「花」がある人 〜世阿弥に学ぶ審査員席〜

昨日まで、受けるはずだったオーディションに、
何故か審査員側として参加。
どうしても、8区の先生の授業を受けたかったので、
新入生に混じって、オーディション受けようと思っていたのですが、
先生と話した結果、
もう、あなたの作品は、観てるから必要ない、と言われ、
むしろ、お手伝いに来て、と頼まれました。
去年の同じ時期、
私も死ぬほど準備して、
死ぬほど緊張して、
はじめてのコンセルバトワールの試験に挑んだので、
それを思い出して、
受験生のみんなも同じ気持ちなんだろうか、とか、考えながら、
やっぱり、
私が緊張して、
受験生よりも早く会場に着いてしました。
日本人。
 
さて、本日、8区の1次審査2日目、
午前の部、3時間で30人が受験します。
日にちによって、差はありますが、
こんな感じで毎日午後の部、午前の部と全5日間続くそうです。
それぞれが、
戯曲からの3分間の抜粋シーン(モノローグは不可)と、
3分間の自由課題を用意してきます。
そのあとに、2、3分くらいのちょっとした面接。
それにしても、
本当に貴重な体験でした。
古典など、難しい戯曲になってしまうと、
私には、一回聞いただけじゃ細かい内容などは、
理解することが出来ないので、
自然と判断基準になるのが、
「花」があるかないか。
フランス語では、
il y a quelque chose.
(あの人は、なんか、持ってる)
と、いう表現をするようです。
私が、あの人は「花」がある!と、言いたいときに、
他の人がこの表現を使っていたので、
おそらく、
言いたいことは同じだと思います。
なぜなら、「花」がある人に限って、
評価基準を説明できないからです。
どうしても、見て(魅る?)しまう。
「花」がある人を、パートナーに選んでしまったりすると、大変。
受験者に全く、目がいかなくなってしまうから。
でも、この「花」
説明できないことには、
努力の仕様もない。
しかも、たいてい「花」を感じる瞬間は、最初の2、3秒、
もっと言えば、
ドアを開けて、審査員の待つスタジオに、
一歩足を踏み入れたときなので、
逆に一定のキャリアがある人の場合、
この不可抗力的な力を持つ「花」だけで、
判断されたのでは、たまったものではありません。
そこで、早速、家に帰って、
場所と時をつなぐインターネットで、
世阿弥の『風姿花伝』を検索。
一瞬で欲しかった文章が読める。
『風姿花伝』 第七 別紙口伝
最終章、第7部にて、
「花」に関してかなり詳しく言及されています。
http://www.geocities.jp/actartcreator/shiryoushitzu/kaden-honbun.html#7
まず、「花」の正体は??
(以下引用)
花と、おもしろきと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。
いづれの花か散らで残るべき。
散るゆゑによりて、咲くころあればめづらしきなり。
能も住するところなきを、まづ花と知るべし。
住せずして、余の風体に移れば、めづらしきなり。
ぱっと、頭に浮かんだのが、
催眠術にかけられる若いOLの役を演じた女の子。
顔を真っ赤にしながら、
叫んでいたけど、
その「潔さ」といったら、圧倒的でした。
まさしく、散ることも、住するところを失うことも、
恐れない心意気の強さ。
(以下引用)
因果の花を知ること。極めなるべし。一切みな因果なり。
初心よりの芸能の数々は因なり。
能を究め、名を 得ることは果なり。
しかれば、稽古するところの因おろそかなれば、果をはたすことも難し。
これをよくよく知る べし。
この文に、通じるのは、
オペラを勉強している訳でもないのに、
自由課題でモーツァルトの『魔笛』を熱唱した男の子。
テクニックに関係なく、
自分の満足のいく稽古が確実に行われている。
そこに、生まれる自分の芸に対する、
肯定性には、もはや、誰も抗うことはできない。
(以下引用)
秘する花を知ること。
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。
この分目を知ること、肝要の花なり。
有名なこの一文。
この文章が、感覚として理解できるのは、
やはり私が、日本人だからだと思う。
「花」があったと感じた受験者たちに共通していたのは、
作品発表後の、数分の面接。
自分のやったことを、
過大評価する訳でも、
へりくだる訳でもなく、
自分にぴったりの、
クオリティーと、
値段と、
サイズ、
の椅子に、
ゆったりと腰をおろして話している感じ。
(以下引用)
されば、この道を究め終りて見れば、花とて別にはなきものなり、奥義を究めて万に珍しきことわりを、われと 知るならでは、花はあるべからず。
世阿弥は、この章で、
『風姿花伝』全体を以上のように、
締めくくっています。
これこそが、まさに、「花」の正体なんだろうな、
と思いました。
自分が精魂かけて、
ここまで書き上げた偉大な書物の結論として、
「花」と言っても、べつに、特別に存在するものではないよ。
まあ、知りたかったら、やり続けて、自分で見つけるしかないんじゃん?
と、
さらりと、優雅に突き放されて、
そのたくましい背中を見せられた感じ。
私の結論、
昨日、「花」があった人が、
今日も、「花」があるとは限らない。
ただ、
追求する心があれば、
1週間に1、2度現れていた「花」を、
1週間に3、4度に増やすことは出来る。
そして、一生をかけて、
「『花』のある人(人生)」を目指す。

手書きの手紙は、世界を変える!!

長い長い夏休み。
フランスは、まだ夏休みが終わりません。
新学期は、10月の頭からぼちぼち始まるようなのですが、
そろそろ、パリの区のコンセルバトワール(conservatoire d’arrondissement)では、新入生受験の季節となりました。
私は、6月に県のコンセルバトワール(Conservatoire à rayonnement régional)に合格したので、
区のコンセルバトワールは卒業なのですが、
演劇の場合、
ちょっとややこしいのですが、
パリのConservatoire à rayonnement régionalは、
「特別課程」という形で、
フランス全体で11校あるうちの1つである、
パリの高等コンセルバトワール(conservatoire supérieur)
L’ESAD (École Supérieure d’Art Dramatique de Paris) の付属校扱いとなります。
そして、実質的には、
区のコンセルバトワールの先生と、
ESADの先生がそれぞれの科目を分担して行うため、
必ずしも、区のコンセルバトワールより授業の質が高いとは言えません。
たいてい、区のコンセルバトワールは、一人の先生が全日受け持つことが多いので、
その分、いろんな先生の授業を少しずつ受けるより、
授業内容も安定するように感じます。
もちろん、
Conservatoire à rayonnement régionalの場合、
conservatoire supérieurの先生方の集中講義がかなり充実しているそうなので、
それは、楽しみなのですが。
そこで、私は、ついつい欲張って以前見学に行って、
一目惚れした8区のコンセルバトワールの先生に、
6月、アポをとってみました。
8区の先生は、とっても人気で、
すでに、ほかのコンセルバトワールに在学中の生徒の中でも、
8区に転校を願い出る生徒が多数だっため、
「転校試験」が行われることになりました。
つまり、1年生から新入生として入学するのではなく、
2年生もしくは、3年生から始められるということです。
私も、この受験に参加したのですが、
そのときは、試験としては受かったものの、
Conservatoire à rayonnement régionalと平行して入学することを断られてしまいました。
しかし、だからといって、
私の場合は、学生ビザがConservatoire à rayonnement régional以上でないと、
更新できないという、
大きな条件があるので、
Conservatoire à rayonnement régionalを辞退することは出来ません。
そこで、8区の先生にその旨を伝えたところ、
もう一度会って、話をしてくれることとになりました。
そして、今日がその約束の日だったのですが、
なんとしても、
私の熱意をしっかり伝えなければと思い、
以前、授業見学させてもらったときに感じたことや、
ビザのこと、
自分が、来年度、どうして行きたいかなど、
辞書で調べながら、
便箋に手紙形式に綴って、
準備して挑みました。
手紙を取り出したとたん、
今まで厳粛な印象だった先生が、豹変。
恥ずかしがりやさんなの?
と、大爆笑していました。
言い忘れることがあるといけないので、
準備してきました。
と答えると、
「なんて、可愛いの?」
と言われ、いきなり距離が縮まった感じ。
手紙のフランス語の間違いまで、丁寧になおしてくれて、
先生の方からConservatoire à rayonnement régionalの先生にも、
取り合ってくれることになりました。
人にプレゼントをもらったとき、
嬉しいのは、
プレゼントの中身より、
その人が、自分のために、
悩んで、そして、選んでくれた「時間」
たぶん、手紙もおなじ。
内容より、
その人のことを考えていた「時間」
でも、やっぱり、
パソコンの活字より、
深い深い水面下の「時間」が
すいすい澄んで、
見えやすいみたい。

24年間監禁事件に関する演劇(アビニョン演劇祭通信vol.10)

もうとっくに、パリに戻って来ているのですが、
アビニョン演劇祭のINで観た作品のなかで、
どうしても触れておきたかった作品があったので、
書いてみようと思います。
今年のアビニョン演劇祭のINは、
歴代稀にみる豪華なアーティストが集結していました。
最終日、今年のアソシエイト・ディレクター:サイモン・マクバーニーを迎えての討論会の際も、
今年のプログラムを讃える意見と、
安全牌ばかりとっているという批判の声と様々でした。
そんな著名なアーティストが並ぶプログラムの中で、
いまいち売れ行きが悪かった作品。
『Conte d’amour』(愛の物語)
http://www.festival-avignon.com/fr/Spectacle/3383
フランス語研修を一緒に受けていた生徒の中に、
オーストリアで劇場のプログラマーとして働いている女性がいて、
彼女の勧めでとりあえず、
チケットを購入してみました。
なんと、上演時間3時間30分。
それだけでも、ちょっと躊躇ってしまう。
スクリーンショット(2012-08-04 0.20.43)
会場は、アビニョン市の城壁の外で、
専用のバスで20分ほどのところだったのですが、
途中で帰る人が多数発生する事がすでに予想されていたため、
休憩もないのに、
上演中に市内に戻るバスが出たそうです。
親切すぎる…
MARKUS ÖHRNを中心とした、
INSTITUTET(スウェーデン)と NYA RAMPEN(フィンランド)の
カンパニーの共同制作で、
今は、ベルリンを拠点に活動しているアーティストのようです。
題材となっているのは2008年に起きたフリッツル事件(Fritzl case)
42歳の女性が、実の父親に24年間、
自宅の地下室で監禁されていたところを発見されました。
スクリーンショット(2012-08-04 0.21.00)
彼女は、父親からの性的虐待により、
7人の子どもを産み、
1度流産しました。
ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/フリッツル事件
3時間半にわたり繰り返される、
暴力と愛撫。
観ているときは、だんだん頭が麻痺してきて、
もう何も考えられない状態で、
実際、何人もの観客が席を立って、
劇場を去っていたのですが、
私は、一瞬も目が離せませんでした。
さらに、この作品の恐ろしかったのが、
時間を増すごとに、
上演中に起こっていた出来事が、
どんどん明確に、かつ色濃くなっていくこと。
誰かを他の人より、
少し強く愛する気持ち。
日常生活のどこにでも潜んでいるような、
そんな慎ましくて、ちょっとくすぐったいような感覚は、
何かの拍子に、
誰かを他の人より、
ささいなことで憎む可能性を孕んでいる。
隔離された部屋で生まれた、
彼らたちの、
彼らたちによる、
彼らのためだけの、
常識、
習慣、
正当。
「服従」と「支配」
むしろ、憎しみの上にだけなら、
成立してもいい。
ただ、愛しみの上に存在することの、
恐ろしさは、
想像しただけでも背筋がぞっとする。
フリッツル事件で、
自分の娘を監禁した父親は、
娘を24年間監禁していた地下室に、
「冷蔵庫」を設置した。
この行為をもたらす「感情」さえなければ、
こんな事件は起こらなかっただろう。
でも、ややこしい事に、
この「感情」を持っているのが、
私たち、人間だ。
この作品は、2013年2月に、
パリ郊外にあるジュヌビリエ国立演劇センターにて再演されます。
http://www.theatre2gennevilliers.com/2012-13/fr/programme/75-conte-damour-markus-oehrn
ジュヌビリエ国立演劇センター(THÉÂTRE 2 GENNEVILLIERS)は、
青年団の作品が多数、
上演されているところで、
パリ付近でも、
コンテンポラリーに属する演劇に関しては、
トップレベルのプログラミングと言われています。
人を愛しく思う気持ちの教科書は、
人に愛しく思われること。
私があなたを、愛しく思う事が、
あなたが他の誰かを、愛しく思う気持ちに、
つながりますように。

涙に関する浄化作用について

涙は、原因によって味や量がちがうらしい、
ということを昔どこかの本で読んだ。
例えば、怒りや悔しさのため、
流れた涙は、量が少なく、
塩味が濃い。
逆に、悲しいときや、嬉しいときに、
流れた涙は、量が多く、止めどなく流れるため、
味は薄い。
私は、誇れることではないけれど、
割と涙に関しては、
プロフェッショナルだと思う。
止めるも続けるも、
コントロールが可能だし、
上記の考察に関しても、実体験を持って正当性を指示できるし、
マスカラが落ちないように泣くことだって出来る。
なにかの小説に、
人間一人に対して一生のうちに流れる涙の量は決まっていると書かれていたけど、
私は、そうは思わない。
なぜなら、涙がいつも正当な理由を持って流れるとは限らないから。
つまり第三のパターンがある。
「排泄的涙」
身体から、出るものはたいてい汚い。
身体から分離したとたんに汚物になるから不思議。
涙に関しては、
身体から離れても、
詩的な香りをぎりぎりまで保っていられる方だと思う。
それでも、涙を排泄と捉えるなら、
人間が生きて行く上で必要不可欠な行為といえるだろう。
だから、「泣ける」映画!とか、「泣ける」小説!とか、「泣ける」ドラマ!とかが、
世の中にはびこっている。
私は、今のところ、
いい年して人前で泣くなんて恥ずかしい行為を、
必要不可欠な排泄的涙として続けるつもりだ。
「泣く」という行為は、実は想像以上に体力を要する行為なので、
どうせそのエネルギーを使うなら、
他人事より、「自分事」で泣きたい。
そのためには、
人生をよりドラマチックにするための日々の絶え間ない努力が必要なようで、
いつまでたっても脆弱で依存心の強い精神を、
恨みつつ、愛しく思いながら、
涙を流して、
再生していく。
こんなとき、
芸術を志すものにもかかわらず、
アリストテレスのカタルシス論を疑ってしまう。
「フィクション」としての悲劇に浄化作用はあるのか。
「フィクション」としての悲劇にしか浄化作用はないのか。
現実は、決して「フィクション」に負けない強度を持っている。
その現実を知っているアーティストだからこそ、
現実世界で流れる「排泄的涙」を超越しうる、
「フィクションによる涙」を呼び起こすことは出来るのかもしれない。
どんなに、
美しく、
無垢で、
洗練された領域なのか、
と想像に胸を膨らませる。

アーティストに物申す。(アビニョン演劇祭通信vol.9)

7月28日、2012年のアビニョン演劇祭が終わりました。
各劇場には、各新聞の評がずらり。
スクリーンショット(2012-07-30 23.39.34)
フェスティバルINの方をメインに私は観劇したのですが、
中でも印象に残っているのが、
公演外の無料イベント。
基本的には、各アーティストが観客と出会う場、
つまりアフタートーク的なイベントを、
公演とは全く関係ない時間に行うのですが、
これが、なんとも刺激的。
私にとっては、公演以上にスペクタクルでした。
人気のある演目では、
開始時間の1時間近く前から、席とりがはじまり、
100人以上の人が、
わざわざこのために集まります。
そして、アーティストの意見を聞くためというより、
むしろ自分の感じたことを、
アーティストにぶつけにいきます。
開始と同時に、数人がさっと手をあげ、
マイクを求め、
それぞれの思いやアーティストへの質問を、
熱心に語ります。
ここにいると、
観客は受信者という、
受け身の立場ではないと、
改めて思い知らされます。
こまばアゴラ劇場の支援会員の冊子に書かれていた、
平田オリザさんのことば、
『観ることが、育てること』
http://www.komaba-agora.com/shien/2012/
ここにいる観客のおかげで、
私は、素晴らしい作品を見ることが出来たんだ、
と、アーティスト以上に、
わざわざフェスティバルのためやって来た外国人観光客に、
バカンスを楽しみに来た老夫婦に、
アビニョンの地元の会社員に、
ありがとうございます、
と言いたくなります。
この熱い気持ちがあるかぎり、
演劇なんて専門外のマダムも、
演劇批評家のムッシューも、
そして、
アーティスト自身も、
ここでは、すべてが平等。
1つの空間に集まって、
同じものを観て、
ばらばらのことを感じ、
それを発言する権利を持っています。
こんなことを執行できる観客を相手に、
作品を発表すること。
シンプルだからこそ、
最も、
残酷な芸術だと思います。
私は、1年間コンセルバトワールで、
とにかく受け身でいられないということに、
苦しみ続けました。
しゃべれなくても、
そんなこと一切関係なく、
稽古場に、クラスに、グループに、
創作の場に存在する限り、
とにかく発言を求められます。
これは、すでに劇場という場所の「縮図」だったのだと発見。
劇場空間としての議会で求められることは、
おそらく、
まずマジョリティを疑うこと。
大好評の公演に対して、
自分が満足できなかった時こそが、
チャンス。
我慢できず、
公演中に劇場を出ていったおじさんが、
翌日、わざわざこの企画に出向いて、
大絶賛だったまわりの観客のブーイングの中、
その演出家にひたすら、
自分の見解を語っていた姿に、
思わず「ピュア」を感じました。
観客ひとりひとりが、
自立せざるを得なくなるような公演は、
成功と言われても、
失敗と言われても、
世界レベルの作品に違いない。