KYOKO’S NOTEBOOK VOL.1

番外編として、
「アート開拓」の時間に扱ったアーティストの中で、
特に、自分の中で記憶しておきたいものを、
書くことにしました。
基本的に、
授業中は、フランス語と日本語でノートを取っているのですが、
理解があやふやな時に限って、
フランス語を使うくせがあるので、
日本語で書き直し。
1, 『Le parc (公園)』 Kohei YOSHIYUKI (吉行耕平) 1946-
こうえ3
こうえ2
こうえ
今年のアルルの国際写真フェスティバルLes Rencontres d’Arles 2014にて、
出会った作品。
吉行氏は、広島出身の写真家。
72年、夜の公園に集うカップルやそれを覗き見る人々を赤外線フィルムで撮影を始める。
2007年ニューヨークにて個展「The Park」を開催。
これを機に、世界各国で作品が発表されるようになる。
フランスでも、写真に詳しい人なら、
『Le parc (公園)』のシリーズは、大変有名だそう。
2, Bernd and Hilla BECHER (ベッヒャー夫妻/ベルント・ベッヒャー、ヒラ・ベッヒャー)1931-2007
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べや
ベルント・ベッヒャー氏は1931年生まれ。
デュセルドルフ美術アカデミー在学中に将来の妻、ヒラ氏に出会う。
1959年から、二人で、給水塔、冷却塔、溶鉱炉、車庫、鉱山の発掘塔など
ドイツ近代産業の遺物的な建造物の撮影を始める。
1976年から、母校でもあるデュセルドルフ美術アカデミーにて、
教壇をとる。
たくさんのアーティストを排出したことでも有名になる。
アンドレアス・グルスキー、
トーマス・シュトゥルート、
トーマス・ルフ、
カンディダ・ヘーファーらを総称して、
ベッヒャー派と呼ぶ。
3, Pawel KUCZYNSKI 1976-
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ポーランド出身の画家、イラストレーター。風刺画のような作風が特徴。
http://www.spi0n.com/72-illustrations-satiriques-de-pawel-kuczynski/
facebook:https://www.facebook.com/pages/Pawel-Kuczynski/222849284410325
4, Lu Cong (ル・コン)1978-
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1978年、上海に生まれる。
11歳のときにアメリカへ移住する。
大学で生物と美術を学んだ後、
医学に関するポートレートを描き始める。
http://lucong.tumblr.com/
5, 『The Cave(洞窟)』Steve REICH (スティーブ・ライヒ) 1936-


ミニマルミュージックを代表するアメリカの作曲家。
ヨーロッパでは、舞台芸術への楽曲提供も数多く手がける。
大学では、哲学科で学士号を取得。
1993年には、ライヒは妻で映像作家でもあるベリル・コロットと
『ザ・ケイヴ』においてコラボレーションを行う。
この作品で、彼は、多くの人へのインタビューをもとに、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のルーツを探る。
これらの素材をもとに、映像と音楽で表現した。
6, 『Triumph des Willens(意思の勝利)』(1934) Leni Riefenstahi(レニ・リーフェンシュタール)監督

最近私が凝っている本、
『観ずに死ねるか ! 傑作ドキュメンタリー88 』において、
二階堂ふみ氏が推薦したいた作品でもある。
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元ダンサー出身のレニ・リーフェンシュタールは、
ドイツの映画監督であり、写真家でもあった。
ナチス政権下のドイツで製作されたこの映画は、
彼女が主演・監督を務めた『青の光』に
感銘を受けたヒトラー本人から直接彼女に依頼され、
ナチ党の全国大会を記録したもの。

製作に使用されたカメラは16台、
スタッフは100人以上、
撮影フィルムは60時間分に渡る。
最高級の映像美を生み出した一方で、
ヒトラーを神格化する「ナチスの協力者」として、
長い間、非難される。
7, 『Dogme95(ドグマ95)』1995
最近、新作『ニンフォマニアック』が日本でも公開され、
話題になったデンマークの映画監督ラース・フォン・トリアーら
によって、始められた映画救済運動。

1990年代、特殊効果や特殊撮影を使った映画撮影が主流になりつつあっところに、
ラース・フォン・トリアー、トマス・ヴィンターベア、ソーレン・クラーク=ヤコブセン、クリスチャン・レヴリングの4名によって設立されたもの。
純潔の誓い
1. すべてロケーション撮影によって行う。小道具やセットは、現場にあるものを利用する。
2. BGM などの挿入音楽やサウンドエフェクトは使ってはならない。
3. カメラは手持ちカメラでの撮影に限る。
4. カラー映画で制作。一切の照明器具の使用は禁止。
5. オプティカル処理とフィルター使用は認めない。
6. 物語の上で殺人や爆弾などの表面的な表現は含んではならない。
7. 時間的や地理的な乖離は許されない。(映画は常に現在の事象であり、回想シーンなどの使用は禁止)
8. ジャンルに従った映画は禁止。
9. フィルムはアカデミー35mmを使用。
10. 監督はクレジットに載せてはいけない。
(以下のサイトから引用:http://www.ukadapta.com/contents/Art/Art_Film_Dogme95.html
この誓いを守って撮影された記念すべき第一作目は、
トマス・ヴィンターベア監督作品『The Celebration』(FESTEN)
1998年カンヌ国際映画祭審査員特別賞。

そして、ラース・フォン・トリアー監督作品『The Idiots』
こちらも、1998年カンヌ国際映画祭パルムドール賞にノミネートされている。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』からは想像もつかない質感にびっくり。

『Dogville』の舞台装置は演劇人にはたまらなかった。
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なんの脈絡もないセレクションですが、
あくまでもノートですので、
ご容赦を。

「赤」にみる、最近の一押し映画3選。

「赤」の取り扱い方がうまい映画は、
それだけで、いい映画のように感じる。
「赤」の発信力には、どこか凄まじいものがある。
おそらく、
それが、
「生」の色であり、
「死」の色であり、
そして、
「愛」の色だからであろう。
最近観た、
とっておきの3本の映画の「赤」も、
私の中で、
時間の経過とともに、
色あせるどころか、
ますます、鮮やかにうごめき回っている。
1作目。
先日、日本で公開になった、
映画『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』


スカーレット・ヨハンソン演じる、
美しすぎるエイリアンが、
余りにもナイーブな空気を漂わせながら、
自らの唇になでつける、
ルージュの「赤」
彼女は、この10年の間に、
40本近い映画に出演しているのですが、
毎回、イメージを完全に変えてくるため、
中盤まで、わからないことが多々。
ウッディー・アレン『マッチ・ポイント』のイメージが強かったからかも。

この人は、
人間が背後に漠然と背負っている過去さえも
変えることをやってのける女優だと思う。
この映画の恐ろしいところは、
完全に時間の感覚を歪ませしまうところ。
上映中、
良くないことだとはわかっていながら、
携帯を鞄の中でそっとつけて、
時間を何回も確認した。
確認せずにはいられなかった。
現実の時間感覚を保っていないと、
このままこの映画にさらわれて、
現実世界に戻ってこられないような恐怖に陥った。
スクリーンが、スクリーンの外にも、
少しずつ浸食して、
側面の壁までも、
スクリーンとなって、
いつのまにか、
映画館の出入り口さえも、
ぐるりと呑み込まれているんじゃないか。
そんな感覚に身体を危ぶまれながらも、
彼女のルージュの「赤」の美しさと、
とろりとした地面から、
一切目を離すことができなかった。
2作目。
映画『2つ目の窓』

ヤギの血を抜くシーンの「赤」に、
この映画の美しさは完全に凝縮されていると思う。
おそらく本物の血だったからだと思うが、
あそこまでスクリーンを通して、
血というものが、
生き生きと、
死よりも、生を感じさせている「赤」を発していたことを、
目にしたことはなかったであろうと思う。
なにもかもが「近い」島での生活。
人と人。
人と動物。
人と自然。
人と命。
そして、
人と死。
生きるということが、
こんなにもシンプルで、儚い。
なにしろ、
死ぬということが、
こんなにもシンプルで、儚いのだから。
それでも、私たちは、
人を愛して、
未来に目を向ける。
彼女のドキュメンタリー『玄牝 -げんぴん-』を思い出す。

一番シンプルな人間の行動、
人間の始まるところと終わるところに、
そっと寄り添い続けた、
河瀬監督な最新作だったと思う。
そして、3作目。
今年の第67回カンヌ国際映画祭において、
ゴダールに並び最年少で審査員賞を受賞した、
Xavier Dolan(グザヴィエ・ドラン)『Mommy』
まだ日本公開は決まってないようなので、
cinemacaféのページをリンクさせて頂きます。
http://www.cinemacafe.net/article/2014/05/28/23702.html

普段、俳優でもある彼は、
自分の映画に主演しているが、
今回は、彼の出演は3分くらいにとどまっている。

ケベック地方のフランス語なので、
フランス語なのに、フランス語の字幕がつく。
フランスでは、今週の水曜日に封切りになってから、
この映画の話題で持ち切りだった。
注意欠陥・多動性障害(ADHD)を持つSteveの母親役には、
2009年に公開された『J’ai tué ma mère 』(マイ・マザー)でも、
グザヴィエ・ドラン演じる主人公の母親役を演じた、アンヌ・ドルヴァル。
この作品でもこのシーンのペンキの「赤」に、
完全に持っていかれた。

『Mommy』の場合は、
彼が母親にキスするシーンのほの暗い赤い光が、
じんわりと呼吸を苦しくさせた。
むしろ、
2時間15分、
全体に渡って、
透き通ったと思ったとたんに、
濁っていくような、
母と息子の「赤」の変化に、
二人のやりとりに思わず吹き出してしまったりしながら、
ラストシーンに向かうまで、
すこしずつ、すこしずつ、
じりじりと、
絶え間なく、
締めつけられていった。
カメラワークも、実に遊びごころに溢れていて、
演劇的だった。
彼の自分の目の前にある「なにか」に対する、
突破の仕方は、
実に気持ちがいい。
彼の作品にも、
余すところなく、
溢れ出ている。
強気にならなきゃいけない時の歌、
ASIA SunRise 『羽』

目の前に現れる壁は
 飛び越えられるものに 現れる
 飛び越えられない 壁はない
 飛び越えてゆくしか 道はない

皆様からのこの映画は「観ずに死ねない!」情報、
随時お待ちしています。

「相対的幸福」から解放されて、目指すところは「超絶対的幸福」!!

2015年度前期の4週間に及ぶ目玉スタージュ、
Cyril TESTEとの舞台におけるビデオワークの授業が始まりました。
自分が日本人でありながら、
この空間にいることに疑問を投げかけられながら始まった、
先週のスタージュ(過去記事:Living Beahavior (生命的行為)へのために、私自ら「実験台」になります。)とは、
打って変わって、
「なんだか、フランス人ばっかで変な感じだなあ。」
という演出家の一言から始まる。
彼は、劇団ではなく、
写真家、役者、作曲家、映像、ドラマツルギー、
などからなるアーティスト集団を組んで、
舞台芸術に取り組んでいる演出家。
ということで、
演劇学校というより、
美術学校(ボザール)や、
ヨーロッパでも1,2を争うと言われている総合芸術研究所Le Fresnoy(フレノワ)などで教えているので、
フランスの国立の学校は、
インターナショナルな環境で当たり前という価値観があるそう。
「確かに、演劇は言葉使うからねー、
でも、しゃべれる言葉でやればいいよねー。」
という綿毛のような言葉に、
先週悩んでいて自分は何だったんだ、と、
思わずたんぽぽが咲く。
いつも、この繰り返し。
だから、やめられない。
2年前に、私たちの一つ上の卒業生と創った作品は、
さまざまな劇場に購入され、
今年から、ツアーが始まります。

Teaser de Nobody, création de Cyril Teste avec les comédiens de l’ENSAD/Maison Louis Jouvet et le collectif MxM from ENSAD Montpellier on Vimeo.

この映像作品は、舞台上に組まれた巨大なセットの中で、
実際に上演しているところを、
5台のカメラを使って、撮影したものです。
つまり、客席で、直接観ている観客には、
スクリーンに映るこの映像と、
実際に、舞台セットの中で動き回る俳優たちの全体図と、
撮影しているカメラが見えているということ。
彼は、このように、
現在進行形の中で、映像を創っていく、
”ciné-théâtre”というプロジェクトを、
行っている人だ。
そして、なんといっても、
大の日本好き。
黒澤明や、小津安二郎は、もちろんのこと、
居酒屋から、
清少納言まで話に出てきてびっくりした。
今週は、毎日、
前半3時間:アート開拓
後半3時間:映像と身体
というプログラムで行われた。
アート開拓というのは、
1, 秘密
2, 家族
3, 仕事場
4, 共同体(コミュニティー)
以上の4つのテーマをもとに、
写真、小説、戯曲、絵画、映像、映画、音楽、彫刻、ダンス、
ありとあら芸術分野から、
自分の観点と一緒にプレゼンするというもの。
モノを捉える方法を幅広くしていくことで、
総合芸術としての演劇の幅を広げていく。
舞台芸術のことだったら負けない自信のある私だけど、
それ以外の分野のアートになると、
一気に知識量が下がる。
それぞれのプレゼン内容や、
クラスメートの反応をみていて、
やはり、フランス人にとって、
アートと娯楽の境界線が限りなく、
あいまいであることを実感させられる。
アートに触れるということが、
お金がかからない行為ということもあると思うし、
ヨーロッパのアートには、
言葉の壁があっても、
国境はないように感じる。
ドイツやイギリス、スペインなどのアーティストも、
自国のアーティストのように話す。
そもそも、アーティストに対して、
自らと同じ国籍か否かという問題があまり重要ではないのかも。
毎日、深夜まで、
WikipediaとGoogleを駆使して、
知らないアーティストたちを検索する5日間であったが、
多数のアーティストが、
何らかの理由で、
「フランス(、もしくはパリ)を拠点に活動」に行き着いていることに気づく。
やはり、
芸術の都と言われるだけのことはある。
授業の一環として、
必ず全員が参加する上映会が催され、
アーティストとして絶対観なきゃいけない映画1作目に選ばれたのは、
なんと、黒沢清『トウキョウソナタ』(2008)


以前私がパリで出演した、
短編映画の監督もこの作品が大好きで、
たくさんの影響を受けたと話していたことを思い出す。
(過去記事:主演短編映画撮影、終了(2)〜「独り」との上手なつき合い方〜
河瀬直美監督にしても、小津監督にしても、
日本映画から学ばないといけない姿勢は、
「待つ姿勢」だという。
何かを起こすのではでなく、
何かが起きることを待つということ。
Observation(観察)の法則。
つまり、
風をどう撮るか。
まずは、
ニーチェの言葉にあるように、
「耳で見て、目で聞けるようになること」
と。
このフレーズがやけに耳に残って、
ニーチェについて調べていたら、
なんと鈴木大拙氏が全く同じことを言っていた。
耳で見て、目で聞く。そうすれば正しく見ることができる。
正しく、真実に、正確に聞くことができるのです。
禅がわれわれに期待するのは、こうした体験です。
でも、あるいは皆さんはおっしゃるかもしれない。
それでは見ないことになってしまうじゃないか、と。

ー『大拙 禅を語る―世界を感動させた三つの英語講演 (CDブック)』より引用
夏休みに、知人に会ったとき、
「ヨーロッパで出会うたくさんの知らないことを、
消化していく過程で、
鈴木大拙あたりが、ふらっと入ってきたら、
最強ですね。」
と、言われて手帳にメモった人だ!!
鈴木大拙は、
禅について、英語で本を書き、
世界に禅の文化を知らしめた偉大な人。
たくさんアンテナはって生きてきたつもりだったのに、
毎日、耳にしたり、目にしたりするものの、
9割が知らないことという環境の中で、
まずは、フランス人が知っていることを網羅しなくては、と、
躍起になっていたけれど、
どうやら、アートに国境も教科書もないようで、
自分が「好き!」と思ったものを探っていくと、
昨日「好き!」と思ったものとつながったり、
「え?」とか、
「まさか!」とか、
「おお!」とか、
「やっぱり!」とか、
思わず声を上げながら、
オリジナル・マップが少しずつ広がっていく。
われわれが耳で聞くと言うとき、
この耳には空間的な場所があって、
五感の一つに数えられます。
明らかに耳のついている場所があります。
目で見ると言うときも同じく、明らかに場所があります。
その耳も目も、ある特定の空間を占有しているからです。
しかし、もし空間を意識すると意識は個別化され、
コチラとかアチラといった一定の方向性をもちます。
そうなると、もはや全体性(totality)は失われます。
自己分裂した状態です。
人格全体はある方向に向かい、もはや全体は”それ自体”ではなくなる。
いわゆる無意識の領域を含むわれわれの意識は、全体性を失う。

ー『大拙 禅を語る―世界を感動させた三つの英語講演 (CDブック)』より引用
おそらく、人間は、
目で見て、耳で聞くことをやめたとき、
今、目に見えているもの、
自分の社会的立場とか、
自分の容姿とか、
自分が人にどう思われているかとか、
そういったものの外側、
もっと遠くに広がる場所に、
アクセスすることができるんだと思う。
仏教用語の『修行』の定義は、まさにそこにある。
おなじみWikipediaより。
財産・名誉・性欲といった人間的な欲望(相対的幸福)から解放され、
生きていること自体に満足感を得られる状態(絶対的幸福)を追求することを指す。

前半は、賛成だけど、
後半は、反対。
「相対的幸福」から解放されて、
「絶対的幸福」をに浸るなんて物足りない!
生きてるだけじゃ満足できない!
目指すところは、
「超絶対的幸福」
つまり、
絶対値を常にあげていくことで、
一生「修行中」ということ。
シングルCDがまだ小さかったころ、
一番好きな歌は、
PUFFY『これが私の生きる道』だった。
http://youtu.be/ixEL1CXwCP0
「まだまだこれからがいいところ
 最後までみていてね
 くれぐれも じゃましないでね」

この厚かましい歌詞に、
子どもながら、罪悪感を感じたことをはっきり覚えている。
でも、今なら、言えちゃう。
私たち、人間は、
欲張りだ。
あえて、今は全く必要のないくらいの大きな紙を選ぶ。
欲張りな私たちには、たくさんの余白が必要。
いつでも、知らないことに出会えるように。

「27クラブ」には加入するべからず。

「27クラブ」というものがあるらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/27クラブ
27歳で他界したミュージシャンたちのことを指す言葉。
あのジャニス・ジョプリンも、27歳で亡くなっているのか。
1970年、彼女が27歳の時のライブ映像。


そして、
私も本日27歳になりました。
25歳を過ぎてから、
再度、学生生活が始まったこともあって、
年齢のことになるとやたら過敏に反応していましたが、
いざ、27歳を羽織ってみると、意外にも居心地がよく、
すぐに身体になじんだのでびっくりした。
こんな感覚は覚えた誕生日は、おそらく初めて。
一昨年から、
大好きなAmerican Apparelで買ったブルーのミニスカートを、
誕生日のコーディネートにしている。
買った時から、ちょっときつめだったので、
今年もまだウエストが入るか、
今年もまだ似合うか、
以上の2点が鑑定基準。
自分の言ったことさえ、
すぐに忘れてしまうような、
「継続」なんていう言葉とはほど遠い、
常に現在形な私だけれど、
服の趣味と演劇が好きなことだけは、
唯一、変わらないことだと言える。
27歳。
多くのスターが亡くなった年。
27歳。
スターではない私の
今までに叶った夢は、
まだ一つしかないから、
当分死ぬわけにはいかないなあ、と思う。
27歳。
なんだか、自由になった気がするのは、
自分を所有しているのは、
自分だという感覚が宿ってきたせいなのか。
例えば、早寝早起きが美徳とされている社会に育ってきて、
早寝早起きを当たり前のようにしてきたけど、
今は、遅寝遅起きも経験した上で、
最終的に自分にはより効果的と思われる、
早寝早起きを「選択」している。
この「選択肢」の幅の広がりこそが、
自由につながっているのだと思う。
いままで、
「やらなければならなかった」ことも、
「やった方が好ましかった」ことも、
「やらない方がよかった」ことも、
「やってはいけなかった」ことも、
すべて、自分で「選択」することで、
「やりたい」ことか、
「やりたくない」ことの、
2択に生まれ変わる。
なんて、自由なんだろう。
フランスで、演劇を始めて、
一番大きく意識を変えられたことは、
「俳優誰しもが、自分専用の演出家になる必要がある」
ということ。
今年のフェスティバル・アビニョンのディレクターを
務めたオリヴィエ・ピィは、
フェスティバル中に開催された講演会のなかで、
演出家として、俳優との関わり方を以下のように話していた。
「演出家が、俳優の演技指導をするなんて、もってのほか。
それは、俳優に対しても冒涜である。
それは、俳優の仕事だから。
それに対して、こちらは、演出家としての仕事を行う。
ここに、コラボレーションが生まれる。
むしろ、演技指導が必要な俳優とは、仕事はできないであろう。」
最近、この話は、
日々の生活にも、
そっくりそのまま当てはまるな、と感じる。
つまり、一人一人が、
それぞれのライフ・スタイルの
ライフ・コーディネーターになる、
むしろ、なることができる、ということ。
そして、その上で、他者との関係を築いていくということ。
この仕事は、おそらく、
年をとればとるほど、
面白くなってくる。
年をとればとるほど、
バリエーション溢れる「選択肢」を提案できるようになるから。
すべてのことがらを、
「やりたい」か、
「やりたくない」に変換していけるように。
27歳。
まだまだ人生全然生き足りない私は、
「アーティスト」らしくないと言われても、
よく寝て、
よく食べて、
よく動いて、
そして、
お酒はほどほどに、
そんな当たり前のことも、
「やりたい」こと。
いつまでたっても甘やかされることが大好きな自分への誕生日プレゼントは、
大好きなMarimekkoの枕カバー。
まりめっこ
P.S.
日本時間で8日になった瞬間から、
「おめでとう」があったので、
時差7時間分余計に、
誕生日を過ごせて、
ラッキーだった。
ありがとう。
そして、学校のフランス人たちは、
翻訳サイトで調べたらしき、
宇宙人みたいな、
「オタンジョウビ オメデトウ ゴザイマス」
を、くちぐちに言われた。
メルシー。

Living Beahavior (生命的行為)へのために、私自ら「実験台」になります。

子どもの頃、
「仲間はずれ」を探す絵本があった。
動物や、人間や、機械や、乗り物などの種類別に、
「仲間はずれ」の絵を探す本。
今、思うと、
これからのあなたたちの人生、
必ず「仲間はずれ」になる瞬間が、
訪れるよ、
と示唆されていたようで、
すこし不気味に感じる。
「仲間はずれ」、
言葉を変えて、
あるコミュニティーにおいて、
マイノリティーになることは、
確かに、
誰にも訪れること。
マイノリティーの辛いところは、
人と競争ができないことで、
マイノリティーの良いところも、
人と競争ができないことであると思う。
さて、昨年から続いている、
『超難解テキストに挑む地獄の5日間スタージュ』vol.3が、
(前回ブログ記事:まだまだ「ひよっこ」な私と、声が出なくなったときの秘密の対処法
いろいろあって、
私だけ、「6日間」になって終了しました。
授業時間は、
毎日10時から22時半、
クラスを半分に分けて、
二人の先生について、行われるので、
なんと6人きりで受講。
スタージュが始まる前の週末に、
私に渡されたテキストは、
フランスで演劇をやる上で、
決して避けて通ることのできない韻文詩、アレクサンドランの代表作、
ラシーヌ『フェードル』
(アレクサンドランについて:私の「悲劇」と、ラシーヌの「悲劇」について
そして、ドイツの文学賞、ビューヒナー賞でもおなじみの、
ゲオルク・ビューヒナー『ダントンの死』
オペラ『ヴォイツェック』で、知っている人も多いと思います。
彼は、革命家でもあり、逃亡生活を続けながら、
23歳のその短い生涯を終える間に、
なんと3作の戯曲と、1作の小説を書きあげました。
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『ヴォイツェク』『ダントンの死』『レンツ』(岩波文庫)
4ページにも渡る、ラシーヌのモノローグに、
度肝を抜かした私は、
学校のディレクターに、
ビューヒナーから、始めた方がいいよね?
と相談すると、
人生は、無駄な方へ、無駄な方へ、選んでいくべき。
と、謎の名言を告げられ、
つまり、私の演劇キャリアにおいて、
ほぼ100%、ラシーヌ戯曲を演じることはないだろうから、
ラシーヌを選択。
ここは、学校。
いかに一見無駄と思えることに、
利益を顧みず、
死ぬ気で打ち込めるか。
そして、
台詞を覚え始める。
それにしても、ワンフレーズのうちに、
知っている言葉が、2,3個しかない。
精一杯準備をして、
ようやくすらすら読めるくらいにはなった状態で、
1日目スタート。
初日から、ほぼ全員が台詞を覚えてきて、
さらに、演出プランを添えて、
舞台で発表。
私は、読むだけで精一杯。
そこで、
昨年から、個人レッスンまでしていて、
私のことをよく知っている今回のスタージュの先生から、
衝撃の一言。
「あなたの女優のキャリアにおいて、
女優を続けてほしいから言うのだけれど、
フランス語で演じることが果たしていいことなのか、
最近わからなくなる。」
それは、私も、みんなも思っているけど、
言葉にしてしまうと、
どうにも取り返しがつかないよ、先生。
と、思いながら、
絶望。
ただ、昨年1年間、頻繁に絶望していたので、
楽観的に絶望する術を手に入れた。
問うな、動け。
2年近く前から、
大好きなラッパー(私にとっては思想家)、
24歳でこの世を去った不可思議/wonderboyの公開が決定した。
映画Living Behavior 不可思議/wonderboy 人生の記録


監督はなんと、
PerfumeのPVを手がける関和亮監督。
彼が谷川俊太郎氏の『生きる』という詩を、
ラップにしたことから、
谷川氏本人もこの映画に出演しているのですが、
谷川氏が彼のパフォーマンスを見て、
言った言葉。
「イギリスの哲学者で“世の中には2種類の行為がある”と言った人がいてね、
彼は“世の中のすべての行為を、
Death Avoiding Behavior (死回避行為)と
Living Beahavior (生命的行為)”に分けて説明したんだ。
僕の解釈では、
現代人の多くは生活優先のDeath Avoiding Behaviorで生きてしまっているんだけど、
不可思議くんのラップはまさにLiving Beahaviorを体現している。
だから感じてしまうものがあるんじゃないかな」
Living Beahaviorで生きること、
つまり、「仲間はずれ」ではない、
一部のコミニティーの中だけではない、
本物のマイノリティーを生きることだと思う。
そして、
それは、自らの人生を実験台にすることだと思う。
ただ、
実験と言っても、
人生は一回限りだから、
すごく怖い。
私が今やろうとしていることを、
意味があるのかわからない、と言われ、
(初めてのことではないけれど、)
私もわからないと答える。
ただ、人生の成功のために、全力を捧げるのではなく、
「実験」の成功のためだけに、全力を捧げたい。
だから、
去年は、
悲しいことがあったら、
泣いて、特別扱いしてもらう手段を取ったけど、
これは、フェアな「実験」方法ではなかったかな。
最終日、
やっぱりこれら2作品の超難解テキストを覚えて、
演技するところまで持っていくのは、
私には、手が届かなかった。
覚えたての台詞に、
私の舞台でのプランをめちゃくちゃにされた。
テキストの解釈、
そして、自分という役者を扱う、
演出家としてのプランはあったのに、
それを体現する、
役者としての力量がついていかなかった。
泣いて、
この悔しい想いを次に活かそう、
なんて、
甘っちょろい考えは、
もう許されない。
なぜなら、
私たちは、2年生で、
時間が過ぎていくスピードは、
私たちの夢の大きさに対して、
余りにも速いことを知っているから。
「台詞を所有するまでに、
今の私には、多大な時間が必要なので、
ここまでやったけど、
演劇的なところまで行けずに、
このままでは、終われません。」
と、言ってみる。
自分の厚かましさに、
自分でもびっくり。
休憩中に、先生から、
電話があり、
「明日は、あなたに時間を取ることが適当だと思う」
と言われる。
ということで、
土曜日、
私は補習授業。
2時間以上、
舞台を使って、
マンツーマンでシーンをつくっていき、
ようやく演劇の入り口にたどり着けた気分。
今年は、
このブログで、
「泣きました」と書くことが、少なくなって、
少しでも「実験」成功に近づけるように。
「本物のマイノリティー」を考えながら、
一週間を過ごしていたら、
素敵な写真集に出会った。
『Echolilia/Sometimes I Wonder』
アメリカの写真家のティモシー・アーチボルドさんが、
自閉症スペクトラム障害を持つ息子さんを3年間取り続けたもの。
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人と違うこと、
私にとっては、
やっぱり、
人と競争できない、
つまり、
つまり比べられない、
という違いくらいしか見当たらない。
「BAZOOKA!!!」の高校生ラップ選手権にも、
自閉症の男の子が出場していたことを思い出して、
検索してみたら、
ビックなラッパーになっていて、
とても嬉しく思った。
GOMESS
(まさかの、不可思議/wonderboyと同じ音楽事務所)
そして、彼も「本物のマイノリティー」になっていた。

普通じゃねえって並はずれてる 皆が言ってる障害者のクズです
バカにしてる 鴨にしてる あいつは頭がイカレテル
my name is gomess 人間じゃねえ 孤独の世界からいつも見てる
笑って 泣いて 怒って 泣いて ヒトに紛れてもう18年