「相対的幸福」から解放されて、目指すところは「超絶対的幸福」!!

2015年度前期の4週間に及ぶ目玉スタージュ、
Cyril TESTEとの舞台におけるビデオワークの授業が始まりました。
自分が日本人でありながら、
この空間にいることに疑問を投げかけられながら始まった、
先週のスタージュ(過去記事:Living Beahavior (生命的行為)へのために、私自ら「実験台」になります。)とは、
打って変わって、
「なんだか、フランス人ばっかで変な感じだなあ。」
という演出家の一言から始まる。
彼は、劇団ではなく、
写真家、役者、作曲家、映像、ドラマツルギー、
などからなるアーティスト集団を組んで、
舞台芸術に取り組んでいる演出家。
ということで、
演劇学校というより、
美術学校(ボザール)や、
ヨーロッパでも1,2を争うと言われている総合芸術研究所Le Fresnoy(フレノワ)などで教えているので、
フランスの国立の学校は、
インターナショナルな環境で当たり前という価値観があるそう。
「確かに、演劇は言葉使うからねー、
でも、しゃべれる言葉でやればいいよねー。」
という綿毛のような言葉に、
先週悩んでいて自分は何だったんだ、と、
思わずたんぽぽが咲く。
いつも、この繰り返し。
だから、やめられない。
2年前に、私たちの一つ上の卒業生と創った作品は、
さまざまな劇場に購入され、
今年から、ツアーが始まります。

Teaser de Nobody, création de Cyril Teste avec les comédiens de l’ENSAD/Maison Louis Jouvet et le collectif MxM from ENSAD Montpellier on Vimeo.

この映像作品は、舞台上に組まれた巨大なセットの中で、
実際に上演しているところを、
5台のカメラを使って、撮影したものです。
つまり、客席で、直接観ている観客には、
スクリーンに映るこの映像と、
実際に、舞台セットの中で動き回る俳優たちの全体図と、
撮影しているカメラが見えているということ。
彼は、このように、
現在進行形の中で、映像を創っていく、
”ciné-théâtre”というプロジェクトを、
行っている人だ。
そして、なんといっても、
大の日本好き。
黒澤明や、小津安二郎は、もちろんのこと、
居酒屋から、
清少納言まで話に出てきてびっくりした。
今週は、毎日、
前半3時間:アート開拓
後半3時間:映像と身体
というプログラムで行われた。
アート開拓というのは、
1, 秘密
2, 家族
3, 仕事場
4, 共同体(コミュニティー)
以上の4つのテーマをもとに、
写真、小説、戯曲、絵画、映像、映画、音楽、彫刻、ダンス、
ありとあら芸術分野から、
自分の観点と一緒にプレゼンするというもの。
モノを捉える方法を幅広くしていくことで、
総合芸術としての演劇の幅を広げていく。
舞台芸術のことだったら負けない自信のある私だけど、
それ以外の分野のアートになると、
一気に知識量が下がる。
それぞれのプレゼン内容や、
クラスメートの反応をみていて、
やはり、フランス人にとって、
アートと娯楽の境界線が限りなく、
あいまいであることを実感させられる。
アートに触れるということが、
お金がかからない行為ということもあると思うし、
ヨーロッパのアートには、
言葉の壁があっても、
国境はないように感じる。
ドイツやイギリス、スペインなどのアーティストも、
自国のアーティストのように話す。
そもそも、アーティストに対して、
自らと同じ国籍か否かという問題があまり重要ではないのかも。
毎日、深夜まで、
WikipediaとGoogleを駆使して、
知らないアーティストたちを検索する5日間であったが、
多数のアーティストが、
何らかの理由で、
「フランス(、もしくはパリ)を拠点に活動」に行き着いていることに気づく。
やはり、
芸術の都と言われるだけのことはある。
授業の一環として、
必ず全員が参加する上映会が催され、
アーティストとして絶対観なきゃいけない映画1作目に選ばれたのは、
なんと、黒沢清『トウキョウソナタ』(2008)


以前私がパリで出演した、
短編映画の監督もこの作品が大好きで、
たくさんの影響を受けたと話していたことを思い出す。
(過去記事:主演短編映画撮影、終了(2)〜「独り」との上手なつき合い方〜
河瀬直美監督にしても、小津監督にしても、
日本映画から学ばないといけない姿勢は、
「待つ姿勢」だという。
何かを起こすのではでなく、
何かが起きることを待つということ。
Observation(観察)の法則。
つまり、
風をどう撮るか。
まずは、
ニーチェの言葉にあるように、
「耳で見て、目で聞けるようになること」
と。
このフレーズがやけに耳に残って、
ニーチェについて調べていたら、
なんと鈴木大拙氏が全く同じことを言っていた。
耳で見て、目で聞く。そうすれば正しく見ることができる。
正しく、真実に、正確に聞くことができるのです。
禅がわれわれに期待するのは、こうした体験です。
でも、あるいは皆さんはおっしゃるかもしれない。
それでは見ないことになってしまうじゃないか、と。

ー『大拙 禅を語る―世界を感動させた三つの英語講演 (CDブック)』より引用
夏休みに、知人に会ったとき、
「ヨーロッパで出会うたくさんの知らないことを、
消化していく過程で、
鈴木大拙あたりが、ふらっと入ってきたら、
最強ですね。」
と、言われて手帳にメモった人だ!!
鈴木大拙は、
禅について、英語で本を書き、
世界に禅の文化を知らしめた偉大な人。
たくさんアンテナはって生きてきたつもりだったのに、
毎日、耳にしたり、目にしたりするものの、
9割が知らないことという環境の中で、
まずは、フランス人が知っていることを網羅しなくては、と、
躍起になっていたけれど、
どうやら、アートに国境も教科書もないようで、
自分が「好き!」と思ったものを探っていくと、
昨日「好き!」と思ったものとつながったり、
「え?」とか、
「まさか!」とか、
「おお!」とか、
「やっぱり!」とか、
思わず声を上げながら、
オリジナル・マップが少しずつ広がっていく。
われわれが耳で聞くと言うとき、
この耳には空間的な場所があって、
五感の一つに数えられます。
明らかに耳のついている場所があります。
目で見ると言うときも同じく、明らかに場所があります。
その耳も目も、ある特定の空間を占有しているからです。
しかし、もし空間を意識すると意識は個別化され、
コチラとかアチラといった一定の方向性をもちます。
そうなると、もはや全体性(totality)は失われます。
自己分裂した状態です。
人格全体はある方向に向かい、もはや全体は”それ自体”ではなくなる。
いわゆる無意識の領域を含むわれわれの意識は、全体性を失う。

ー『大拙 禅を語る―世界を感動させた三つの英語講演 (CDブック)』より引用
おそらく、人間は、
目で見て、耳で聞くことをやめたとき、
今、目に見えているもの、
自分の社会的立場とか、
自分の容姿とか、
自分が人にどう思われているかとか、
そういったものの外側、
もっと遠くに広がる場所に、
アクセスすることができるんだと思う。
仏教用語の『修行』の定義は、まさにそこにある。
おなじみWikipediaより。
財産・名誉・性欲といった人間的な欲望(相対的幸福)から解放され、
生きていること自体に満足感を得られる状態(絶対的幸福)を追求することを指す。

前半は、賛成だけど、
後半は、反対。
「相対的幸福」から解放されて、
「絶対的幸福」をに浸るなんて物足りない!
生きてるだけじゃ満足できない!
目指すところは、
「超絶対的幸福」
つまり、
絶対値を常にあげていくことで、
一生「修行中」ということ。
シングルCDがまだ小さかったころ、
一番好きな歌は、
PUFFY『これが私の生きる道』だった。
http://youtu.be/ixEL1CXwCP0
「まだまだこれからがいいところ
 最後までみていてね
 くれぐれも じゃましないでね」

この厚かましい歌詞に、
子どもながら、罪悪感を感じたことをはっきり覚えている。
でも、今なら、言えちゃう。
私たち、人間は、
欲張りだ。
あえて、今は全く必要のないくらいの大きな紙を選ぶ。
欲張りな私たちには、たくさんの余白が必要。
いつでも、知らないことに出会えるように。

Living Beahavior (生命的行為)へのために、私自ら「実験台」になります。

子どもの頃、
「仲間はずれ」を探す絵本があった。
動物や、人間や、機械や、乗り物などの種類別に、
「仲間はずれ」の絵を探す本。
今、思うと、
これからのあなたたちの人生、
必ず「仲間はずれ」になる瞬間が、
訪れるよ、
と示唆されていたようで、
すこし不気味に感じる。
「仲間はずれ」、
言葉を変えて、
あるコミュニティーにおいて、
マイノリティーになることは、
確かに、
誰にも訪れること。
マイノリティーの辛いところは、
人と競争ができないことで、
マイノリティーの良いところも、
人と競争ができないことであると思う。
さて、昨年から続いている、
『超難解テキストに挑む地獄の5日間スタージュ』vol.3が、
(前回ブログ記事:まだまだ「ひよっこ」な私と、声が出なくなったときの秘密の対処法
いろいろあって、
私だけ、「6日間」になって終了しました。
授業時間は、
毎日10時から22時半、
クラスを半分に分けて、
二人の先生について、行われるので、
なんと6人きりで受講。
スタージュが始まる前の週末に、
私に渡されたテキストは、
フランスで演劇をやる上で、
決して避けて通ることのできない韻文詩、アレクサンドランの代表作、
ラシーヌ『フェードル』
(アレクサンドランについて:私の「悲劇」と、ラシーヌの「悲劇」について
そして、ドイツの文学賞、ビューヒナー賞でもおなじみの、
ゲオルク・ビューヒナー『ダントンの死』
オペラ『ヴォイツェック』で、知っている人も多いと思います。
彼は、革命家でもあり、逃亡生活を続けながら、
23歳のその短い生涯を終える間に、
なんと3作の戯曲と、1作の小説を書きあげました。
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『ヴォイツェク』『ダントンの死』『レンツ』(岩波文庫)
4ページにも渡る、ラシーヌのモノローグに、
度肝を抜かした私は、
学校のディレクターに、
ビューヒナーから、始めた方がいいよね?
と相談すると、
人生は、無駄な方へ、無駄な方へ、選んでいくべき。
と、謎の名言を告げられ、
つまり、私の演劇キャリアにおいて、
ほぼ100%、ラシーヌ戯曲を演じることはないだろうから、
ラシーヌを選択。
ここは、学校。
いかに一見無駄と思えることに、
利益を顧みず、
死ぬ気で打ち込めるか。
そして、
台詞を覚え始める。
それにしても、ワンフレーズのうちに、
知っている言葉が、2,3個しかない。
精一杯準備をして、
ようやくすらすら読めるくらいにはなった状態で、
1日目スタート。
初日から、ほぼ全員が台詞を覚えてきて、
さらに、演出プランを添えて、
舞台で発表。
私は、読むだけで精一杯。
そこで、
昨年から、個人レッスンまでしていて、
私のことをよく知っている今回のスタージュの先生から、
衝撃の一言。
「あなたの女優のキャリアにおいて、
女優を続けてほしいから言うのだけれど、
フランス語で演じることが果たしていいことなのか、
最近わからなくなる。」
それは、私も、みんなも思っているけど、
言葉にしてしまうと、
どうにも取り返しがつかないよ、先生。
と、思いながら、
絶望。
ただ、昨年1年間、頻繁に絶望していたので、
楽観的に絶望する術を手に入れた。
問うな、動け。
2年近く前から、
大好きなラッパー(私にとっては思想家)、
24歳でこの世を去った不可思議/wonderboyの公開が決定した。
映画Living Behavior 不可思議/wonderboy 人生の記録


監督はなんと、
PerfumeのPVを手がける関和亮監督。
彼が谷川俊太郎氏の『生きる』という詩を、
ラップにしたことから、
谷川氏本人もこの映画に出演しているのですが、
谷川氏が彼のパフォーマンスを見て、
言った言葉。
「イギリスの哲学者で“世の中には2種類の行為がある”と言った人がいてね、
彼は“世の中のすべての行為を、
Death Avoiding Behavior (死回避行為)と
Living Beahavior (生命的行為)”に分けて説明したんだ。
僕の解釈では、
現代人の多くは生活優先のDeath Avoiding Behaviorで生きてしまっているんだけど、
不可思議くんのラップはまさにLiving Beahaviorを体現している。
だから感じてしまうものがあるんじゃないかな」
Living Beahaviorで生きること、
つまり、「仲間はずれ」ではない、
一部のコミニティーの中だけではない、
本物のマイノリティーを生きることだと思う。
そして、
それは、自らの人生を実験台にすることだと思う。
ただ、
実験と言っても、
人生は一回限りだから、
すごく怖い。
私が今やろうとしていることを、
意味があるのかわからない、と言われ、
(初めてのことではないけれど、)
私もわからないと答える。
ただ、人生の成功のために、全力を捧げるのではなく、
「実験」の成功のためだけに、全力を捧げたい。
だから、
去年は、
悲しいことがあったら、
泣いて、特別扱いしてもらう手段を取ったけど、
これは、フェアな「実験」方法ではなかったかな。
最終日、
やっぱりこれら2作品の超難解テキストを覚えて、
演技するところまで持っていくのは、
私には、手が届かなかった。
覚えたての台詞に、
私の舞台でのプランをめちゃくちゃにされた。
テキストの解釈、
そして、自分という役者を扱う、
演出家としてのプランはあったのに、
それを体現する、
役者としての力量がついていかなかった。
泣いて、
この悔しい想いを次に活かそう、
なんて、
甘っちょろい考えは、
もう許されない。
なぜなら、
私たちは、2年生で、
時間が過ぎていくスピードは、
私たちの夢の大きさに対して、
余りにも速いことを知っているから。
「台詞を所有するまでに、
今の私には、多大な時間が必要なので、
ここまでやったけど、
演劇的なところまで行けずに、
このままでは、終われません。」
と、言ってみる。
自分の厚かましさに、
自分でもびっくり。
休憩中に、先生から、
電話があり、
「明日は、あなたに時間を取ることが適当だと思う」
と言われる。
ということで、
土曜日、
私は補習授業。
2時間以上、
舞台を使って、
マンツーマンでシーンをつくっていき、
ようやく演劇の入り口にたどり着けた気分。
今年は、
このブログで、
「泣きました」と書くことが、少なくなって、
少しでも「実験」成功に近づけるように。
「本物のマイノリティー」を考えながら、
一週間を過ごしていたら、
素敵な写真集に出会った。
『Echolilia/Sometimes I Wonder』
アメリカの写真家のティモシー・アーチボルドさんが、
自閉症スペクトラム障害を持つ息子さんを3年間取り続けたもの。
c8e1e920.jpg
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人と違うこと、
私にとっては、
やっぱり、
人と競争できない、
つまり、
つまり比べられない、
という違いくらいしか見当たらない。
「BAZOOKA!!!」の高校生ラップ選手権にも、
自閉症の男の子が出場していたことを思い出して、
検索してみたら、
ビックなラッパーになっていて、
とても嬉しく思った。
GOMESS
(まさかの、不可思議/wonderboyと同じ音楽事務所)
そして、彼も「本物のマイノリティー」になっていた。

普通じゃねえって並はずれてる 皆が言ってる障害者のクズです
バカにしてる 鴨にしてる あいつは頭がイカレテル
my name is gomess 人間じゃねえ 孤独の世界からいつも見てる
笑って 泣いて 怒って 泣いて ヒトに紛れてもう18年

インプロビゼーションにおける確信犯的非効率のすすめ

指導者のいない、私たちだけのスタージュも、
今週で終わり。
何も正解がない、
むしろ、
正解を出さないことが正解のような、
それぞれのプロジェクト「recherche(リサーチ)」のための期間に、
最初は戸惑いでしかなかった。
しかし、ひとたびダイレクトに結果を求めない、
この時間に慣れてくると、
なんとも贅沢で居心地がよく、
将来このメンバーで、
あーだこーだいいながら創作している様子を、
こっそり想像する。
演劇というような、
見せる(魅せる)芸術において、
信頼関係なしには、
この期間は存在しない。
リーダーからの課題を発表し、
たとえ、思っていた通りにできなくても、
終わったあとのディスカッションで、
必ず心ゆくまで言い訳の時間を与えられる。
言い訳しながら、
実際どのような意図があったか、
どうしてうまくいかなかったのか、
他人の頭と時間を使いながら考察していく。
例えば、
私がメインでキャスティングされている、
エドワード・ボンドの3人芝居。
オープニングに、私ひとりで、
10分程度、ひとりで舞台の上にいるシーンがある。
台詞は一切なし。
前回の稽古では、
このシーンのインプロビゼーションとして、
演出家はなんと70分も費やした。
70分間、
演出家と共演者が見つめるなか、
わたしは、一人きりで舞台の上。
インプロビゼーションなので、
やることは一切決まっていない。
もちろん、このインプロビゼーションの目的は、
リサーチなので、
彼らを楽しませることが目的では決してない。
むしろ、彼らの視線や存在からくる、
一定の緊張感を、
こちらがあくまでも利用し、
自分のなかでリサーチ作業をしていくのである。
日本にいたころは、
俳優訓練としてのインプロビゼーションというと、
発想力や、瞬発力を鍛えるイメージが、
漠然とあって、
常に自分というものを図られているという自意識から、
どうしても好きになれなかった。
ただ、指導者という、
一種の権威が存在しないスタジオ(教室)での、
インプロビゼーションが向き合う相手は、
自分自身のみ。
この機会も、状況も、ストレスも、
すべて自分のためだけに利用してみる。
このような作用は、
グループ間でのインプロビゼーションのなかでも、
しばしば起こった。
例えば、
10人で、あるテーマと、
プロジェクトリーダーのディレクションによって行われた
インプロビゼーション。
その日、わたしは、全く気分が乗らず、
輪のなかに入っていくことができない。
できないといっても、
ふりをすることはいくらでもできる。
俳優じゃなくても、
「ふり」をすることはできる。
場に馴染むこともできる。
ただ、
俳優なら、
このリサーチの時間に、
「ふり」をすることは罪だと思う。
リサーチが許されたメンバーに対する信頼関係への冒涜だと感じた。
だから、ひとりぼっちでも、
ひたすら「待つ」
自分の中で起きていることと、
自分の外で起きていることに、
耳を傾けながら、
ひたすら「待つ」
ただ、
アクティングエリアの外に出るという選択だけは、しない。
気分が乗る日も、
乗らない日も、
私たちの職業は、
そう簡単には変えられないから。
なんて、
非効率な時間を、
今月に入ってから、
たくさん過ごしてきただろう。
ただ、
この確信犯的非効率を、
続けられることの、
贅沢さは、
ミシュラン三ツ星だと思いながら、
週末は久々の外食。

繊細に関する個人的な覚え書き。

2年前、
ようやくフランス語で恋バナができる程度に、
話せるようになったころ、
フランス人の女の子から聞いた話。
恋人と身体をあわせるたびに、
身体と身体が触れている場所から伝わる情報量が多すぎて、
感動して、毎回泣いてしまうと言っていた。
この一週間で、
何度この果てしなく洗練された場所で、
愛し合う恋人たちのことを思い出したことだろう。
 
新学期前のプレ稽古。
演劇のない夏休みに耐えられなくなった11人全員で、
一ヶ月早くモンペリエに戻り、
はじめて、
指導者なしの自分たちだけの学校。
私たち以外、
だれもいない学校。
11人には、
時に静かすぎるほどのいくつものスタジオと玄関ホール。
10時から23時まで、
自分たちで、3時間ずつ、
それぞれのプロジェクトを割りふってつくったスケジュール。
つまり、3時間づつ、
くるりくるりと絶え間なく、
リーダーが変わっていく。
ウォーミング・アップから、
エクササイズ、
そして、稽古まで、
一人一人が、綿密にオーガナイズし、
他のメンバーを引っ張っていく。
改めて、ひとりひとりが全く違う演劇観、世界観
そして、夢を持っていることを、
全身で受け止める。
いつのまにか、
自分をリュックサックは、
他人の夢まで詰め込んで、
ぱんぱんに膨らんでいたり。
だから、心地よくも、
この重さに耐えきれなくなったりして、
夜は、ぐったりと疲れてしまう。
私自身の企画は、
ソロなので、
この2週間は、
テキストの執筆という孤独な作業だった。
他のメンバーとのやり取りと言えば、
ドラマツルギーを引き受けてくれた彼だけだけれど、
他人が介在することで、
少なからず、
私だって、
プロジェクト・リーダーになる。
自分の書いた文章が、
彼の身体を通り過ぎていくことで、
2倍にも3倍にも広がっていき、
種まき作業をしてから、
小さな芽が出るのを楽しみにしていたところから、
一気に、夏のひまわり畑のど真ん中に立たされた感じ。
自分から綴られた文章のくせに、
自分では、もう所有することが困難になってしまったときに、
演劇の3Dな創作が始まっていくんだと思う。
ということで、
いつまでも、永遠に、
100%満足いくことはないのだけれど、
これ以上、
もうこのテキストの家主でいることはできそうにないので、
明日からは、
演出家と役者の仕事に、
移行します。
どきどき。
自分も含めて、
自分の作品への愛とか、
他のメンバーへの愛とか、
他人の身体への愛とか、
今この時間への愛とか、
愛なんて、言葉を使うのは、
陳腐だけれど、
本当に、愛としかいいようのないものたちに、
21時も回って、
身体もいい具合に疲れてくると、
背後から、優しく包み込まれていく。
その中で、
他人を見つめたり、見つめられたり、見つめ合ったり
他人の身体に触ったり、触られたり、
そんな単純なエクササイズをするだけで、
そこから伝わってくる、
「生きてること」の情報がどうにもこうにも氾濫してしまって、
愛おしくて、美しくて、嬉しいのに、
どうして涙が出てくるんだろう。
毎回、稽古は、
輪になってのフィードバックで終わる。
わたし、
さっきね、
泣いちゃったのはね、
すごい、ポジティブな涙で、
悲しいとかじゃないからね!
って、
なぜだか、
言い訳みたいに、
息せききりながら、
必死になって発言すると、
そんなのみんな知ってるよ。
って、
10個の笑顔に囲まれる。
そう。
それなら、いいの。
よかった。
また、ずいぶんと、
暑苦しいようだけど、
怒ったり、
泣いたり、
笑ったり、
「大げさに」毎日を生きることも、
私たちの仕事の一部であるような、
そんな感覚に守られた一週間。

少しはたくましくなったかと思いきや、やっぱり涙で始まる2年生。

先週、ある友人に、
「恋に落ちるってどんな感じ?」
という、野暮な質問をしてみたところ、
割に、あっさりと、
「何事にも、繊細になる。」
というシンプルな答えが返ってきた。
いまだ夏らしい太陽の日差しの下、
日本から沢山の本と服と食料を詰め込んだスーツケースと共に帰宅後、
30分後から稽古という、
なんとも、モンペリエらしい豪快なスケジュールで、
新学期スタート。
そして、2年に1度の受験が行われるENSADでの、
2年生は、
上級生も、新入生もいない、
「私たちぼっち」
11人で、
学校を占領する。
日本でたくさんの人たちに甘やかされた1ヶ月が、
もう遥か遠く。
今週から、11月に行われる各々のプロジェクト・アーティスティック(LA CARTE BLACHE)の
プレ稽古がスタート。
このプロジェクトは、11人それぞれが、
企画書から、公演まで、
それぞれの企画を遂行するというもの。
ただ、ちょっと特殊なのが、
まさかの同時進行。
11個のプロジェクトが同時にスタートし、
3週間で、11個の作品を11人で発表するというもの。
つまり、ある時は、演出家、ある時は、劇作家、
そして、もちろん他の人の作品に役者として絶対的に参加するという、
なんとも無茶苦茶なプロジェクト。
11個の企画書からスタートし、
現在の時点で、10個のプロジェクトが同時進行中。
稽古を進めていくにあたって、
徐々に絞れていけばいいのだが、
なかなか簡単に、あきらめられるものでもないので、
今は、ほぼ、常に全員で、
3時間ごとに、
グループのリーダー(企画者/演出家)が、
代わっていくスケジュール。
私個人の企画は、
ソロなので、
ようやく、テキストが完成し、
美術プランを考えながら、
舞台稽古に入っていく。
もちろん、同時進行で、
その他の6個のプロジェクトにも、
役者として配役されているので、
稽古、稽古、稽古の日々。
それにしても、
何に対しても、
繊細になりまくりであった、
この1週間を経て、
「私の恋している相手は、演劇か。」
と、ふと実感し、
肩を落としつつも、
思わず、ふふふっと笑ってしまう。
急激な環境の変化のせいか、
五日間で、同級生のオリジナル戯曲、既成戯曲合わせて、
9作品を読みきったせいか、
言葉の自由が全くきかなくなる。
自分でも、まるで、
他人の身体を扱っているようで、
懸命に診察を試みるものの、
全く理由がわからない。
水曜日は、
気の知れ渡った、
家族みたいな10人のクラスメートたちと、
いつものバーで、
一杯飲みにいくことすら苦しくて、
家に帰ってもどうしていいかわからず、
とりあえず、フランス語の参考書を買いに本屋にいき、
語学コーナーにたどり着いても、
どれを選んでいいかわからず、
ぽろぽろ涙が出てしまう。
夫婦デュオとして有名な、
ハンバートハンバートの新アルバムが5月に発売されたというニュースをみて、
曲を聴いてみる。
ふたりの関係を0から100まで、
見てしまったようなこっちまで照れくさいような、
それでいて、
心から優しい気持ちななれる歌声とクリップ。


そして、やっぱり一番は、『おなじ話』
 
よく、歌を聞いて、
自分の人生と重なり合って、
涙が出てしまうという話を聞くけれど、
本当に美しいものは、
もうその美しさの時間の流れがただただもったいなくて、
パソコンのキーボードに、
涙がこぼれる。
恋もしていないのに、
首筋をキラキラと通り過ぎていくメロディーと、
真夏のカルピスみたいな歌声と、
そして、
皮を剥きすぎて、
随分とちっぽけになってしまった、
タマネギの芯のような歌詞。

極めつけに、
日本語でも挑戦したことのないような台詞の量の、
3人芝居にキャスティングされ、
「いっぱいいっぱい悩んだけど、やっぱりあなたにした。」
といった、企画者の女の子の目を思い出して、
喜びとプレッシャーのなか、
ひたすら発音の練習。
30回目くらいに、
突然、
ふわっと今にも甘い匂いを醸し出す勢いで、
イメージが広がって、
やっぱり、
どうして、
また涙がこぼれてしまう。
2年生になったら、
少しくらいは、
こなれてくるのかと思いきや、
私のへっぴり腰レベルは、
大したものだった。
それでも、
今週、ようやく一人芝居のテキスト第一稿が完成し、
ドラマツルギー担当の男の子に提出。
人とつながることで、
頭の中にある妄想が、
一気に、具体化していく。
無理矢理に、
打ち合わせの約束と、
それに伴う、
締め切りを、
つくる。
全員が、
あるときは、社長で、
あるときは、社員。
立場に応じて、
態度も変わる。
社会の中の役も、
作品の中の役も、
変わる、変わる。
責任を持ってみる練習ができる環境に心から感謝。
とは言うものの、
恋ではないので、
繊細になっているだけでは、
前に進めない。
無くした自信は、
無くした場所でしか、
取り戻せない。
また、
1から、
ちぐはぐにも程がある、
大胆な情熱と、
つたない言葉で、
自分の想いを、伝える練習の、
はじまり、はじまり。
自分の想いを伝える=
他人への興味=
愛を語る=
演劇。
宮崎駿監督との名コンビ、
スタジオ・ジブリのプロデューサー・鈴木敏夫氏の座右の銘。
『どうにかなることは、どうにかなる
 どうにもならんことは、どうにもならん』
それなら、
どうにかなるのか、
ならないのか、
私は、
いますぐ、試しにいかなくちゃ!
にゃ