私の裸は、誰のもの?

今年は、ピエル・パオロ・パゾリーニやドイツ現代戯曲を授業で多く扱ったせいか、
性的なシーンを創作することがかなり多かったことに気づきました。
先生は、初回の授業で、
役者が性的なシーンを演じる上で、
最も美しいもの、それは、
”la pudeur” (羞恥心)
である、と言っていました。
知らない人に、自分の下着姿を見られることだったり、
他の俳優とキスしているところを見られることだったり。
性的なシーンが、
舞台芸術において難しいのは、
観客席という、完全な「公」的空間と、
俳優が性的シーンに持ち込む究極の「私」的空間の、
温度差によるものだと思う。
この温度差から、自然に生まれる”la pudeur” に、
自然に付き添って、創作していくことが、
私にとっては、初めてのことで、
8ヶ月間かけて、受け入れて、そして、楽しめるようになった。
それでも、演出サイドとして、
作品を作っていくときは、
事前に、お互い、
「嫌じゃない?」と確認するのが、
暗黙の了解になっています。
つまり、
お風呂でも、
舞台の上でも、
「私の体は、私のもの。」
つい、先日、クラスで話題になったのが、
4月4日に欧州各地で行われた
トップレス・デモ「国際トップレス聖戦の日(International Topless Jihad Day)」
このデモは、ウクライナの女性権利団体「FEMEN」の呼びかけで起こったものです。
http://femen.org/
そもそもの事の始まりは、facebook
19才チュニジア人女性アミナ・タイラー(Amina Tyler)さんが、
「私の体は私自身のもの。誰かの対面のためのものではない」と、
上半身に書いて、裸体をネット上で公開しました。
フランスの新聞Libérationの記事
http://www.liberation.fr/monde/2013/03/21/amina-premiere-femen-de-tunisie-declenche-la-polemique_890275
彼女の両親は、彼女の行為を恥じて、
彼女を1ヶ月以上監禁し、
さらに、イスラム教指導者は、ファトワー(宗教的訓令)を発し、
彼女に、死刑を宣告した。
現在でも、facebook上で『SUPPORT AMINA!』というページがあり、
たくさんの人がトップレス写真を自ら公開し、
アミーナさんの行為を支持している。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.174777702673472.1073741834.121629674654942&type=1
「私の体は、私のもの。」
毎日見ている、
自分の洋服の下の体。
自分が唯一、確実に所有しているものと言えるのかもしれない。
どんなに大きな権力や、
たくさんの視線に晒されても、
決して、
自分の身体の所有者であることを、
やめないこと。
宗教を超えて、
役者が舞台で、
服を着てようが、裸だろうが、
自分の身体を、大勢の目に晒すという行為に、
大きな可能性と同時に、
同じくらい大きなリスクを感じました。

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