『世界の小劇場 〜vol.1ドイツ編〜』@神奈川芸術劇場

昨日は、リミニ・プロトコル来日ということで、ピカピカの神奈川芸術劇場へ行きました。
JRの関内から、徒歩15分とかいてあって、ちょっと行きにくそうと思いましたが、
10分位で行けたと思います。
桜木町からも歩けそう。
$Takenaka Kyoko web
http://drifters-intl.org/jp/?cat=12
マチネ、ソワレ続けて、リミニ・プロトコル、アンドカンパニー&Co.を観劇。
チケットを忘れるという失態を犯してしまったのに、
両公演とも再発行してくれたプリコグに感謝です。。
リミニの作品を観るのは、今回で5作目ですが、
相変わらずの、超すっきりで超整然としたドキュメンタリー演劇で、
生まれてすぐドイツの白人家庭の養子になった韓国生まれの女性が本人役で、自分の生い立ちを語ります。
この超個人的とも思えるような行為が、
リミニの手にかかったとたんに、「公的な」パフォーマンスに生まれ変わってしまう。
脚本は、忠実に本人からのインタビューに基づいて作られていて、
脚色しなければしないほど、
観客はある個人の人生としてではなく、社会現象として捉えることが出来てしまう。
これは、完全にリミニ・マジックだと思います。
一番、それを感じたのは、クンステンフェスティバルで観た「CALL CUTTA IN A BOX」という作品。
http://www.rimini-protokoll.de/website/en/project_2766.html
$Takenaka Kyoko web
観客は上記のような、部屋にたった一人で通されます。
私のときは、もうちょっと綺麗なオフィスでしたが、公演場所にあわせて作るみたいです。
そこで、紅茶を飲んでいると、電話が鳴ります。
そして、きっかり60分、インドのコールセンターに勤めている男性とスカイプでお話ししました。
彼の家族のことや、仕事のこと、
途中プリンターから、家族の写真まで送られてきました。
歌が好きだそうで、日本の歌を電話ごしに歌ってあげました。
そして、電話が切れるときの切なさと、これは上演時間というものが存在する「演劇作品」だったのだと認識したときの感覚は忘れられません。
これは、先進国が人件費削減のためにコールセンターを発展途上国におき、
24時間対応させているという重たい問題を、さらりと実体験させてくれた訳です。
しかも、一対一なので、彼らに親密な関係を抱いてしまうことは当たり前で、
そんな当たり前の人間の本能のようなものを小道具に、
 
無理なく自然に、問いを投げかけてくる。
あとは、観客におまかせ。
答えは、出さない。
アンドカンパニー&Co.『道化の霊廟』は、
とにかく、強い。
これだけの影響力があると、
もし、政治家か演出家、どっちかになれる、といわれた時、
真剣に悩むと思いました。
社会や政治と、あれだけ対等に地位を確立できる可能性があるから、
芸術は続いていかなければいけないんだと痛感しました。
舞台上は、まさしく「メタファ」の連続。
中央に飾ってある赤い星や、卵の着ぐるみ、ラップ、ミッキーマウス、ビートルズ…
私の知識では、それらがそれらとしか映らないことが、悔しくてしょうがなかったです。
たとえば、真っ赤なリンゴが目の前にあって、
でも、見る人によって、リンゴがリンゴではなくなるということ。
一つのことがらが、100人の頭の中で100通りになること。
それが、一つの空間で、同じ時間に発生していること。
改めて、演劇という表現媒体の魅力を実感しました。
演劇、好きだな、わたし。
物販で、平田栄一朗さんの『ドラマトゥルク』の本を購入。
$Takenaka Kyoko web
ドイツ演劇のしっかりとしたコンテクストの立役者の存在を認識しました。
ドラマトゥルクの役割は、in between(あいだ)出そうです。
俳優と演出家、戯曲と舞台美術、社会と作品などなど。
演劇のさまざまな要素の間にたち、外側から導いていく。
現代の社会を知り、歴史を知り、将来を考え、
どんな作品を、どんな場所で、どんな人たちに向けて発信していくか。
ドイツ演劇は、まさに「会社」を連想します。

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