9月より、新ディレクター、ロドリゴ・ガルシアが就任した、
モンペリエのCDN(Centres Dramatiques Nationaux/国立演劇センター)、
その名も『humain TROP humain』に行ってきました。
http://www.humaintrophumain.fr/web/
アルゼンチン生まれの演出家、ロドリゴ・ガルシアは、
2010年、フェスティバル/トーキョーにて、来日。
『ヴァーサス』という作品を日本でも上演しています。
ちなみに、この劇場の名前は、
1878年に書かれたニーチェの著書、
『人間的な、あまりにも人間的な』(Menschliches, Allzumenschliches)からきています。
そんな堅苦しい劇場名とは裏腹に、
中に入ると、
完全にクラブ仕様。
エレクトロ・ミュージックが、がんがんに流れていて、
受付でチケットを受け取るときも、
割と大声を出さないと伝わらない。
毎回、終演後には、
ロビーに設置されたDJブースで、
コンサートが行われるそう。
そんな、「イケイケ」な劇場に生まれ変わった
『humain TROP humain』で観た作品は、これ。
ブラジル人振付家、MARCELO EVELIN(マルセロ・エヴェリン)
Matadouro『マタドウロ(屠場)』
なんと、この作品、
2011年の京都国際舞台芸術祭『KYOTO EXPERIMENT』招聘作品でした。
2013年にも、同フェスティバルにて、
『突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる』
という新作のため来日している。
それにしても、国内・国外問わず、
このフェスティバルのプログラムは、
要チェックだと思う。
『マタドウロ(屠場)』は、
簡単に言ってしまえば、
顔にマスクをつけて、
のこぎりを身につけた人たちが、
1時間、全裸で、
輪になって走り続けるというもの。
さて、コンセプチュアルなアートとどう向き合うか。
果たして、コンセプトを完全に理解する必要があるのか、否か。
この作品には、
決して、コンセプトを強要することなく、
単純に、劇場を後にしたあとに、
もっと知りたい、
もっとこの作品と一緒に過ごしたい、
と自発的に思わせる強度があった。
この強度を持った作品だけが、
アートにおけるコンセプトを、
享受する側に、
出会わせる可能性を持っているのだと思う。
この作品は、
ブラジル人にとって重要な作家のひとり、
Euclides da Cunhaの『Os Sertões』という小説をもとに創られている。
この小説は、『地球』『人間』『戦争』の3部作からなっており、
エヴェリンもトリロジーとして作品を創った。
つまり、今回の『マタドウロ(屠場)』は、『戦争』の部分に属することになる。
彼は、「戦争」(war)というよりも、「戦い」(battle)を、
いかに舞台にのせることができるかを考えたという。
ただ、「戦い」そのものを、再現することはしたくなかった。
当時、彼が影響を受けていたのが、
ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)という、
イタリア人哲学者による、
アウシュヴィッツにおける身体の記述である。
「身体は、耐えることしかできない。」
この思考から、
彼は、どこまでも身体的な「戦い」を、
舞台の上に、60分かけて浮き上がらせることに成功したのだと思う。
最後に、
60分間走り続けた身体たちは、
マスクをとり、
観客とはじめて対峙する。
静寂の中に響き渡る、
彼らの呼吸。
これこそ、
ジョルジョ・アガンベンがいう「剥き出しの生」の正体だ。
「生」というものは、ギリシャにおいて、
「ゾーエー」と「ビオス」と表現されていた。
前者はただ生きているということを表し、
後者は個体や集団として形をもった「生き方」を表していた。
そこで、アガンベンは、
「ゾーエー」を「剥き出しの生」、
「ビオス」を「生の形式」と呼ぶ。
「剥き出しの生」とは、まさに、
社会から排除された人間たち、
つまり、収容所である。
そこでも、人間に身体は、
悲しくも、
美しくも、
「耐えることしかできない」のである。
舞台における身体というものを考えてみたとき、
恐ろしくも、
彼のいう「剥き出しの生」に通じるものがあると思う。
このある種、保護(人権)がない状態で、
危険に晒されている「剥き出しの生」。
この状態は、
脆く、危うい。
だからこそ、
時として、
圧倒的な美を伴う。
ちなみに、60分間流れていたのは、
シューベルトの曲だった。
恥ずかしながら、私は知らなかったのだが、
フランツ・シューベルトは、オーストリアの作曲家なので、
ヒトラーの肖像を喚起する目的で、選んだという。
ブラジルの民族音楽を使うことももちろん可能だったが、
自国の歴史をテーマとして扱っているからこそ、
ユニバーサルな場所にあえて、持ち込む必要があったのだという。
学生ながら、
自分の作品のマーケットを
世界規模で捉えてるアーティストは、
この辺のところが違うな、と頭が下がった。
エヴェリンのインタビュー最後の言葉。
「これは、
身体の戦いであり、
実存の戦いであり、
そこに、
アイデンティティーは介在しない。」
アイデンティティーが存在しないところに、
人間の本当の痛み、
そして、
苦しみが浮き彫りになるのかもしれない。
上演時間は、1時間5分足らずだったが、
この作品は、
自発的に、さらに3時間、
私の中で、延長していたので、
随分と、長い作品を観た気分である。