教育とは、全身全霊をかけて、生徒たちに「自己検閲」を避けさせること。

現在、私が教職研修のため滞在している街サンテティエンヌでは、コロナ感染者の率が非常に高い。1週間の10万人当たり発生率はナンバーワンで、国内平均は250人のところ、サンテティエンヌは1000人以上を記録している。

リヨンの近くにある、そんなに大きな街ではないので、フランスのSNSでも、なぜサンテティエンヌが最大警戒地域?と話題になっていたほどである。

今朝のテレビで、コロナ感染者の率は貧困と関係しているというニュースは流れていた。貧困層が多ければ多いほど、コロナ感染率も高いということだ。

サンテティエンヌには、工場労働者のための集合住宅なども多く存在し、貧困を理由に共同生活を強いられている層もたくさんいるそう。

衣食住を共にする他人が多ければ多いほど、感染の可能性、及びクラスターが発生する可能性が高くなるのは当然である。

教職研修はパリでも受けることは可能だったのだが、私があえて、このサンテティエンヌという街を選んだのには理由がある。

ひとつには、教職のプログラム及び国家資格試験の審査を務める La Comédie de Saint-Etienneという劇場が芸術的にとても充実している点。

ふたつめは、サンテティエンヌから始まってフランス全国に広がったプロジェクト「L’égalité des chances(機会の平等)」に興味があったからである。

https://ecole.lacomedie.fr/egalite-des-chances/

「L’égalité des chances(機会の平等)」は、貧困層や移民が多く住む地域の生徒たちにも、国立高等演劇学校への受験を促そうという取り組みである。

フランスの国立高等演劇学校はグランゼコール(Grandes Écoles )という位置付けで、フランスの大学と違い、高校を卒業してバカロレアを取得しただけでは入学できない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB

通常、高校卒業後、グランゼコール準備級(予備校のようなもの)に通い、試験に備える。

国立高等演劇学校の場合にも、民間及び公立の準備級に通うのが通常である。

しかし、経済的理由により、準備級に通えない生徒たちもいる。そのような生徒たちに特化して門戸を開いたのが、「L’égalité des chances(機会の平等)」である。

具体的には、18歳から23歳の国立高等演劇学校受験を目指す生徒たちに、1年間週30時間の演劇クラスを開講するとともに経済的援助を受けることができる。

フランスにおける経済格差が一番顕著に現れるのが子供たちの教育である。

2週間前から、実習の一貫で、中高生を対象とした様々な場所でワークショップを受け持ったが、生徒たちの集中力や自己肯定力の高低と、貧富の差が関係がないとは決して言えない。

ただ一回心をひらいてもらえたら、彼らの芸術への貪欲は凄まじい。

街のコンセルバトワールに実習でクラスを2時間受け持った時、

若者に混じって50代後半の黒人女性がいた。

彼女は、経済的理由でずっと演劇がやりたかったけどできなかったそう。

体を動かす課題をたくさん準備してきたので、マスクしたままで苦しかったらいつでもやめていいよ、といったら、

「コロナで、演劇に飢えてるから、ちょっとくらい呼吸が苦しくてもやりたいんです!!」と目を輝かせながら言われて言葉につまってしまった。

貧困地域に生まれた子供たちは、自己肯定感が低いと言われる。

でも、演劇は「物語」を紡ぐ仕事だがら、自分の人生の「物語」をきちんと語れる人になってほしい。

私が、演劇教育に興味を持ち始めたときから、ずっと大切にしている文章がある。

スーザン・ソンタグ『良心の領界』の「若い読者へのアドバイス」という文章。

検閲を警戒すること。しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。

教育に関わるものとして、どんな状況下にあっても、

生徒たちを「【自己】検閲」の危険から守らなけれないけないと思う。

自分で自分に制限をかけてしまうこと。

私の人生の師である、フランス語の先生から研修の前に言われたこと。

「自己紹介のときに、必ず、フランス語が母国じゃないということを伝えろ、そして、言葉がうまくしゃべれなくても決して謝るな。」

教職を受けようと決めたとき、どうやってアクセントや語彙力のなさを隠そうかとそればかり考えていた私は度肝を抜かれた。

「え?それじゃ、『先生』としての威厳がなくなっちゃう!」

師匠に言わせれば、言葉の問題なんて特性のひとつだという。堂々と自分の特性を生徒たちに伝える。

今思えば、言葉がしゃべれないことが、「先生」としてマイナスになると思い込んでいたことも「【自己】検閲」だったのだろう。

師匠のいうとおり、毎回、自己紹介で言葉のことをいうと、自分が堂々としていられることに気づいた。2回目からは、「みんなのがフランス語うまいんだから、助けてね!」とちゃっかりお願いまでしていた。

「【自己】検閲」さえしなければ、道は開ける!

Susan Sontag, Cambridge, Massachusetts, ca. 1970s. Donald Dietz.

若い読者へのアドバイス……

(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)

人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。

検閲を警戒すること。しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。

本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。

言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。

言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。たとえば、「戦争」というような言葉。

自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。

動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。

この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。

暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。

少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券を【もたず】、冷蔵庫と電話のある住居を【もたない】でこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことの【ない】、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。

自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。

恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。

自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。

他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません──女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。

傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。

傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしてください。

良心の領界を守ってください……。

2004年2月

スーザン・ソンタグ

【『良心の領界』スーザン・ソンタグ/木幡和枝〈こばた・かずえ〉訳(NTT出版、2004年)】

わたしが義務教育に「演劇」が必要と考える理由。

びっくりするほどあっけなく入国審査を通過し、

6ヶ月半ぶりにフランスに戻ってきた。

PCR検査も体温測定もなし。そして、消毒液も補充されていない。

アパートにつくと、エレベーターが故障していて7階までスーツケースをかついで階段をあがる。フランスに帰ってきたなあ、と実感。

そして、愛おしい我が本棚と再会。

翌日から、リヨン近郊の街、サン=テティエンヌにて、教職研修スタート。

フランスの演劇教育者国家資格(DE:Diplôme d’État de professeur de théâtre)取得のための講義、実技、教育実習を含む1年間の研修。

ちなみに、フランスは俳優に対しても国家資格(Diplôme National Supérieur Profession de Comédien) があり、わたしは2016年の国立高等演劇学校卒業時に取得した。

演劇教育者国家資格を所有すると、公立の演劇教育機関(コンセルヴァトワール)で担任を持つことができる。

例年は、12名が選抜されるところ、今年は、コロナ禍での実施を考慮し6名。

わたし以外は全員が演劇を教えた経験を持つ、俳優や演出家。

クラスメートたちによると、フランスは演劇を教える仕事に溢れているらしい。

劇場が企画した、子供向けの演劇アトリエクラスや、学校や自治体が主宰する、中高生を対象とした演劇クラス、また、国立高等演劇学校受験のための準備クラスでの講師など、雇用チャンスは非常に高いらしい。

初日は、これから関わっていく先生たちとの顔合わせで、

「肯定」のシャワーを浴びる。

アーティストがアーティストのまま、教育に関わることの重要性と必要性を、

こちらが気恥ずかしくなるほど、徹底して教え込まれる。

日本で「演劇」というと、演劇をやっている側も、社会の側でも、どこかで「好きでやってる」という感覚がなんらかのかたちでつきまとう。

9年ぶりに日本ですごした6ヶ月、この「好きでやってる」と毎日闘ってきた。誰にも頼まれてないのに、誰にも望まれてないのに、なんでやっているんだろうという無力感に1日に1回は襲われ、その都度、「自分が信じないでどうする!」と起き上がってきた。

「好きでやってる」と闘うことに相当なエネルギーを奪われたことは明白である。

フランスに戻ってきた途端、研修にかかる費用や交通費、宿泊費まで国が負担してくれたり、周りの大人たちがとにかく「演劇」の価値を信じていて、社会から求められているという感覚を全身でうける。

一週目は、教育心理学基礎の一貫で、社会構造学、メタ認知学、社会心理学、行動科学などを学ぶ。

ひとクラス6人というのは、本当に贅沢な環境で、授業は超インタラクティブ。

「発言する」という気負いを持たずに、思ったことを口に出すことができる。

あと、クラスの誰かが、「すいません、ちょっとついていけてません!」と言ってくれることも、グループの宝。

ひとりひとりが「わからない」といったり、「質問したり」することで、グループがどんどん活性化していく。

日本では、授業中の発言は自分のため、発言しすぎる生徒がいると、他の生徒の発言の機会を奪っているというイメージがあるが、クラスでの発言は「グループへの貢献」というイメージがフランスでは強い。

ここ数年、言葉のハンデがだいぶなくなってから、この価値観にかなり救われていると思う。

さて、ここで、わたしが今回、教育に関わろうと思った理由。

それは、義務教育に演劇が絶対的に必要だと信じているからである。

俳優をしながら、ちょっと成功したくらいでは、絶対に調子に乗れない「演劇」という媒体と関わりながら学んだこと:人生は、いかに不確定で、他者次第だということ。

自分は不確かな存在で、その存在を唯一かたちどることができるのは、他者だということ。

このことを理解するのに最も有効な手段が演劇であると思う。

ひとりでたくさん練習するだけでは、絶対にいいものができない。

この不確定要素をプラスにつかわないと、演劇で満足を得ることはできないし、

他者の存在を心強く感じることはない。

社会に出たら、自分の力だけではどうにもならないことばかりで、そのことに対して、ある種の「あきらめ」を持つ必要がある。

「あきらめ」を持つことから、他者と共同すること、関わることを学び、

他者(自分の外の世界)に集中しながら、自分の能力を発揮するプロセスを学ぶ。

来月から私が最も苦手とする年代:「中高生」との実習が始まる。

膝が震えるほど怖いけど、フランスが用意してくれた、この最高の環境を最大限生かせるように精進します。

「うちらと違うね」と君が言ったから十月三日はサベツ記念日

私にとって、10月3日は、

『サラダ記念日』ならぬ、『サベツ記念日』となった1日であった。

 

先月末に、『千夜一夜物語』の初日があけて、

以降、週に一回ペースで地方にツアー公演に行き、

週末はパリに戻ってきて、映画・ヨガ・鍋をして過ごすという生活。

3年前から、フランスの地方公演には慣れっこで、

半分近くのフランスの地方公共劇場で、すでに演じていると思うのだが、

3年目の今年は、ツアー公演をしながら、

各都市のさまざまな特徴が見えてくる。

 

まず、フランスの公共劇場にほぼ共通して見られる任務が、

地域の中高生のための「芸術鑑賞授業」受け入れである。

フランスの義務教育では、選択授業で「演劇」のクラスがあるので、

そのクラスを受講している、つまり、既に演劇に興味がある中高生の一行がくることもあれば、

学校の企画した芸術鑑賞会に、義務として参加する場合もある。

 

日本でも、中高生のための芸術鑑賞会というものは行われていて、

私も、高校生のとき、クラスメート全員で某老舗劇団の作品を鑑賞したが、

ほとんどの生徒が寝ていて、この環境でやる俳優は地獄だろうなと同情した記憶がある。

 

フランスの公共劇場、日本のそれと比べて、

「おとなしい」プログラムに収まっていないという違いことがある。

私がモンペリエに住んでいた時、

フランスにおける「芸術鑑賞事業」を強く意識するきっかけとなった出来事がある。

気鋭のフランス人振付家、ボリス・シャルマッツの『enfant(子ども)』という作品を見に行った際、

小学校低学年の芸術鑑賞会と重なり、

このエッジの効いたコンテンポラリーダンス作品を、小学生の集団と鑑賞したのである。

Boris Charmatz – enfant (extrait) from Charleroi danse on Vimeo.

 

もちろん、数人の子どもが出演しているしている作品ではあるが、

どう考えても「公共的」にいう「子ども向き」な作品とは言えない。

しかし、7歳にも満たないであろう子どもたちの集中力は凄まじいものであった。

公演後も、興奮しておしゃべりがとまらない。

付き添いの教員に促されながらも、なかなか客席をさろうとしない子どもたちの姿が目に焼き付いている。

 

さて、フランスにおける、こんなビビットな経験を子どもたちに経験させてくれる芸術鑑賞会の雰囲気は、地方によって千差万別である。

たとえば、ブルターニュ地方は、文化予算が豊かなことでも有名で、

教育関係者も、文化教育に関して、公共劇場との連携を必要不可欠だと捉えている。

ブルターニュで公演する時は、芸術鑑賞会の前に、生徒たちと演出家のディスカッションが企画されることもすくなくない。

 

そして、10月3日。

私たちが、降り立った街は、南仏のガール県に位置するアレス。

アレスで公演するのは、これが2回目となる。

アレス初日、客席前方に、明らかに、芸術鑑賞会で来ていると思われる高校生の集団が見受けられる。

幕が開けても、彼らのひそひそ声はとどまることを知らない。

ひそひそ声どころか、何をしゃべっているかまで聞こえるほどだ。

さらに、たちが悪いことには、俳優の外見に関する冷やかしのオンパレードである。

まず、女優3人で全裸になるシーンがあるのだが、私が脱いだ瞬間に、アジア人である私の陰毛を、下品な言葉で冷やかされる。(欧米は処理している人が多いというから、単純にありのままの陰毛に驚いたのかもしれない)

その後も、

アラブ系フランス人の髪の毛をバカにしたり、

私のフランス語のアクセントを笑ったり、

アラビア語のセリフをバカにして笑ったり、

しまいには、ハゲている俳優をバカにしたり。

 

とにかく、自分たちとの「違い」を一切受け入れることができないのだ。

作品の内容が、商業的なものから遠ざかれば遠ざかるほど、

つまり、「芸術」に傾倒すればするほど、

観客の好き嫌いはわかれる。

ただ、好き嫌いを言う前に、

観客に「自立した」観劇をしてもらわなければ始まらない。

 

人生で初めて体験した舞台上での「差別」に悶々としながら、

終演後のバーで、仲のいいスタッフに、高校生たちの反応を伝えると、

「あー、それは、アレスだからしょうがないよ。極右だもん。」

と、想像だにしなかった返答。

極右?!なぜ、政治の話?

彼女によると、フランスの観客の反応は、

地方都市の政治思想によって、かなり違うということ。

つまり、アメリカでトランプを大統領に就任させたような、

大都市と地方の格差はフランスでも大きいということ。

ホテルに帰ってから、早速調べてみると、

2017年のフランス大統領選、決選投票で、マクロンのパリでの得票率は約90%。

極右のルペンは10%しか取れなかった。

ロンドン同様に、パリはグローバル化の恩恵を享受している市民が多い。

一方、2015年の欧州委員会統計局に関するデータをみると、

失業率が高い地域ほど、国民戦線、つまり、極右を支持していることがわかる。

フランスの極右の特徴は、移民数を制限し、特に、就職や社会保障の面で、

外国人よりもフランス人を優先する政策であろう。

 

スクリーンショット 2019-10-14 19.32.53.png

 

 

これは、庶民のグローバル化への不信感、

つまり、文化の醍醐味でもある「多様性」を排除する方向性を導く。

そして、やはり、アレスは、極右支持率の高い都市であるということが判明した。

 

私は、自分の陰毛を、

高校生の集団に明らかに笑われて、

とても傷ついた。

何度上演回数を重ねても、作品が、全く同じように舞台の上に現れることは一度たりとない。

なんらかの歯車がずれて、

公演の質が落ちてしまったことによって、観客の集中を欠いたとも考えられる。

しかし、このような政治的背景が、

芸術鑑賞事業の一環で、

仕方なく劇場にやって来た彼らの反応に、

少しでも影響を及ぼしているという事実があるとするならば、

パリで、「芸術」作品として注目を浴びて舞台に立つよりも、

「公共的」側面からみて、

私にとっても、彼らにとっても、

よっぽど意味のある1日だったと思う。