原発と恋愛について〜Rebecca Zlotowski監督作品『Grand Central』

パリで現在公開中の映画、
『美しき棘』の監督、レベッカ・ズロトウスキの最新作
カンヌ国際映画祭「ある視点賞」受賞作品、
『グランド・セントラル』を観てきました。
主演は、今年のカンヌで、
アブデラティフ・ケシシュ監督の『La Vie d’Adèle』でパルム・ドールを出演女優として受賞した
レア・セドゥ(Léa Seydoux)と、
タハール・ラヒム (Tahar Rahim)。
GRAND CENTRAL
目に見えないものから、
目をそらさないこと。
目に見えないものを、
しっかり見ようとすること。
これらが、
こんなに恐ろしくて、
だからこそ、
目に見えない早さで悪化していく。
グランド・セントラルとは、
大型発電所のこと。
学歴のない若者たちが、
高額の給料に惹かれ、
原発作業員に応募する。
派手にお金を使いながらも、
毎晩仲間内ではしゃぎながら、
放射能汚染の最前線で仕事を続けていく。


洗っても洗っても落ちない
目に見えない「シミ」は、
「見ないようにする」ことでしか、
消えない。
そんな仲間内で、
作業員として働く女性は、
作業員監督の婚約者でありながら、
新入り作業員と浮気をする。
洗っても洗っても落ちない
目に見えない「情事」は、
「見ないようにする」ことから、
甘く、
美しく、
鮮やかに熟しながら、
腐敗していく。
いま、
私たちが、
見なくてはいけないものは、
「見えない」ものではなく、
「見たくない」もの。
目の前にある
「見える」仕事に覆われて、
「見えない」仕事に取りかかれないのか、
それとも、
「見えない」仕事に取りかかりたくないから、
「見える」仕事に覆われようとするのか。
大人になることは、
取り返せないことが増えること。
そして、
後悔ができなくなること。
恋愛は、
「日常」になればなるほど、
目に見えなくなってくるから、
気づいたときには、
手遅れ。
原発の恐怖も、
きっと同じ。
「日常」になればなるほど、
目に見えなくなっていく。
そして、
「目に見えない」ものほど、
怖いものは、
多分この世に存在しない。
歯がゆいけれど、
いま、
できるのは、
見ようとすること。
見続けようとすること。

キム・ギドクの映画で、顎がはずれる。

先週から、フランスで公開されている 
キム・ギドク監督の最新作『ピエタ』を観てきました。
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この作品は、第69回ヴェネチア国際映画祭で韓国映画史上初の金獅子賞を受賞した作品で、
日本では、『嘆きのピエタ』というタイトルで6月から公開されるそうです。


この映画を観たのは2日前の土曜日の夜。
21時45分からの上映。
正直、今あのときの2時間の間に起こったことを、
思い出そうとするだけど、
身体が自然に強ばります。
予告編に続き、
『ピエタ』本編の上映が始まった瞬間から、
映画館は、終わりのないお化け屋敷化しました。
人間の適応能力というものは、すごいもので、
アクション映画だったり、
ホラー映画だったり、
ジェットコースターだったり、
いつ激怒し出すかわからない先生だったり、
恐怖は、「点」で発生することのが多いため、
「キャー!!」と悲鳴をあげたくなるような「点」に、
自然と慣れてくる。
「ピエタ」の場合は、「線」の恐怖。
このような終わりのない、
どこまでも続く「線」の恐怖を初めて体験した。
最初の1分で、呼吸がすごく浅くなって、
次の20分で、顎が外れるという非常事態が起きた。
しかも、唾液の分泌が止まってしまっているから、
よだれもそんなに溜まることなく、
すぐには、顎が外れたことに気づかず。
そのまま、口を開けたまま、一心不乱にスクリーンを半目で凝視し続け、
エンドロールの頃には、
首が肩に完全に埋まっていた。
場内の明かりが付いたときの、
安堵感と生還の喜びは、
常軌を逸していて、
映画館の扉が重くて、一人では開けられなかったので、
自分の後ろにいた人に開けてもらった。
そして、映画館からメトロまでの3分の道のりを、
休憩しながら10分かけて歩き、
戦争から帰宅したら、
こんな感じなのかしら、と想像しながら、
まだ少し痛みの残る顎をさすった。
それにしても、
この「線」の恐怖というものの存在希少価値があまりにも高いので、
その恐怖に崇高な美しさを感じずにはいられない。
2、3年前に、
日本で「枯れないバラ」というものが流行ったのを思い出した。
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完璧な「美」を、
完璧な「美」のまま、
いつまでも保存しておくことは、可能でも、
果たして、
完璧な「美」を、
完璧な「美」だと感じる気持ちも、
いつまでも保存しておくことは、可能なのか?
『ピエタ』は、おそらく、
作り手側の「美」の保存ではなく、
受ける側の「美」を保存することに成功した作品だと思う。
どこまでも続かのように思われた「線」の恐怖、
そして、その先にあった、
狂ったような美しさ、
あのときの身体の感覚は、
私の中に、完全に保存された。

Marina Abramovićによって気づいた私が失ったもの。

昨日は、国立コンセルバトワールの一次試験通過者発表日で、
私は、去年通った一次試験に落ちました。
受けたときの感覚としては、
まず言葉の面で、
去年とは比較にならないほどの上達を感じていました。
正直、去年は、台詞を覚えて間違えないで言うだけでもいっぱいいっぱいというレベルだったけど、
アレクサンドランをはじめ古典戯曲のルールもたくさん勉強したし、
フランス人にも特別扱いされているポール・クローデルのテキストの扱い方や、
日本語には存在しない母音の扱い方まで、
徹底的に訓練してきました。
さらに、準備段階の環境としても、
去年は、一緒に受験してくれるパートナーを探すだけでも一苦労だったのに、
今年は、頼まなくても常に気遣ってくれる仲間がいて、
稽古場まで手配してもらったり、
プロの役者の人が、アドバイスしてくれたり、
私がうまくいかなくて機嫌悪くても、
忍耐強く稽古につき合ってくれたパートナーたちがいました。
フランス語のことに関しても、
私の置かれていた恵まれた状況的にも、
一切、自分の外に原因を追求することはできない、
だから、
いやいやながらも、
今日は自分とだけ、一緒に過ごす日。
今日の朝は、ずっと観たかったMarina Abramović(マリーナ・アブラモビッチ)の、
ドキュメンタリー映画を観に行きました。
あ
Marina Abramovic: The Artist Is Present (Directors: Matthew Akers, Jeff Dupre)


このドキュメンタリーは、2010年3月から5月にかけてニューヨークのMOMAで行われたエクスポジションを中心に彼女のアーティスト人生を描いたものです。
Marina Abramović: The Artist Is Present @MOMA March 14–May 31, 2010
http://www.moma.org/visit/calendar/exhibitions/965
マリーナ・アブラモビッチは、70年代から、前衛芸術家として注目された、
ユーゴスラビア出身のアーティストで、
私も、そのパフォーマンスが過激なことで、名前だけは知っていました。
例えば、「テーブルに置かれた72の道具を浸かって私を好きな様にしなさい。私は物体なのだ。」と観客に指示し、釘、のこぎり、オリーブオイル、ナイフ、銃、蜂蜜などを用意し、
実際、彼女を傷つける人が現れたそうです。
会場の床の下で、7時間マスターベーションを行い、観客にはマイクを通して、声を聞かせる。
鉄の靴を履いて「マンボ」を3時間踊る。
などなど、とにかく伝説的アーティスト。
彼女のことを扱った記事をTHE MAGAZINEのサイトに見つけたので、
詳しくはこちら。
http://www.thesalon.jp/themagazine/art/-marina-abramovic.html
3ヶ月にわたりで行われたこの展示の目玉は、
彼女自身。

736時間30分間、会期中彼女は、常に会場にいて、
自分の椅子の前に座った観客を前にただひたすら「存在」する。
スクリーン越しに彼女に見つめられただけでも、
自然と涙がでてきてしまう。
実際、会場で彼女の前に座ったほとんどの観客が涙を流したという。
だれでも、自分の部屋で、裸になる。
でも、芸術は、きっと、外で、裸になること。
それは、怖いこと。
それは、恥ずかしいこと。
または、
それは、傷つくかもしれないこと。
なぜなら、芸術は享受する人の前でしか、存在しないから。
MOMAのプロデューサーは、
彼女に初めて会ったとき、
自分に恋をしているに違いない!と思ったらしい。
その後で、
「私は、もちろんあなたに恋をしてるわよ。だって、全世界に恋をしているんだもん。」
と言われたらしい。
創作過程においても、
観客を前にしているときも、
いま、自分の目の前にいる誰かとしっかり関わること。
しっかり見て、
全身をつかって、ふたりの間の空間に耳を澄ますこと。
去年、確実に存在していたもの。
自慢の仲間たちと稽古ができて嬉しい気持ち。
試験の日、自分が創ってきたものを人に見せることが待ち遠しくて仕方ない気持ち。
3時間おしゃべりするよりも、
3分間本気で、まるで自分のことのように、相手を感じること。
そしたら、その時間がとてつもなく、愛おしくなって、
ありがとう、と言いたくなる。
そして、このぼんやりした優しい時間とくすぐったいような感情が、
私が今年、自分だけを見て突っ走って来て、
失ってしまったものだと思う。
どんなに小さな日常も、
決して「当たり前」と受け止めないこと。
「当たり前」になったとたん、
人間は傲慢になってしまうから。
すべての「当たり前」を、
今日からは、「奇跡」として、扱います。

池澤夏樹×『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』

去年の終わりに観たピナの映画、
『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』
http://


私は、この映画をひどく気に入ったのですが、
この熱い熱い気持ちを、
「感動した!」
とか、
「すごい!」
とか、
「めっちゃいい!」
とか、そんなありふれた言葉でしか、
表せませんでした。
面と向かって、
私のしゃべりのエネルギーと一緒なら、
これらの言葉をやたら繰り返し、
相手に伝えることは出来ても、
悔しいけど、
文字になってしまったら、
マンガのふきだし程度の重みしかありません。
朝日新聞の文化欄に、
小説家、翻訳家、そして批評家でもある、
池澤夏樹氏のこの映画に対する評を見つけました。
文章の力って、
すごい。
わたしのパンの生地みたいな想いは、
勝手にこねられて、
寝かされて、
あっという間に、
熟成されました。
「これが踊りか。
これが踊りだ。精神の動きを肉体が表し、
肉体の勝手な衝動を精神はとまどいながら受け止めて
また肉体に返す。
我々が毎日とても稚拙にやっていることのエッセンスを抽出し、
純化し、
最も美しい形に仕立て上げたもの。」
(朝日新聞 2012/04/03)
読んだ瞬間、
パソコンで、
ひらがなで、思ってること全部かきまくって、
それが、いっぺんに漢字に「変換」された感じ。
【稚拙美】 幼稚でつたないが、素朴さ・純粋さが感じられる美。
ピナのダンスは、
彼女の、
ダンサーたちの、
人間の、
そして、わたしたち全員が所有しているもの。
もしくは、していたもの。
それは、
究極に洗練された子どもの「精神」による、
大人の「身体」のダンス。
だから、
わたしは、
心底嬉しくて、
心底悲しくて、
心底怒ってしまう。
芸術批評は、
時に、
芸術以上に、
アーティスティック。
池澤氏の書いた文章の力が、
完全に、
この映画の記憶にぬりえした。
鮮やかすぎる。

ゲイとレズビアン映画祭、そして美輪明宏。

昨日は、『シェリーシェリー』というゲイとレズビアンの映画祭に行ってきました。
http://cheries-cheris.com/
BLOC-affiche.jpg
なんと今年で17回目!!
お目当ては、フランス人の監督がとった美輪さんのドキュメンタリー。
http://cheries-cheris.com/miwa.html
cine04.jpg
ドキュメンタリーとしてはいまいちだったけど、
美少年の美輪さんが観れて、本当にほれぼれした。
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監督は、美輪さんのご自宅に1週間滞在してこのごキュメンタリーをとったらしい。
もちろん、三島由紀夫とか寺山修司とか、
もう私たちからすると、歴史上の人物とつながってる美輪さんって、まさに生き証人。
一つ思ったのは、
美輪さんも三島由紀夫も寺山修司も横尾忠則もみんな、
『前衛』って言われていたけど、
前衛なんて後からついて来たことで、確実に『現在』だったんだなあ、という感じがした。
当時、新しいことを考えてたんじゃなくて、
誰よりも当時の『現在』を考えて考えて、本気で生きてたんだなあ、と思いました。
あとは、とにかく、
グレーゾーンがない。
0か100。
ダサイも、
恥ずかしいも、
美しいも、
気持ち悪いも、
常に、マックス。
これって、やっぱり一番に芸術を享受する側を意識した発信者の責任なんだろうな。
というか、最低限で最重要のことかもしれない。
終わってから、監督のトークがあって、フランス人めっちゃ質問してました。
監督が、最後に、
ちなみに、日本では毎朝美輪さんからのメッセージが届くアプリケーションがあります、
とか言ったら、
フランス人すごい興奮していた笑