かのつかこうへい氏は、
稽古場でいつも役者に、
「役作りなんかいらねえんだよ、役作りできる頭があったら医者か弁護士かパイロットになれるんだからよ」
といい続けていたそうだが、
今回、私たちが挑んだ初の古典作品でも、
演出家に、文脈は少し違えど同じようなことを言われ続けた。
昨年の11月に3週間すでに稽古をしていて、
(前回稽古時のブログ:女優は問題。女優が問題。女優の問題。)
残りの3週間の稽古を行い、
最後は、6月の初演に向けて、
試写会のようなかたちで公演があった。
フランスで演劇を学ぶ以上、
切っても切れない糸でつながっている「古典」作品は、
私にとって常に天敵であった。
受験の時から、「古典」課題には相当悩まされたし、
学校に入学してからも、
「古典」を扱うときは、
言葉のハンデが広がってしまうため、
演出家に私の語学レベルで「古典」作品を演じることを拒絶されたこともある。
とにかく、「古典」に関しては、
圧倒的な劣等感がつきまとってきたし、
当然、苦手意識が前にでてしまう。
1835年に執筆されたゲオルク・ビューヒナーの戯曲『ダントンの死』は、
フランス革命を題材にした作品で、
政治演説的な台詞も多く含まれている。
この作品の場合、古典といっても、
原作がドイツ語なので、言葉に関する演技の制約はだいぶ低減する。
とはいっても、
戯曲解釈には、現代戯曲とは全く違ったアプローチが必要。
私は、俳優の演技における「テクニック」というものに、
ネガティブなイメージを持っていて、
あの俳優はテクニックが高いね、というコメントは、
イコール、テクニックはあるけどつまらないね。
というふうに、感じていた。
しかし、今回、がっつりと「古典」戯曲に関わって、
圧倒的なテクニックの需要を痛感した。
演劇における「古典」とは、何か?
一言で言ってしまえば、
観客にとって耳慣れない言葉を、
正確に解釈させていくことだと思う。
ここで、誤解のないようにしなければいけないのが、
あくまでも、解釈を誘導していく必要があるのは、
感情の部分ではなく、
言葉、つまり、台詞の意味だということ。
ここで、冒頭で出した「役作り」という姿勢が、
「古典」において、
最も、重要、かつ、難解な部分、「解釈」の邪魔をするのである。
そもそも、「役作り」とは、
その役のイメージを演技に組み込んでいくものかと想像する。
例えば、台本を読み込んで、読み込んで、
その役が、酒好き、女好き、破天荒な役だという情報を得たとする。
このイメージによる演技が先行してしまうと、
この役が吐き出す台詞の「解釈」、
もしくは、「他者との関係性」が、
薄れてしまう。
現代戯曲の場合、
役のイメージが、
全面に出たところで、
台詞は、普段聞き慣れている言葉なので、
観客は、両方の動線を失うことはないのだが、
「古典」の場合、
台詞の方は、完全に何処かへいってしまう。
俳優にとっても、
普段使わない「言葉」だからこそ、
その「言葉」の意味よりもイメージで演技してしまった方が、
正直、気持ちがいいし、やった気になる。
そこが、一番、危険。
今回の演出家は、徹底的に、
「言葉が投げかけられている方向」と、「意味」にこだわった。
「感情」に関しては、一回も触れなかった。
なぜなら、それは、「観客の仕事」だから。
「言葉が投げかけられている方向」とは、
フランス語で”l’adresse”。
英語でいうアドレス、その名の通り、住所、宛先である。
それぞれの台詞が、誰に向けられているものか、
共演者の誰かなのか、それとも、観客なのか。
この「方向」がしっかりと定まっていれば、
自分の中で、「意味」をしっかりと噛み砕けてない台詞は言えない。
例えば、完全に覚えたと思った台詞は、
人の目を見ながらしゃべって確認する。
相手と目を合わせながら台詞合わせをすると、
言葉の意味が曖昧なところは、台詞は出てこないので、
不明確な点が浮き彫りになる。
こういうふうに、考えると、
演劇とは本当に人間の身体器官に基づいた、
非常なシンプルな性質を持っているな、
と改めて感心してしまう。
どんな高尚な「古典」作品にとりかかったところで、
「再現」するのは、極めて「人間的な営み」なのである。
具体的なテクニックのことに関していうなら、
「古典」には、
日常生活にはあり得ない、圧倒的な「長台詞(la tirade)」というものが存在する。
ここでも、「感情」に関しては一切取り組まず、
言葉の意味を解釈させるために有効な、
台詞の流し方(リズム、呼吸、スピード、間)を、
演出家とともに構築していく。
そして、最後の一週間、
5週間を使って、
細かく細かく構築してきた「意味」と「テクニック」を、
一切忘れて、
空間に創り上げてきた俳優の「身体」をおくと、
あとは、古典も現代も関係ない、
純粋な「演劇」としての芸術が、舞台に抽出されるらしい。
まだまだ、足を踏み入れたばかりの、
「古典」演劇の領域なので、
演劇教育における「古典」戯曲の必要性に関しては、
より確実に明確化したい。
少なくとも、自分の内的感覚としては、絶対的に必要だと感じている。