【FTA2023】障害者っていう言葉をつかうのやめない?

芸術批評を行う際の言語的リテラシーを振り返る機会に何度も遭遇する。本日は、「障害者」及び「知的障害者」という言葉に関して。前日に見た作品の中で、健常者が障害者を演じている演出があり、グループで議論が巻き起こった。私も、文化の盗用に伴う非常に強い違和感を感じ、バック・トゥ・バック・シアターの観劇体験を踏まえ、自分の考えを述べた。知的障害を持つ方を称するときに、実際に舞台で使用されていた「メンタル・ハンディーキャップ(英:disability )」という言葉を使い、グループで議論していたのだが、ハンディーキャップという言葉が想起させてしまう、ヒエラルキーの構造や健常者と障害者を隔てるニュアンスに違和感があるという意見があり、あるアーティストから、「ニューロ・ダイバーシティ」という言葉を使おうという提案があった。

「ニューロ・ダイバーシティー」とは、neuro(脳)とdiversity(多様性)を組み合わせた言葉で、すでに、日本の経済産業省でも提案されている。経済産業省のサイトによると、「特に、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害といった発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく、『人間のゲノムの自然で正常な変異』として捉える概念」との記述がある。つまりは、ノーマルに対して、アノーマルとして障害を位置付けるのではなく、単なる「違い」として捉えていこうというムーブメントである。そして、ニューロ・ダイバーシティは、神経学的差異をジェンダー や民族性、性的指向と同様に、特性として尊重されるべきと主張する。最初に違和感を言葉にしたのは、セネガルのアーティストであり、ニューロ・ダイバーシティという言葉の使用を提案したのは、トランスジェンダーのアーティストだった。

また、健常者の俳優が障害を持つ人の役を演じることを、欧米では「Cripping up(クリッピング・アップ)」といい、「Blacking-up(ブラッキング・アップ)」と同様に問題視されているよう。

事実的に多様性が担保されているグループでのこのようなやり取りの中で、いかに自分が複数の意味でマジョリティの「特権」を持ってしまっているかを痛感する。まずは、自身の特権を可視化することから。そして、嫌悪感を持った作品にこそ、己の観劇体験のフィードバックに時間をかけられることは、非常に贅沢なことだ。

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