dictionについて。〜オペラに学ぶ強気〜

来年の受験に向けて、
本格的に発音の矯正を行うため、
dictionの個人レッスンに通い始めました。
diction(ディクション)とは、フランス語で、
基本的には、歌曲などの詞の発音の方法論を指す言葉ですが、
俳優のせりふ回しについても、同じ語を使います。
pronunciation(発音)の授業との違いは、
最終的に発生される音だけでなく、
口内の空間から、分析して、
舞台で響かせる台詞の「音楽」を追求します。
フランス語は、よく音楽的だと言われますが、
例えば、ラシーヌの文章などを取り組むと、
フランス語のすごいところは、
フランス語歌曲よりも、
フランス語のテキストの方が、
音楽的であるということ。
まずは、
口の使い方を徹底的に変えていかないと、
舞台で通用する発音を、得ることは出来ないそうです。
ちなみに、先生はなんと、イタリア人。
オペラ歌手の友達に、紹介していただいたのですが、
先生は歌のレッスンをさまざまな国の生徒に教えていて、
さらに、フランス人の役者に、dictionの授業をしているそうです。
日本人の口の構造は、水平的。
どちらかというと、口角を引く動きが多いので、
この感覚でフランス語をしゃべると、
音がつぶれてしまうのです。
そもそも、よくセクシーと言われるフランス語は、
空気(吐息)とともに話す言語ので、
口の中の空間を第一に広く保つことが重要。
どちらかというと、あごを使って上下の動きに集中します。
さらに、
演劇の土俵で、よく感じるのが、
前後の感覚がすごくひろいということ。
頭の後ろ側から、
音を出している感じを意識すると、
空間が2次元から、
3次元になる。
それにしても、
オペラは、強い。
インターナショナルが当たり前。
イタリア歌曲、ドイツ歌曲は、もちろん、
フランス歌曲、さらに、英語まで。
自分の母語じゃない、言語を扱うことなんて、
もはやなんでもない。
ということで、
演劇だから、
言葉の芸術だから、
国境を越えられないなんてことは、言ってられない。
もう、既に、
超えてる人たちがいる訳だから。
去年は、挑戦することも出来なかった、
ラシーヌのテキスト。
9月から稽古をはじめて、
3ヶ月目ですが、
やっと、「美しさ」がわかった。
美術館で、
高尚な絵画を、
見る「目」の準備がやっと整った感じ。

死ぬほど悔しかったこと、そして、「勇敢」と「無謀」の違いは?

国立コンセルバトワール受験に向けて、
9月半ばから準備を開始しました。
6月に国立コンセルバトワールの生徒たちによる公演に、
ひょんなことから出演したのですが、
そのときのリーダーだった学生が、
なんと、私の今年の受験を全面的に指導してくれることに…!
感動。
無償で、人に何かをしてもらう場合、
彼にとって、利益になることといったら、
私の日々の成長と、最終的な成果でしかないので、
こちらとしても、まるでエスカレーターを上るように、
二倍の速度で、進んでいく感じ。
国立コンセルバトワールと、ストラスブールにある高等コンセルバトワールの卒業生は、
le jeune théâtre national(JTN)という組織に入ります。
http://www.jeune-theatre-national.com/index.php
このアソシエーションは、演劇に関わる若いアーティスト(主に俳優)を対象に、
稽古場、小道具、大道具の提供、
クリエーション企画の援助、助成、
そして、各劇場プロダクションに若い俳優の雇用を促すため、
通常の半分の給料でJTNの俳優に出演依頼することができ、
その半分をJTNが負担してくれるそうです。
支援期間は、卒業後、主に2年間。
つまり、彼は、今年からJTNのメンバーになったので、
稽古場も自由に使うことが出来ます。
ということで、私のための稽古なのに、
本日はJTNで稽古。ありがとうございます。
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とにかく、私にとって大難関である、
アレクサンドラン(http://ja.wikipedia.org/wiki/アレクサンドラン)の課題から取り組もうということで、
先週からすでに、マンツーマンで6時間もやっているのですが、
まだ、最初の1ページも終わっていない。
私が、アレクサンドランのシーンとして選んだのは、
ラシーヌ『アンドロマック』
http://ja.wikipedia.org/wiki/アンドロマック
超最強片思い物語です。
彼とのレッスンのあとは、
公園で自主練。
スクリーンショット(2012-10-10 2.33.20)
スクリーンショット(2012-10-10 2.33.32)
そして、昨日、月曜日、
コンセルバトワールの授業の課題としても、
ラシーヌのテキストを各自が選んで、
年間をかけて取り組むかとになっていて、
「何か、読んでみれそうなものある?」
と、先生に聞かれたので、
この1週間、毎日1時間以上は練習していた、
『アンドロマック』の1ページ目を皆の前で読んだら、
「彼女は、外国人なのに、果敢にもラシーヌの台詞に取り組んで、なんて、勇敢なんだ。」
「外国人なのに、アクセントもなくて、すごく綺麗だ。」
と、褒められました。
死ぬほど悔しくて、少しの間呆然としてしました。
家に帰って、練習しても、
絶対に、フランス人と同じように発音することは、
不可能なのに、
なぜやっているんだろう、
と、そんなことばっかり頭に浮かんで来て、
涙が出てくるのに、
やっぱり、口は勝手に音読し続けていました。
先生の言う通り、
多分、いくらやっても、
私のアレクサンドランを扱うことは、
「外国人なのに、」という前置きがなければ、
讃えられものにはなり得ない。
自分でも、なぜ、外国語で演劇やってるのか。
この本質的なことを、問われると、いま、明確な答え言葉にすることは出来ない。
でも、確実に、自分には、目指すとこがあって、
自分の現在の「無謀」だからこそ、「勇敢」でいられる状態を、
肯定するために、
通ってきた道を、くっきりと残す必要があると思っています。
やればやるほど、
自分のやっていることが無意味に思えるとき、
そこに、意味を見いだすことよりも、
欲求の存在を再確認する。
自分を突き動かす何かがあるから、
意味なんてないかもしれないけど、やっていること。
もしかしたら、
想像し得る利益なんかより、
よっぽど大きな「答え」が見つかるかも。
でも、正直、こんな暑苦しい思想なんかじゃなくて、
私の「無謀」な「勇敢」を信じて、
手を貸してくれる人がいること。
そのことだけで、頑張ることができてしまったりする。
人間って、単純。
そして、情けない。
でも、可愛い。
やっぱり、私にとって、
「勇敢」と「無謀」は、紙一重。
「無謀」だから、戦える。
「勇敢」だから、戦える。
ついでに、「無名」だから、負けても失うものは何もない。
昨日、25歳になりました。
一番怖いのは、
過信したまま、
挑戦しないで、
挑戦しないから、
負けないまま、
大人になってしまうこと。
もう大人だからこそ、
いつもいつも、
死ぬほど怖いし、
いろんな言い訳したいけど、
やっぱり、毎日の終わりには、
もうちょっとだけ、やってみようと思う。

『石の上にも3年』まで?(なんちゃって有名人な私)

昨日から私が1年間、在学していた15区のコンセルバトワールの新入生オーディション。
先生から頼まれて、お手伝いに行ってきました。
先生が、受験生たちに、
「去年、15区の学校にいた生徒で、
今年から、ひとつ上のコンセルバトワールに入るKyoko TAKENAKAです。
皆さんの先輩です」
と私のことを紹介したときは、
思わず、でれっとしてしまいました。
2ヶ月ぶりの、学校で、先生や同級生にあって、
居心地のよさに包まれて、
うっかり、9月からもこの学校にいたくなってしまったけど、
私は、もう卒業です。
オーディションでは、私にとって、
小さなミラクルがたくさん起こりました。
去年、他のコンセルバトワールの3日間の研修を一緒に受けた男の子が、
受験に来ていて、
私のことを覚えていてくれて、
「フランス語が話せてるから、違う人かと思いました。」
と、言われたり、
去年、私が受験したときに審査員をしていた先生が来ていて、
「香子が、作品を発表したときの衝撃は、いろんな意味で一生忘れない。」
と、言われたり、
私が、8区のオーディションにも参加していたので、
両方受けた生徒に、
「コンセルバトワールを取り仕切ってる人なんですか?」
と、聞かれたり、
しまいには、
知らない子に、
「あなたが、噂のきょうこですか?」
と、聞かれたり。
こんなに、有名になるほど、
1年前の私は、
無謀な子ども、だったのです。
ここにいたら、
みんなが私の成長を知っていて、
みんながやっぱりどこかで特別視してくれる。
ふわふわの毛布にくるまって、
ぬくぬくしている、真冬の朝。
楽しいことが待っていることを知ってても、
やっぱり出たくないほどの気持ちよさ。
そして、安心感。
高校生のとき、カリスマ的存在だったある国語の先生が、
「私は、3年で、異動願いを出すの。」
と言っていたことを思い出しました。
なぜなら、3年で、人間は環境に慣れ、
そして、心地よさを感じ始めるからだそうです。
『石の上にも3年』
どんなに苦しくて大変でも、じっと辛抱すれば必ず報われる。
冷たい石も三年座り続ければ、暖かくなるという意味に由来しているそうです。
さて、報われたとき、
その石に座り続けるか、
はたまた、新しい石に座りかえるか。
欲張りな私は、
最近見つけた新しい石を、
この間まで腰掛けていた石の上において、
座ってみようかと思います。

「美人は得か?」論争・イン・コンセルバトワール

「美人は得か?」
10代後半の未来に羽ばたく役者のタマゴたちを前に、
どうして自分は、こんなにも現実的な問いしか、
投げかけられないのか、
と自問しながらのオーディション見学。
やはり、国籍を超えても、
美人の判断基準は、大して変わらないようです。
日本のメディアに触れていると、
私が、確実にひとつ言えることは、
「美人」じゃなくてもいい職業における
「美人」は得である。
例えば、政治家。
例えば、心理学者。
例えば、スポーツ選手。
それでは、
「美人」であるということがあきらかに有利に働きそうな職業の場合、
実際、「美人」ということがどれだけプラスになるのでしょうか。
例えば、女優。
私の「美人」の美学。
それは、自分が「美人」であると知っている「美人」
オーディションでも同じ。
生まれたときから、すでに人よりちょっと恵まれていた容姿を、
褒められてきただけあって、
人との対峙のしかたが、堂々としている。
最終的に、外見から得をしているのではなく、
その自信からくる、
立ち方であったり、話し方であったり、仕草であったり、
そこに、私たちは、魅了される。
では、女優における「美人」とは、
果たして得なのであろうか。
それは、必ずしもそうではなさそう。
というのが、最近の見解。
なぜなら、単純に「美人」率が非常に高いからである。
以上、二つのカテゴリーから思うこと。
若者たちよ、
マイノリティーを恐れるな!!!
オーディション中の先生の外見に対する、
最高評価は、
「彼女は、カラフルだ」
素の表情からは想像もつかないような、
表情が現れる顔。
「カラフル」だった子の想定理由。
死ぬほど時間をかけて準備した。

もしかして、わたし、イケてる?

早く、審査員の前で発表したい!!
多分、コンセルバトワールのオーディションにおける「美人」の定義は、
オーディションにかける想い。
もちろん、受かりたい気持ちはみんな同じ。
そんなのは、当たり前。
そんなことより、何より、
今この瞬間、
審査員の前で自分の作品を発表することを、
どれだけ待ち遠しく思ってるか。
どれだけ楽しみにしているか。
そして、やってきたからこそ、失敗を恐れて、
どれだけ緊張しているか。
さあ、私も努力次第の「瞬間美人」を目指しましょう。

「花」がある人 〜世阿弥に学ぶ審査員席〜

昨日まで、受けるはずだったオーディションに、
何故か審査員側として参加。
どうしても、8区の先生の授業を受けたかったので、
新入生に混じって、オーディション受けようと思っていたのですが、
先生と話した結果、
もう、あなたの作品は、観てるから必要ない、と言われ、
むしろ、お手伝いに来て、と頼まれました。
去年の同じ時期、
私も死ぬほど準備して、
死ぬほど緊張して、
はじめてのコンセルバトワールの試験に挑んだので、
それを思い出して、
受験生のみんなも同じ気持ちなんだろうか、とか、考えながら、
やっぱり、
私が緊張して、
受験生よりも早く会場に着いてしました。
日本人。
 
さて、本日、8区の1次審査2日目、
午前の部、3時間で30人が受験します。
日にちによって、差はありますが、
こんな感じで毎日午後の部、午前の部と全5日間続くそうです。
それぞれが、
戯曲からの3分間の抜粋シーン(モノローグは不可)と、
3分間の自由課題を用意してきます。
そのあとに、2、3分くらいのちょっとした面接。
それにしても、
本当に貴重な体験でした。
古典など、難しい戯曲になってしまうと、
私には、一回聞いただけじゃ細かい内容などは、
理解することが出来ないので、
自然と判断基準になるのが、
「花」があるかないか。
フランス語では、
il y a quelque chose.
(あの人は、なんか、持ってる)
と、いう表現をするようです。
私が、あの人は「花」がある!と、言いたいときに、
他の人がこの表現を使っていたので、
おそらく、
言いたいことは同じだと思います。
なぜなら、「花」がある人に限って、
評価基準を説明できないからです。
どうしても、見て(魅る?)しまう。
「花」がある人を、パートナーに選んでしまったりすると、大変。
受験者に全く、目がいかなくなってしまうから。
でも、この「花」
説明できないことには、
努力の仕様もない。
しかも、たいてい「花」を感じる瞬間は、最初の2、3秒、
もっと言えば、
ドアを開けて、審査員の待つスタジオに、
一歩足を踏み入れたときなので、
逆に一定のキャリアがある人の場合、
この不可抗力的な力を持つ「花」だけで、
判断されたのでは、たまったものではありません。
そこで、早速、家に帰って、
場所と時をつなぐインターネットで、
世阿弥の『風姿花伝』を検索。
一瞬で欲しかった文章が読める。
『風姿花伝』 第七 別紙口伝
最終章、第7部にて、
「花」に関してかなり詳しく言及されています。
http://www.geocities.jp/actartcreator/shiryoushitzu/kaden-honbun.html#7
まず、「花」の正体は??
(以下引用)
花と、おもしろきと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。
いづれの花か散らで残るべき。
散るゆゑによりて、咲くころあればめづらしきなり。
能も住するところなきを、まづ花と知るべし。
住せずして、余の風体に移れば、めづらしきなり。
ぱっと、頭に浮かんだのが、
催眠術にかけられる若いOLの役を演じた女の子。
顔を真っ赤にしながら、
叫んでいたけど、
その「潔さ」といったら、圧倒的でした。
まさしく、散ることも、住するところを失うことも、
恐れない心意気の強さ。
(以下引用)
因果の花を知ること。極めなるべし。一切みな因果なり。
初心よりの芸能の数々は因なり。
能を究め、名を 得ることは果なり。
しかれば、稽古するところの因おろそかなれば、果をはたすことも難し。
これをよくよく知る べし。
この文に、通じるのは、
オペラを勉強している訳でもないのに、
自由課題でモーツァルトの『魔笛』を熱唱した男の子。
テクニックに関係なく、
自分の満足のいく稽古が確実に行われている。
そこに、生まれる自分の芸に対する、
肯定性には、もはや、誰も抗うことはできない。
(以下引用)
秘する花を知ること。
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。
この分目を知ること、肝要の花なり。
有名なこの一文。
この文章が、感覚として理解できるのは、
やはり私が、日本人だからだと思う。
「花」があったと感じた受験者たちに共通していたのは、
作品発表後の、数分の面接。
自分のやったことを、
過大評価する訳でも、
へりくだる訳でもなく、
自分にぴったりの、
クオリティーと、
値段と、
サイズ、
の椅子に、
ゆったりと腰をおろして話している感じ。
(以下引用)
されば、この道を究め終りて見れば、花とて別にはなきものなり、奥義を究めて万に珍しきことわりを、われと 知るならでは、花はあるべからず。
世阿弥は、この章で、
『風姿花伝』全体を以上のように、
締めくくっています。
これこそが、まさに、「花」の正体なんだろうな、
と思いました。
自分が精魂かけて、
ここまで書き上げた偉大な書物の結論として、
「花」と言っても、べつに、特別に存在するものではないよ。
まあ、知りたかったら、やり続けて、自分で見つけるしかないんじゃん?
と、
さらりと、優雅に突き放されて、
そのたくましい背中を見せられた感じ。
私の結論、
昨日、「花」があった人が、
今日も、「花」があるとは限らない。
ただ、
追求する心があれば、
1週間に1、2度現れていた「花」を、
1週間に3、4度に増やすことは出来る。
そして、一生をかけて、
「『花』のある人(人生)」を目指す。