ちょうど1年前から関わっていた作品、
『Certaines n’avaient jamais vu la mer』のツアーが終わった。
1年間やってきた、この「日本人役」メイクともお別れ。
今まで、公演やリハーサルのたびに会っていたメンバーと、
突如として会わなくなるなるのも、フリーランスの宿命。
そして、仕事がない時期を過ごすのも、フリーランスの宿命であり、権利である。
先月、3年前に学校を卒業してからはじめて、一ヶ月以上も演劇に関わらない時間を過ごした。
フリーランスとして生きていくということは、ある意味、精神的にも「暇」を上手に過ごせるようになることなのかもしれない。
現代社会は、「待つ」ことを許してくれない。
常に、自分を「動」の状態に保つことで、心が「静」でいられる。
ひとたび「静」の状態に身を置こうものなら、逆に、心が「動」いてしまい、落ち着かない。
バイトや稽古で疲れている時はすぐに眠れるのに、時間を持て余してしまうとどうもいろいろ考えてしまって眠れない。
一見、活発に見える「動」の状態は、ある意味「思考停止状態」とも言える。
目の前にやるべきことがあって、
考えなくていい時の方が、生きやすい。
フランスの場合、失業保険制度に登録できている一定数の俳優は、
仕事がない期間も、一定額の給料が支給されるので、
「アウトプット」は少しお休みして、「インプット」に従事すればいいのが、そこもうまく割り切れない。
フランスの失業保険制度の場合、仕事がない時も、「自分の専門分野で仕事を探している最中」という程になっているので、簡単に飲食店などでアルバイトをすることはできない。
よって、肉体的にも、精神的にも、ほどよく疲れている、
いい感じの「思考停止状態」をつくることができない。
そんな時に出会った鷲田清一さんの言葉が、
「イニシアティブの放棄」である。
自分が何か仕掛けるのではなく、向こうが勝手に成熟するのを待つ。
鷲田さんいわく、「待つ」ということの核心には、この「イニシアティブの放棄」があるらしい。
「イニシアティブの放棄」とは、イニシアティブを相手方に委ねるということである。
(中略)
近代人は、「自由」ということを、何でも自分の意のままになること、つまりは自分が自分の主人であること、自己決定の主体であることに求める傾向がある。けれどもこれは近代人の思い上がりで、わたしたちには自分の存在すら自分の自由にはならない。ひとは、互いに支えあうことなしには生きていけない弱い存在だからだ。ということは、自分が何をなすべきかを考える時に、ひとは自分がしたいことだけでなく、ひとが自分に期待していることにどう応えるかという視点からも考えなければならないということである。
(鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?臨床哲学講座』ちくま新書, 2010年, p.89)
フリーランスが、仕事のない時期を過ごすということは、
仕事で人と会うことが減る、つまり、社会とのつながりを感じにくくなる、
と言い換えることもできる。
社会に対して、「前のめり」になろうとすればするほど、
社会が遠のいていくように感じる。
社会は、自然科学によって発展できるが、
その社会の中心にいる人間(の心)は、自然科学では発展できない。
社会の発展のために、科学にどんどんお金をつぎ込む分だけ、
そんな社会で暮らしている人間に、「思考」のケアをしないとどうにもやっていけない。
仕事がない時、「思考停止状態」から本当の意味で外れている時、
かなり緊急性を感じる。
演劇をやっているのに、
社会の効率性に、自ら抑圧されにいって、苦しみがちな私に、
友人からドキュメンタリー動画が送られてきた。
哲学界の「ロックスター」と、全世界が注目するマルクス・ガブリエル氏の日本滞在記。
彼の言葉で、最も印象的だったのが、
考えることこそが、最も普遍的だということ。
日本に張り巡らされた網の目は窮屈かもしれない。
だが、そこにある見えない壁(ファイアウォール)を乗り越えないといけない。
それを毎日アップデートすることが大切。
日々、家族でも友人でも、冷笑的で反民主的な態度に出会ったら、
ノーと言おう。みんなと違っても言おう。
「自由」に考えることに、最大の価値を置くべきです。
マルクス・ガブリエル
自然科学の発展で、便利な世の中になって、
人間は、テクノロジーを駆使して、
一寸の無駄のない、秩序の整った社会についていくことはできるけど、
人間の心は、そもそも効率性が悪い。
でも、「考えること」に効率の悪さを感じてしまったら、
人間はどうなってしまうんだろう。
他者とは異なる「自分」というものを社会に提供し続けることってそんなに大事?
まずは、「生産性のない時間」を誰かに肯定してほしい。
私の場合は、それが哲学者だったりする。
「生産性のない時間」を過ごしてもいいんだよ、って言われたところで、
「イニシアティブの放棄」をし、
そこで、ようやく趣味のごとく、「自由」に考えることができるのかも。