FTAの最終演目は、ブラジル人の振付家、リア・ロドリゲスがコロナに制作した作品『ENCANTADO』。

注目作品観劇の数日前に、アーティストと観客のトークが予定されていた。FTAのディレクターふたりは、国際芸術祭という場において、メディエーションプログラム(アーティストトークやワークショップ)の存在は、公演プログラムと同じくらい重要だと話していた。実際、先住民の問題をはじめ、作品が生まれたコミュニティーの文脈を理解していないと、なかなか作品にうまく触れられないということは、往々としてあった。文脈がないと、鑑賞体験がただの「好き」か「嫌い」に留まってしまい、それは、分断を助長することにほかならない。だからこそ、国際芸術祭は、観客が作品の文脈を理解するためのケアを決して忘れない。
実際、私も、観劇以上に、メディエーションプログラムのとりこになっている。アーティストの住んでいるコミュニティーの話を聞くだけで、作品が違って見えてくるから、不思議だ。
リア・ロドリゲスが、アーティストトークで重点的に話したのは、Privilege(特権、優遇)とResposability(責任)に関して。
彼女は、20年前、ブラジルのスラム街、マレ地区にクリエイティブセンターとダンススクールの設立したことでも有名だが、それは、自身が、中流階級のシスジェンダーである白人女性であるというこに対して生じる特権にたいしての責任を果たすためだという。
この「Privilege」という単語は、私たちのグループでのディスカッションでも度々話題になった。実際今年のグループは非常に多様性に富んでいて、国籍、ジェンダー 、人種、階層など、多角的にそれぞれが自分が持っている「Privilege」に気づくこととなる。私たちは、マジョリティーにいる限り、自身が積み上げてきたものや経験と関係なく、単に自分が属するグループのおかげで社会的に優遇されてきた、という事実自体に気づかないことが多い。
リア・ロドリゲスは、ある文脈において、自分は相手より優遇されていると気づいたとき、卑屈になったり、罪悪感を感じるのではなく、そこに生じる「責任」を果たすのみだ、と言っているのだ。
彼女が自分がもつ「優遇」に対してとった「責任」とは、行動すること。アーティストが普段行かないような場所で、自分とは違う考えを持つ人々と出会い、同盟を結ぶこと。その行動の過程で、彼女が一番大切にしているキーワードが「ズレ」と「脱中心化」だそうだ。
リア・ロドリゲスのトークにいたく関係を受けたメキシコ人のアーティストが、私たちの2週間におよぶプログラム最終日に、「特権と責任」というエクササイズを考案してきた。まずは、1分間、それぞれが自分の持っている特権について考える。それは、自分にとってごくごく当たり前のことでいい。例えば、日本人である、とか、電気が使える、とか、字が読める、とか、フランス語が話せる、などなど。その特権を、ジェスチャーに置き換え、身体を動かしてみる。そのあと、グループの前で、「私は優遇されている。なぜなら(特権をもっていること)することができる。だから(その特権に生じる責任として社会に還元できること)をしようと思う。」というフォーマットに当てはめて、自分が優遇されているからこそ気づいていない格差や不平等に意識的になろうというもの。
そして、フェスティバル最終日に観た『ENCANTADO』。頭で考えることを一切拒否するようなエネルギーと破壊力で、ただただ、パフォーマンスに飲み込まれていた。彼らにしか出せないであろう身体がそこにくっきりと、そして鮮やかに提示されていた。今年67歳になるリア・ロドリゲスの「責任」をめぐる行動はまだまだ続く。
リア・ロドリゲスが1992年にスタートさせたブラジルのコンテンポラリー・ダンスの祭典「パノラマ・フェスティバル」に関して:https://performingarts.jpf.go.jp/J/pre_interview/1202/1.html