/
彼は、廃墟となった建物に、
カメラの視点からのみ完成する
絵を描き、記憶を封印していく。
震災後、宮城にて、
アートプロジェクトも行っている。
ジョルジュ・ルース アートプロジェクト in 宮城
<



あるひとつの視点によってのみ、
浮かび上がる形。
一歩でもずれたら、
もう何も見えない。
そして、もうひとりは、パブロ・ヴァルブエナ。
http://http://www.pablovalbuena.com/

N 520437 E 041900 [the hague city hall] from pablo valbuena on Vimeo.

スペイン生まれのアーティストで、
今は南フランスを拠点に活動している。
映像をミニマルに駆使しながら、
空間と時間を自由自在に動かしていく。
見えているもの、
見えていないもの。
見たいもの、
見たくないもの。
いろいろあるけど、
一番強いのは、
「見えてしまうもの」
無理して変わる必要なんてない。
無理して変える必要なんてない。
だって、
世界が変わるから、
わたしも変わる。

あなたの知らないところで、自分の作品が生まれているかも2014

舞台におけるビデオワークスタージュ、
第3週目。
今週の課題は、「オートフィクション」
「自己」の意味を持つ、
ドキュメンタリー要素が強い言葉”auto”と、
フィクションという言葉が合体した、
何とも矛盾する言葉。
要は、Autoportrait(自画像、自伝)でありながら、
あくまでもFiction(虚構)を維持するということ。
イギリスの劇作家、Danis Kelly(デニス・ケリー)『ラブ・アンド・マネー』の中のモノローグを、
それぞれに与えられ、
各自が撮影した、写真、ビデオ、
そして、音、音楽などを使って、
個人で作品を創作する。
ちなみに、デニス・ケリー作品のドラマツルギーは、
フランスでも、
現代戯曲界でも、
かなりの敬意を受けているそう。
そもそも、イギリス人の戯曲に関する、
ドラマツルギーの精度の高さは、
ドイツとはまた違った意味で、
抜群と言われている。
デニス・ケリーに関して言うなら、
ミュージカル、テレビドラマ、演劇、さらには、映画の脚本まで、
手がけている、凄腕。
フランスでも公開されている、
彼が脚本を手がけたテレビドラマ『Utopia(ユートピア)』は、
世代問わず、アーティストから抜群の支持を受けているそう。
映像の取り方も、ドラマとは思えない斬新さ。


彼以外では、
フランスの国際演劇マーケットで、
Mike Bartlett
Martin Crimp
は、絶対に押さえておきたいイギリス人劇作家である。
今回の課題における、
「オートフィクション」の拘束はというと、
自分が書いたものではない、
つまり、他人のストーリーを素材として、
自分を埋め込んでいくというもの。
基本的に、
創作前の質問は、
あまり受け付けてもらえず、
とりあえず、やってごらん、という感じで、
技術スタッフとの打ち合わせを含め、
丸一日の猶予が与えられる。
もちろん、
映画に使うようなビデオカメラを用いたり、
スタジオを使っての撮影も可能だが、
「オートフィクション」の定義をクリアにしない限り、
アイディア先攻の作品になってしまう。
「なんで、アーティストやってるの?
アーティストとして、何が言いたいの?」
だけを、問われ続けてきた2週間だったので、
コンセプト、つまり、「核」の部分がすかすかな作品は、
すぐ見抜かれる。
そもそも、オートフィクションという言葉は、
フランス人小説家Serge Doubrovsky(セルジュ・ドゥブロフスキー)が、
最初に用いた言葉で、
彼がこの手法を用いて書いた『Fils(息子)』という作品で、
次のように、オートフィクションを定義している。
(前略)
それは出会い、言葉の繋がりであり、
頭韻、押韻、不調和であり、
文学に先行あるいは追随するエクリチュールであり、
言ってみれば音楽のように具体的なエクリチュールである。
あるいはまた、自分の快感を人に伝えようとして
根気強く自慰行為にふけるオートフリクションなのである。
 (引用
そもそも、性行為というものは、
他者を必要とするものなので、
多かれ少なかれ、
両者がその悦びを分かち合うものである。
しかし、この定義の面白いところは、
他者を介さない自慰行為というものに関して、
そもそも、他者とは分かちあうことのできない悦びを、
他者にわかってもらおうという、
なんとも押し付けがましい行為なのである。
彼が、最後につかっている言葉、
フリクション(friction)はラテン語で、
「こすること」を意味する単語。
生半可に、こすっていたのでは、
決して生まれることのない、
本人にとっても、
奇跡的な快楽の場所を、
探し続ける行為なのである。
そして、
この場所こそが、
auto(自己)が、
frictionを介して、
fictionに出会う場所であり、
fictionが介在することで、
アート作品として、
他人が享受する価値のあるものに生まれ変わるのだと思う。
このように考えていくと、
現代社会において、
オートフィクションの種、
つまり、
オートフリクションは、
あらゆるところに巻かれている。
facebookに載せる写真を選ぶことだったり、
スカイプ時に、自分の写りを調節したり、
ケータイで自撮りすることだったり、
twitterのつぶやきだったり。
おそらく、タイムラインを辿って、
過去にさかのぼっていくと、
自分でも気づいてなかったオートフィクションが生まれているかも。
学校生活1年目は、
困難と達成のくりかえしで、
七転八倒な、
ダイナミックな毎日を送っていたけど、
2年目は、
地味だ。
果てしなく、地味。
ただ、極上にポジティブで贅沢な「地味」な期間。
ひとつの言葉との出会いが、
じわじわと身体に浸透していくことで、
回りの世界が変わっていく感じ。
私は、このオートフィクションという言葉に出会ってから、
本を読むのも、
映画を見るのも、
舞台を観るのも、
完全に視野が変わった。
だから、最近は、
昔、読んだ作品を読み返したりすることが楽しかったりする。
クラスメート10人のオートフィクションをみて、
改めて、『みんなちがって、みんないい』(金子みすず)と思えたし、
一つの戯曲が、
11色に染められて、
眩しい時間だった。
他の子たちは、
ciné-théâtre(シネテアトル)の課題に移行したけれど、
オートフィクションに完全に、
ハートを掴まれた私は、
他のテキストで、
この他に2作品、
テクニックを駆使した、
パフォーマンス作品を創ることになった。
「地味」の期間に突入してからは、
人と比べることなく、
自分のやりたいこと、
じぶんに、
惜しみなく時間を注ぐことができる。
ありがとう、
マイ「地味」デイズ。

眼球の限界と、新プロジェクトのお知らせ。

果てしない興味と取り返せない怠惰のため、
いっこうに減らない、
必須映画リストと、
テキストの山。
1日1冊、戯曲を読み、
プロジェクションとコンピューターの画面を、
ほぼ1日中、眺め続ける生活を送った結果、
眼球に事件が勃発。
金曜日、コンタクトをとろうと、
トイレで鏡をみたら、
白目のところに、
直径1㎜ほどの真っ赤な血の固まりのようなものを発見。
失明するのかと思い込み、
貧血で倒れる。
子どもの頃、
パイプ椅子に指を挟んで真っ青になった時も、
歯医者でアルバイトをして、
自分の手に麻酔を誤って刺してしまった時も、
貧血で倒れた。
その結果、
『バトル・ロワイヤル』を読んだとき、
確実に一番最初に、
私が死ぬな、と思ったことを覚えている。
目の疲れにより、
充血が悪化したもののようで、
とにかく、睡眠を良くとるように言われる。
この学校には、救急車が、年に最低4回は来ると言われているので、
自分の健康には、
しっかりと責任を持つべきだと、
改めて身を引き締める。
先週は、毎日、
ひとつの話題に対して、
3時間に及ぶディスカッションが続いた。
演出家が一貫して、
言い続けたこと。
アーティストの仕事は、
世の中を、to reveal 明らかにしていくことであって、
to denounce 告発していくことではない。
つまり、より中立な立場を必要とするからこそ、
物事に対して、
徹底した追求を要する。
社会的な話題、
政治的な話題、
個人的な話題、
宗教的な話題、
ありとあらゆることがらを、
知る、
向き合う、
個人的見解、
他者との相違、
そして、
ディスカッション。
この繰り返し。
社会問題に疎い私には、
新鮮でもあり、
苦痛でもあった。
逆に、
家族や恋人の関係など、
自分にとっては身近なテーマが、
他の人の目には、
珍しく映ったりしたこともあった。
今回のスタージュの一番のテーマである、
ビデオカメラの役割も、
全く一緒。
「世の中を、to reveal 明らかにしていくことであって、
 to denounce 告発していくことではない。」
昨年観た映画の中で、
特に記憶に残っているのは、
東京国際映画祭グランプリ作品、
『もうひとりの息子』


そして、第66回カンヌ映画祭審査員特別賞受賞作品、
『そして父になる』

新生児取り違え事件という、
同じテーマを持つ、
二つの作品。
イスラエルとパレスチナが舞台の、
『もうひとりの息子』では、
宗教や政治的な問題が浮き彫りになっており、
日本が舞台の、
『そして父になる』では、
焦点はぐっと個人的なところにあてられている。
家庭環境、子育ての方針、などなど。
この二つの作品を、
ほぼ同時期に観れたことは、
世界をみる上で大きな役に立った。
そして、
私が育ってきた環境というものが、
改めて、「当たり前」でも、
かつ、「特殊」なものでもなく、
無数の価値観のうちの一つなのだということを実感することができた。
日本と世界、
改め、
世界の中の日本。
日々、
自分の価値観とは、全く異なる価値観に出会ったり、
自分の関心とは、全く異なる関心に出会ったり、
自分の信じていたものが、崩壊しそうになったり、
自分と関係ないと思っていたものに、隣りにいる人の一番の問題だったり。
「揺らぐ」なかで、生きることは、
どうにも歩きにくくて仕方がない。
足下がわるい。
ただ、
「揺らぐ」ことなしには、
問うことを忘れてしまう。
疑うことも忘れてしまう。
そんなこんなで、
すこし、
「揺らぎ疲れ」を感じながらも、
揺らぎ続けることを怠らないように、
架空の個人団体、mill.co.runの新プロジェクト開始。
その名も、『理想と思想』
思わず目が離せなくなるような吸引力を持った「理想」と、
それを深いところから、がっちり支える「思想」を持った、
強度の高い「揺らぎ」力を持った作品に出会ったとき。
その「揺らいだ」感覚を、
覚えておくために、『理想と思想』と共に、
記述していくページをつくりました。
facebookをやっている方は、
参加してもらえたら嬉しいです。
mill.co.run新プロジェクト『理想と思想』
https://www.facebook.com/mill.co.run?ref=bookmarks

KYOKO’S NOTEBOOK VOL.1

番外編として、
「アート開拓」の時間に扱ったアーティストの中で、
特に、自分の中で記憶しておきたいものを、
書くことにしました。
基本的に、
授業中は、フランス語と日本語でノートを取っているのですが、
理解があやふやな時に限って、
フランス語を使うくせがあるので、
日本語で書き直し。
1, 『Le parc (公園)』 Kohei YOSHIYUKI (吉行耕平) 1946-
こうえ3
こうえ2
こうえ
今年のアルルの国際写真フェスティバルLes Rencontres d’Arles 2014にて、
出会った作品。
吉行氏は、広島出身の写真家。
72年、夜の公園に集うカップルやそれを覗き見る人々を赤外線フィルムで撮影を始める。
2007年ニューヨークにて個展「The Park」を開催。
これを機に、世界各国で作品が発表されるようになる。
フランスでも、写真に詳しい人なら、
『Le parc (公園)』のシリーズは、大変有名だそう。
2, Bernd and Hilla BECHER (ベッヒャー夫妻/ベルント・ベッヒャー、ヒラ・ベッヒャー)1931-2007
べや2
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べや
ベルント・ベッヒャー氏は1931年生まれ。
デュセルドルフ美術アカデミー在学中に将来の妻、ヒラ氏に出会う。
1959年から、二人で、給水塔、冷却塔、溶鉱炉、車庫、鉱山の発掘塔など
ドイツ近代産業の遺物的な建造物の撮影を始める。
1976年から、母校でもあるデュセルドルフ美術アカデミーにて、
教壇をとる。
たくさんのアーティストを排出したことでも有名になる。
アンドレアス・グルスキー、
トーマス・シュトゥルート、
トーマス・ルフ、
カンディダ・ヘーファーらを総称して、
ベッヒャー派と呼ぶ。
3, Pawel KUCZYNSKI 1976-
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ポーランド出身の画家、イラストレーター。風刺画のような作風が特徴。
http://www.spi0n.com/72-illustrations-satiriques-de-pawel-kuczynski/
facebook:https://www.facebook.com/pages/Pawel-Kuczynski/222849284410325
4, Lu Cong (ル・コン)1978-
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1978年、上海に生まれる。
11歳のときにアメリカへ移住する。
大学で生物と美術を学んだ後、
医学に関するポートレートを描き始める。
http://lucong.tumblr.com/
5, 『The Cave(洞窟)』Steve REICH (スティーブ・ライヒ) 1936-


ミニマルミュージックを代表するアメリカの作曲家。
ヨーロッパでは、舞台芸術への楽曲提供も数多く手がける。
大学では、哲学科で学士号を取得。
1993年には、ライヒは妻で映像作家でもあるベリル・コロットと
『ザ・ケイヴ』においてコラボレーションを行う。
この作品で、彼は、多くの人へのインタビューをもとに、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のルーツを探る。
これらの素材をもとに、映像と音楽で表現した。
6, 『Triumph des Willens(意思の勝利)』(1934) Leni Riefenstahi(レニ・リーフェンシュタール)監督

最近私が凝っている本、
『観ずに死ねるか ! 傑作ドキュメンタリー88 』において、
二階堂ふみ氏が推薦したいた作品でもある。
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元ダンサー出身のレニ・リーフェンシュタールは、
ドイツの映画監督であり、写真家でもあった。
ナチス政権下のドイツで製作されたこの映画は、
彼女が主演・監督を務めた『青の光』に
感銘を受けたヒトラー本人から直接彼女に依頼され、
ナチ党の全国大会を記録したもの。

製作に使用されたカメラは16台、
スタッフは100人以上、
撮影フィルムは60時間分に渡る。
最高級の映像美を生み出した一方で、
ヒトラーを神格化する「ナチスの協力者」として、
長い間、非難される。
7, 『Dogme95(ドグマ95)』1995
最近、新作『ニンフォマニアック』が日本でも公開され、
話題になったデンマークの映画監督ラース・フォン・トリアーら
によって、始められた映画救済運動。

1990年代、特殊効果や特殊撮影を使った映画撮影が主流になりつつあっところに、
ラース・フォン・トリアー、トマス・ヴィンターベア、ソーレン・クラーク=ヤコブセン、クリスチャン・レヴリングの4名によって設立されたもの。
純潔の誓い
1. すべてロケーション撮影によって行う。小道具やセットは、現場にあるものを利用する。
2. BGM などの挿入音楽やサウンドエフェクトは使ってはならない。
3. カメラは手持ちカメラでの撮影に限る。
4. カラー映画で制作。一切の照明器具の使用は禁止。
5. オプティカル処理とフィルター使用は認めない。
6. 物語の上で殺人や爆弾などの表面的な表現は含んではならない。
7. 時間的や地理的な乖離は許されない。(映画は常に現在の事象であり、回想シーンなどの使用は禁止)
8. ジャンルに従った映画は禁止。
9. フィルムはアカデミー35mmを使用。
10. 監督はクレジットに載せてはいけない。
(以下のサイトから引用:http://www.ukadapta.com/contents/Art/Art_Film_Dogme95.html
この誓いを守って撮影された記念すべき第一作目は、
トマス・ヴィンターベア監督作品『The Celebration』(FESTEN)
1998年カンヌ国際映画祭審査員特別賞。

そして、ラース・フォン・トリアー監督作品『The Idiots』
こちらも、1998年カンヌ国際映画祭パルムドール賞にノミネートされている。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』からは想像もつかない質感にびっくり。

『Dogville』の舞台装置は演劇人にはたまらなかった。
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なんの脈絡もないセレクションですが、
あくまでもノートですので、
ご容赦を。