劇作コンクールのための稽古

俳優・脚本家・映画監督などで活躍しているジャン=ミシェル・リブ氏が芸術監督を務める劇場、
Théâtre du Rond-Point(テアトル・デュ・ロン=ポワン)
http://www.theatredurondpoint.fr/
シャンゼリゼに位置し、
古典からモダンまで、幅広い戯曲を扱うことで有名な劇場です。
東日本大震災の被災者支援のためのチャリティ・コンサートも開催されていました。
そして、
今年10周年を記念して、
コンセルバトワールの生徒を対象にした、劇作コンクールが開催されます。
スクリーンショット(2011-11-29 18.01.07)
http://www.theatredurondpoint.fr/saison/fiche_evenement.cfm/118354-concours-d-ecriture-2012-:-dans-quel-etat-sommes-nous-.html
コンクールのテーマは、
“Dans quel état sommes-nous?”
直訳すると、「私たちはどのような状態にいるか?」
となるのですが、
étatという単語が、ミソで、
「状態、状況」
という意味の他に、
éが大文字になると、
「国家、政府」
という意味になります。
さらに条件が3つ。
1、劇作家は演出をしてはいけない。
2、演出家は、作品に出演してはいけない。
3、役者は6人以下。
そして、このコンクールに通ると、
なんと、テアトル・デュ・ロン=ポワンで、6回公演、
さらに、同じくパリ市内のサン・ジェルマン地区の劇場(MPAA St Germain)でも、
6回、公演する権利が与えられます。
もちろん、製作はすべて、劇場が行います。
15区では、昨年から、このコンクールの噂を聞きつけていた、
3年生の女の子二人が、
すでに、プロジェクトを組んでいて、
私は、役者として、参加することに。
もちろん、全員参加ではないので、
稽古はすべて授業外。
昨日は、2回目の稽古でした。
パリ市内の劇場が、公演のない時間帯に、
コンセルバトワールの生徒に、劇場を稽古場として提供しているので、
学校の近くの劇場にて、稽古。
客席もある場所で稽古できるなんて、贅沢。
コンクールまで、まだ時間があるので、
実験的に、いかに、身体を使えるかを探りたいとのこと。
おもしろかったのが、
二人組のエクササイズで、
一人は目をつぶり、
もう一人は、小さなお菓子とか、みかんとかを、
相手の口元に近づけます。
目をつぶっている方は、
食べ物を感知した瞬間に、
それを食べようとします。
口(頭)に、くっついて、身体もだんだんに動いてくる、
本能丸出しのエクササイズ。
作品の稽古としては、
もうだいぶ前から出来上がっている戯曲(台詞はほとんどない。)
を、立体化して行く作業。
昨日は、演出家から、
「自分の好きな死に方を音楽と一緒に考えて、そのイメージに合う絵を見つけてくること」
という、宿題が出ていたので、
ショパンのエチュード#9をかけて、


愛してる人抱き合っている最中に、
「私に、毒をちょうだい!私に、毒をちょうだい!私に、毒をちょうだい!」
といって、
接吻されて、毒をもらって、
それから、
1分間床で、
愛している人の見ている前でもがき苦しんで死ぬ、
という謎の願望を発表したところ、
採用されました笑
やっぱり、
みんなで集まって稽古する時間って、
未知。
ごつごつした石が、
綺麗なお洋服を着せてもらったとたん、
足が生えて、外に出かけて行く。
オーディションは来年の2月末です!!

ドストエフスキー『地下室の手記』@売春宿

フランス語に [oser] (オゼ)という動詞があります。
[to dare]
直訳すると「思い切って〜する」という意味の動詞です。
否定形で使うと、「そんなこと出来る訳がない」
というような意味になります。
この動詞、
演出の授業で、超頻出単語!!
役者が、舞台上でいかにリスクを冒せるか、
常に、安全な場所には、決してとどまらない。
というか、このクラスの授業自体が、
私には、常に、戦場で、
まさに、oserの連続。
さもないと、
まさに、「開けない缶詰」
美味しく食べることもないし、
かといって、
腐ることもない。
今日の、課題は、『地下室の手記』の中の、
リザと男が娼婦と客として、出会うシーンを、
それぞれが演出プランを持って、
パートナーと発表すること。
もちろん、戯曲ではなく、小説なので、
概要だけ決めて、
あとは、インプロビゼーション的な形で進める。
私は、まず、パートナーを頼むことがozer出来ませんでした。
作品の途中で、言葉がわからなかったら、
ぶちこわしてしまうし、相手に迷惑かけるし…
なにも準備できないまま、授業へ。
発表の前のエクササイズとして、
シーンを物語の過程にそって、
5つに分けて、
それぞれにタイトルをつけ、
その5つの変化がしっかりわかるように、
二人の身体だけで進行させていく、
というものをやることに。
タスクは、
シーンの変わり目を、二人で感じ取って、
タイトルを同時に言う。
本当は、決まったパートナーと二人で行うエクササイズだったのですが、
これしか参加できない!
と思って、
「やりたいけど、相手がいません!」
と、oserしてみました。
そしたら、近くにいた男の子が、
「やっていい?」
と、言ってきてくれて、
なんなくスタート。
相手を常に意識していないと、
タスクが達成できないので、
どちらがイニシアティブをとるか、常に集中して、
後半は、二人の間に、
徐々に、関係ができて、
大胆にoserできました。
そのあと、他の子が、
パートナーを頼んで来てくれた。
どうやら、
「はじめの一歩」の次は、
2歩目じゃなくて、
やっぱり、また、
「はじめの一歩」
みたい。
それにしても、
いつも思うのが、
こっちの生徒たちは、
まだ若いのに、男女の絡みも、
なんのはずかしげもなく、
作品において、必然さえあれば、
稽古でもいつでも、
どんどんやる…
やっぱり、
ちょっとどぎまぎしてしまう。

一人芝居『私は幽霊です』

大学で哲学を専攻している男の子が、
自分で作品を書いて持ってきて、クラスで発表しました。
みんな、結構、戯曲を書くことに慣れているらしく、
今までにも、何人かが、
自分で作品を書いてきて、
発表していました。
「私は、幽霊です。」
という、一文から始まる彼の戯曲は、
簡単な言葉だけで、
構成されていて、
それだけに、
何とも深い…。
はじめは、
子どもじみた文章が続くのに、
最後の方に、
「意味、それは、涙です。」
「意味、それは、苦しみです。」
という、2文がいきなり入ってくる。
私は、この部分にやられました。。
彼が、発表し終わった後、
クラスのみんなが、
もっとこうやって演じたらいいじゃない?とか、
こういう言い方をしてみたらいいんじゃない?とか、
いろいろ発言してたけど、
彼は、
この作品を演じることに、あんまり興味がない。
と、あっさり一言。
そこで、私が名乗りを上げて、
この戯曲を受け継ぐことに。
前半、クラウンの要素がたっぷりの戯曲なので、
発音が悪いことが有効に作用すると思ったのです。
途中で、意味のない言葉をべらべらとしゃべるシーンは、
勝手に「外郎売り」に変えて日本語でやりました笑
現在、私が作品を発表する上での、
フランス語とのつきあい方は主に3通り。
1、フランス語がしゃべれないことをあえて、強調する。
2、フランス人に台詞を録音してもらって、ひたすら聞き、極力ナチュラルになるまで練習する。
3、日本語の翻訳を使う。
面白いのは、
完全に自分の身体と声の感覚が変わってしまうこと。
とにもかくにも、
これを、コントロールできるようにならないと、
「フィクション」としては、扱えない。
私は、
絶対に、
演劇の「フィクション」を冒したくない。
身体に負荷がかかればかかるほど、
「現実」を、
隠せなくなる。
作品を、発表して、
クラスでの討論のとき、
いつも、話題にあがるのは、
ある行為が、
「意図的」であったのか、
それとも、なかったのかと、
いうこと。
私が、フランス語の発音が、
めちゃくちゃ悪いことも、
「意図的」に使えば、
絶対に、作品として成立する。
と、思いたいと、思っている。

三島由紀夫『熱帯樹』、そして、外国語で演じることについて

秋休み明けの課題戯曲は、個人選択。
それぞれが、自分のやりたい戯曲を探して来て、
相手役を他の生徒に依頼。
まずは、みんなの前で、本読みをして、
それから、みんなの意見、先生の意見をもとに、
自分たちで、稽古をして、
(台詞を覚えて、)
そして、発表する。
クラスでディスカッション。
うまく行けばさらに稽古を続けて、また発表。
基本的に、このサイクル。
基本的に、コンセルバトワールの受験は、課題戯曲を自分で選択するように指示されるので、
自分にあった戯曲を、選択できるかということも、
一つの大きな評価基準。
こっちのオーディションは、
常に、俳優に自己プロデュース的なことが求められている気がします。
戯曲選択にあたって、
先生から、生徒ひとりひとりに、
戯曲と役の提案メールが来ました。
私は、マリヴォー『愛と偶然との戯れ』、
そして、
ジャン・ジロドウ『間奏曲』
もちろん、これはただの提案なので、
やらなくても可。
割と、よく一緒に作品を作っていた男の子は、
三島由紀夫『熱帯樹』を提案され、
主人公の母親と関係を持ってしまう男の子、
勇(イサム)役を提案され、
私に、彼の妹役の郁子(イクコ)を依頼してきました。
三島由紀夫が、
15区のコンセルバトワールでちょっとしたブームになっていて、
嬉しい(笑)
フランスで実際に起こったギリシア悲劇『エレクトラ』を思わせる事件にインスパイアされた作品。
母親が父親を殺そうとしていると思い込んだ妹が兄に母殺しをそそのかすという話。
私たちが、選択したのは、
郁子が勇に、
母親殺しを依頼するシーン。
ここで、初めて、二人の近親相姦的な、
行き過ぎた兄妹愛が、
露出するシーンでもあるます。
フランス語に翻訳された戯曲は、
三島由紀夫の耽美感がどうしても薄れてしまっていて、
例えば、
「キスしてあげるわ、お兄さま。」
という台詞が、
主語が「私たち」で、
「キスしましょう。」
と、翻訳されていたので、
そこだけは、主語を郁子「私」に変えさせてもらいました。
稽古をしているうちに、
結構盛り上がって来て、
いろいろ演出プランが出来てくると、
どうしても台本を持ちながらだと限界が出て来てしまいます。
そこで、今回は、
台詞を覚えることに…。
3分間のシーンを覚えるのに、
かかった時間、
なんと2日間で約11時間…。
これは、単に外国語の問題ではなく。
個人の能力に影響されているところが大きいと思うのですが、
それにしても、
演じるところまで行くには、
どうしてもこれぐらいかかってしまいます。
そして、
こういう時に、
一瞬たりとも、
この不毛ともとれる行為に疑問を感じてしまうと、
もう先には進めなくなるので、
ひたすらやる。
というか、
一番怖いのは、やらなくても、
誰にも何も言われないこと。
大学の両立しながら、
通っている子たちなんかは、
どうしても、作品を準備して発表する機会が少なくなってしまって、
クラスでの影も薄れてしまいがち。
でも、それは、自分自身が選んでいることだから、
だれにもなんにも言われない。
つまり、
クラスで目立ちたかったら、やるしかない。
というか、
私は、目立ちたいと思っている。
年頃の男の子が、
女の子にモテたいという理由だけで、
身体を鍛えたり、
演劇始めたり(?)、
という、理由に似ていると思う。
でも、私は、
演劇に対して、
絶対に、「現実」というものに勝てない、「虚構」の世界に、
こんなに「不確か」で、
明日には、みんなの記憶からも、消えて、
作品が存在した「証拠」も残せない、
幻と言ってもいいような
一定の「時間」と「空間」に、
もちろん観ている人も含め、
全身全霊になってしまう、
人間っぽさが、
やっぱり、ダサイと思うし、
それでいて、心から美しいと思う。

ジャン・ジュネ『女中たち』の演出と、日本の現代演劇について

秋休み前に始めたジャン・ジュネ『女中たち』の稽古を、
授業外の時間に行いました。
ちなみにこの作品は、
実際にパリで起きた女中姉妹による奥様殺人事件をもとに、
犯罪者でもあるジャン・ジュネが、
なんと獄中で戯曲として書いたものです。
bf0067_m.jpg
授業外の時間に、スタジオをとって稽古するのは初めてだったので、
極度の緊張。
しかも、私が演出。
先月、ある男の子が、他の作品で、
ワンピースを来て、女性の役をやったときに、
彼で、『女中たち』やったら、
絶対美しい!!と、直感して、
もう一人他の男の子に頼んで、
男の子2人に、女中姉妹を演じさせることに。
実験的に、一度、
授業で、ひたすら舞台上を雑巾で拭きながら、
それでも、女性であることを忘れずに、
という謎の演出をして、
バッハのクラシック音楽をかけて、
発表したら、
どうして、男二人でやるのか、
とか、
どうして、雑巾でふきながらだったのか、
とか、
興味をもってくれて、
しっかり稽古して発表しようということに。
ジャン・ジュネは、
この戯曲の中で、『「女中たち」の演じ方』として、
以下のような文章を残しています。
「女優たちは、生の色気を引きずって舞台にのってはならない。個人的な色気などというものは、芝居では舞台を下落させるだけである。」
「演出家は、わたしが戯曲を書いていたときに自分の中にあったもの、というか、はなはだしく欠けていたもの、つまり、ある種の人の好さというものを表に出さなければなるまい。つまり、これは一つの作り話(コント)なのだから。」
演出プランとしては、
上演中に役者はその役を演じていることを隠せないし、隠さない。
「所詮、フィクションでしょ?」という、
演劇に対する「批評性」を絶えず、持ち続けること。
そして、高尚な文豪の戯曲なんて、だしにして、
自分たちが目立つ!!!
「形式」というものを、
とにかく「裏切り」まくりたかったので、
あなたが夢中になっている「演劇」というものを「馬鹿にして」みて、
というニュアンスをつたえたかったのですが、
ここで、大きな文化差を発見。
日本で演劇というと、
ジャンル的に言えば「芸術」のカテゴリーに入ると思います。
だから、演劇をしている私たちの社会的な立場というものは、
どう考えても、そんなに高いものではありません。
フランスはと言うと、
演劇は、わりと高尚な「文学」から派生したもので、
中学、高校の試験でも必ずと言っていいほど、
マリヴォー、ラシーヌ、モリエールなどの古典が出題されます。
コンセルバトワールの存在といいい、
役者・演出家・戯曲家に対する社会保障といい、
演劇というものが、社会的にも一定の地位を占めていると言えると思います。
私は、日本の現代演劇とは、
「迫害」によって生まれたアートだと思っています。
近所の人に、
「私、演劇やってます。」とは、
なんとなく言いにくい、
この環境の中でしか、生まれなかった作品があると思います。
「演劇」をやっている自分たちに、
なにかしらの不安や恥ずかしさを抱えているからこそ、
生まれる「演劇」に対する批評性が、
コンセルバトワールという恵まれた環境で、
「演劇」を勉強している彼らには、
良くも悪くも、
薄いように感じます。
自分たちが存在する「演劇」というものを、
「馬鹿にする」ということが、
いまいちピンとこなかったようです。
でも、8ページもある台詞を全部しっかり覚えてきてくれて、
私のつたない演出も一生懸命、
聞いてくれて、
二人とも黒のワンピースを着ていたのですが、
それでも隠せない、
男の子にしかない身体の感覚とか、癖とか、
そのアンバランス差は、まさに絶妙。
とにかく、
「リアル」ではなく、「フィクション」を保ちたかったので、
身体を極力、不自由に演出してみました。
とりあえず、
明日授業で、
中間発表してみます。