国家に終身雇用された作家:ヨン・フォッセと、俳優の終わりなき戦い。

2015年最初のスタージュは、
フランスの巨匠、演出家クロード・レジと組んで長年仕事していた
パスカル・キルシュ氏がプログラムされた。
創作内容は、
2010年国際イプセン賞を受賞し、日本でも話題となったノルウェー人作家、ヨン・フォッセ。
2010年国際イプセン賞 ヨン・フォッセが受賞
『北欧の舞台芸術』([編著者]毛利三彌+立木燁子)という本の中で、
彼のインタビューが紹介されています。
北欧の舞台芸術を相対的に知る上でも、
欠かせない一冊。
http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/294.htm
北欧
同じくノルウェー出身の劇作家、
「ヘンリック・イプセンの再来」と評価され、
ノルウェー政府は、彼に終身のサポートを約束したそう。
まさに、ノルウェーの誇り。
私の2年間に及ぶ国立演劇学校受験闘争中、
最低限必要だったのが、
古典1シーン、
現代1シーン、
受験者自ら作品を選んで、
シーンを創ってくること。
ヨーロッパにおける現代戯曲に関する知識がなかったので、
各国の作品を読み漁りました。
フランス語に翻訳されている戯曲の数が、
膨大であるため、
フランスにいるからといって、
フランス語圏だけの現代戯曲の中から選んだのでは、
歯が立ちません。
ドイツはもちろんのこと、
スペイン、イタリア、イギリス演劇は当たり前。
さらに、北欧、南米をおさえて、
ようやく一息というところでしょうか。
そんなヨーロッパ中の戯曲が読めるフランスでも、
格段に一目置かれている作家がこの人、
ヨン・フォッセ
実は、私がはじめて読んだのは、
日本語でした。
2004年に、太田省吾さんが演出された作品、
『誰かくる』
これは、作家であった彼が、
1994年にはじめて書いた戯曲。
なんと、40ヵ国以上の言語に翻訳されているそう。
目の前にある、戯曲。
ページを、開く。
句読点なし。
完全改行スタイル。
思わず、「紙がもったいないよ!」
と言いたくなってしまうような、
たった二文字のあとでも、
躊躇なく改行していくスタイルに、
まず度肝を抜かれる。
文章としてではなく、
ページ構成としても完結しているような、
戯曲に、
俳優がどのように足を踏み入れていくのだろう。
「絶望」と「甘美」と「誘惑」の狭間にはさまって動けない俳優を、
「静寂」の中、
そっと見つめる
作家の「洗練」と「挑発」に満ちた流し目。
何度となく繰り返される、
個性のない言葉たちの周囲に、
絶え間なく漂う、
ページの余白部分。
もう、2年以上前のこと。
フランス語に翻訳されているほぼすべての彼の戯曲を、
フランス語が読めないのに買い尽くしたのは、
この「余白部分」のためだったのだと、
いまさらながら、気づく。
余白に、
静寂に、
何もないことに、
お金を払うなんて、
なんて、
ロマンチックなのだろう。
ノルウェー。
海。
フィヨルド。
海はもはや背景ではなく、
人間の関係性の一部。
海。
フィヨルド。
闇。
包まれる。
波の音。
遠く。
から。
聞こえる。
記憶。
不安。
聞こえる。
不安。
包まれる。
遠い。
フィヨルド。
から。
記憶。
聞こえる。
から。
波の音。
聞こえる。
闇。
そして、
現実はの稽古場はというと、
台詞との戦い。
作家本人も、
言葉は簡単でも、
彼のテキストは詩で構成されているので、
対話文であっても、モノローグである可能性を、
常に孕んでいるという。
というわけで、
今回に限っては、
いつも台詞が覚えられない私だけではなく、
ひたすら繰り返される、
単語と、
変化する語順の中で、
全員、悪戦苦闘していました。
先週からクリエーションも本格化し、
2週間後のプレゼンテーションに向けて、
毎日10時間近くに及ぶ稽古。
2作品発表するので、
今のところ、
上演時間は、5時間と予定されています。
俳優と俳優のあいだ、
言葉と言葉のあいだ、
俳優と観客のあいだ、
言葉と観客のあいだ、
を、
流れる、
目に見えない「余白」が、
耳に聞こえない「余白」が、
手で触れられない「余白」が、
生まれますように。
そして、
ヨン・フォッセの台本の、
壮大で贅沢な「余白」に書き込みまくった、
鉛筆のメモが、
「余白」の、
「余白」たるものとしての権威を、
思う存分振るうことができますように。

動いていないのに過呼吸になる恐怖の俳優エクササイズ

いろいろありましたが、
2014年度すべてのスタージュを終えました。
ロシア現代劇作家、イヴァン・パヴィリエフに関する、
授業を行ってきたのですが、
演技に関する、
今回のポイントは、
「自分に戻る」
俳優にとって、
観客に見られていることを完全に意識しながら、
舞台で演じることは簡単でも、
舞台で演じないことは、
おそらく至難の技。
この「自分に戻る」ポイントを、
演技の中に散りばめていくことで、
観客にとっても、
俳優にとっても、
舞台空間における要素として、
責任感が増す。
たとえば、
観客を前にして、
腕を組んだり、
足を組んだりせず、
ただ椅子に腰掛け、
順番にそれぞれの観客と目を合わせていくこと。
なんでもないことのようですが、
特に、日本の文化背景のなかで育ってきた私にとっては、
地獄の訓練。
もちろん、
フランス人の俳優にとっても、
演じていない状況で、
観客の視線を意識しながら、
舞台上に存在することは、
やはりストレスフルな環境のようですが、
日本人よりは、
教育システム上、
人の前に立つことには、慣れているそう。
「自分に戻る」ポイントを取得することで、
爆発的な演技を生かすことができると言われ、
最終週は、
徹底して、
このことだけを意識して、
作品を作っていきました。
極端な例ですが、
マスターベーションをしながら、
モノローグを語るというシーンがあり、
このシーンを観客を完全に無視した中で、
(例えば、照明によって、客席は全く見えないような状態、
 もしくは、観客がいないという程をとること。)
演じることは、
ある種の「演劇」というコードが発生することにより、
大して難しいことではないと思うのですが、
全く同じことを、
観客がここにいることを認識している中で、
行うということは、
途端に難しい、
簡単に言ってしまえば、恥ずかしい行為になります。
なぜなら、
竹中香子が演じている役が、
観客の前で、
マスターベーションをしているのではなく、
役を演じている竹中香子が、
観客の前で、
マスターベーションをしているというように、
すり替わってしまうからです。
かつ、この訓練は、ひとりで行うことができないので、
授業の時間を使って、
全員に協力してもらい、
まず、ただ座るということから、
徐々に、台詞をただしゃべるだけ、
演出プランと創っていきました。
他の生徒も、
このエクササイズを体験したのですが、
舞台にいるときは、
飄々としているように見えたのに、
舞台を離れた途端、
過呼吸に陥った生徒もいました。
最終日のプレゼンテーション、
はじめて、
フルで、
この状況下に、20分程度いたので、
後半、演出とは関係なく、
おそらく恥ずかしさと気まずさから、
猛烈に涙が流れてきて、
それでも、観客から、意識をそらすことだけはせずに続けていたら、
最後の3行は完全に、
気持ちよく舞台に「いる」ことができて、
いつのまにか、観客のみんなと一緒に笑っていた。
あらためて、
演劇の訓練は、
ひとりでできないのだということを確信して、
学校という場所の必要性を感じた。
ただ、もちろん、
集団の欠点というのもあって、
疲れがたまってきているときなど、
簡単に、それが伝染して、
グループ全体のエネルギーをさげてしまう。
9月から、ノンストップだったスケジュールに、
11人全員、
体力的にというよりは、
精神的にかなりぎりぎりの状態だった、
最後の2週間。
それでも、
なんとかなんとか、
みんなで持ちこたえながら、
最終日は、
みんなで手分けして作った食事と、
学校が用意したシャンパンで、
乾杯。
全員徒歩5分圏内に住んでいるので、
終電を気にせず、
ミラーボールと、
カラー照明で、
クラブと化した学校で、
踊り続けました。
そして、今日から、
待ちに待った冬休み。

「自己洗脳」で無理なく勉強大好きになる一ヶ月。

2014年、最後のスタージュは、
前回同様、
劇団ではなく、
俳優集団”collectif”というスタイルをとっている
演出家であり俳優のAntoine OppenheimとSophie Cattaniによる、
ロシア現代演劇。
テーマは、ロシア人「超」現代演劇劇作家、
Ivan Viripaev(イヴァン・ヴィリパエフ)の作品。
フランスでは、もう何冊も翻訳戯曲が出版されており、
特にコリーヌ劇場で多く上演されている。
これ、本当に戯曲?と疑いたくなる形式に、
酔っ払いが15人近く出てきて、
しかも全員常に酔っ払っている話や、
精神病院にいる患者から、委託されて書いたと明かすところから始まる戯曲(嘘)、
全員が嘘しかつかない話、
などなど、かなりぶっ飛んでいます。
男女二人によるモノローグのみで構成されている
彼の代表作:『Kislorod (Oxygène)』(酸素)


本人によって、映画化もされている。

AntoineとSophieが所属するcollectif「Ildi ! eldi」も、
来年3月にロン・ポワン劇場で、
彼の作品を上演する。
Les guêpes de l’été nous piquent encore en novembre de Ivan Viripaev
スタージュの内容とは関係なく、
クリスマス前は、
どうしても、
モチベーションが下がりやすくなってしまうのは、
去年同様。
9月からノンストップの授業に追い打ちをかけ、
南仏の太陽に慣れっこの私たちに、
雨が降り止まない毎日。
精神的にも、肉体的にも、
ぬるーい状況に、喝!ということで、
先月の終わりからはじめた「自己洗脳」
実際に、自己洗脳というのは、
自己暗示法として、
いくつかの団体が紹介しているようですが、
竹中香子流「自己洗脳」はもっと甘っちょろいもので、
そもそも、
クリスマス(つまり里帰り)までの、
1ヶ月だけ勉強大好きになろうというもの。
授業外で、
フランス語の勉強をしなければと思ってはいたものの、
日常的には、不便がなくなった分、
ついつい演劇のことだけに時間を費やし、
1年生のときより、
言葉の訓練がおろそかになっていたのは事実。
ただ、終日、長いときには、
午前午後合わせて、
12時間に及ぶレッスン、そして、授業を終えて帰宅すると、
もうフランス語は聞きたくない‼︎
ということで、
大好きな人志松本の「すべらない話」をyoutubeで観ることがお決まりでした。
至福の時。
前回のスタージュで、
インプロビゼーションの際、
舞台における自分の語学レベルが、
想像以上に低かったことに、
打撃を受け、
一ヶ月間のyoutube断ちを決行。
ただ、人間にとって、
好きなものを我慢するということほど苦しいものはないので、
この状況を「好んで」選択している状況をなんとか作り出せないかと、
思いついたのが「自己洗脳」
以前、野菜を調理するのが面倒になったとき、
食に関するドキュメンタリーを片っぱしからみて、
調理済みのお弁当などに使われている化学調味料の恐ろしさや、
肉の加工の現場、
野菜や果物のビタミンが身体にもたらす活力などについて、
頭に叩き込んでみたところ、
自然に食生活が整頓され、
毎朝食べていたチョコレートたっぷりのシリアルともいつの間にか疎遠になりました。
この方法を使って、
なんとか、「すべらない話」から、
フランス語を聞きまくる、読みまくる、書きまくる生活に、
(しゃべりまくるは、もう学校でやっているので勘弁。)
シフトできないか。
とりあえず、
いま授業で扱っている、
Ivan Viripaevの戯曲を4冊読破。
この辺は、気合だけで突破。
辛かった。
それから、
ipadでARTEというフランスがドイツのテレビ局と提携して放送している、
チャンネルのアプリケーションと、
http://www.arte.tv/fr
フランソワ・ミッテラン元大統領の元で、
文化顧問でもあった、
フランスが誇る天才美人女性ジャーナリスト、
Laure Adler による、
演劇のラジオ番組のPodcastをダウンロード。
Studio théâtre / France Inter
映画、舞台、美術、音楽などに関する、
最新の情報が常に更新されているサイトCultureboxから、
最新記事を定期購読。
自分が興味がある分野から、
フランス語でしか情報が取得できない内容を、
とにかく開拓していく。
パリにいるときから、
スカイプで定期的に発音のレッスンを行っている、
ディクションの先生に、
この作戦を話してみたところ、
じゃあ、思ったことを毎日、
携帯のメールでもいいから送るようにいわれ、
その日のうちに、
添削メールが返ってくる。
自分のためにもなるからと、
無料でやってくれる。
フランス語を舞台の上で、
完全に操れるようになることよりも、
まず、
フランス語を習得することが、
いかに、自分の人生にとってアドヴァンテージをもたらすかということを、
徹底的に、脳よりも、身体(五感)に分からせていく。
一週間も経過すると、
もう、フランス語を耳にしていない時間は、
一秒たりとももったいないとさえと感じてくる。
記事や番組で、面白いテーマを発見するとすぐに、
先生にメールしたくなる。
友達にも、話したくなる。
しまいには、
日曜日の朝の哲学の番組を楽しみに待つ始末。
個人的には、
成功した「自己洗脳」で、
冬休みまでのあと2週間を乗り切ります。
それにしても、
我慢は身体に良くないので、
極力避ける。
ただ、したいことだけで、
構成されてないのが、
人生。
食べ物も、
学びも、
運動も、
いかに、
自分の身体の願望に応じて摂取できるかによって、
体内への吸収効率も変わっていくような気がする。
「したくないけど、
した方がいいだろうなあ」ということが、
「したいこと」に変わったら、
得した気分。
「自己洗脳」成功。

わくわくし続けたい人は、シュルレアリスムを始めよう。

今週は、年に2回30時間づつの大学の授業。
フランスの国立演劇学校の受験資格は、
高校を卒業していることなので、
生徒の中には、学士を持っていない人が殆どです。
11人中、私を含む3人は、すでに、大学を卒業しているので、
来年3年次から、修士課程の単位を取得できるそう。
大学の授業といっても、
私たちが大学に行くのではなく、
先生が学校に出向いてきてくれて、
学校のスタジオに舞台セットの大きなテーブルを置いて、
みんなで輪になって授業を行います。
課題論文の形式は、自由。
ちなみに、私は、前回、
ダンスと論文という形式で提出しました。
ビデオ作品として、提出したのですが、
映像の出来に納得がいかないと伝えると、
8分間の作品のために、
わざわざ先生が学校まで、
生で作品を観に来てくれる、嬉しいハプニングもありました。
今回のテーマは、第2次世界大戦中の占領下での、
フランスにおける文化活動について。
世界史は、受験勉強でやったはずなのに、
全く記憶に残っていない私は、
受験勉強のサイト『世界史の窓』で復習。
1940年6月、
ドイツ軍によってパリが占領されフランスは降伏した時代のパリ。
占領に対する抵抗運動「レジスタンス」が開始された頃。
まずは、映画で時代背景を掴む。
フランス国民にとって英雄的存在、
フランソワ・トリュフォー『終電車』を鑑賞。
舞台は、ナチス占領下のパリ、モンマルトル劇場。


当時、社会的には、不安、恐怖にさらされながらの
生活を余儀なくされていたにもかかわらず、
意外にも、
人々が、映画館、劇場、美術館などに出向くことは、
過去、最も活発であったと言われている。
もう一つ、第二次世界大戦中のフランス映画として忘れてはいけないのが、
マルセル・カルネ『天井桟敷の人々』

製作期間に3年以上、製作費は16億円以上にのぼると言われている。
この作品で、パントマイム芸人バチストの役を務めている、
ジャン=ルイ・バローは、
当時のフランス演劇界にはかかせない演出家であり、舞台俳優であった。
このように、市井では、
占領中にもかかわらず、
一見華やかに見える文化が次々と開花していった。
しかし、2012年から2013年にかけて、
パリで行われたエクスポジション
l’art, en guerre(戦争下の芸術), FARANCE 1938-1947

1924年、フランスの詩人アンドレ・ブルトンによる
「シュルレアリスム宣言」
これを受けて、パリで『シュルレアリスム国際展』が開催されたのが、
1938年。
つまり、先ほどのタイトルからもわかるように、
この1938年という年が、
「戦争下の芸術」と呼ばれる芸術たちの、
発端の時期と重なっているのである。
私の敬愛する、アンドレ・ブルトンの名前が出てきたのでびっくり。
ダリとか、デュシャンとか、
シュルレアリスムという言葉とセットでよく聞くけれど、
そもそも、シュルレアリスムってなんだ?
フランス語で考えてみると割と単純で、
surréalisme
つまり、sur-réalisme
リアリズムという言葉に、
「上」という意味の接頭語surがくっついているだけ。
surréalismeの日本語訳は、
超現実主義となっていますが、
sur:「過度」に、「過剰」に、という意味があるので、
「めっちゃくちゃ現実主義」
こんな感じでしょうか。
ところで、この運動、実は、戦争と深い関係があったのです。
1914年、第一次世界大戦勃発とともに、使われた大量の兵器。
科学の進歩は、人間に豊かな生活と文化をもたらすと信じてきたのに、
現実は、ただの殺人道具にすぎないことがわかってしまった。
ここで、この文明というものを全く信用できなくなったアーティストたちが、
スイスに集合して、
こんな嘘くさい文化なんて、破壊してしまおう!と起こったのがダダイズム(1916)
戦争が終わっても、アーティストたちは、完全に目的を失っていた。
頑張って勉強して、
知識人のための高尚といわれる作品を創ることになんの意味があるのか。
その知識人こそが、
戦争は始め、
あの恐ろしい兵器をつくったのだから。
戦時中、アンドレ・ブルトンは、看護兵として、
身体的だけでなく、
精神的に壊れていく兵士たちの看護に追われていた。
他のアーティストたちと同じように、
文明の未来というものに全く希望を持てなくなる。
そこで、アンドレ・ブルトンが考案したのが、
シュルレアリスム。
理性や、道徳から解放された、
知識人だけではない、
万人が持っている意識化の世界こそが、
「芸術」に通じるのではないか。
簡単に言ってしまえば、
昨晩みた夢を「芸術」にしてしまうというもの。
それでは、ここで、
アンドレ・ブルトンが、シュルレアリスム宣言のなかで扱っていた、
シュルレアリスム的感覚を自己の中に呼び覚ます方法。
1, 自己集中
2, 麻薬
3, 夢の記憶の訓練
4, 現実からの放心
5, コラージュによる偶然
2番以外は、法に触れることなく、
割とすぐに実践できそう。
つまり、シュルレアリスムとは、
テクノロジーの発達が、理想的な社会を実現するという、
ユートピアな思想に反して、
目に見えている世界を、
知識、そして、意識とともにとらえるのではなく、
目に見えない無意識の世界に目をむけることで、
現実を超えていこうとする運動。
シュルレアリスムとよばれる分野において、
最近、完全に度肝を抜かれたアーティストは、
スウェーデンの写真家、エリック・ヨハンソン氏。
http://erikjohanssonphoto.com
erik-johansson-art-photos-7.jpg
erik-johansson-art-photos-3.jpg
erik-johansson-art-photos-24.jpg
TEDで紹介されていたのですが、
単純に巧妙というよりも、
死ぬほど夢があると思った。

(日本語訳:http://digitalcast.jp/v/12020/
日本の開発者ユニット『AR三兄弟
長男の川田十夢さんが、
アエラのインタビューの中で、
テクノロジーについて語っていた記事を思い出す。
以下、引用。
「テクノロジーが人を豊かにするというのは、合理化とは違うんです。
ルーチンの仕事をなくすことができて便利になっても、
そこに人々が楽しむ余裕が生まれないと豊かにはならない。
そのためには面白いものを提供しないといけないんです。」

人がわくわくするもの。
文明は、人をわくわくさせ続けなければいけない。
シュルレアリスムは、
なんだかよく分からない定義とは裏腹に、
実は、とてもとても寛容な芸術なのだ。
シュルレアリスムに出会ったことで、
アートの知識関係なく、
気兼ねなく、
わくわくしたいときに、
わくわくできるようになったし、
こんな無知な私にも、
人をわくわくさせることができるんじゃないか、
とも思えてくる。
ということで、
今日も、夢をみよう。
ベットの中でも、
机の上でも、
地下鉄の中でも。

「想像」と「妄想」の違いについて考える。

インプロビゼーションによる劇作スタージュ、最終週。
ありとあらゆる、
「想像」と「妄想」の中で、
終了しました。
今週も、11人によるインプロビゼーションを続けながら、
それぞれの関係性や状況の中で、
起こりうるドラマを少しづつ固めていく作業が続きました。
11人の登場人物の中で、
起こりうるドラマに、
全員が、想像、そして、妄想を膨らまし続け、
いくらあっても、時間は足りず、
後半のクリエーションは、
毎晩、深夜2時を回りました。
その中で、印象的だったのが、
「お葬式エクササイズ」
これは、
一人一人が、
グループの中の誰か(役として)が死んだと仮定して、
お葬式の喪主になるというもの。
他のメンバーは、役として、
喪主との関係性に応じて、
葬儀に参列し、
喪主と言葉を交わす。もしくは、挨拶のみ。
これは、他のメンバーに聞こえるように、
見せるために行うものではなく、
あくまでも、
喪主と相手役との間だけで、
交わされる親密な時間を、
役者同士が生きる(経験する)だけのために行うもの。
3週間に渡って、
11人全員で創り上げながら、
「生きてきた」役たち。
その中の誰かの死。
リアルとフィクションが交差する中での、
喪失の大きさは計り知れない。
今まで、
「泣く」演技なんて、
具体的に考えたこともなかったけど、
自分の役と関係の近い役の死に、
自然と涙がぽろぽろと止まらない。
想像力を最大限に働かせて、
自分の感情にアクセスするのではなく、
ただ、役として、自分(俳優)が「生きる」ことで、
感情が揺さぶられることの居心地の良い疲れ。
それぞれが、
役としての関係性としての誰かの喪失に、
実在する誰かの喪失という設定を持ち運ぶことを拒むことはできない。
必然的に生まれる「悲しみ」に身を任せて、
「生きてみる」こと。
最終日。
学校の劇場での一回限りの公演。
今宵のメニューは、
サーモン&レモン、ドライトマト&チーズの2種のパウンドケーキと、
私が担当したデザートのティラミス。
今回も、もちろん、すべて手作り。
さいしゅう
公演前に2時間かけて、
11人全員で新たなドラマツルギーのみの、
マップ(あらすじ)を作っていく。
台詞は一切与えられていない。
さて、
観客が入って、
一発勝負!
はじめて、100%で感じたグループの力。
決定的な違いは、
役者として、何か面白いことを言いたいと思った時に、
笑わせたいと思う相手が、
観客なのではなく、
共演者、
つまり、今、舞台の上で「結婚式」という状況を、
共に生きている他の役たちであったということ。
たぶん、これは、初めての感覚。
個人としてではなく、
チーム(共演者全員)で、
意識する観客という存在に初めて出会った。
やたら、心強い。
人前で何かをするということへのストレスとは程遠い、
自分たちが創り上げてきたシーンを、
「revivre」(もう一度生きる)というシンプルな行為。
終わってからも、
自分たちが、
「役」として、
生きてきた90分の時間を思い返して、
全員、笑いが止まらない。
それにしても、
ひとつだけ、
想像していたことと違ったのは、
自分の語学力。
日常生活であれば、
基本的に、言葉に不自由することなく生活しているつもりでいましたが、
舞台の上で話すというのは、
やはり、別物。
考えてみれば、
舞台の上で、
決められていない言葉を話すということは、
初めての経験。
自分の言葉の不自由さに、
愕然と肩を落としました。
想像の中の自分は、
もっと、ペラペラとフランス語を喋っていたのだけれど。
「上達枯渇期」が、
また巡ってきた。
ところで、
なんとなく使い分けていた、
「想像」と「妄想」の違いとは、
なんでしょう?
そう‐ぞう【想像】
[名](スル)実際には経験していない事柄などを推し量ること。
また、現実には存在しない事柄を心の中に思い描くこと。
もう‐そう【妄想】
[名](スル)《古くは「もうぞう」とも》
根拠もなくあれこれと想像すること。また、その想像。
このように比較してみると、
「妄想」は、「想像」に比べ、
やや無理くりな印象を受けます。
基本的に、「妄想」は、
自分が都合の良い方にと「想像」していく行為。
つまり、「想像」よりも、
一歩先をいっているのである。
想像力よりも、
妄想力を高めることで、
いつのまにか、
実際に起こることを確信して、
行動している。
今回、自分が舞台の上でも、
フランス語ペラペラであるという妄想が、
見事に崩れ去ったわけですが、
今後も、
舞台の上で、フランス語ペラペラな自分を
「想像」ではなく、
「妄想」を限りなく、
現実に高めていけたらと思います。