「ぼんやりとした恐怖」との付き合い方を考える。

「きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。

だが、その前に断っておきたいことがある。

きみが笑うのは、なにかを恐れている証拠だ。

一冊の本など、無力なものに見えるだろう。たしかにそうかもしれない。

だが、よくあることだが、きみが本の読み方を知らないとしたら? 

きみはほんとうに恐れる必要があるのか……? 

きみはひとりぼっちか? 

寒気がしているか? 

きみは知っているか、人間がどこまで「きみ自身」であるか? 

どこまで愚かであるか? 

そしてどこまで裸であるか?」

ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』中条省平訳(光文社古典新訳文庫)

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2週間ほど前から「恐怖」について考えている。

かの芥川龍之介が自殺の動機とした、

あの「ぼんやりした不安」という言葉が、

「死」を連想させるなら、

私が感じている「ぼんやりとした恐怖」は、

確実に「生」を想起させるものである。

我が学校、自慢の校長は、

生徒ひとりひとりに対して、

とにかく親身である。

なにか悩みや困ったことがあったら、

各自、遠慮なくランデブーをとって、

個人面談する。

他の学校の生徒に、

この話をしたら、

彼は、校長と一対一で話したことなんて、

3年間で、数えるほどだったと驚いていた。

ある日の私の相談内容、その1。

「初見で、台本がちゃんと読めないので、

演出家にアピールするどころか、

この子、本当にちゃんとできるの?

と、不安にさせてしまっている感じがする。」

「あー、それは、大丈夫。

もし、あれだったら、面白いから、

あらかじめ、初見下手ですって言っちゃいなよ。」

解決。

その2。

「なんか、

最近、

恐怖です。」

「最高!」

解決?!

校長が、以前、

同居していたコメディフランセーズの元トップ俳優は、

2ヶ月後から稽古が始まる台本を、

毎朝、繰り返し繰り返し、

声に出して読みながら、

毎晩、他のレパートリー作品に出演していたという。

そんな思い出話を語りながら、

彼が言っていたことは、

「恐怖を軽減させるために、

稽古しまくるのではない。

むしろ、

稽古をすればするほど、

恐怖は増していく。」

全然アドバイスになってないです、と言ったら、

「恐怖がある限り、

前に進んでいるし、

恐怖がある限り、

まだ続けていける。」

と、ご満悦の表情。

ところで、恐怖を感じているなら、

この本を読めと言い放ったバタイユはというと、

日本語訳の文庫では省略されていた、

本人による序文で、

面白いことを書いていた。

「過剰」について。

過剰とはすべての基礎を超えたものであり、

すべての制限の外に存在するものである。

過剰は、

例外であり、

不思議であり、

奇跡である。

そして、この過剰こそが、

最高の魅力、そして、恐怖を生み出す。

具体的に、

舞台上に置き換えて解釈するならば、

「振り切る」ということだと思う。

稽古の段階で、

演劇とは、

演出家や、共演者、テクニカルスタッフ、

つまり他者とのコミュニケーションの中で、

創り上げていくものなので、

自分の提案がクリアな形で出されないと、

それに対するレスポンスも受けにくい。

それにしても、

俳優なら、

誰でも身に覚えのあることだと思うけれど、

まだ、稽古が始まって間もない、

フラジールな状況下で、

この「振り切る」提案(演技)をするというのは、

とてつもなく恐怖である。

しかし、

この恐怖を最大限に伴った「過剰」でこそ、

最高の失敗と、

最高の成功が待っているのかもしれない。

なぜなら、

過剰とは、

例外であり、

不思議であり、

奇跡なのだから。

だから、

将来に対する「ぼんやりとした恐怖」とも、

気長に、

それでも「過剰」に、

付き合っていくべきなのかもしれない。

最近、以前に増して、

ヒップホップのフリースタイルバトルにはまっているので、

無意識に、

戦闘態勢に入ってしまいがちである。

どうせ、

恐怖感じて生きてくなら、

過剰に恐怖感じたらいいやん。

と思ったり。

恐怖といえば、

日本最高峰のMCバトルULTIMATE MC BATTLE大阪大会にて4連覇を成し遂げ、

2012年、2013年の全国大会UMB GRAND CHAMPIONSHIPで優勝し全国2連覇を成し遂げた、

向かうところ敵なしのラッパー、

R指定が、

まさかの「恐怖」に関するラップを書いていて、

頂点にいる人だけに、

聞き応えがあった。

当たり前のことだけど、

上に行けば行くほど、

恐怖は増していくんだ。

ふるえる足 隠すように大げさに貧乏ゆすり
ふるえる声 大丈夫 大丈夫...大丈夫
ふるえる指で着ける火 これで何本目? 何を怖がっとんねん?
自分で選んだこのHard Way 空き箱握り潰しゴミ箱へ
もうそこまで手は届いてる ってか覚えてる? 俺は一度下手をこいてる
「やっぱり俺には荷が重いです...」
ネガとポジティブ入り乱れて目が泳いでる
忘れない上がりきったハードルに躓いた時の 皆の落胆と嬉しそうな顔
忘れない... 外されたハシゴ 返された手のひら
落ち着き払って気楽に行こう なんてホンマは今すぐにも気が狂いそう
気休めにもならん「頑張ってください」や「応援してます」もみんな嫌味に聞こえる
マイメンとのハグも 握手も 対戦相手からの圧も威嚇も
ロビー活動で媚を売る奴の余裕ぶったギャグも(目笑って無いすよ)
逼迫する状況 心拍数上昇 気が付くと火が着く シナプスの暴走
心配されるほどに勘ぐる イラつく 気安く触れんなよ ニヤつく大人共
こんなもん ハナから笑い者にされに行くようなもん
ありがとうわかってるよ そんな事
こんなもん ハナから笑い者にされに行くようなもん
それでも掴んだこのマイクロフォン

 

 

 

 

女優は問題。女優が問題。女優の問題。

小さいころ、

母の本棚に一際目立つタイトルの本があった。

五味太郎氏の大人問題 (講談社文庫)

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大人は問題。

大人が問題。

大人の問題。

当時は、何が書いてあるのかは、知らなかったけど、

筆者自身が、育児を通して感じた、

子どもの問題に見えるけど、

それ、実は大人”は/が/の”問題なのでは?というエッセイ。

それにしても、

この助詞たちの圧倒的存在感とリズムは、

当時の私の心をさらいとって、

無意味に何度も、

自分の声に出してみたものだった。

さて、

そんな日本語に対してどこまでも粋な態度で挑む絵本作家、

五味太郎氏の言葉をお借りして、

今回のテーマは、

女優は問題。女優が問題。女優の問題。

少しづつ、

このブログでテーマになりつつあるように、

私は、どんどん演出家にとってめんどくさい俳優に成長している。

(過去の記事:演出家にとって、めんどくさい俳優になる授業

先週、まさに私が直面した問題は、

演出におけるフェミニズム。

正確には、

フェミニズムfeminism)とは、

性差別を廃止し、抑圧されていた女性権利を拡張しようとする思想運動

性差別に反対し女性の解放を主張する思想・運動などの総称。

wikipediaより引用)

ということらしい。

フェミニストというと、

男性に嫌われるような、

ちょっとめんどくさい気の強い女性を想像するかもしれない。

ちなみに、フェミニズムの起源は、

今、まさに私たちが創作している作品『ダントンの死』の時代背景、

フランス革命までさかのぼり、

91年『人権宣言』に対抗し、

フランスの女性作家であり女優のオランプ・ド・グージュ

『女性及び女性市民の権利宣言』を発表している。

つまり、フェミニズム運動の先駆者は、

女優であったのである。

この事実を私は、

声を大にして叫びたい。

私は今回、

「ダントンの死」という戯曲の中の、

女性の役の中で、

唯一、2ページにわたるモノローグがある、

高級娼婦の役を配役されたのだけれど、

演出家は、この役に特別な思い入れがあるらしく、

稽古がはじまってそうそう、

オイルを使って、主役の男性にマッサージをしながら、

娼婦がモノローグを語っているイメージがあると言った。

彼との稽古が始まってからの一週間、

慣れるまではつい引っ込み思案にみられがちの私が、

開口一番、

「嫌です」

と、言ったので、

演出家も絶句。

ドラマツルギーにおける検証が一切なされない

セクシャルなシーンはとても危険だと感じる。

極端な例で言えば、

男女が抱き合うシーンがあったとして、

その行為をどこまで舞台の上で見せるかということは、

非常に繊細な問題である。

脱げと言われたから、脱いで、

抱き合えと言われたから、抱き合っていたら、

連日に及ぶ公演を想像したとき、

精神的にも、

肉体的にも、

苦しいと思う。

観客が、

俳優に対して、

フィクションを超えて、

人前でよくあそこまでできるなあと思ってしまうようなシーンこそ、

水面に現れている行為そのものを水面下で支えられるような、

徹底的なドラマツルギーにおける根拠が必要。

相方の俳優と時代背景も踏まえて、

テキストを徹底的に読解し、

その上で、

マッサージよりも過激なシーンを提案。

演出家も、

私たちの提案に対し、

ディスカッションを持ち込んできてくれたので、

「行為」そのものが浮き出てしまわないような、

性的なシーンを構築する経過を辿り始めることに成功。

はっきり言って、

クラシックの戯曲に女性のヒーローが出てくることはまずない。

主人公、つまり、男性の妻、もしくは、愛人であることがほとんど。

必然的に、

男性に付随する役所が女優に与えられる可能性が非常に高くなる。

この現実の中で、

女優は、

俳優である以上に、

女優であることを、

常に、

意識していく必要があると思う。

どんな美しさも醜さも消費されてはならない。

女優は問題。女優が問題。女優の問題。

8年前にオペラ座で、

出演者がほぼ全員裸のワーグナーのオペラを見て以来、

舞台芸術における「性」というものの見方が、

観客としては随分変わって、

今では、そんなに驚くこともなくなってしまったけれど、

だからこそ、

俳優としては、

常に、日常からはみ出た部分、

つまりとても自分自身の身体と親密な要求にこそ、

慎重に、かつ、尊厳をもって答えていくことが重要だと思う、

今日この頃。

28歳を「聞く」。

慌ただしく、

誕生日を迎えて、

新一年生を迎えて、

本番を迎えて、

新たなクリエーションが始まった。

最終学年である今年は、

30代、40代、50代、60代の4人の演出家と、

私たち11人の俳優で、

同じ空間を用いて、

4つの作品を作り上げるという、

とてつもない企画がスタート。

まずは、一番若い30代の演出家と、

ゲオルク・ビューヒナーの『ダントンの死』の、

稽古がスタート。

実はこの作品の中の有名な娼婦のモノローグを、

以前、別の演出家のスタージュで配役されたことがあった。

(過去の記事:https://mill-co-run.com/2014/10/04/living-beahavior-生命的行為へのために、私自ら「実験台」に/

今回の演出家は私が出演していた別の作品を見て、

私に、この娼婦の役を配役しようと決めていたらしく、

私が以前にやったことがあると言って、

岩波文庫の翻訳も持っていたので、

驚いていた。

もはや、フランスで俳優をする上で、

必要な本は、

だいたい自分の本棚から見つかるという今日この頃。

少しづつ、

フランスの演劇界に浸かり始めてきた感じ。

それにしても、

フランスに来て、

もう4年も経つのに、

どうしてもひとつだけ、

惨めで惨めで仕方ない時間がある。

それは、本読み。

台本が渡されて、

初見で、本読みをするときに、

どうしても、

同時に理解して、

台詞を読んでいくことができない私は、

俳優として、

かなり頼りない姿を見せることになってしまう。

こんなわけで、

毎回、新しいスタージュが始まってから、

演出家への信頼を得るまでの、

1週間は地獄。

はっきり言って、

台本を渡されて、

その場で、

理解しながらすらすら読めるようになるには、

少なくとも、あと5年はかかる気がする。

何しろ、今回の作品の舞台背景は、

フランス革命なので、

歴史的背景まである程度わかっていないことには、

台詞を覚えるどころではない。

たぶん、

去年までの私だったら、

完全パニックに陥って、

絶望していたと思うけど、

最近、

少し、「聞く」という行為に力を入れているので、

以前よりは落ち着いて、

この惨めな状況を通り過ぎることができた。

日本の伝統的な芸道のひとつで、

一定の作法のもとに香木を焚き、

立ち上る香りを当てっこすることを、

香道という。

香道では、

香りを嗅ぐのではなく、

香りをに対し、

「聞く」という動詞を使うそう。

心を傾けて香りを聞く、

心の中でその香りをゆっくり味わう、

という意味があるそう。

フランスでは、

この聞くという動詞をやたら舞台芸術の場で多用する。

[écouter]

俳優を褒めるときにも、

彼は「聞く」のがうまいというのをよく耳にする。

ここでいう「聞く」は、

単に、共演者に対して「聞く」のではなく、

空間に対して、

身体に対して、

時間に対して、

香道の「聞く」と同じで、

聞こえないものを「聞く」力が必要とされているのではないかと感じる。

昨年は、

日常生活の中でも、

何かを学び得ようという気持ちよりも、

もう少し、

受動的な気持ちで、

今、自分が置かれている状況を、

「聞く」ことで、

ゆるりゆるりと味わっているうちに、

いつのまにか解決していたり、

ふと振り返ると前進していたりしたようなことが、

多々あった。

いっとき、

日本で話題になった「アンチエイジング」という言葉も、

言い換えれば、

自分の身体を「聞く」ことと同じことだと思う。

「聞く」ことで、

私は、最近、

アンチというよりも、

ウィズという感覚で、

エイジングと付き合っている。

ウィズエイジング。

稽古や本番で、

ハードな日程が続くほど、

身体の感覚が、

確実に20代前半までとは、

違うことがわかる。

食べることも、

運動することも、

眠ることも、

欲求よりも、

自分の身体の意見を優先する。

身体を「聞く」こと。

フランスの現場では欠かせない、

ディスカッションも、

今までは、

自分の意見をいうだけで、

精一杯だったけれど、

他人の意見と、

場の空気を、

まず「聞く」ことで、

そっと考える(味わう)時間をあたえてくれる。

28歳は、

私を「聞く」1年になったらいい。

どこまでも、

些細な音に耳を傾けて、

その香りが消えてなくなるまで、

ゆっくりゆっくり味わうのだ。

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それにしても、

初日は、

台本の内容が全くわからなかったので、

悲しすぎて日本に帰りたくなったので、

ノートにトトロを描いて、

気持ちを落ち着かせました。

その香りが消えてなくなるまで、

ゆっくりゆっくり味わうのだ。

隣の芝生はなぜこうも青いのか。

私が撮影中のドキュフィクション、

『WE CAN’T JAIL THE TRUTH NOR THE LIE』

これは、ニコラス・レイ監督作品、

『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』(We Can’t Go Home Again)から、

インスピレーションを得た企画。

1971年、当時、彼が講師を務めていた大学で、

学生たちと撮影したのがこの映画である。

リハーサルをメインで、

休憩中や、ミーティングなど、

プロジェクトを追っていくカメラの他に、

2台目のカメラを、学校の休憩室に設置し、

いつでもだれでもカメラの前に座って、

オートインタビューできるようになっている。

その名も『告白の小部屋』

毎週末に、

この小部屋で撮影された内容を、

データに落としていっているのだが、

この作業は私にとって極上の時間。

普段、全体を撮影するカメラに映る、

グループの群像が、

ひとりひとりの親密な「顔」に変わっていく瞬間。

こんなにも、同じ時間と空間をともにしているのに、

そこから感じることは全く違う。

グループでいる時は見えてこなかったひとつひとつの表情が、

ひとつのグループが、

11個の「たったひとつ」の集合体なのだと、

そんな当たり前のことを実感させる。

その当たり前のことで、

「世界」というグループが出来上がっているのかと思うと、

その重さに涙が止まらなくなってしまう。

私の感動とは裏腹に、

カメラの画面に映し出されるのは、

やはり、俳優。

「隣の芝生は青い」コメントが多い。

私には、何事も完璧にこなす同級生たちが、

こんなにも他人と比べて、

いろんなことで悩んでいるのかと思うと、

思わず爆笑してしまい、

ここでもまた涙が出る。

全く、

隣の芝生はなぜこうも青いのか。

演劇をやっていない人には、

想像もつかないことだと思うし、

演劇をやっている人にも、

子どもだなあと思われるかもしれないが、

やはり、台本を初めて渡された時に、

一番気になってしまうのは、

台詞の量と出番の数。

大して変わらないようでも、

隣のあの子の台詞がやけに多く思えてしまったりするから不思議だ。

そして、配役。

今回は、グループのうちの二人が、

戯曲を書いて、演出を担当しているため、

配役理由も気になるところ。

私はあまり期待されていないのではないか、

あまり目立たない役なのではないか、

そんな一見くだらないように思えることを、

ついつい気にしてしまうのが、

俳優というものなのだと思う。

少なくとも、まだ私は、その次元にいるし、

そこから、稽古を通して、

自分の役と徐々に親密になっていくという過程が、

実際、とても大切だったりする。

隣の芝生はなぜこうも青いのか。

隣の芝生が茶色いよりは、

いいではないか。

隣の芝生が青いおかげで、

今日も私は、しょうもない嫉妬の炎に駆られ、

私の芝生を青くしている。

こんなにも私たちはグループで、

かつ、

こんなにも私たちはひとりひとりなのだということを噛み締めながら、

私たちが切磋琢磨して世話した、

少しずつ色の違う青い芝生を、

愛おしく思う。

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まだ、三脚の使い方すら分かっていなかった、

撮影初日の写真。

まだ、三脚の使い方すら分かっていなかった、

撮影初日の写真。

当たり前だけど、「言い訳」と「説明」の違いについて。

夏休みに入る前からわかってはいたことでしたが、
無茶苦茶すぎるCarte Blancheが幕を開けました。
Carte Blancheとは、アーティスト自身が主体となって行う企画のことで、
今回、私たちの学校では、
初めて、プロの演出家を招聘しない、
私たちだけの6週間がスタート。
演出家を招聘するのにかかる金額を、
ほぼそのまま私たちに投資してくれる。
長期に渡る話し合いの結果、
完全書き下ろし、全員出演の2作品と、
オプションとして、
私のドキュメンタリーとフィクションの間の映像作品、
『ドキュフィクション』が選出された。
メインとなる2作品は、
クラスのメンバーが自分を除く10人の俳優全員に、
書いた戯曲を、
彼ら自身が演出する。
つまり、5週間で、
全員が、
2作品に関わり、
6週目にモンペリエで公演を行うというもの。
その過程を演出したりしなかったりしながら、
追いかけていくのが、私の初監督作品。
そもそも、映像に関する知識も経験も全くない私が出した、
突拍子もない企画書に、
これまた突拍子もない校長は、
こういう企画こそ、
学校にいるうちじゃないとできないからね、
と言って、
その一週間後には、
校長に雇われた音響スタッフから、
宜しくお願いします、と連絡が来る。
贅沢なだけに、
プレッシャーの多い学校。
それにしても、
朝9時から夜10時まで、
週6日の稽古は、
予想を超えてはるかにきつい。
帰宅後は、毎日、その日に撮った映像を、
編集時のために記録する作業が待っている。
全員が全員いっぱいいっぱいなので、
まわりを見渡す余裕がなかなかできない。
稽古時間以外に、
スタッフとの打ち合わせ、
プランニング作成、
もう片方の俳優としての稽古をこなす、
演出家二人には、
まるで頭があがらない。
稽古開始から10日目にして、
ようやく今の自分を客観することができ始めてから、
「責任」と「言い訳」と「説明」いう言葉を、
反芻している。
演出家と俳優の間に生まれるヒエラルキーについて、
このブログでも何度となく言及してきたのだが、
演出家がグループのメンバーになった場合、
新たな状況が生まれてくる。
それは、
「言い訳」と「説明」の混同である。
例えば、
稽古中に、
演出家に要求されたことに対して、
俳優がその場ですぐに答えられなかったとき、
だんだんとその場の空気が重くなったとする。
演出家にとって一番気になるのは、
俳優がその演出を嫌がっているのか、
それとも単にできないことに腹を立てているのか、
ということらしい。
ここで、
「言い訳」的思考が出てしまうと、
演技が完全にブロックしてしまう。
私の場合、
無意識的に、
あなたの演出のせいで、
うまくできなくなってしまったという色が、
外に出してしまうことがよくある。
演出家との距離が近ければ近いほど、
信頼関係が強ければ強いほど、
この手の傾向に注意しなければならない。
演出家は、
演出家であって、
親ではない。
その場ですぐに答えられないような演出を出された場合、
すこし時間が探す時間がほしいとか、
他の言葉でのイメージを求めるとか、
自分がそこに到達するために必要なヒントを、
こちらから「説明」する必要があるのではないかと感じる。
おそらく、
「言い訳」と「説明」の決定的な違いは、
言葉であるかないかである。
「言い訳」に使われる言語は、
コミュニケーションの道具としては、
みなされないものだと思う。
つまり、
グループに対して、
「責任」を持つということは、
いかに「言葉」をしっかりと使うかということ。
近ければ近いほど、
許容すればするほど、
「馴れ合い」になってしまう可能性を、
孕んでいる。
互いへの敬意を、
「責任」という形で還元するために、
私はもっともっと「言い訳」ではなく、
「説明」のための、
言葉を学ぶ必要がある。
水道管が詰まったら、
水圧を強くして、
無理やりなんとかしようとするのではなく、
詰まってる場所を探して、
めんどくさいけど、
綺麗にすること。
目指すのは、
聞き分けがいい俳優でも、
言い訳がうまい俳優でもなく、
舞台の外でも中でも、
しっかり言葉が使える俳優。