繊細と抑制 la sensibilité et la maîtrise

繊細を通り越して、過敏に陥り、

私だけ、大きな穴の中に落っこちたところから、

周りを見ているような1週間だった。

他のシーンの稽古を、爆笑しながら見学していて、

劇場から一歩外に出た途端、彼らとの差に愕然とし、涙が止まらなくなる。

遠くにいる仲のいい友達に、泣きながら電話をしても、まだそこまで親しくなくても、今、一緒にいる人たちに相談しないと意味ないよ、とたしなめられる。まさにその通り。

遠くの親戚より、近くの他人。

恋人よりも、友達よりも、共演者。

ということで、現場での悩みは現場で共有することでしか解決はしない。

さんざん、学校にいた時から、わかっていたことだが、

フランスと日本のクリエーションにおいて圧倒的に異なるのは、

俳優の発言権であると思う。

むしろ、発言権というよりも、発言義務といってもいいくらいの重要度を持っていて、

今回の現場でも、演出家が話している時間より、俳優が意見を言っている時間の方が多いのではというくらい、俳優が積極的に自分の意見を言うし、それを求められる。

特に、今回の現場は、ベテラン俳優と「若い才能」チーム(私が名付けた)と、年齢にかなりの幅があるにもかかわらず、年齢による、ヒエラルキーは一切感じられない。

むしろ、「若い才能」チームの方が、積極的に、演出家に意見を言う。彼らは、100倍のオーディションを勝ち抜いて参加しているので、演技だけじゃなくて、クリエーションに対するアティチュードのようなものも考慮されて、選ばれたのであろうことは想像に難くない。

現に、オーディションも、第一次のシーン審査で、二人組で課題のシーンを発表するという内容で通過した、400人中の20人程度で、最終審査として、3日間のワークショップを行ったらしい。

その中で、実際、演出家とともに稽古を行ってみて、選ばれた4人なのである。

ベテラン俳優チームとの共演に関しても、全く腰がひける様子はない。

 

とはいうものの、彼らと話してみると、舞台上での、自信に満ちた表情からは想像もつかないような、かなり高い「繊細さ(la sensibilité )」を備えていることに驚かされる。と、同時に、それが彼らの魅力となっていることには間違えない。

それでは、その「繊細さ」を支え、輝かせているものは何かというと、どうやらそれは、「抑制(la maîtrise)」のようだ。

 

自身の「繊細」さを「抑制」する力。

 

「繊細」だけでは、この楽しすぎる夢のような「戦場」を生き抜くことはできない。

集団で、美しいものを創り上げるという陰にも陽にもエキサイティングな気持ちを「抑制」する力。

私には、この力が現段階で圧倒的に足りない。

演技のテクニックを上げるよりも、まずは、毎日の稽古に、創作に適した身体と精神を「maîtrise」する力がほしい。

 

必死の思いで、学校の時からの相棒で、今回も共演している俳優に電話をかける。

というか、今まで、一番近くにいたと思っていた、

彼がすごすぎて、落ち込んでるんだけど。

「俺なんて、最近、やっと人の目を見て話せるようになったよ!」とのこと。

私の方が、よっぽどみんなの人気者だから、心配してなかったって。ご冗談!

 

ちなみに、「maîtrise」とは、「抑制」の他に、「見事な技法」という意味があります。

本番まであと一ヶ月。

ランスの初演、情報解禁。

http://www.lacomediedereims.fr/page-spectacle/403-songes-et-métamorphoses-#section-

派手には、成長できないかもしれないけれど、maîtriseして、maîtriseして、他人にとってではない、自分にとっての「見事な技法」を舞台の上にのせられるように稽古するのみです。

放下著 〈ほうげじゃく〉 !!!

放下著 〈ほうげじゃく〉とは、禅の言葉で「捨てる」技術のことを指すらしい。

こだわりとか、プライドとか、執着とか、自分の中で積み上げてきたものとか。

頑張れば頑張るほど、勝手におまけでくっついてくる厄介なものたち。

 

先日、父に、劇場での仕事が始まった、ということを報告する連絡をしたら、

祖母まで、電話に出てきて、ふたりして、

「勝って兜の緒を締めよ」と毎日心の中で思うことと言われた。

ちなみに、「勝って兜の緒を締めよ」とは、成功したからといって気をゆるめず、さらに心を引き締めろという戒めの言葉らしいが、

実は、何も成功していないどころか、散々な目にあっている最中なので、苦笑いで返した。

ある程度の年齢を超えた子どもは、親にだけはいい顔をしたくなるものである。

 

そんなときに出会ったのが、この耳障りがやたらと心地よい単語、放下著 〈ほうげじゃく〉である。

 

10月に初演を迎えるクリエーションがスタートしてからというもの、

疲れと緊張からくる、身体の不調に悩まされるだけならまだいいものの、

自分の「しょぼさ」が止まらない。

このブログは、ある程度真面目に書いているので、極力、話し言葉は使いたくないのだが、

自分が「しょぼい」「しょぼすぎる」という言葉以上にぴったりな言葉はみつからない。

 

そもそも、今回のクリエーションの座組は、オーディション枠と、ベテラン枠に分かれていて、

何百倍というオーディションを勝ち抜いた若き才能組、演出家と10年以上も一緒に仕事をしている、ベテラン俳優組に分かれている。

そして、私は、もちらん、このふたつのどちらでもないうえに、なぜか、2年近く前から、キャスティングされていて、かつ、(これはいつものことだが、)出番も台詞もすくない。

もともとの性格が、目立ちたがり、仕切りたがりなので、

学校にいた3年間で、そんなポジションにのし上がったが、

学校の外から一歩出た途端、フランス語まで、おぼつかなくなる始末。

「井の中の蛙」に出す、処方箋は、もちろん、放下著 〈ほうげじゃく〉!!!ということで、

捨てまくりの毎日。

その日の稽古でできなかったこと(今のところ、できなかったことしかない)は、帰宅後、その日のうちに、ノートの上で反省し、忘れる。

泣きそうになりながら歩いた、深夜の帰り道も、

何もできずに、舞台上で呆然としてしまったはずかしさも、

死ぬほど家で練習した台詞が極度の緊張で出てこなかったみじめさも、

すべて、放下著 〈ほうげじゃく〉!!!

 

なぜなら、明日も稽古はあるから。

 

演技も下手なんだから、せめて、沈んだ気持ちを翌日までひきづらないくらいのことだけは、守ろうという、これまた「しょぼすぎる」覚悟で、今日も劇場に向かいます。

 

オデオン座の年間プログラムに、自分の名前発見して、浮かれちゃっているとか、

全然、放下著 〈ほうげじゃく〉できてない。嬉しいから、ま、いっか。

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郷に入っては郷に従え 〜初めての劇場出勤、食事編〜

8月からチーム別のシーンごとの稽古を経て、

とうとう昨日から全体稽古が始まる。

ここからは、契約も一律。

出番が多い少ないにかかわらず、基本、14時から23時まで身体をあけておく。

スタッフ、キャスト含め、総勢30人から35人の人が劇場を出入りし、

19時から20時の休憩には、食事が配給される。

日本でいうようなスッタフ弁当のようなものを想像していたが、

出てきたのは、大きなトレーに入られた家庭料理だった。

ちなみに、昨日の献立は、

トマトとコリアンダーのサラダ、炒めご飯、チキンソテー、そしてデザートにブラウニー。

全部、手作り。

テーブルには、ところどころにバゲットが置いてある。

舞台監督さんに聞いたところ、映画撮影中や、演劇の稽古などの現場を中心に、

ケータリングを用意するカトリーヌさんという有名な奥さんがいるらしい。

つまり、ご飯は、すべてカトリーヌさんのお家で用意されたもの。

それぞれが好きなだけ、自分のお皿にとって食べる。

とはいっても、全員で「いただきます!」的な習慣はもちろんなく、

それぞれが、自分の好きなタイミングで食べ始める。

最初、周りのお皿を見たら、みんなトマトサラダしか、よそっていなくて、

このグループはベジタリアンなのかなと疑うも、

郷に入っては郷にしたがえと思って、

私も、トマトサラダだけをお皿によそう。

ただ、なにしろ、他の人がまだよそいきっていないので、

全員分たりるのかという心配がつきまとい少なめに。

そして、おのおのトマトサラダを食べ終わると、そのお皿に、またチキンとライスをよそいに行く。

食べ終わったあと、もうすこし、サラダが食べたいと思ったが、

前菜、メインという順序を通ったあとで、

前菜に戻るというのは、果たして礼儀が悪いことなのか戸惑いながら、

さりげなくおかわり。

あとで、よくよく観察してたら、ほとんどの男の人たちが、足りてなかったらしく、残ってるなら食べるよ、と言って、おかわりをしていたので一安心。

もちろん、日本では、「三角食べ」の教育を受けて、育ってきているので、

レストラン以外の場所では、ひとつのものを食べきってから次にいくという習慣にはどうも慣れない。

 

食事の文化意識の違いというと、必ずフランス人の話に出てくるのが、ロラン・バルト。

以前もこのブログの中で紹介したのだが、

必ずと言っていいほど、日仏における食事文化の違いについての話題になると登場してくるのが、ロラン・バルト氏が書いた『記号の国』という本。

(過去のブログ記事:芸術作品としてのフランス語で綴られる日本の姿が愛おしすぎる件

 

よく、海外生活で、食事は何を食べているかと聞かれるけど、

ここまでグローバル化が進んだ現代社会において、

自分が食べたいものを、海外に行っても食べ続けることはある意味簡単である。

それよりも、その国の食事に対する意識というものは、その空間を共にする人たちへの敬意、つまり、礼儀につながるので、おざなりにはできない。

 

フランスでは、決められた量、もしくは与えられた量を食べきるという習慣もないらしい。

確かに、体型ひとつとっても、

日本よりはるかに個人差があるのだから、それぞれ食べる量が違って当たり前なのだろう。

 

 

 

 

社会人2週間目の試練。

8月から、本格的に稽古が始まり、

最初の週は、稽古時間以外、ほぼ寝るという現状のなか、

なんとか生き延びています。

なにはともあれ、稽古時間が長い。

14時から23時の月曜日から土曜日の週6。

稽古初日から、台詞が完璧に入った状態で、

実寸の舞台美術の中で、衣装をつけて、

照明、音響スタッフとともに作業が始まる。

最初の3日くらいは、夕飯休憩後は、

立ってるだけで精一杯というなんとも情けない状態でした。

かつ、疲れてくるとフランス語が喋れなくなってくる病に、

久しぶりにかかりました。共演者、スタッフなど現場の人たちにまだ慣れてないのでなおさら。

4時間半に及ぶ大作のため、すでに、半分以上の部分は、仕上がっているにもかかわらず、

スタッフ全員参加のもと、ここから、二ヶ月の稽古が続き、

ランスの初演を経て、8ヶ月に渡るツアーが始まります。

全く想像できない世界。

 

稽古は、パリ公演の会場となる、オデオン座のBertiherという場所で行われています。

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実寸で、できるのとてもありがたい。

ここの劇場の客席キャパシティーは約500名ですが、

まずは、空間の圧力に圧倒される。

今まで、さまざまなスタイルの演劇を様々な場所で観たきたけど、

演技のスタイルというものは、ほぼ空間が決めるのではないかという実感を持たずにはいられない。

空間によって、一定にまず求められる演技のテクニックだったり、

実際に、外に見えてくる必要がある演技の底辺がおのずと決まってくる。

スタイルの前に、空間にたいして、まず「通用」、もしくは「適応」することが、

最低条件として求められるので、ここまでいかないと演出家との共同作業にまで持っていくことができない。

私の場合、もちろん、これくらい大きい劇場で演技をした経験はほぼないに等しいので、

まずは、そこから打ちのめされる。

 

ドイツの劇場は、俳優が劇場に所属して、そこの劇場にプログラムされたさまざまな演出家と仕事をするそうだが、まさに、一定の広さのある劇場だと、空間あっての俳優のようなところがあるので、あまりスタイルにはこだわらなくなるのだろうなと、想像した。

というか、今まで、この演出家とは合うだろうなとか、あの演出家とは合わないだろうなとか、考えてきた自分が俳優として、とてもちっぽけに感じられる今日この頃。

合う合わないの話をするなら、求められる演技のスタイルなんかじゃなくて、創作の過程だろう。

そして、ベテラン俳優たちはなんなく空間を制覇した上で、

演出家にさまざな側面を提示していく、アクティブすぎるクリエーションに、圧倒されっぱなし。

 

そんなこんなでへとへとになってしまった最初の社会人生活。

社会人らしいことといえば、

フランスの会社と全く一緒で、

お昼代に使う、レストランチケットが配給された。小さなことだけど感動。

来週からは、劇場にシェフが雇われて、

劇場ロビーに食堂が開設されるらしい。

 

28歳にして、こんなこというのもお恥ずかしい話ですが、

お金を稼ぐということは、

本当に大変なことです。

 

そんなことを考えなら、

お金をかけない夜の散歩で、

3年ぶりのパリを満喫。

 

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