【FTA 2023】特権と責任

FTAの最終演目は、ブラジル人の振付家、リア・ロドリゲスがコロナに制作した作品『ENCANTADO』

注目作品観劇の数日前に、アーティストと観客のトークが予定されていた。FTAのディレクターふたりは、国際芸術祭という場において、メディエーションプログラム(アーティストトークやワークショップ)の存在は、公演プログラムと同じくらい重要だと話していた。実際、先住民の問題をはじめ、作品が生まれたコミュニティーの文脈を理解していないと、なかなか作品にうまく触れられないということは、往々としてあった。文脈がないと、鑑賞体験がただの「好き」か「嫌い」に留まってしまい、それは、分断を助長することにほかならない。だからこそ、国際芸術祭は、観客が作品の文脈を理解するためのケアを決して忘れない。

実際、私も、観劇以上に、メディエーションプログラムのとりこになっている。アーティストの住んでいるコミュニティーの話を聞くだけで、作品が違って見えてくるから、不思議だ。

リア・ロドリゲスが、アーティストトークで重点的に話したのは、Privilege(特権、優遇)とResposability(責任)に関して。
彼女は、20年前、ブラジルのスラム街、マレ地区にクリエイティブセンターとダンススクールの設立したことでも有名だが、それは、自身が、中流階級のシスジェンダーである白人女性であるというこに対して生じる特権にたいしての責任を果たすためだという。

この「Privilege」という単語は、私たちのグループでのディスカッションでも度々話題になった。実際今年のグループは非常に多様性に富んでいて、国籍、ジェンダー 、人種、階層など、多角的にそれぞれが自分が持っている「Privilege」に気づくこととなる。私たちは、マジョリティーにいる限り、自身が積み上げてきたものや経験と関係なく、単に自分が属するグループのおかげで社会的に優遇されてきた、という事実自体に気づかないことが多い。

リア・ロドリゲスは、ある文脈において、自分は相手より優遇されていると気づいたとき、卑屈になったり、罪悪感を感じるのではなく、そこに生じる「責任」を果たすのみだ、と言っているのだ。

彼女が自分がもつ「優遇」に対してとった「責任」とは、行動すること。アーティストが普段行かないような場所で、自分とは違う考えを持つ人々と出会い、同盟を結ぶこと。その行動の過程で、彼女が一番大切にしているキーワードが「ズレ」と「脱中心化」だそうだ。

リア・ロドリゲスのトークにいたく関係を受けたメキシコ人のアーティストが、私たちの2週間におよぶプログラム最終日に、「特権と責任」というエクササイズを考案してきた。まずは、1分間、それぞれが自分の持っている特権について考える。それは、自分にとってごくごく当たり前のことでいい。例えば、日本人である、とか、電気が使える、とか、字が読める、とか、フランス語が話せる、などなど。その特権を、ジェスチャーに置き換え、身体を動かしてみる。そのあと、グループの前で、「私は優遇されている。なぜなら(特権をもっていること)することができる。だから(その特権に生じる責任として社会に還元できること)をしようと思う。」というフォーマットに当てはめて、自分が優遇されているからこそ気づいていない格差や不平等に意識的になろうというもの。
そして、フェスティバル最終日に観た『ENCANTADO』。頭で考えることを一切拒否するようなエネルギーと破壊力で、ただただ、パフォーマンスに飲み込まれていた。彼らにしか出せないであろう身体がそこにくっきりと、そして鮮やかに提示されていた。今年67歳になるリア・ロドリゲスの「責任」をめぐる行動はまだまだ続く。

リア・ロドリゲスが1992年にスタートさせたブラジルのコンテンポラリー・ダンスの祭典「パノラマ・フェスティバル」に関して:https://performingarts.jpf.go.jp/J/pre_interview/1202/1.html

【FTA2023】カナダにおけるジョージ・フロイドを知っているか。

芸術作品に触れたとき、その作品が持つ文化的社会的背景を踏まえた美的経験と踏まえない美的経験があると思う。昨晩観劇したカナダ先住民のアーティストの作品をテーマにしたディスカッションはおおいに盛り上がった。それぞれが、自分の文脈に合わせて、感想を共有したあと、ぜひカナダ圏のアーティストに感じたことを詳しく聞きたい、と提案があった。カナダは広いので、住む地域によって、彼らが受けてきた植民地の歴史教育も様々だそうだが、それぞれが捕捉しあいながら、カナダにおける先住民の文化的社会的文脈を話してくれた。

2020年に、先住民族アティカメクのジョイス・エチャクワンさんが病院で亡くなった。彼女は、亡くなる直前に、facebookに動画を投稿していて、そこには、看護師たちから侮辱され続ける様子が映っていた。改めて、先住民への差別は終わってないということを、カナダ全体が思い知る事件となったそう。

HUFFPOSTの記事:「お前は最高に頭が悪い」先住民族の女性、病院で人種差別を受けた後に死亡。Facebookに動画を投稿していた

インターネットで出てくる情報から私もだいぶ勉強していたが、やはり、生身の人間から聞く言葉の威力は強く、中でも、フランス語圏と英語圏での認識の違いにっは驚かされた。フランス語圏のケベックでは、悪いのはイギリス人で、フランス人は先住民に優しかったと、学校で習ったり、バンクーバーなどの英語圏における北米インディアン迫害よりはまし、という認識がかなりあったそう。実際、学校でカナダの先住民迫害の歴史を教えるようになったのも、カナダ政府が2008年同化教育に対し正式に謝罪した以降のことらしい。

今回見た作品は、英語圏の先住民による作品だったのだが、非常に秀逸な構造で、すでに公演情報から作品は始まっているので、作品の内容は口外してはいけないというアーティストとの上演後の約束のため、記述できないのが残念。ただ、いつか見る機会があれば、この作品のために、海を超える価値はあると思う。私は、直接的な当事者ではないが、観客のリアクションからもたくんさんのことを感じる仕組みになっている。そして私は、カナダから8000km以上離れたアイヌ民族のことを考えていた。

William Shakespeare’s As You Like It, A Radical Retelling by Cliff Cardinal

https://fta.ca/en/event/as-you-like-it/

現在でも、先住民を、アルコール中毒、ドラック、税金を払わなくていい(法的に)などの理由から、差別している人がたくさんいる。中等教育に関しても、先住民の子供たちは、無料で学校にいくことができるが、親たちが、以前「寄宿学校」にいれられ同化教育をさせられ、自分の家族と会話ができなくなってしまった恐怖から、自分の子供たちを学校に入れることを嫌がる傾向にあるそう。となると、教育水準が低いまま成長してしまうので、いい仕事につけず、ホームレスになってしまうという構造があるそう。同世代のカナダ圏のアーティストから、すべて彼らの言葉で聞いた。

話し足りないまま、時間切れになってしまい、後ろ髪をひかれながらも夜の観劇にいこうとすると、カナダ人のアーティストが走ってきて、大事なことをいうのを忘れたという。先住民女性に対して、つい最近(2017年)まで、出産の際に、強制的に子供を産めない体にする手術が行われていたとのこと。

これだけのことを学べる観劇体験はなかなかない。

【FTA2023】障害者っていう言葉をつかうのやめない?

芸術批評を行う際の言語的リテラシーを振り返る機会に何度も遭遇する。本日は、「障害者」及び「知的障害者」という言葉に関して。前日に見た作品の中で、健常者が障害者を演じている演出があり、グループで議論が巻き起こった。私も、文化の盗用に伴う非常に強い違和感を感じ、バック・トゥ・バック・シアターの観劇体験を踏まえ、自分の考えを述べた。知的障害を持つ方を称するときに、実際に舞台で使用されていた「メンタル・ハンディーキャップ(英:disability )」という言葉を使い、グループで議論していたのだが、ハンディーキャップという言葉が想起させてしまう、ヒエラルキーの構造や健常者と障害者を隔てるニュアンスに違和感があるという意見があり、あるアーティストから、「ニューロ・ダイバーシティ」という言葉を使おうという提案があった。

「ニューロ・ダイバーシティー」とは、neuro(脳)とdiversity(多様性)を組み合わせた言葉で、すでに、日本の経済産業省でも提案されている。経済産業省のサイトによると、「特に、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害といった発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく、『人間のゲノムの自然で正常な変異』として捉える概念」との記述がある。つまりは、ノーマルに対して、アノーマルとして障害を位置付けるのではなく、単なる「違い」として捉えていこうというムーブメントである。そして、ニューロ・ダイバーシティは、神経学的差異をジェンダー や民族性、性的指向と同様に、特性として尊重されるべきと主張する。最初に違和感を言葉にしたのは、セネガルのアーティストであり、ニューロ・ダイバーシティという言葉の使用を提案したのは、トランスジェンダーのアーティストだった。

また、健常者の俳優が障害を持つ人の役を演じることを、欧米では「Cripping up(クリッピング・アップ)」といい、「Blacking-up(ブラッキング・アップ)」と同様に問題視されているよう。

事実的に多様性が担保されているグループでのこのようなやり取りの中で、いかに自分が複数の意味でマジョリティの「特権」を持ってしまっているかを痛感する。まずは、自身の特権を可視化することから。そして、嫌悪感を持った作品にこそ、己の観劇体験のフィードバックに時間をかけられることは、非常に贅沢なことだ。

【FTA2023】彼でも彼女でもない代名詞【iel】

FTAではすべての部署の人のネームカードに自分で選んだ代名詞が記入されている。私だったら、【she/elle】というところでしょうか。

英語圏では、he/she の他に、ノンバイナリー(性を問わない)な代名詞として、複数形のtheyが使用されているが、フランス語では、il(彼)/elle(彼女)に対して、ielが使用されている。

フランスでも2021年から正式に辞書に掲載されているが、フランスでくらいしていて、【iel】の表記を見ることはほとんどない。フランスから来ているノンバイナリーのアーティストに尋ねてみたところ、フランスはカナダに10年遅れをとっている、と笑っていた。カナダでは、アート業界以外でも、【iel】の使用が積極的に行われているようで、自己紹介のときにも必ず自分を指す代名詞を明確にする。フランス語の場合、英語に比べてさらに厄介なのが、代名詞が男性形か女性形かによって、形容詞や動詞も変化するので、【iel】の人たちは、代名詞をielにした上で、形容詞や動詞の活用は、男性形と女性形どちらに合わせるかということまで指定する。現在、フランス語圏では、ジェンダーを包括する配慮から提案された「l’écriture inclusive(包括書法)」とよばれる表現手段のレパートリーのようなものが提案されていて話題になっている。

(詳しくはFRENCHBLOOMで紹介されています:https://www.frenchbloom.net/tips/6410/)

私が【iel】の存在と数日過ごしてみての実感としては、自分が何も疑わずに35年間使ってきた代名詞【she/elle】に疑いを持ち始じめるということ。自分の生活圏のなかで、新しい言葉に出会うということは、自分のアイデンティティーにいい意味で「疑い」をもたらしてくれる。なぜ、今まで一度も【she/elle】に疑問を持つことなく生きてきたのか、ということが、非常に奇妙に思えてくる。実際、フェスティバル関係者には、【iel】を使用しているメンバーはたくさんいて、表記のおかげで風通しがいい。日本では、他人の個人的な部分にはなるべく触れない方がいいという感覚があったけど、それは、無意識に自分たちをマジョリティーとして位置付けていたからだと気づいた。マジョリティーにいる私が、マイノリティーの人々の生活圏に土足で踏み入ってはいけない、と。ヒエラルキーを通さずに、他者を捉えることは非常に難しい。しかし、繰り返し、【iel】を耳にしているだけで、確実に思考の変化がある。頭でわからないことも、身体はちゃんと吸収してくれてる。

ラジオカナダの【iel】に関する記事;https://ici.radio-canada.ca/jeunesse/maj/1841118/iel-pronom-robert-dictionnaire-non-binaire

【FTA2023】脱植民地勉強会

若手アーティストの11日間の批評合宿「International Rendezvous for Young Performing Arts Professionals and Critics」が幕を開けました!ファシリテーターアシスタントとして、オープニング朝ご飯会で挨拶をすることに。フランス語で。私の立場からしか届けられない言葉をと思い、私がFTA及びこの合宿に惹かれている理由を2点。まずは、脱植民地のテーマがはっきりと提示されていること。私は義務教育で、「近現代史」、つまり、日本の植民地の歴史を飛ばされた記憶がある。自分の親は、満洲の研究をしていたのに、自国の加害の歴史を知らずに、青年期を過ごしてしまった。その反省を30歳過ぎてから少しずつと取り戻している。もう一つは、私自身が2017年にこの合宿に参加した際、第二外国語でも発言権をしっかり持てるようになった場所だからである。平田オリザさんの言葉に、「言語的弱者は社会的弱者にほぼ等しい」という言葉があるが、10年間、言語的弱者として生きてきた身として、これはその通りだと思う。特に、創作の場を離れ、参加者が違いに意見を交わし合う今回のような場では、日本語で考えたり、話したりしている自分と中身は変わらないのに、一気に中学生くらいの知識レベルまで落ちてしまったような気分になってしまう。そして、言語の問題は、植民地問題と密接につながっている。だから、フランスを母語としない参加者に、絶対に自身の言語能力に対して「自己検閲」だけはしないでほしいと伝えた。「自己検閲」さえしなければ、あとはいくらでもグループが助けてくれるから安心して、と。第二言語話者にとって、日常会話とミーティングには、雲泥の差がある。私も、日常会話で話す分には、フランスで育ったと間違われるレベルだが、大勢の前で自分の意見を展開させるとなると、まだまだ赤ちゃんレベル。そんな私が言ったのだから、説得力があったと思う。

午後は、「脱植民地勉強会」からプログラムがスタート。カナダで活動するモーリシャス共和国のアーティストKama La Mackerelがファシリテーションを務める。まずは、「植民地ときいて何を思い浮かべるか」という質問が出た。皮肉なことに、フランス語話者が集まるこの多国籍なグループには、フランスの植民地だった国からの参加者が多数いる。コートジボワール、セネガル、アルジェリア、モロッコ。またスペインの植民地だったメキシコのアーティストなど、彼らが口火を切った。そもそも、植民地制度というものは、「文明化」の名のもとに行われる。自分たちとは違う所属を発見して、その人たちを自分たちのように「文明化」するプロセス。特に、現代の植民地問題において、犠牲になったのが子供たちである。カナダでは、1970年代まで、15万人におよぶ先住民の子供たちを強制的に親元から引き離し、キリスト教の「寄宿学校」で同化教育をしていた歴史がある。

「植民地制度が廃止されても、それぞれの身体に刻み込まれた暴力の歴史、そして、一度できてしまった権力によるヒエラルキーの構造は永久になくなることはない。権力構造というものは、いとも簡単に何かを隠し、何かを顕著化させてしまう恐ろしいもの。」とKamaは言った。中でも印象的だったのは、私たちが、社会で生きていく上で、「incomfort(不快、居心地のわるさ)」を感じる場所はたくさんある。でも、「incomfort」こそが、新たな気づきや知見をもたらしてくれることがある。だから、「incomfortable」な状況や場所に、自分の身を置くことを恐れるな、と。

これから10日間、「植民地」に関して、それぞれのバックグラウンドを持ったアーティストたちが意見を交わしていく。