先週の月曜日深夜0時から見た、
関ジャニ∞村上信五とマツコ・デラックスの新番組「月曜から夜ふかし」、
というテレビ番組が忘れられない。
というのも、
視聴者から情報を募集し、
それらについて、
取材し、
二人がコメントしていくという、
一見どこにでもあるようなバラエティ番組なのだが、
すべての情報募集テーマに、
「〜な件」というタイトルがついている。
例えば、
「マツコが怒っている事を先回りして調査するために、
『マツコが怒っていそうな事』を募集したい件」
http://www.ntv.co.jp/yofukashi/bosyu/angry.html
こんな具合。
フォーマル、かつ、形式的な「〜な件」というスタイルと、
深夜のバラエティ番組でしか扱えないような内容の、
アンバランス加減に、
日本のテレビ番組のセンスの良さを、
どうしても感じてしまう。
ということで、
今日、私は、
フランス・エクリチュールの最高峰、ロラン・バルトが、
日本について記述した、
L’empire des signes『記号の国』を読み、
『月曜から夜ふかし』的なブログタイトルをつけてみました。
芸術作品としてのフランス語で綴られる日本の姿が愛おしすぎる件
このブログでも、
過去にちょっと触れたことのあるバルトの『記号の国』ですが、
(過去のブログ:フランスの寵児ロラン・バルトから頑張っている私にご褒美。)
まさか、ここまで鮮やかな本だとは思わなかった。
あまりにも、文章としての質感が美しすぎて、
まるで、ガラスケースに陳列された、
美術作品のようで、
思わず、
線を引いたり、
ページの角を折ったり、
「本は汚しながら読む」という、
私のモットーを忘れるところだった。
1970年に刊行されたこの本、
『記号の国』
1966年に初めて日本に滞在し、
日本に恋したロラン・バルトの、
日本に関する文章。
そんな『記号の国』の訳者・石川美子さんの、
翻訳・解説は、
ロラン・バルトに恋していなくては、
とてもできないであろうほど、
質が高く、丁寧で、崇高。
あえて、
フランス語の原文ではなく、
日本語訳で読むことができ、
誇りに思えたのは、
これが、はじめて。
言語、料理、箸、すきやき、
てんぷら、パチンコ、都心、
地図、駅、包装、文楽、
おじぎ、俳句、顔、全学連。
一見、なんのつながりもないようなテーマごとに、
「中心のない国、日本」を、
丁寧に、謙虚に、
それでいて、
日本刀のように潔く論じていく。
「記号とは裂けめであり
それを開いても
べつの記号の顔が見えることである。」
批評家・思想家としてのバルトが最も恐れたこと、
それは、
ひとつの意味が「真の」意味として、
「真実」として固まってしまうことだった。
ある作品が『永遠』であるのは、
さまざまな人間に唯一無二の意味を押しつけるからではなく、
ひとりの人間に対しても、多様な意味をほのめかしてくれるからである。
(ロラン・バルト『批評と真実』「複数的な言語」より 石川美子・訳)
この意味で、「中心のない国・日本」は、
バルトのその後の作品に変化をもたらすことになる。
たとえば、歌舞伎の女形の化粧に関して、
バルトは、以下のように書いている。
「真実はただ不在化されているのである。
俳優は、その顔において女性をよそおっているのではなく、
まねているのでもなく、ただ女性を意味しているだけ。」
(『記号の国』「書かれた顔」p.142)
この「真実の不在」こそが、
「ひとつの意味」に対する、
「もうひとつの意味」を、
歓迎するすきまをつくってくれる。
だから、バルトの文章は、
優しい。
日本的に言うなら、
懐がとても深い文章。
小難しそうな文章に、
身体一つで立ち向かおうとしてしまう癖のある、
世間知らずで、
厚かましすぎる私の欲求を、
いつも満たしてくれる。
『記号の国』に関して言うなら、
単純に、
自分の国を、
伝統や民族に回帰することなく、
この国で、
朝起きてから、寝るまでの日常を、
見直してみたいという、
強い欲望にかられる。
普段、何気なく通り過ぎている、
渋谷の人だかりも、
ほぼ1日3食使っている箸も、
通りの名前をあてにしない目印だらけの地図も、
てんぷらも、
すき焼きも、
あなごも、
なにもかも、
もっともっと触れたいと思う。
好きな人ができて、
時間が過ぎるのがとてもはやくて、
話しても話しても、
話足りない、
あの愛おしい感じ。
これから、
日本を出る人、
日本を出たいと思っている人、
日本を出ていた人、
日本とちょっと距離ができるすべての日本人に、
心からオススメする一冊です。