脇役・レ・ミゼラブル

帝国劇場で毎年ロングランされている、
あのかの有名なミュージカル、
『レ・ミゼラブル』
原作は、フランス文学の巨匠ヴィクトル・ユゴー。
レ・ミゼラブル(les misérables)とはフランス語で、
「惨めな人たち」「哀れな人たち」という意味になります。
そして、私にとって、
ミゼラブルすぎる1週間が過ぎました。
3週間のスタージュのあと、
本番まで2週間というところで、
配役が発表され、
私は、予告通りの「脇役」
あらかじめ、
いまの状況で17世紀のモリエールの台詞は、
難しすぎるから、
言葉で苦しんでほしくないと、
演出家にいわれていたものの、
やはり、がっかりしてしまう。
2013年、
コンテンポラリー演劇では、
めったに「脇役」なんて表現は、
使われなくなりましたが、
本番で、脇役を演じることよりも、
稽古、つまり、人生において、
脇役の時間を過ごすことこそが、
ミゼラブル。
たった12人しかいないクラスメートの中でも、
平等なんて、
あり得ない。
頭ではわかっていても、
どうにもできないから、
ミゼラブル。
誰のせいでもないから、
ミゼラブル。
となりで必死に頑張っている人を、
うっとり羨ましく、
ついつい恨めしく、
横目で見ながら、
ミゼラブル。
しまいには、
台詞が少ない上に、
私が日本人であることを、
あえて強調してくるような演出に、
私の言葉のアクセント、
そしてアジア人としての容姿を、
目立たなくしようとしているとしか思えず、
ミゼラブル。
光があるところには、
必ず、
影ができる。
主役がいるところには、
必ず、
脇役がいる。
演劇における配役は、一回きりだけど、
人生に関しては、
配役の連続。
あくせく前を向いて、
主役のバトンを受け取ろうとする前に、
じんわり苦くて、
すこし乾燥していて、
やけに首のところがちくちくするセーターみたいな
「脇役・レ・ミゼラブル」を、
快くまで満喫してみせるのだ。
こんなにも、
自分と向き合わざるを得ない時間って、
なかなかないから。
※おまけ
ちなみに、そんな私の脇役処方箋は、
日本テレビ『エンタの神様』に出演し、
当時から心から尊敬していた
『アンジャッシュ』と『インパルス』の動画を観ること。
「笑い」というものが、
いかに文化価値のあるものかということを
いつも再認識し、
そっとふるさとに帰ったような気持ちになる。
「笑い」とは、
バックボーンの共有を主に必要とするため、
再生産することがなかなか困難。
だからこそ、
日本のお笑いは、
いつでも私に、
暖かくて、居心地が良すぎる、
日本の冬の「こたつとみかん」を運んで来てくれる。
最近でいうなら、
キングオブコント2013王者『かもめんたる』における、
演劇的ドラマツルギーの精密さから、
日常からの狂気へのもっていき方まで、
毎度度肝を抜かされる。
コンビ名のセンスも抜群だと思う。

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