演劇における「コピー」の美学

先日、来年度の公演に向けた
1度目のワークインプログレス公演が行われた。
ジャックリヴェットの映画『OUT1』をもとに、
主に、インプロビゼーションの手法を用いて、
創作をしてきた5週間。
その中で、ひとつのメインテーマだったのが、
「コピー」について。
美術界で、
初心者にとっては、
避けては通れない、
この「コピー」という概念が、
演劇界で使われると、
たちまち、ネガティブな言葉のように、
聞こえてきはしないだろうか。
だって、俳優には、
人とは違う何か、
個性、そして、オリジナリティが必要、
ってそれ本当?
例えば、素描(デッサン)は、コピーの原点ともいえるであろう。
美術の基礎訓練として多くの美術学校が、
入試試験に課しているし、
美術系の予備校でも、主要なカリキュラムの一部になっていることは言うまでもない。
対象を見たまま、写真のように正確に紙の上に描くということ。
スポーツにおいても、
まずは正確な身体のフォームというものを、
真似るところから始まる。
「演技」というもの自体が、
そもそも自分ではない別の人物を真似る、
という特性に基づいているにもかかわらず、
「俳優」には、やたらとオリジナリティが求められるのは何故だろう?
演技における「コピー」は、
「できる」という前提のもとには、
おそらく、
いかなる魅力も発しない。
やろうと思えばできるが、
そのような行為には価値がない。
同じ人間は、二人いらない。
だから、コピーしても仕方がない。
はたして、演技において、
「コピー」とは、
本当にタブーなのであろうか?
この演技とコピーの関係を探るに渡って、
私たちが繰り返し行ってきたのが、
イヤホンエクササイズ。
その名の通り、
誰かが録音した声を、
リアルタイムで、
イヤホンから聴きながら、
観客の前で、
聞こえたままに言葉を発していく。
30分も続けると、
自然に、他人の言葉のリズム、メロディーが、
自らの身体に浸透してくる。
ただ、観客の前に提示されているのは、
紛れもなく自分の身体そのもの。
今回、私たちとクリエーションを共にした、
演出家であり、美術家のロバート・カンタレラは、
この手法を用い、
哲学者ジル・ドゥールーズの講演会の録音を、
1回60分で、
観客の前で、
発表するパフォーマンスを4年以上も続けている人。


毎回、ひとつの講演録音は、一回限りしか、
観客の前で発表されることはなく、
準備も一切なしというルールを決めているそう。
つまり、初めてイヤホンから耳にするドゥールーズの声を、
観客の前で、
自分の口から、そして、自分の身体を通して、
発していく。
ドゥールーズは、フランス人にとって、
哲学界におけるアイドル的な存在なので、
毎回、このイヤホンシステムが公表されているにもかかわらず、
ドゥールーズが、まるで、生き返ったような錯覚にとらわれて、
涙する観客がいるそう。
また、映画のシーンを、
transposition(置き換え、転位)していくというエクササイズでは、
より役者の身体に特化して、
モノマネをするというより、
本質的な他者の特徴をいかに、
掴んで自分の身体に転化していくかということを、
実験していきました。
そんな演技における「コピー」という概念を考える毎日に、
たまたま見た2011年公開の映画:
歌舞伎座さよなら公演 記念ドキュメンタリー作品『わが心の歌舞伎座

歌舞伎界を代表する歌舞伎俳優たちが、
歌舞伎座との思い出や、想いを語りながら進んでいく。
特に、興味深かった幾つかの言葉をあげておきます。
ー歌舞伎は主演俳優が演出する。
ー松本幸四郎「歌舞伎の人たちは、歌舞伎のことを演劇とよぶ。」
ー片岡仁左衛門「目や耳でなく、肌で感じさせるために、魂で演じる。 」
そして、市川団十郎氏が、
歌舞伎における「コピー」について、語っていました。
コピーではなく「写す」
「写す」作業において、
完璧は存在しない。
コピー機を使わない、
手書きによる「写す」作業のようなもの。
つまり、
「原本(オリジナル)」を、
何回も、
見る。
まさに、
素描と同様のシステム。
何回も、何回も、
見て、
捉えて、
写す。
その繰り返し。
例えば、シェイクスピアの戯曲が書かれた時代には、
もちろん、コピー機などという便利な文明は存在していないので、
「写す」作業においてのみ、
彼の言葉が受け継がれてきた。
「写す」作業における、
やむを得ずも、愛おしい、
写した本人の「個性の介入」
このように考えていくと、
シェイクスピアという像が、
シェイクスピアを愛し写した、
いくつもの顔によって、
構成されているように見えてくる。
一体、
いままでに、
何人のシェイクスピアたちが、
この歴史をまもってきたのだろう?
そもそも、
人間である俳優は、
完全「コピー」なんて、
できないのだ。
私は、「個性」という言葉を信用していない。
少なくとも、
たかが、27歳の私が、
「個性」という言葉にすがること自体、
お門違いもいいところだと思う。
それでも、
学びの現場における、
コピーへの到達に、
全身全霊を尽くす過程における、
じわじわと滲み出るような、
どうしたって「隠せない」個性を、
垣間見たときには、
その俳優から目が離せなくなる。
「コピー」における考察は、
今後もまだまだ続きそう。
答えは、出ないまま、
コピーにおける、
個人的なワークインプログレス的結論は、
「学びは、コピーから」??

上演時間8時間の作品を経て、正しい「自慢」の綴り方を模索する。

じ‐まん【自慢】
[名](スル)自分で、自分に関係の深い物事を褒めて、他人に誇ること。
(goo辞書より)
他人にうまく「自慢話」をすることができる人は、
優れた才能の持ち主だと思う。
自分に起こった素敵な出来事における、
「事実」というよりも、
むしろ、その「感覚」を他人と共有ことができる人。
直接、誰かに「自慢」をすることができたら、
話の内容よりも、
いかに、その出来事が本人にとって素晴らしかったのかということが、
その話し方によって、
「感覚」的に 伝わると思う。
しかし、文章で「自慢」するとなると、
この「感覚」を伝えることは、
随分と難しいことのように感じて、
さっきから、
「自慢」を綴る方法を考えていた。
ブレヒトの異化効果ではないけれど、
「自慢」を始める前に、
前置きしてみたらどうだろう。
皆さん、
これから、「自慢」を始めます。
「自慢」されたくない人は読まないでください。
前置きが長くなりましたが、
昨日、私たちが過ごした時間は、
本当に特別で、
本当に本当に最高だった。
前日の夜に、生徒だけで5時間かけて用意し、
午後13時から、21時まで、
8時間に及ぶ作品を、
10人で演出家の前で発表した。
映像、朗読、シーン、インプロ、写真、ゲーム、音楽、ダンス、録音、電話…
ありとあらゆる手段を使って、
12時間40分に及ぶ、
ジャック・リヴェットの映画『OUT1』を、
私たちの方法で、
interpretation (解釈/通訳/演技)した8時間。
トイレに行くのも、
食事をするのも、
コーヒーを飲むのも、
タバコを吸うのも、
すべて、作品の一部になっていく。
スポーツと一緒で、
よく、
素晴らしいアーティストが、
素晴らしい指導者だとは限らない、
という言葉を耳にしますが、
演劇の場合はとくにそうだと思う。
俳優教育というと、
日本の場合、
演出家が担うことが多い。
もちろん、フランスでも、
クリエーションの場合は、
演出家が招聘されて、
学校にやってくることが多い。
ただし、
学校、
つまり、教育機関におけるクリエーションの場合、
いかに、学生たちが自立して、
作品と関われるかということが問われる。
言われたことを、
こなすのではなくて、
自分の関わり方次第で、
作品の内容自体が変わってくるような可能性を孕む必要がある。
簡単に言ってしまえば、
学校で行われるクリエーションこそ、
ゴールが見えているべきではないのだ。
例えば、今回のプロジェクトの場合、
2015年4月:リサーチ/プレ稽古期間5週間
2016年 冬:本稽古5週間
2016年 夏:初演 
2016年 秋:ツアー
という流れが組まれている。
学校において、
今回私たちが過ごした、
稽古前のリサーチ期間に、
俳優として、演出家と対等に、
プロジェクト関われるというのは、
当たり前、
かつ、財政面でいえば、
やはり、恵まれていると思う。
さて、「素晴らしい」指導者とは何か?
若い俳優にとって、
実際の現場で、
俗に言う、「有名な」演出家と、
クリエーションができるということは、
願ってもいないチャンス。
それと、同時に、
最近よく思うのは、
このメンバーの中で演劇ができて最高!
と、すぐとなりにいる俳優たちを
「自慢」したくなってしまう環境を創れる指導者は、
ファシリテーターとしてとても興味がある。
私を、「自慢」することよりも、
自分がいるグループ、
そして、
周囲の人々を通して、
そんなところにいる私、最高!
と、「自慢」できる環境が、
学校には必要だと感じる。
なぜなら、
カンパニーなど、
すでに、気の合う仲間が集まって、
コミュニティーが派生している場合と違って、
学校の場合、
「たまたま」その年に居合わせメンバーが、
「たまたま」学びをともにしているのだから。
この「たまたま」を誇りに思えるようになったら、
しめたもの。
俄然、学びの効率もあがる。
普段は、脳が疲れ果てて、
授業のあとは、一目散に家に帰る私だけれど、
8時間に及ぶ、
「自慢」の仲間と、
「自慢」の作品のあとには、
「自慢」話がしたくてたまらないので、
みんなでピザを食べにいった。
8時間のプレゼントに、
ご満悦な演出家。
普段は半分しか食べれない、
ヨーロピアンサイズのピザを、
まるまる食べて、
ご満悦な私。

12時間40分の映画を見ながら、合理的とは何か考える。

先週から演出家Robert Cantarella (ロバート・カンタレラ)を迎えて、
来年のモンペリエでのフェスティバルとパリツアーに向けてのプレ・クリエーションが始まりました。
テーマは、ヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督、
ジャック・リヴェットの伝説的映画、
「Out 1: Noli me tangere」(1970)
上映時間はなんと、760分(12時間40分) !!!
昨年のフェスティバル・アビニョンにて、
Thomas Jolly(トマ・ジョリー)が、
シェイクスピアの『ヘンリー6世』を休憩含み、
18時間かけて上演しましたが、
(過去の記事:18時間演劇で、極上の疲労感。
45年前の映画界で、
すでに、こんなに歴史的かつ破壊的作品があったとは。
無知の恐ろしさだけを知る、毎日。
日本では、ユーロスペースにて、
2008年に、ジャック・リヴェット レトロスペクティブが行われていますが、
http://www.eurospace.co.jp/detail.html?no=131
アウト・ワンの上映はなかったようです。
ジャック・リヴェットは、
ゴダール、トリュフォーをはじめとする、
名だたるヌーヴェルヴァーグの映画監督たちの中でも、
最も演劇に近かった人であると思う。
内容を見ても、
圧倒的に、演劇、俳優というテーマを扱った作品が多い。
http://movie.walkerplus.com/person/74095/
アウト・ワンは、8つのエピソードからできており、
各エピソードの冒頭に、
ひとつ前のエピソードの内容が、
写真で回想される構成になっています。
ちなみに、字幕なしならyoutubeで、
全編12時間40分視聴可能。


出演俳優は、
ほぼ全員、なにかしらの映画で見かけたことがある、
ヌーヴェルヴァーグのスターたちばかり。
エリック・ロメールまで俳優として出演している。
ふたつの劇団が、
インプロヴィゼーションを用いて、
稽古を進めている。
最初の方は、
永遠に続くかと思うような、
終わりなき、
演劇的エクササイズのシーンが続く。
徐々に、舞台は、
このふたつの稽古場の外へ進んでいき、
それぞれの人生そのものが、
「演劇」化していく。
そして、
気づいた時には、
もう戻れない。
舞台の外、
現実の中の、「悲劇」

先週のスタージュでは、
2エピソードづつ鑑賞するごとに、
課題として、
それぞれのエピソードに関する作品を、
創作していく。
基本的に、映画の上映が終わるのが21時過ぎ、
22時から稽古をして、
翌日に発表する作品をつくるという流れ。
それにしても、
3時間以上、
フランス映画を見続けた後の私の脳の状態といったら、
ほぼ寝起きの状態に等しい。
前半は、いまだかつて出会ったことのないような珍味を、
どう味わっていいのかわからず、
情報を処理するだけで、
胃がぐるぐると音を立てている感じでしたが、
一度癖になったら、
もうやめられない。
演劇って何?
映画って何?
俳優って何?
演じるって何?
グループって何?
何か新しいことを始めてから、
10年後からやっとはじまるような、
本質的かつ初歩的すぎる疑問が、
立て続けに浮かび上がってくる。
作品創作は、
3人組から始まり、
ソロ、
5人組、
そして、
最終日は、10人全員(現在、一人の生徒が外部の仕事のため、休学中)で、
行われました。
ソロでは、
トリュフォーの映画には欠かせない、
フランスの天才俳優、
ジャン=ピエール・レオの動きだけを抽出し、
ダンス作品を作ったり、
グループでは、
街にでて撮影を行い、
30分の映像作品を作ったり、
課題を創作している時間そのものを、
120分撮影しっぱなしにして、
作品にしてしまったり、
もう、
メタのメタのメタ。
リアルが介入してくる中での、
演技というものについて、
まさしく、
経験の中で、創作していく感じ。
経験の中の創作に、
必要不可欠なのが、
不必要な時間。
つまり、
決して無駄ではない、
究極に「無駄な」時間。
なにしろ、
アウト・ワンの構造と全く一緒で、
時間の経過とともにしか、
行き着けない場所があり、
その場所にたどり着く過程でしか、
実験できないことがある。
そして、その実験を通してでしか、
ありえなかった結果がある。
最終日、
連日の稽古で疲れ果てているなか始まった、
10人全員によるクリエーション。
深夜23時を回っても、
いっこうに意見がまとまらない。
翌日12時には、
作品を発表しなくてはいけないのに、
絶対絶命のピンチ。
3時間、
話し合いを続けても、
いまいちピンとこない内容で、
ラストシーンも決まらない。
思い切って、
深夜0時、
あやふやなまま解散し、
翌朝、
再び集まることに。
一晩寝かせたところで、
昨日、3時間以上話したこととは、
まったく違うアイディアに、
30分で話がきまり、
発表。
演出家から、好評をいただき、
うちらの昨日の3時間ってなんだったのー?
と、みんなで笑いました。
だって、いつものこと。
いつだって、
膨大な「無駄」が、
最後に表面に現れる、
ほんの1パーセントを、
支えてくれる。
今は、そのことを知っているから、
できる限りの「無駄」をしたい。
みんなで、
お菓子をつまみながら、
基本エンドレスの「無駄」な話し合いをすることができる環境、
これが、私の合理主義。

「蛇口を開けっぱなし」にする生き方

ソロ創作期間含む、
約4週間に渡る映画撮影が終了しました。
入学以来初めて行われた本格的な映画スタージュ。
フランスの国立演劇学校では、
3年間を通して、
映像に関するスタージュが、
少なくとも2回は含まれているのが一般的なようです。
演劇と映画の違いは、
なんといっても、
スタッフの数。
今回の撮影でも、
常時、4人の技術スタッフが、
稽古期間から同行してくれていました。
基本的に、
毎日、待ち時間も含め、
朝、9時から深夜まで、
大家族のように生活するということで、
組織としてのあり方の観点から、
学ぶことの多い時間でした。
それは、ひとえに、
今回の作品の総監督である、
私たちの学校長の一貫した態度のおかげに他ならなかったと思う。
どんなに忙しくても、
毎朝、校長は、自ら、
スタッフ、俳優、ひとりひとりのところに挨拶をしにいく。
挨拶といっても、
南仏の場合、頬に3回キスするので、
多人数の場合、
正直、かなりの時間をとる。
早朝撮影で、
遅刻する人がいた時も、
自宅まで、迎えに行ってあげよう、
と、提案。
時間が押して、
撮影場所利用可能時間ぎりぎりになって、
撮影が終わらなくても、
また、別の場所を探せばいいからと、
俳優へストレスが生じる環境では、
決して撮影は行わない。
そんな彼の口癖は、
「善意(bienveillance)」と「感謝(gratitude)」
撮影が進むにしたがって、
精神的にも、肉体的にも、疲れがたまっていくのに、
不思議と、
関係者全員、どんどん寛容になっていく感じ。
そして、極め付けは、
どんなに忙しくても、
スタッフ・俳優全員で、
撮影中も頻繁に行われた、
作品と創作過程に関するブレインストーミング。
その中で、
彼が語っていた印象的な話が、
「蛇口を開けっぱなし」にする生き方について。
組織で仕事をするときに、
一番、大切なことがひとりひとりが「NO」と言える環境を作ること。
そして、ひとりひとりは「NO」と言うために、
学ぶことをやめないこと。
そして、その「NO」は常に流動的である必要があるということ。
具体的にどのようなことかというと、
例えば、
組織の中のひとりに、不信感を抱いていたとする。
不信感を抱くことは、
とても自然なこと。
ただ、この不信感を決して、不動のものにしてはいけない。
今日、彼のことが全く信用できなくても、
明日、彼のことが大好きになっていることを受け入れられるために、
意識の蛇口は、常に開けっぱなしにする。
「NO」ということは、言動ではなく、行為。
つまり、「NO」といったからには、
必然的にそれに対するアクションがつきもの。
「NO」の直後から始まる、
「行為」を伴う可変性に富む関係から、
壊れやすいけれど、
本物の人間関係がはじまる。
逆に、信用をすでに獲得している関係に対しても同じ。
一度できた関係性に甘えないために、
蛇口は、常に開けっぱなしにする。
不信も、信用も生もの。
世話を怠ると、
知らないうちに、
カビが生えていたりするのかも。
変わらないものなんて、
なにもない。
だから、動き続ける。
学校での創作において、
確実に得たと言えることがひとつだけあるとするなら、
いつだって、
それは、
創作態度に関することばかり。
残念ながら、
俳優として、
特別なことができるようになったとか、
演技がうまくなったと感じたことは、
正直、一度もない。
そもそも、俳優という職業自体が、
「人間」になるための修行のような部分が大きいので、
普通のことなのかもしれない。
しいて、今回、
演技に関することで小さな発見があったとすれば、
以下のことが言えると思う。
演劇は、うまくいった瞬間にはじまり、
映像は、うまくいった瞬間に終わるということ。
演劇という媒体の根本的な特徴は、
再現(reproduire) 芸術であるという点にあるので、
うまくいった感覚をどのように、
くり返していくかを探していく作業が、
そこから始まる。
撮影を担当したカメラマンに言われたことが、
舞台上では、俳優自身が、
再現を可能にするために、
遠くから俯瞰して自分を見るような
「オブジェクティブな目」が必要かもしれないけれど、
逆に、映像では、この作業は、カメラマンの仕事。
主観の目だけを持って、
一回一回の撮影が、
最初で最後であると思って、
演じること。
蛇口は常にあけっぱなし。
ためておけるものなんて何もない。
それでも、
水圧は一定に、
新鮮な水が、
いつだって勢いよく流れ出しているように。
今日も、更新されるわたし。

夢みるチカラと踊る一週間

このブログの一番の頻出単語は、
「夢」という言葉だと思う。
ゆめ【夢】《「いめ」の音変化》
1 睡眠中に、あたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像。
視覚像として現れることが多いが、聴覚・味覚・触覚・運動感覚を伴うこともある。「怖い―を見る」「正(まさ)―」
2 将来実現させたいと思っている事柄。「政治家になるのが―だ」「少年のころの―がかなう」
3 現実からはなれた空想や楽しい考え。「成功すれば億万長者も―ではない」「―多い少女」
4 心の迷い。「彼は母の死で―からさめた」
5 はかないこと。たよりにならないこと。「―の世の中」「人生は―だ」
理由は、おそらく、
goo国語辞典の定義でいうなら、
5番目の、「はかないこと。たよりにならないこと。」
という理由からだと思う。
人がみる夢は、
いつだって儚くて、
語り続けてていないと、
いつのまにか溶けて消えてしまうのだ。
今回は、そんな夢にまつわる
天国と地獄の間の、
煉獄クリエーション。
いま、思い返しても夢であったとしか思えない、
不思議な一週間だった。
以前のブログでも、
紹介しましたが、
現在、私たちは、
SF映画を撮影中。
映画の中で、
11人全員が全員がアンドロイドとして、
ある舞台作品のオーディションを受ける。
そのシーンを創るにあたって、
ソロのクリエーションが、
実験的に行われました。
最終的に、
何分か使うかは一切考えず、
そのオーディションの課題として、
一人一人が夢にまつわる作品を、
時間無制限でつくり、
カメラマンとともに、
撮影する。
以下が、
実際に行われた、
「夢」クリエーションの流れ。
1.来年の演出プログラムで扱う作品(既存の戯曲を使う人もいるし、自分で書いた人もいる)を元に、モノローグを書く。
2.1の作品の登場人物が夢をみたと仮定し、その「夢」を具体的に構築する。
3.2の「夢」を絵に描く。制限時間は30分。紙は何枚使っても構わない。
4.絵を順番に見せながら、皆の前で、「夢」のストーリーを語る。
5.その夢を、一切言葉を使わずに、ダンス作品にする。ただし、マイム、もしくは、直接的に夢を説明するような動きは、すべて排除する。
6.ダンスを発表。
7.二人組をつくり、相方に、自分が1で書いたテキストを渡し、自分が、ダンスを再度発表している間に、相方は、インプロビゼーションでテキストを読んでいく。
8.撮影された7を繰り返しみて、相方が自分の動きに合わせて読んだのと同じタイミングで、自分がテキストを声に発しながら、ダンスと合わせていく。
私の場合、4までは、
なんの困難もなくすいすいと進んでいったのですが、
5から、煉獄の幕開けでした。
創作をはじめても、
まるまる三日間は、何もできず、
昼間は、他のシーンの撮影があるので、
連日、8時から深夜1時に及ぶスケジュールに、
身体も重くなるばかり。
「夢」にまつわる作品をつくりながら、
家に帰れば、
すぐに、ベッドの中で、
「夢」をみる。
そんな毎日の繰り返しの中で、
「夢」と「現実」とは、
なんだろう、と改めて考えてみました。
私には、「夢」がある。
それは、「現実」の世界にはないもので、
ないからこそ、みているもの。
「現実」の色が濃くなれば濃くなるほど、
「夢」とのコントラストは大きくなるし、
「夢」は遠くにいってしまい、
油断をすれば、
「現実」の色に混ざって、
見えなくなってしまうことだってある。
かといって、
「現実」と「夢」が、
しっかり区別できていればいいかというと、
そういうわけでもない。
「現実」の陰に脅かされていない「夢」は、
持続性がないように感じる。
「現実」があるからこそ、
現実味のない「夢」が、
鮮やかに映し出される。
このクリエーションを通して、
夜みる「夢」と「現実」の境界線と、
将来の「夢」と「現実」の境界線が、
どんどん曖昧になっていく感覚を、
止めることができなかった。
それは、
とても居心地がよく、
触れることはできないけれど、
確かにここにあるもの。
「夢」が、
「現実」を前に、
破れてしまう可能性があるなら、
「現実」自体を「夢」に、
近づけていくことはできないのだろうか?
「夢みるチカラ」、
必須要素は、
持続性。
夢の続きと目覚ましの音の間で、
目が覚める。
夢をみた。
確かに、夢をみたのに、
思い出せない。
そんなとき、
もう一度、目を開けたまま、
夢の中に入っていけたらいいのに。
最終日の撮影は、
ふたつの方法で行われた。
ひとつめは、
真っ白いスタジオの中の、
中央に、椅子をおいて、
その椅子に座って、目をつぶる。
自分の動きを頭の中で、
反芻しながら、
そのリズムで、
テキストを声に出していく。
「夢」と「現実」が、
自分が書いたテキストと、
現実の時間と、
身体の感覚の中で、
ぐつぐつと煮え出した途端、
自分がどこにいるのかわからなくて、
自然に涙が溢れてくる。
あのとき、私は、どこにいたのだろう。
そして、ふたつめが最終形。
相方がつくりあげたタイミングで、
自分のダンスにテキストをのせていく。
どんなに集中していても、
フランス語で台詞を言うときは、
いつだって、恐怖でいっぱいの私なのに、
今日は何も怖くない。
夢の中で、
私の身体が、
勝手に、夢を生きている。
私は、その夢をみているだけ。
まさかの、
取り直しなしの、
ワンショットで終了。
一瞬にも思えた夢の時間は、
現実では、22分間だった。
夢は、
大きい。
そして、
遠い。
その夢を前にしても、
私たちは、
起きて、
ご飯をたべて、
仕事をして、
寝て、
また、
起きる。
だから、
私は、
夢を実現する力よりも、
夢を「み続ける」力がほしいのだ。
だって、現実は、
いつだって、変化しながら、
それでも、続いていく。
夢は、
大きければ、大きいほど、
枯れやすい。
遠ければ、遠いほど、
失くしやすい。
だから、
今日も、
しつこく、
夢みるチカラ。