小さいころ、
母の本棚に一際目立つタイトルの本があった。
五味太郎氏の大人問題 (講談社文庫)
大人は問題。
大人が問題。
大人の問題。
当時は、何が書いてあるのかは、知らなかったけど、
筆者自身が、育児を通して感じた、
子どもの問題に見えるけど、
それ、実は大人”は/が/の”問題なのでは?というエッセイ。
それにしても、
この助詞たちの圧倒的存在感とリズムは、
当時の私の心をさらいとって、
無意味に何度も、
自分の声に出してみたものだった。
さて、
そんな日本語に対してどこまでも粋な態度で挑む絵本作家、
五味太郎氏の言葉をお借りして、
今回のテーマは、
女優は問題。女優が問題。女優の問題。
少しづつ、
このブログでテーマになりつつあるように、
私は、どんどん演出家にとってめんどくさい俳優に成長している。
(過去の記事:演出家にとって、めんどくさい俳優になる授業)
先週、まさに私が直面した問題は、
演出におけるフェミニズム。
正確には、
フェミニズム(英: feminism)とは、
性差別を廃止し、抑圧されていた女性の権利を拡張しようとする思想・運動、
(wikipediaより引用)
ということらしい。
フェミニストというと、
男性に嫌われるような、
ちょっとめんどくさい気の強い女性を想像するかもしれない。
ちなみに、フェミニズムの起源は、
今、まさに私たちが創作している作品『ダントンの死』の時代背景、
フランス革命までさかのぼり、
91年『人権宣言』に対抗し、
フランスの女性作家であり女優のオランプ・ド・グージュが
『女性及び女性市民の権利宣言』を発表している。
つまり、フェミニズム運動の先駆者は、
女優であったのである。
この事実を私は、
声を大にして叫びたい。
私は今回、
「ダントンの死」という戯曲の中の、
女性の役の中で、
唯一、2ページにわたるモノローグがある、
高級娼婦の役を配役されたのだけれど、
演出家は、この役に特別な思い入れがあるらしく、
稽古がはじまってそうそう、
オイルを使って、主役の男性にマッサージをしながら、
娼婦がモノローグを語っているイメージがあると言った。
彼との稽古が始まってからの一週間、
慣れるまではつい引っ込み思案にみられがちの私が、
開口一番、
「嫌です」
と、言ったので、
演出家も絶句。
ドラマツルギーにおける検証が一切なされない
セクシャルなシーンはとても危険だと感じる。
極端な例で言えば、
男女が抱き合うシーンがあったとして、
その行為をどこまで舞台の上で見せるかということは、
非常に繊細な問題である。
脱げと言われたから、脱いで、
抱き合えと言われたから、抱き合っていたら、
連日に及ぶ公演を想像したとき、
精神的にも、
肉体的にも、
苦しいと思う。
観客が、
俳優に対して、
フィクションを超えて、
人前でよくあそこまでできるなあと思ってしまうようなシーンこそ、
水面に現れている行為そのものを水面下で支えられるような、
徹底的なドラマツルギーにおける根拠が必要。
相方の俳優と時代背景も踏まえて、
テキストを徹底的に読解し、
その上で、
マッサージよりも過激なシーンを提案。
演出家も、
私たちの提案に対し、
ディスカッションを持ち込んできてくれたので、
「行為」そのものが浮き出てしまわないような、
性的なシーンを構築する経過を辿り始めることに成功。
はっきり言って、
クラシックの戯曲に女性のヒーローが出てくることはまずない。
主人公、つまり、男性の妻、もしくは、愛人であることがほとんど。
必然的に、
男性に付随する役所が女優に与えられる可能性が非常に高くなる。
この現実の中で、
女優は、
俳優である以上に、
女優であることを、
常に、
意識していく必要があると思う。
どんな美しさも醜さも消費されてはならない。
女優は問題。女優が問題。女優の問題。
8年前にオペラ座で、
出演者がほぼ全員裸のワーグナーのオペラを見て以来、
舞台芸術における「性」というものの見方が、
観客としては随分変わって、
今では、そんなに驚くこともなくなってしまったけれど、
だからこそ、
俳優としては、
常に、日常からはみ出た部分、
つまりとても自分自身の身体と親密な要求にこそ、
慎重に、かつ、尊厳をもって答えていくことが重要だと思う、
今日この頃。