新年はプライベートで不幸の嵐に襲われて、
それでも、3箇所のツアー公演を終えて、
ようやく怒涛の1月が終わろうとしている。
そんな中で改めて、日常の生活時間と、舞台上での時間との間を並行する時間について深く考えさせられた。
舞台を仕事にするってことは、極論、親が死んだ日も舞台に立てるかということだ。
(これは、もちろん比喩で、うちの両親は元気です。ごめんなさい。)
日常との切り離し方は、それぞれの俳優に、それぞれの方法があると思う。
本番前には早めに劇場に入って、アップをしながら、日常生活とは異なる集中力を高めていったりするのもひとつだろう。
ただ、日常生活のなかで、フィクションに勝るような強いショックや感情を受けた場合、フィクションとの付き合い方は確実に変化する、と確信した1ヶ月であった。
ここで、上演芸術という媒体の本質に立ち戻る必要性が出てくる。
演劇に必要なのは、
竹中香子という俳優そのものではなくて、
その日その時間、舞台の幕が上がる、その「現在」における竹中香子なのである。
もし、単に竹中香子という俳優が必要ならば、科学と文明の力で、私より優れた俳優を量産することは可能であろう。
しかし、それでも、上演芸術という本質である「現在」というキーワードを辿れば、俳優に求められるものは、俳優自身ではなく、「その瞬間」の俳優なのである。
したがって、自ずと可変性が認められる。むしろ、可変性こそが俳優の存在の魅力になってくる。
小難しいことを書きましたが、すべて、共演者たちに励まされたことです。
そのままでいいんだよって。
もう8月の稽古から、長いあいだ一緒に過ごしてきて、大家族のような関係なので、不幸もシェア。
というか、私は、いいことも悪いこともシェア好きだから、周りの人が鬱陶しがらずに、関わってくれて感謝。
現実で、自分の人生そのものを揺るがすようなショックがあった場合、
それでも、舞台に立たなければいけなくて、
無理に、現実で起きてることを抹消して、公演の時間だけでもプライベートは忘れて、作品に集中しようとしてしまいがちだが、実は逆の可能性もあるんじゃないか。
だって、今日の私は、現実世界で、そのショックをもう生きてしまった私であることは、取り返しのつかない事実なのだから。その状態をあえて肯定して、舞台にあげてみる。
舞台で観客の前で俳優が生きるフィクションと彼らの日常生活のあいだに、境界線をすこしずつなくしていくことが、俳優を仕事にしていくということなのかなと思い始める。
極論、親が死んだ時もその悲しみを丸ごと背負って、その日の舞台に上がることなのかと思い始める。
友達のお母さんに、感情は過ぎ去ったと思っても、筋肉に蓄積して残ってしまっている、という話を聞いた。
自分の経験を踏まえて、かなりしっくりくるセオリーで、筋肉にまだ残ってしまっているであろう負の感情を取り除く作業に全身全霊をそそいだ1ヶ月だった。
とにかく、私が相当ビッグな不幸の経験者として言いたいのは、
いろいろあっても、そんな簡単に舞台で崩れることはないから大丈夫だということ。
少なくとも私は、現実に起きたことが原因でその日の演技が変わってしまう俳優をプロ失格とは思えない。ただ、俳優だったら、マイナスにもプラスにも、その日の自分の状態を舞台上で楽しんでややるくらいの度胸は必要だと思う。
©Guillaume Vincent
本番前に、最近カメラに夢中の演出家が撮ってくれた写真。