【FTA2023】知的障害者でプロの俳優は存在するか

答えは、イエス。先日観劇したサーミ人によるダンス作品で、私はパフォーマーの身体が持つ当事者性に痛く心を掴まれたのだが、知的障害者の劇団員を持つバック・トゥ・バック・シアターの作品では、全く当事者が当事者を演じているとは思わなかった。なぜなら彼らは列記としたプロの俳優だから。バック・トゥ・バック・シアターは、オーストラリアの劇団で、過去に来日公演もしている。

今回FTAで招聘されている『The Shadow Whose Prey the Hunter Becomes(https://fta.ca/en/event/the-shadow-whose-prey-the-hunter-becomes/)』は、劇団の代表的な3人の俳優による公開ミーティング形式の作品。抑制された人権、食の倫理、人工知能の支配をテーマに、彼らは自分たちが知的障害者であるという事実から、会議を進めていく。何かの演じるのではなく、自分というアイデンティティーを保ったまま、いくつかのフィクションのレイヤーを巧みに使いこなし、観客をフィクションと社会問題のはざまに巻き込んでいくスタイルは、俳優にとって相当高度なテクニックが求められる。時として、アーティストが障害を持つ人たちと作品を創作しようというプロジェクトもあるが、バック・トゥ・バック・シアターは、1987年から続く劇団で、プロの所属俳優によって成立している。
終演後に、「障害を持っていても、堂々としている姿に涙が出た」と、隣の観客が話していたのだが、私はそれは違うと感じた。なんでもかんでも、当事者が当事者を演じているから感動するものではない。単に俳優が「当事者性を用いて」演じている、のではないか。今回の作品において、自らの障害をテーマにして泣かせるような仕組みは一切ないし、ただただ彼らのパフォーマンスのクオリティが高いがために、ドキュメンタリーかのように見えているだけであると、私は感じた。ただ、彼らの特性ゆえ、まるで演技をしていないように見えるというのは事実で、演出家は、その特性と非常に緻密に付き合っている。そして、痛烈な問いをいくつも突きつけられた。


今月から始まったNHKBSプレミアムドラマ「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」で、ダウン症の男の子がメインキャストに抜擢されたことが話題になっている。2022年には、ろう者の当事者たちを起用した「コーダ あいのうた」がアカデミー賞の作品賞を受賞して話題になったが、日本ではまだ名のある俳優が、迫真の演技で障害のある役を演じるということも多いそう。ディレクターの大九明子さんは「当事者の俳優がいる中で、その人達にとってそういう役が描かれている作品に出会うことがすごく少ないし、せっかくあっても当事者ではない人にその席を奪われるのは不公平じゃないかと思っています。」とインタビューで答えている。このドラマの中で、ダウン症の吉田葵さんの「演技」は秀逸で、彼が実際にダウン症かどうかというところに焦点がいくものではない。ただ、それは障害にあるなしにかかわらず、この人からしか出てこなかっただろうなという心から信用できる表現がちらほら見られる。(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230517/k10014067761000.html

環世界 という言葉がある。環世界 (かんせかい、Umwelt)は ヤーコプ・フォン・ユクスキュル が提唱した生物学の概念。すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、それを主体として行動しているという考え。

障害をもつ人の感覚を分かろうとする時に、さぞかし大変だろうなとか、頑張っててすごい、と自分の環世界に合わせて他者を規定するのではなく、単純に生息している環世界が違うということに繊細になった方がいいのではないか。私には想像も及ばないような環世界の中で身に付けてきた、私とは違う知覚世界を持っているということが前提にある。

違う環世界に住む人たちが、創作という場所を通して、同じ空間と時間を共有するプロセスは非常に有意義なものだと思う。舞台芸術を観る時のポイントとして、結果として現れている作品だけでなく、この作品が出来上がるまでに流れたプロセスを想像しながら観劇してみると非常に面白いということがよくある。

特に、違う環世界を生きるもの同士の創作は、いかにして、この人たちに間に信頼関係が生まれたかというところに注目すると舞台の上には見えない奥行きが一気に広がる。

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