コロナ禍で、私が一番失ったと感じることは「移動の自由」である。
ハラスメントと同じで、何かを失ったり、制限されたりすることに、自らが気付き「傷つく」には少々時間がかかることがある。
78歳のイタリアの哲学者ジョルジオ・アガンベンは、
コロナ禍での発言により、大炎上を起こしたひとりである。
アガンベンが言及した二つの懸念は、「死者の権利」と「移動の権利」を剥奪されること。
まず、死者が葬儀の権利を持たないことに対して苦言を呈した。
そして、「移動の権利」の制限に関して。
アガンベン曰く、「移動の自由」は単に数ある自由のうちのひとつではなく、
苦難の末に勝ち得られた権利であり、
近代が権利として確立してきたさまざまな「自由の根源」にあるという。
つまり、「移動の自由」を制限されることをみとめてしまうということは、
大袈裟ではなく他の自由も失う可能性がすくそばに孕んでいるということ。
コロナ禍でパリー東京間を往復するとなると、現在日本で14日間、フランスで7日間の自宅待機を強いられ、計3週間失うことになる。
それでもコロナ禍に突入してから、3度の往復をした。毎回、飛行機の乗客は6、7人で、客室乗務員の数より少ない。
今回は、カナダで行われる予定だった新作クリエーションが、カナダへの渡航禁止に伴い現地での制作が不可能となり、
共演者がいる日本に私が渡航し、カナダにいる演出家と、東京での1週間の稽古を経て、城崎に移動し、さらに2週間半の滞在制作をすべてリモートで行った。
城崎にたどり着くまで、長い長い道のりがあった。3月フランスの感染状況は悪化していて、EU圏外への移動が制限されていた。ビザの更新のタイミングもあり、カナダ側は弁護士を雇って、私の渡航許可を取得するために奔走してくれた。私も、数々の書類を集め、県庁に数回足を運んだ。
成田空港に到着してからも、位置情報を随時提供するためのアプリをいくつもダウンロードしなければならず、PCR検査陰性の結果が出たあとも、政府の用意するホテルに3日間滞在することが必須となっていた。
自宅に戻ってからも、1日に何回も位置情報を求める通知がきて、携帯に頓着しない生活をしている私には少し重荷だった。
それでも、城崎国際アートセンターでの滞在制作だけを楽しみに14日間の軟禁生活を乗り切り、とうとう城崎にたどり着く。
当時の私の「滞在制作を楽しみに思う」気持ちは、非常に浅はかなものであった。
豊岡市に滞在するという意識は希薄で、「東京を離れ、温泉に入りながら創作に思う存分集中できる」というくらいのものであった。
しかし、コロナ禍におけるリモート創作という制約が功を奏し、結果的に「豊岡市という場所で、滞在制作をする」ということを日々認識しながらの滞在となる。
今回の作品の演出家である、カナダ在住のアーティスト:マリー・ブラッサール氏は、コロナ禍で作品を発表するにあたり、全ての可能性を視野にいれ創作を進めた。
私ともうひとりの出演者:奥野美和さん(ダンサー・振付家)がヨーロッパツアーで合流し3人で出演するバージョン、カナダは渡航禁止区域なので、私と奥野さんは映像出演で、マリー本人がひとりで出演するバージョン、そして、劇場が閉鎖してしまったときのための美術館等でも映像を展示できるインスタレーションバージョン。
急遽、日本側から映像監督として太田信吾さんにプロジェクトへの参加をお願いし、アートセンターのホールで、舞台用の稽古と屋外での映像撮影を並行して行った。
野外での映像にマリーがつきっきりで関与することは難しいと考え、撮影は日本チームで進めた。
滞在制作も、中盤に差し掛かった頃、マリーが、「コロナ禍で国際協働制作をするということは、それぞれが『権力』を手放していくことだと感じ始めている」、と少し寂しそうに口にしたことが非常に印象的であった。
演出家としても、プロジェクトの総監督としても、メンバーにすべての指示を出せなかったり、どうしても「任せる」部分が増えていってしまうのは、非常に不安な経験だったと思う。
それでも、彼女が想像していたものと違うものが私たちから提示された時にも、常に、そこに生じた「取り違え」を受け入れ、振り回されることに寛容であった。
私たちも然り、「わかりあえない」ことのもどかしさを逆手にとり、徐々に自分らの「想像力」を駆使し、全力で「勘違いする力」でした解釈を作品として提示できることの面白さを得た。
マリーは、城崎でのレジデンス開始当初から一貫して、
温泉とか街の散歩とか地元のものを食べよとか、チームでエンジョイしてね!ということをしきりに言っていて、
最初、私はその一言一言に苛立っていた。
私は、創作をしにここまできたのであって、観光をしている暇はない!と異様に焦っていた。
レジデンス4日目から城崎・竹野地区での撮影が始まり、
アートセンターの外を出て、野外での撮影(創作)が始まったことで、すべての景色が変わった。
街から与えられるインスピレーションの力は際限なく、
豊岡という「場所」とカナダで生まれた「物語」がどんどん交差し、また別の何かに変容していくさまに夢中になった。
その日から、温泉も街の散歩も地元のものを食べることも一切厭わなくなる。
滞在制作9日目の日曜日、豊岡の文化政策に多大な意味をもたらすことになる豊岡市長選挙が行われた。
出身地のさいたま市でも、今住んでいる東京とパリでも味わったことのない緊張感を感じ、
祈るような気持ちで開票結果を待った。
思うようにはいかなかった選挙の結果を経て、さらには、兵庫県が緊急事態宣言を出し、最悪とも思われるコンディションの中、たくさんの出会いがあった2週目。
豊岡高校の高校生が、遠足の一貫で、生徒さんのひとりが自ら先生に懇願して、アートセンターと私たちのリハーサルを見学しにきてくれたり、
コロナ禍でアートセンターが閉館している中、大学の先生とアートセンターの連携のもと、豊岡市に開校したばかりの芸術文化観光専門職大学の1年生たちが、通しリハーサルを観にきてくれたり、
アートセンターが企画して、豊岡の高校生と対談したり、
温泉寺に撮影に伺わせてもらい、温泉寺と城崎の歴史をお話ししてもらったり。
そんな日々の中、創作への熱量がどんどん上昇し、結果として稽古も進んだ。
個人的に重要だったことは、初めて日本人の観客の前で、フランス語で演じたこと。
劇場にもそんなに行ったことがないと言っていた大学生たちが、
彼らにとっては、なんの意味ももたないであろうフランス語の台詞を、全神経をつかって感じてくれているという体感は心から愛おしいものであった。
今後、私の俳優人生にも大きく影響するであろうくらい素敵な時間だった。
もうひとつは、共演者の美和さんと休憩時間に鮮魚を買いにいったこと。
時差の関係で毎日朝8時から稽古をしていたのだが、昼休憩の時に、夜タイのお刺身が食べたかったので、
美和さんと往復30分かけて魚屋さんに行った。
私は、本来こういう時間を無駄だと考えてしまいがちだが、城崎での生活には、生活に手をかけるということが、今一緒にいる人たちを大切にするということにつながると思ってしまう力があった。
自分でいうのもなんだけど、城崎の滞在を経て、すこし優しい人間になれたと思う。
「移動の自由」とは、
どこにでも好きな場所にいけるというころではなく、
その場所に自分がいてもいいということを感じられる自由であると思う。
城崎に行くことができる自由というより、
城崎にいてもいいと感じられることの方がよっぽど自由があった。
いてもいいと感じられるためには、こちら側がまず「自分が今どこにいるのか」ということに歩み寄る必要がある。
温泉では、東京から来ていることをバレないようにしようと心がけていたが、
閉めようとすれば閉めようとするほど、溝は深まる。
温泉でおばちゃんに声をかけられて、自然に世間話して、「また来てね」と言われたり。
よそ者でも「あけっぱなし」にしているからこそ、適度な情報開示をする姿勢によって、不信感を抱かせない程度のちょうどいい距離感が生まれたり。
コロナ禍で、「移動の自由」を守っていくために、そこに暮らす人々と、そこにやってくる 人々の間に、今後たくさんの壁が待ち受けていると思う。
それでも、私には「移動の自由」が必要だと自信を持って言える滞在を経験した。(それは本当にKIACのおかげ。)
まだ、うまく言語化できていないが、「滞在制作」という機能を再考させられる滞在となったことへの感謝を、関わっていただいた全ての皆さまに送ります。
ありがとうございました。
