身体における「公害」の取り除き方。

木曜日、9時半。
唯一、1年生と合同の武道の授業。
授業開始1時間、
いつも通り、
ほぼ動きっぱなしのトレーニングが続き、
2分間の休憩。
1年生の女の子が、
自分の両目から、
とめどなく流れてくる涙に、
戸惑いを隠せない。
他の1年生の生徒たちが心配する中、
私たち3年生は、
なんとなく、
微笑ましい気持ちで見ていた。
なにしろ、
私たちも、
疲れと激しい感情の波に揺さぶられながら、
理由のない涙と、
この学校で、
何度となく付き合ってきたから。
休憩を終えたあと、
武道の先生が、
“dépolluer” という動詞について話す。
理由もなく涙が出るのは、
dépolluerしている証拠だから、
安心しなさい。
【dépolluer】
…の汚染を除去する。
公害を防ぐ。
どんなに気をつけていても、
人間が生活していく限り、
街は汚染されていく。
私たちの身体も一緒。
どんなに気をつけていても、
気づかないうちに、
疲れが蓄積していく。
そして、
私たちの精神も一緒。
どんなに気をつけていても、
他者、
もしくは自分の外の世界と関わりながら、
生きていくうえで生じる摩擦による、
公害。
そんな自分にとって、
最も近いテリトリー、
つまり、
自らの身体の公害を、
なんらかの方法で、
定期的に除去してあげることが大切だという。
この聞きなれない動詞がやけに気に入って、
日本人の友人に話してみたところ、
それって、デトックスと同じこと?
と言われた。
確かに、
デトックス(解毒)と言ってしまえば、
解剖学を想起させるので、
論理的なのだけれども、
私にとっては、
廃棄物とか、
空気汚染とか、
身体の外で発生する、
公共の病気というイメージがしっくりくるのだ。
つまり、
社会に生きていく限り、
逃れることのできない、
身体と精神の病気。
そもそも、
公害という言葉を調べると、
以下のような定義が出てくる。
こう-がい【公害】
自供活動などの人為的な原因から、
地域住民や公共一般がこうむる、
肉体的、精神的、物質的な種々の被害や、
自然環境の破壊。
この「公共一般」というところが、
キーワードなのだと思う。
1年生が学校に入学したのは、
10月初め。
ちょうど、
朝から晩まで続く、
トレーニングと稽古、
それと同時に、
12人のグループとの密接な生活。
「公害」が蓄積しても、
無理はない。
無意識のうちに、
私たちは、
自ら、自らをコントロールしながら生きている。
公害を除去するためには、
時たまの、
コントロールを完全に解除した状態が必要らしい。
それは、
スポーツかもしれないし、
読書かもしれないし、
映画かもしれないし、
カラオケかもしれない。
別になくても生きていけるものが、
dépollution(公害除去)のヒントだと思う。
だから、
私は、全力でフィクションの力を信じている。
フィクションがなくなっても、
私たちは、
生きていけるし、
死なない。
学校に入学してからもう2年。
この2年間で、
随分と自分に厳しくなったし、
同じ分だけ、
自分に甘くもなった。
この「甘さ」が、
私の弱点であり、
私の原動力でもある。
美しいものに出会えば出会うほど、
それと同じ分だけ、
「公害」が副作用的に、
発生していたことには、
少しづつ気づきはじめている。
そして、
そんな「公害」のことを考えながらむかえた今週末は、
公害とは無縁の、
パリの公害の小さな街で、
レジデンス。
ほっと一息。

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