『ヒロシマ・モナムール』@THÉÂTRE DES ABBESSES

パリ市立劇場のアベス劇場にて、
去年の静岡の「ふじのくに⇄せかい演劇祭2011」にて
招聘された作品『HIROSHIMA MON AMOUR』のパリ公演を観ました。
スクリーンショット(2012-04-21 21.58.24)
http://www.theatredelaville-paris.com/spectacle-hiroshimamonamourchristineletailleur-351
『ヒロシマ・モナムール』は、
フランスの女流作家マルグリット・デュラス(http://ja.wikipedia.org/wiki/マルグリット・デュラス)が脚本、
アラン・レネ、監督の映画「二十四時間の情事」で世界的に公開されています。
被爆地ヒロシマで出会った、
日本人男性とフランス人女優。
二人はそれぞれ、第二次世界大戦により悲しい「過去」を持っていた。
フランスでの、マルグリット・デュラスの人気は絶大。
人気というか、圧倒的に特別な存在。
例えば、戯曲にしても、
コンセルバトワールでも、いくら好きでも、
若者には、恐れ多くて手が出せない…
そんな存在。
よく「フランス人はフランス語が世界で一番美しい言語だと思っている」
言われますが、
それは、
こういう人たちの言葉、そして文章をさしているのだと思います。
そんなデュラスのテキストに挑んでいたのが、
日本人の太田宏さん(青年団)
去年、静岡で公演されたときは、
フランスの作品として紹介されていたような印象を受けましたが、
これは、まぎれもなく太田さんなしには、成立していない作品でした。
作品が始まって、
太田さんの一声目の台詞で、
すでに明確でした。
耳を通して脳に伝わるのではなく、
身体に直接、触れられてる感じ。
それは、太田さんが日本人というアイデンティティーを持ったまま、
フランス語の台詞を話していたから。
どんなにフランス語がうまくても、
日本人のアイデンティティーを持ってない俳優には出せない音だったから。
言葉は、まだ言葉である間は「平面的な」意味しか持たない。
言葉が、音になってはじめて「立体的な」意味を持つ。
(日本人の)役者が、
(フランスの)舞台で、
(フランスの)観客の前で、
(フランス)語を語る。
この( )部分がこの作品は既に幾度となく、変容している。
そして、その度に、新たな「面」が追加されていって、
どんどんどん「球体」に近い「多面体」になって行く。
こういう奇跡的な現象を、
「作品が一人歩きしはじめた」
というんだろうな、と思い、
そんな作品を目撃できたことに心から感謝しました。
公演後の役者と演出家による、アフタートークでも、
お客さんは、主に日本で演劇の活動している太田さんに興味津々。
稽古の進め方について、
太田さんと、相手役のヴァレリーさんは、
とにかく、言葉ひとことひとことと、どう対峙するかを、
徹底的に追求したと言っていました。
状況とか、感情とか、そういう大まかなものではなく、
とにかく、
言葉、
言葉、
言葉。
そして、そこにそっと生じてくる「静寂」の白。
その空白が、なんともダンス的でした。
よくいろんな批評で「詩的」と言う言葉を目にしますが、
私には、この「詩的」という感覚が未だによく分かりません。
ただ、ひとつ言えるのは、
この作品のストーリーとかテーマとかを超えて、
音と静寂の狭間を感じることが出来たこと、
これを「詩的」と言う言葉を当ててみたい気持ちがあります。
ちなみに、
自称デュラスのスペシャリストと豪語していたマダムもこの作品に大満足。
大好きな作家の、もう幾度となく熟読している作品を、
劇場という空間で、もう一度満喫できるなんて、
さぞかし贅沢な気分だっただろうと思います。

コメディ・フランセーズ『愛と偶然との戯れ』、そして、「型破り」について

2週間前に、先生に、やってみたらと渡された戯曲、
マリヴォー『愛と偶然との戯れ』が、
世界で最も古いと言われている国立の劇団コメディー・フランセーズで、上演中だったので、
学校の友達と、観劇してきました。
gp1112_jeuamourhasard.jpg
http://www.comedie-francaise.fr/spectacle-comedie-francaise.php?spid=285&id=516
コメディ・フランセーズ(Comédie-Française)
1680年に結成された、フランスを代表する、王立の、後に国立の、劇団である。また、その劇団が本拠とする、パリのパレ・ロワイヤルに建つ劇場の名称でもある。レパートリーは約3000と言われる。古典に「当代もの」をまじえた300余年間の公演を集計して、多く上演された作家は、モリエール、ラシーヌ、コルネイユ、ミュッセ、マリヴォー(Marivaux)、フローラン・カートン・ダンクール(Florent Carton Dancourt)、ジャン・フランソワ・ルニャール(Jean-François Regnard )、ヴォルテール、ボーマルシェ、ユーゴーであるという。
300px-Paris_Comedie-Francaise.jpg
ウィキペディアより:http://ja.wikipedia.org/wiki/コメディ・フランセーズ

ちなみに、フレデリック・ワイズマン監督によって制作されたドキュメンタリー映画「コメディ・フランセーズ 演じられた愛」は、必見です。
1枚目の写真からもわかるように、
衣装も装置も、
こてこてな、古典演劇。
専属の俳優は、30人いて、
演目によって、出演者が異なるそうです。
定員が決まっているので、
誰かがやめるときにだけ、すごい倍率のもと、
オーディションが行われるそう。
俳優のほとんどは、国立コンセルバトワールの卒業生だそうです。
2枚目の画像でいうと、
上手の、バルコニー席から観たのですが、
もちろん、上手はほとんど見えない。
そこで、役者が上手で演じているときは、席から立って覗き込みます。
下手側の客席の人たちも、
同じことしてて、
観る方も、まさに、
スポーツ!
ここで、やっぱり想起するのが、
日本の歌舞伎。
もちろん、能も狂言もそうだけど、
ほとんどがレパートリー作品だから、
ストーリーは、もう分かっているのに、
やっぱり、盛り上がる。
コメディー・フランセーズも同じで、
台詞なんて覚えてしまっている観客もいるほどなのに、
やっぱり決まったシーンで、
爆笑。
日本に、来日しているフランスやヨーロッパのカンパニーを観ても、
わかるように、
とにかく、前衛的な作品が多い環境で、
フランス人の生徒たちは、
古典作品なんて、あんまり興味ないんじゃないかしら?
と、思っていたのですが、
大間違い!!
例えば、授業でも、
課題戯曲が自由選択になったとたん、
みんな自ら進んで古典戯曲を選び出しました。
今回のお芝居も、
2ヶ月以上公演されているのですが、
結構、みんな観に行っているみたい。
舞台を観に行くとき、
演出家や、劇団で選ぶのではなく、
やはり演目で選ぶということが、多いようです。
日本の古典芸能とかで、
「型破り」と言う言葉をよく耳にします。
型破り[名・形動]
一般的、常識的な型や方法にはまらないこと。また、そのようなやり方であるさま

でも、「型破り」って、
「型」をもっていないと、
破れない。
日本の「古典」芸能の、
この原則なルールが、
フランスの「現代」演劇の根源なのだと思います。
「現代」演劇の基礎が、「古典」演劇なのではなくて、
現代演劇には、現代演劇の基礎がある。
たとえば、よく私に、
学校の友達が、歌舞伎とか能とか、
大学でどういうふうに、勉強したの?
と、聞いてきます。
つまり、いま、私たちは、
同じ時代に、
現代演劇というものを学んでいて、
彼らは、そのベースとして、コメディーフランセーズで扱われる演目のような、
クラシックの戯曲を当たり前に勉強していて、
知っています。
一方、日本の現代演劇のベースは、
歌舞伎や能に、あると思っているのです。
しかし、日本で現代演劇を考える場合、
ここが、イコールにならないのが、
ミソなのではないかと、感じます。
つまり、「教育」または、「育成期間」として、
ある程度、決められた、
俳優になるために「やるべきこと」「知っておくべきこと」
が、存在しないのです。
私は、
フランス人の古いものに対して、
敬意を持って、
大事にして、
だからこそ、謙虚でいられるところがすごく好きです。
それは、保守的とは違うと思う。
革新的なことは、
自分の後方から攻めないと、
どうやら得られないようで、
なかなか、時間がかかるようです。
「前衛」と呼ばれるものが、
「型破り」と同じように存在するなら、
偶然とか、思いつきとか、
瞬間のものではなく、
ゆっくりゆっくり熟成された
「確信犯的な」ものでしかないと思う。

ロメオ・カステルッチ『SUL CONCETTO DI VOLTO NEL FIGLIO DI DIO』

先月から、パリにて大騒動を巻き起こしていた、
ロメオ・カステルッチの新作『SUL CONCETTO DI VOLTO NEL FIGLIO DI DIO』
東京にも、フェスティバルトーキョーで2回来日してします。
ロメオ・カステルッチ プロフィール
http://festival-tokyo.jp/artist/RomeoCastellucci/
たいてい、どこの劇場でも早くから並べば、
当日券がとれるので、
前売を買わなかったことが、間違い…
パリのテアトル・ド・ラ・ヴィルでの初日に、
カトリックの人たちによる暴動が上演中に勃発。
一言で言えば、
介護問題を扱った作品なのですが、
舞台美術として、
背景全面に、
キリストの顔があり、
徐々に破壊されていきます。
スクリーンショット(2011-11-12 17.40.47)
スクリーンショット(2011-11-12 17.40.58)
http://www.theatredelaville-paris.com/spectacle-sulconcettodivoltoromeocastellucci-358
このシーンに対し、
カトリックの人たちが、猛反発。
卵を投げたり、煙をたいたりと、
大混乱だったそうです。
次の日から、劇場の周りを警察が取り囲んで、
完全警戒体制。
当日券どころか、チケットを持っていない人は、劇場付近に近づくことも出来ませんでした。
それでも、マニフェストを行おうと、
カトリックの人たちが、
毎日劇場前に集結し、
賛美歌を歌ったり、
叫んだりして、公演の中止を求めていました。
その次の週には、
テアトル104という、
パリ市内の別の劇場でも、
公演があったのですが、
ほぼ同じ状況。
さらには、アーテイストの表現の自由を求める人たちが、
劇場前で、署名活動まではじめ、
もはや、収集のつかない状態。
それでも、公演は予定通り、
千秋楽を迎え、
続いて、フランスのレンヌというところで行われている、
演出家フェスティバルに参加。
http://www.t-n-b.fr/fr/mettre-en-scene/fiche.php?id=295
ここで、私は、ようやくチケットを購入することができ、
9ユーロのチケットと、
100ユーロの交通費を使って、
公演を見ることが出来ました(笑)
当日、なんと携帯に、
劇場から、メッセージが。
劇場前の大通りでマニフェストが行われるから、
通行止めにするとのこと。
よって、観客はかなり遠回りをして、劇場に向かうことに。
劇場に着くと、いっさいの荷物をフロントにあずけ、
念入りなボディチェックのあと、
ようやく客席に。
パリでは、カットされたシーンも、
観ることが出来ました。
公演後、
大通りは大変なことになっていて、
200人から300人近い人たちが、
ろうそくを片手に道に座り込んで、
抗議をしていました。
中には、泣いている人までいて…
これも、芝居の一部なのかと、
感じるほど、衝撃的な光景。
この作品に対しての感想は別として、
この作品をめぐるこれらの現象に、
私は、やはり強く強く魅力を感じてしまいました。
演劇、そして、劇場の持つ力の大きさ。
劇場=人の集まるところ
つまり、そこで、
作品を発表するということ、
『革命』??
日本で、学生運動が盛んに行われていたあの時代って、
こんな感じだったのかしら?
と、想像して、
思わず羨ましくなりました。
『自分の意志を表明する』
ということの、
ありがたみとか、責任とかを、考えたら、
こんなに嬉しい権利ったら、他にないと思う。