竹中香子講演会「フランスで舞台に立つために必要なこと:フランス語、演劇学校、そしてプロフェッショナリズム」

8/28 19:00~ @アンスティチュ・フランセ東京

6年前にフランス語が全く喋れない状態で渡仏してからの、

国立演劇学校受験とか、

演劇教育とか、

去年、俳優として仕事を始めてから知った、

フランスの俳優を取り巻く制度と権利についてなどなど、お話させて頂くことになりました。

会場にお越しくださった皆様と一緒に、「俳優を仕事にするってなんだ?」という根本的なところを考える時間となれば嬉しいです◎

たくさんの方とお会いできることを楽しみにしています。

よろしくお願いいたします。

 

 


竹中香子 講演会
「フランスで舞台に立つために必要なこと:
フランス語、演劇学校、そしてプロフェッショナリズム」

 

日本の大学卒業後フランスに渡り、日本人として初めてフランスの国立高等演劇学校の課程を修了し、昨年からプロの俳優としてパリのオデオン座などの舞台に立つ竹中香子氏の講演会。
フランス語習得に関わるエピソード(渡仏時にはフランス語力はほとんどゼロだった)、フランスの演劇学校のプログラム、そして職業人としての俳優の問題(舞台人の失業保険制度であるアンテルミタン制度についても)などについてお話頂きます。
講演会後、質疑応答の時間を多めに取る予定です。フランスの俳優事情に関心のある方、フランスへの留学を考えておられる方にお薦めいたします。

http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/conference-kyoko-takenaka/

 

日時:8月28日(月)19時〜21時
会場:アンスティチュ・フランセ東京 エスパス・イマージュ
入場無料・予約不要
主催:日仏演劇協会

 

竹中香子
1987年10月8日生。埼玉県さいたま市出身。2011年3月に桜美林大学総合文化学群演劇専修を卒業後、渡仏。同年9月にパリ15区コンセルヴァトワール(芸術専門学校)入学。2012年にはパリ地方コンセルヴァトワールに入学。2013年、日本人として初めてフランスの国立高等演劇学校の俳優セクションに合格。2016年5月末にモンペリエ国立高等演劇学校(École Nationale Supérieure d’Art Dramatique de Montpellier)の全課程を修了。2016年10月から、2017年6月までフランス国立劇場製作ギヨーム・ヴァンサン演出『夢と変身』に出演し、フランス国内16箇所でツアーを行った。これと並行して、自らが脚本を手がけたソロ作品をフランス人の演出家とともに、「俳優と言語」をテーマに長期的にクリエーションを行っている。

 

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選挙権がほしい!!!!!

先週末に行われたフランス大統領選で、選挙権がないということが、いかに悲観するべき事実かということを思い知らされた。フランス国籍を所有しながら、国外で生活している友人たちは、この日のためにフランスに戻った。同世代の仲間の間でも、話題は選挙で一色。途中まで、選挙権がないから関係ないと思っていた私も、じっとしてはいられない空気に選挙に関する記事を読み漁り始めたら、これまたハマる。それぞれの立候補者のマニフェストがわかってくると、それぞれの支持層が知りたくなる。支持層がわかってくると、現在のフランスの現状が見えてくる。

例えば、facebookで友達になっている層というのは、ほぼ自分と同じ現状を共有している人たちが多いので、友達が何千人といたところで、社会の分布は見えてこないのだという当たり前のことに気づいた。日本の選挙の時も、今回の大統領選でも、自分のfacebookのフィード上には、自分と同じ支持者を掲げている人で染まっているのに、結果が出てみれば、自分たちが、いかに少数派であったかということを思い知らされる。

以下は、地理学者のPierre-Marie Chapon氏が、若者たちに向けて送ったメッセージ。政治は、一晩では変わらない。2022年の大統領選に向けて、闘うことをやめるな、極右の波にのまれるな。

http://www.liberation.fr/debats/2017/04/27/lettre-a-la-jeunesse-insoumise_1565694

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運命のフランス大統領選2次は5月7日。また、この日のために、たくさんの人たちが自らの選挙権を行使するために地元に戻ってくる。私たちが、おそらく、もう一度肝に銘じなければいけないのは、選挙は大人のためのものではなく、「若者」のためのものだということ。現在ではなく、未来のためのもの。選挙を行使している世代の大人たちに、任せておくなんて滅相もない。

今の自分の現状に不満があるのは、もしかしたら、自分のせいではなく、自分が属する社会のせいかもしれない。

それでは、そんな社会をどのように変えればいいか。

他者、もしくは、自分の外の環境を変えるということは、

自分を変えること以上にエネルギーと時間を要求されること。

それでも、未来を考えるなら、

年を重ねるということは、

自分の外に向けて、自分が蓄えてきたエネルギーと時間を放出していくということだと思う。

演劇におけるシェイクスピアの神度100

地獄のクリエーションが続いております。

土曜日は毎週、ランス市民に公開リハーサルが催され、先週末は、2階席が埋まるくらいの人がやってきて、びっくり。

フランスの公共劇場は、すべて年間単位でプログラムが配られているので、来年6月までの分厚いプログラムが、各地にも、すでに配られているそう。

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まだ、今シーズンオープン前だというのに、連日、年間通しチケットかったり、早割引などの予約をしに劇場に足を運ぶ人の姿が絶えない。

これはフランスに限ったことじゃないと思うけど、私たちの座組の特徴はとにかく、俳優とスタッフの垣根がないということだと思う。

大きな現場になればなるほど、スタッフとのチームワークでしか、作品は成立しないので、必然的に関わりが強くなるため、仲が良くなる。

例えば、本番前の小道具などのプリセットも最初のシーンを覗いて、あとは、すべて美術スタッフが転換ごとに舞台裏をセットするので、彼らに任せるしかない。

休憩中も、稽古後も、休日も、俳優・スタッフ混ざって過ごすことがとても多い。

まさに、大きな作品を創るということは、信頼の輪を大きくしていく作業と実感する毎日。

 

そんな新たな発見があった今週は、シェイクスピアに悩まされまくった1週間だった。

そもそも、シェイクスピアと言ったら、ロミジュリ(ロミオとジュリエット)、そして、夏夢(真夏の夜の夢)というぐらい、いま、私が挑んでいる夏夢は有名な作品だから、なんとなく内容を知っている人は多いと思う。

演劇をやっていなくても、シェイクスピアの文章を読んだことがある人はいくらでもいると思うし、研究者もたくさんいるだろう。

しかし、俳優にとって、シェイクスピアほど、難解な戯曲はないと思う。

フランス人、おそらく、ヨーロッパの俳優にとっては、シェイクスピア作品は、日本人俳優とはまた明らかに違った距離感が見られる。

イギリス人とフランス人の間にも、もちろん差異はあるだろうが、シェイクスピアの言語に対する「背負い方」のようなものが、私たち日本人とは圧倒的に違う。

そして、その台詞の「背負い方」が、現在、私は、全くつかめないでいる。

特に、夏夢に関しては、幻想的で詩的な台詞が多いため、叙情的な(いかにもクラシックな)演技になりがちなのだが、だからこそ、どこまで具体的に台詞を話せるかが重要。

台詞の強度に負けて、相手と演技ができなくなった瞬間に、シェイクスピアのほくそ笑む顔が見える。彼の文章を味わうだけなら、むしろ家でひとりで読書にふけった方がいい。

それでも、シェイクスピアは、「演劇」という媒体で人々に自分の文章が届くことを選んだ。

おそらく、私が演じているのは、夏夢の中で一番台詞が少ない役だと思うが、その究極に短い台詞が言えない。もちろん、もう数ヶ月も前から暗記しているし、発音も完璧なはずなのだが、ここまでくると、舞台で言葉が通じないのは、発音のせいではないと断言できる。

たとえば、フランス人が私と同じ台詞を話したとしても、その人が自分の解釈なしに、ただ、台詞を暗記して台詞を扱っていたら、やはり観客にはなにも伝わらないのである。

大きな劇場で、自分の台詞が、すべて同じ音のようにただ響いて、自分の耳に聞こえてくる感覚は何事にもなして耐えがたい。

まずは、クラシック特有の調子の取り方や、声の出し方から、解放されること。

共演者に手伝ってもらいながら、ひたすら、台詞を「歌う」のではなく、「話す」訓練。

声に出しても、出しても、正直、シェイクスピアの美しすぎる旋律が、なにも響いてこない自分の身体が恨めしくて涙が出る。

「私たちフランス人だって、シェイクスピアの台詞になったら、自分の国の言葉で話してるとは思えないんだから、あなたがそんな簡単にできるわけないでしょ!」と笑われる。

4行の台詞に1時間かけて、ようやく、台詞を「話し」始められるようになった。

今回の共演者たちの居心地がいいところは、なにしろ、みんな職人気質であること。精密に精密に、シーンを創っていく。そして、職人気質を保ったまま、クリエーションができる環境が用意されていること。

 

年を重ねるほどに、「奇跡」を信じたり、「チャンス」を待ったりすることは難しくなっていく。
そんな時間があったら、毎日毎日闘っていた方がよっぽど安心する。
何しろ、「夢」は生もので、ほんの少しでも「希望」をあたえ続けないと死んでしまうのだから。

 

ご報告

本日5月9日にパリ、オデオン座の来シーズンプログラムが発表となり、私が来年出演する公演情報がオープンとなりました。10月にランスで初演を迎え、フランス国内ツアーが続き、オデオンでの公演は来年4月中旬から一ヶ月です。
フランスで演劇をはじめて5年。日本人としてではなく、俳優として、現場に足を踏み入れていくことが、いかに不可能に近いかということを痛感し続けつつ、せっかくのチャンスに、誠実かつ大胆に挑みたいと思います。
SNSもブログも、私にとっては、日本とつながる唯一の手段で、いいね!にも、ちょっとのコメントにも、本当に感謝していて、まずは、この場であえて日本語でご報告したいと思いました。
今までも、これからも、いつも日本で、また演劇する機会を狙っていますので、来年以降オーディション情報等ありましたら、教えていただければ幸いです。
学校を卒業しても、永久就活生の気持ちで頑張ります。

Songes et Métamorphoses

un spectacle de Guillaume Vincent

Hôtel Métamorphoses un texte de Guillaume Vincent librement inspiré d’Ovide / Le Songe d’une nuit d’été de William Shakespeare

avec Elsa Agnès, Candice Bouchet, Emilie Incerti Formentini, Elsa Guedj, Florence Janas, Hector Manuel, Estelle Meyer, Alexandre Michel, Philippe Orivel, Makita Samba, Kyoko Takenaka, Charles Van de Vyver, Gerard Watkins (distribution en cours)

dramaturgie Marion Stoufflet
scénographie François Gauthier-Lafaye
collaboration à la scénographie James Brandily
lumière Niko Joubert
collaboration à la lumière César Godefroy
composition musicale Olivier PasquetPhilippe Orivel
son Géraldine Foucault
collaboration au son Florent Dalmas
costumes Lucie Ben Bâta
vidéo Edouard Trichet Lespagnol
accompagnement artistique Jane Piot

Un spectacle-hommage aux pouvoirs de l’imagination. Un kaléidoscope en deux volets : Hôtel Métamorphoses, une suite de tableaux contemporains inspirée par Ovide, puis Le Songe d’une nuit d’été, un sommet de la comédie élisabéthaine. Une façon radicale de confronter le théâtre qui reste à faire avec le théâtre déjà fait.

Le Songe d’une nuit d’été semble lui-même composé de plusieurs pièces. Face à ses « hybridations hasardeuses », Guillaume Vincent assume la « schizophrénie » shakespearienne, au point de faire croire à trois œuvres abordées « par trois metteurs en scène différents ». Une première pièce, celle des jeunes amants, est encadrée et pilotée par deux autres intrigues – celle des nobles, celle des fées – tout en étant traversée par une seconde pièce : celle des artisans. Les nobles, Thésée en tête, incarnent l’ordre diurne de la société humaine, qui contraint les amants à prendre la fuite dans les profondeurs de la forêt. Les fées, sur lesquelles règnent Obéron et Titania, sont les puissances nocturnes qui président à la fécondité de la grande Nature. Quant aux artisans, ils préparent en grand secret un spectacle en l’honneur du mariage de Thésée, leur noble duc. Tout se passerait comme prévu – les amants s’enfuiraient ensemble, les artisans répéteraient – si un farceur surnaturel ne s’en mêlait :  l’insolent Puck, télescopant les styles et semant le chaos chez les uns et les autres…

Guillaume Vincent ne s’en est pas tenu à ce joyeux désordre. La pratique théâtrale de ces amateurs passionnés que sont les artisans de Shakespeare l’a renvoyé à ses propres expériences dans des ateliers qu’il a animés en milieu scolaire ou carcéral. Il sait que dans le théâtre amateur, « l’art n’est pas le seul but ». Ici, « le cadre est aussi important que le tableau » : le théâtre amateur est un lieu où « guérir, calmer, apaiser, éduquer ». Et où rêver, peut-être : pourquoi serait-ce un privilège réservé aux fous, aux amoureux et aux poètes ?  Pour faire certains songes, il faut en tout cas y croire un peu. Accepter que le réel et l’imaginaire dérapent l’un dans l’autre.

Le théâtre de Guillaume Vincent célèbre donc les noces incertaines de la réalité et de la fiction en passant librement d’une forme, d’un style à l’autre. Puisant aux mêmes sources ovidiennes que Le SongeHôtel Métamorphoses ajoute sa touche de troublante fantaisie aux licences shakespeariennes en invitant des figures d’aujourd’hui à explorer des destins antiques, à s’interroger sur l’incarnation, la représentation, et sur leur rapport à leur propre identité. Des écoliers interprètent l’histoire de Narcisse et d’Écho ; des lycéens travaillent sur le mythe de Myrrha ; Procné et Philomèle sont les victimes d’un crime tout à fait contemporain… Première partie sinueuse comme les Mille et une nuits, cette suite de « variations sur le thème du théâtre amateur » est une ode à la gloire du théâtre et de ses alchimies.

古典戯曲における「役作り」禁止令

かのつかこうへい氏は、

稽古場でいつも役者に、

「役作りなんかいらねえんだよ、役作りできる頭があったら医者か弁護士かパイロットになれるんだからよ」

といい続けていたそうだが、

今回、私たちが挑んだ初の古典作品でも、

演出家に、文脈は少し違えど同じようなことを言われ続けた。

昨年の11月に3週間すでに稽古をしていて、

(前回稽古時のブログ:女優は問題。女優が問題。女優の問題。

残りの3週間の稽古を行い、

最後は、6月の初演に向けて、

試写会のようなかたちで公演があった。

 

フランスで演劇を学ぶ以上、

切っても切れない糸でつながっている「古典」作品は、

私にとって常に天敵であった。

受験の時から、「古典」課題には相当悩まされたし、

学校に入学してからも、

「古典」を扱うときは、

言葉のハンデが広がってしまうため、

演出家に私の語学レベルで「古典」作品を演じることを拒絶されたこともある。

 

とにかく、「古典」に関しては、

圧倒的な劣等感がつきまとってきたし、

当然、苦手意識が前にでてしまう。

 

1835年に執筆されたゲオルク・ビューヒナーの戯曲『ダントンの死』は、

フランス革命を題材にした作品で、

政治演説的な台詞も多く含まれている。

この作品の場合、古典といっても、

原作がドイツ語なので、言葉に関する演技の制約はだいぶ低減する。

とはいっても、

戯曲解釈には、現代戯曲とは全く違ったアプローチが必要。

 

私は、俳優の演技における「テクニック」というものに、

ネガティブなイメージを持っていて、

あの俳優はテクニックが高いね、というコメントは、

イコール、テクニックはあるけどつまらないね。

というふうに、感じていた。

 

しかし、今回、がっつりと「古典」戯曲に関わって、

圧倒的なテクニックの需要を痛感した。

 

演劇における「古典」とは、何か?

一言で言ってしまえば、

観客にとって耳慣れない言葉を、

正確に解釈させていくことだと思う。

 

ここで、誤解のないようにしなければいけないのが、

あくまでも、解釈を誘導していく必要があるのは、

感情の部分ではなく、

言葉、つまり、台詞の意味だということ。

 

ここで、冒頭で出した「役作り」という姿勢が、

「古典」において、

最も、重要、かつ、難解な部分、「解釈」の邪魔をするのである。

 

そもそも、「役作り」とは、

その役のイメージを演技に組み込んでいくものかと想像する。

例えば、台本を読み込んで、読み込んで、

その役が、酒好き、女好き、破天荒な役だという情報を得たとする。

このイメージによる演技が先行してしまうと、

この役が吐き出す台詞の「解釈」、

もしくは、「他者との関係性」が、

薄れてしまう。

 

現代戯曲の場合、

役のイメージが、

全面に出たところで、

台詞は、普段聞き慣れている言葉なので、

観客は、両方の動線を失うことはないのだが、

「古典」の場合、

台詞の方は、完全に何処かへいってしまう。

 

俳優にとっても、

普段使わない「言葉」だからこそ、

その「言葉」の意味よりもイメージで演技してしまった方が、

正直、気持ちがいいし、やった気になる。

そこが、一番、危険。

 

今回の演出家は、徹底的に、

「言葉が投げかけられている方向」と、「意味」にこだわった。

「感情」に関しては、一回も触れなかった。

なぜなら、それは、「観客の仕事」だから。

「言葉が投げかけられている方向」とは、

フランス語で”l’adresse”。

英語でいうアドレス、その名の通り、住所、宛先である。

それぞれの台詞が、誰に向けられているものか、

共演者の誰かなのか、それとも、観客なのか。

この「方向」がしっかりと定まっていれば、

自分の中で、「意味」をしっかりと噛み砕けてない台詞は言えない。

 

例えば、完全に覚えたと思った台詞は、

人の目を見ながらしゃべって確認する。

相手と目を合わせながら台詞合わせをすると、

言葉の意味が曖昧なところは、台詞は出てこないので、

不明確な点が浮き彫りになる。

 

こういうふうに、考えると、

演劇とは本当に人間の身体器官に基づいた、

非常なシンプルな性質を持っているな、

と改めて感心してしまう。

どんな高尚な「古典」作品にとりかかったところで、

「再現」するのは、極めて「人間的な営み」なのである。

 

具体的なテクニックのことに関していうなら、

「古典」には、

日常生活にはあり得ない、圧倒的な「長台詞(la tirade)」というものが存在する。

ここでも、「感情」に関しては一切取り組まず、

言葉の意味を解釈させるために有効な、

台詞の流し方(リズム、呼吸、スピード、間)を、

演出家とともに構築していく。

 

そして、最後の一週間、

5週間を使って、

細かく細かく構築してきた「意味」と「テクニック」を、

一切忘れて、

空間に創り上げてきた俳優の「身体」をおくと、

あとは、古典も現代も関係ない、

純粋な「演劇」としての芸術が、舞台に抽出されるらしい。

 

まだまだ、足を踏み入れたばかりの、

「古典」演劇の領域なので、

演劇教育における「古典」戯曲の必要性に関しては、

より確実に明確化したい。

少なくとも、自分の内的感覚としては、絶対的に必要だと感じている。

 

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