市原佐都子、作・演出、竹中香子一人芝居『妖精の問題』、
3回目の再演、KYOTO EXPERIMENT 2018公演、
無事、終了しました。
この作品は、2017年の9月に東京のアゴラ劇場で、初演された作品なのですが、
今、思い出すと、当時は、俳優の私は、作品の「父親」的存在であったと思う。
作家の市原さんが、作品を「母親」として、自分のお腹で温めたものを、まさに、この世に産み出し、近しい距離感で育て始めたことに対して、
私は、急に生まれてしまったこの「赤ん坊」との距離感に、呆然としてしまい、
どのように子育てに参加していいのか全くわからない気持ちだった。
「赤ん坊」の息の根を絶やさないように、ただただ、タスクをこなしていたような気がする。
時が過ぎ、『妖精の問題』も1歳を迎えた。
私の「父親」としての、育児参加も慣れてきたもので、
最近は、「母親」の外出中も、しっかりと子守りをし、
このかわいい「赤ん坊」とのふたりきりの時間の過ごし方もだいぶわかってきた。
ここに至るまでの経緯を分析すると、
大きなポイントがふたつ。
一つ目は、「際限なく『努力できる』環境を用意すること」
『努力できる』かどうかということに、
精神論的原因が関与されてる場合は、極めて少ない。
際限なく『努力できる』という能力は、恵まれた環境の産物であることが多い。
横浜での、2度目の再演の時に発見した、
「稽古」と「練習」の二本柱計画(過去の記事を参照:「効率の良さ」への楽しい抗い方)に必要なのが、「際限なく『努力できる』恵まれた環境」である。
ここ1年くらいは、クリエーションをする時に、まず、この「際限なく『努力できる』恵まれた環境」にいかに身をおけるかということを第一に考えてきた。
私の場合の、「際限なく『努力できる』恵まれた環境」とは、きちんと睡眠がとれているなかで、クリエーション以外に考えることがない状態。
人によっては、同時進行で、他のプロジェクトにも関わっている方が気が紛れていい場合もあるし、「際限なく『努力できる』恵まれた環境」は人それぞれ。
要は、言い訳できない環境ということ。
そして、二つ目は、「インストゥルメンタル」俳優から、「コンサマトリー」俳優への移行」
「コンサマトリー」とは、最近の流行りの言葉で、アメリカの社会学者、タルコット・パーソンズが提案した考え方である。
日本語では、【自己目的、自己完結】などと、訳される。
つまり、「それ自体を目的とし、それ自体を楽しむ」こと。
その対義語の「インストゥルメンタル」は、逆に、何らかの目的を目指す状態を指す。
例えば、マラソンで長距離を走っていて、1位でゴールするという目的で走るのが、「インストゥルメンタル」で、走ること自体を楽しむのが、「コンサマトリー」である。
昔の日本社会では、
「今がどんなに苦しくても、明るい未来のために頑張る」という思想が主流であった。
しかし、最近は、「今」つまり、結果よりも「プロセス」を大事にする「コンサマトリー」な考え方がどんどん多様化している。
そもそも、作品を産み出すうえで、苦しまない創作なんていうものは、存在しないのだけれども、「コンサマトリー」な考え方を持つことで、
その「産みの苦しみ」が多様化することを期待している。
今を犠牲になんてしなくても、明るい未来は待っているかもしれない。
これらの考え方を俳優に当てはめて考えて見ると、
本番で快楽を得ることに焦点を合わせる俳優が、「インストゥルメンタル」俳優だとしたら、
稽古自体で、快楽を得ている俳優は、「コンサマトリー」俳優と言える。
私は、初演の時、完全なる前者であった。「今は地獄のように苦しくても…本番はきっと…」という、スポ根漫画のように、歯を食いしばって毎日を送っていた。
しかし、残念ながら、自分の目的意識にあった結果はついてこなかった。
今回は、完全に「コンサマトリー」俳優として過ごした稽古期間があり、
もちろん、再演ということはあるが、本当に、稽古自体が楽しくて仕方がなかった。
実際、演出家とのコミュニケーション(雑談含む)が、「楽しい」と感じられる大きな要因ではあったが。
そんなことを考えながら、実に爽快な気持ちで、東京に帰還しました。
この機会を与えてくださった、すべての方に、感謝の気持ちを伝えたいと思います。