近所のおばさんに自信をもって俳優やってますって言えるだろうか。

大学の頃、

自分の専門分野以外の人に、

自分のやっていることを正確に伝える「言葉」を持つことが、

最低限、社会とつながる上で重要であり、

アーティストなら、なおさらだと言われたことをはっきりと覚えている。

そして、その時、

隣の家に住んでるおばさんに、お仕事なにされてるの?と聞かれたとして、

「演劇やってます」と自信を持って自分が言えるかということを想像することは果てしなく難しいことのように思えた。

さて、それから、早10年、

私は、その「言葉」を持つことができたのであろうか?

 

そもそも、この近所の人に言えるか言えないか問題の発端は、

ある時、親の知り合いか何かに、俳優をやっていると伝えたところ、

いつか、月9に出れたらいいわね!というような返答を受け、

自分が目指している場所と対極に位置する言葉が飛び出してきて、衝撃と羞恥を同時に受けた。

それ以来、演じることをやってるにもかかわらず、「演劇をやっている」という、かなりざっくりとした枠に自分をおさめ、少々アカデミックな部分を残すことで、自分をごまかしてきたのだと思う。

 

先週、カーンで公演を行った時のこと。

本番前に、どんなに忙しくても毎回欠かさない、「演出家の今日の一言集合」というのがある。

フランスで売れっ子の演出家は新作のツアー中に自分は同行せず、次の作品をもう創り始めるということも多いようだが、今仕事をしている演出家が客席にいなかったことは一度もない。

俳優にとって、これは演出家からの最高の誠意だと思う。

そんな彼のその日の言葉は、「パートナーへの愛」

言っている本人さえも、恥ずかしくなってしまっていたけれど、

その日の公演は、彼の言った通り、他者(共演者)への愛に満ち溢れたものとなった。

自分の一言とその日の出来に満足した演出家は、翌日、テレラマ紙のある記事をスタッフ、出演者全員に送ってきた。

その記事のテーマは、”play together”

フランスの演劇史において、古典演劇に対しての現代演劇というと、

テキストの捉え方であったり、斬新な舞台美術ばかりに目がいってしまいがちだが、

本当に変わったのは、「いい俳優」の認識だということ。

つまり、スター俳優という定義が変動しつつあるということなのである。

例えば、日本で「俳優」と聞いたら、テレビドラマや有名な映画に出られることが、成功だとする価値観がまだ残ってるように、

フランスの演劇界にもスター俳優が存在し、

彼らを一目見ようとたくさんの人が劇場に押し寄せた。

では、現在、何をもって、現代演劇が存在するかというと、やはり”play together”の上に成り立っているようにしか思えない。

現代演劇で、一人で目立ってしまうスター俳優は、もう「時代遅れ」らしい。

 

例えば、フランスに来たばかりのこと一番驚いたことは、

一人で受けられるオーディションが極端に少ないということ。

演劇学校の受験課題にしても、舞台のオーディションでも、

必ずといっていいほど、パートナーと準備したシーンを発表することを求められる。

そして、大体の場合、受験者が自分に集中してしまうことで失敗する。

オーディションの形態ひとつとってもわかるように、フランスの現代演劇シーンが求める俳優は、

まず、「自分がしゃべれる」俳優ではなく、「相手を聞く」ことができる俳優なのである。

そもそも、台詞は、聞かないことには、話せないものである。

この当たり前のことが、再現芸術の現場では、至極難しい。

逆に、なぜ稽古をするかというと、本番で、自分の仕事(自分の台詞、きっかけ、動作など)から一切切り離して、自分の外(相手役、観客)にだけ集中するという恐ろしい状態に耐えられるようになるためである。

この状況は、「自分以外」のものに集中する行為なので、何度やっても「恐怖」から解放されることはないのである。

 

このように考えていくと、

一般の人が、俳優に持つ「自分を見せたい」人たちという価値観が少々薄れはしまいだろうか。

現代演劇に求められる俳優は、「他者」を聞ける俳優なのである。

つまり、他者にいかに「開ける」かを求められる人材。

今の世の中の価値観と何も変わらない。

 

私が、近所のおばさんに、「俳優」やっていますと自信を持って言えるかは、

もちろん、自分自身にもかかっている。

それと同時に、「俳優」を育成する過程やリクルートする過程での意識が変わることで、

世の中との歪みも埋まってくる可能性があると感じている。

会社に勤めてる人の中にも、昇進欲求が高い人、最低限の給料でも自分の時間を大切にしたい人、目立ちたい人、隠れたい人がいるように、

俳優をしている人が、一概にエゴが強いとは言えないのである。

 

私は、「俳優」という職業を、自分の「言葉」で、

近所のおばさんにしっかりと説明できるようになるために、

「俳優」というこの謎にあふれた職業を日々考えているだと思う。

 

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100回暴力される演技をしたら人間の精神と身体はどうなるのか?

10月から始まったツアーもそろそろ30公演を超えようとしている。

人間は慣れる、そして、黙っていても勝手に上達する生き物なので、

回数を重ねれば、意図としなくとも作品の回転がスムーズになっていってしまう。

ツアーに入ってから、会場ごとに技術スタッフとの合わせの時間はあっても、稽古の時間は一切なし。

プラスに出るところもあれば、システマティックになってしまい面白くなくなってしまうところもあるので、演出家と共演者との綿密なディスカッションが欠かせない。

そして、この作業が、私は大の苦手である。

自分を振り返ることはまだできるし、共演者にアドバイスしてもらえたらとてもありがたいし、自分が出ているシーンの肥やしになるのだが、相手に対して、自分の意見を言うということがなかなかできない。

おそらく、自分のことを下っ端だと思っていやっているから、他の人に対して対等に意見を言うことを、こころのどこかでおこがましいと思ってしまい避けてしまっているのだと思う。

私たちは、ただいい作品を創るという目的のためだけに、集まってきた人たちなのだから、年の差とか、経験の差とか、一切のヒエラルキーは、なんの役にも立たない。

頭ではわかってはいるものの、いい年して、自分を下っ端にみる症候群が治らない。

例えば、4時間のこの作品の中で、私の山場となるのが、神話をもとに書かれたシーンで、姉の夫に監禁され、暴力とレイプを繰り返され、最終的に、舌をかっ切られるというシーンがある。(ちなみに、このシーンが唯一ホラー映画仕立てになっているだけで、全く暗黒な作品ではありません。)

舌をかっ切られる前に、数分暴力的なシーンが続いて、私も、オウィディウス『変身物語』のオリジナルテキストを叫びながら、ワインの瓶(偽)で、相手の頭を殴ったりする。

ただ、どうしても相方が男性役なので、演技云々の前に彼の方が力が強い。

慣れてくるにしたがって、暴力がフィクションを超えてしまうことがたびたびあった。

私が、すぐに、相手にそのことを言えなかったから、あざができたり、頭を打って脳震盪をおこしかけたりした。

そのあとに続くシーンも演技で泣きながら再登場するところに、本気で身体が痛くて泣いて出て行ったこともあった。

演出家に相談したら、俳優同士の信頼を築く上でも、まずふたりで話したほうがいいと言われた。

話してみて、ちょっとうまく伝わらなかったりしたら、3人で話そう、と言われた。

年上の俳優の人にも、映画と演劇を分けて考えなきゃいけないのは、この部分と言われた。

映画は、一回のカットのために渾身を込めて演じて、迫真に迫る演技が撮れたら成功かもしれない。

ただ、演劇の場合、「再生可能なシステム」を探していくことが俳優の重要な仕事の一部になってくる。

観客が圧倒されるような過激なシーンができたとしても、怪我をしたり、精神的に追い詰められたり、それが、毎日続けられないものだとしたら、そのシーンは、成立していないのと同じ。

相手役の俳優とマイクを付け替えるときにたまたま一緒になって、

勇気を出して、頭が床にあたって、かなり痛いから、そこの部分だけは変更したいと言った。

彼の方としては、そこまで強くやっているつもりがなかったので、びっくりして何回も謝られた。

もちろん、わざと相手役に怪我をさせてやろうなんて思っている俳優なんていない。

ただ、人間だから、いい作品を創るために、限界を超えたくなってしまうものなのだ。

一人で限界を超えるのではなく、チームでしか、限界を超えられないが演劇だと思う。

一人では頑張れないということこそが、俳優の難しいところでもある。

ただ、演出家の言う通り、シーンを調節していくことは、俳優の仕事だと思ったし、やってみたら簡単なことだった。

その次の回で、私は、もうどこも痛くなくて、清々しい気持ちで、休憩中に、身体中に付いた血糊を洗い流していたら、演出家が楽屋に飛んできて、怪我してない!?と言いに来た。

え、全然、順調です。と言ったら、

いやー、信じちゃったなー。って。

 

これが、演劇の力だ。

 

4月から始まるオデオン座での1ヶ月公演にむけて、今から、身体的にも、精神的にも、「再生可能な演技」にどこまで持っていけるかが勝負だ。

 

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ブザンソンの朝。

 

 

 

舞台を仕事にするってことは、極論、親が死んだ日も舞台に立てるかということだ。

新年はプライベートで不幸の嵐に襲われて、

それでも、3箇所のツアー公演を終えて、

ようやく怒涛の1月が終わろうとしている。

そんな中で改めて、日常の生活時間と、舞台上での時間との間を並行する時間について深く考えさせられた。

舞台を仕事にするってことは、極論、親が死んだ日も舞台に立てるかということだ。

(これは、もちろん比喩で、うちの両親は元気です。ごめんなさい。)

日常との切り離し方は、それぞれの俳優に、それぞれの方法があると思う。

本番前には早めに劇場に入って、アップをしながら、日常生活とは異なる集中力を高めていったりするのもひとつだろう。

ただ、日常生活のなかで、フィクションに勝るような強いショックや感情を受けた場合、フィクションとの付き合い方は確実に変化する、と確信した1ヶ月であった。

ここで、上演芸術という媒体の本質に立ち戻る必要性が出てくる。

演劇に必要なのは、

竹中香子という俳優そのものではなくて、

その日その時間、舞台の幕が上がる、その「現在」における竹中香子なのである。

もし、単に竹中香子という俳優が必要ならば、科学と文明の力で、私より優れた俳優を量産することは可能であろう。

しかし、それでも、上演芸術という本質である「現在」というキーワードを辿れば、俳優に求められるものは、俳優自身ではなく、「その瞬間」の俳優なのである。

したがって、自ずと可変性が認められる。むしろ、可変性こそが俳優の存在の魅力になってくる。

小難しいことを書きましたが、すべて、共演者たちに励まされたことです。

そのままでいいんだよって。

もう8月の稽古から、長いあいだ一緒に過ごしてきて、大家族のような関係なので、不幸もシェア。

というか、私は、いいことも悪いこともシェア好きだから、周りの人が鬱陶しがらずに、関わってくれて感謝。

現実で、自分の人生そのものを揺るがすようなショックがあった場合、

それでも、舞台に立たなければいけなくて、

無理に、現実で起きてることを抹消して、公演の時間だけでもプライベートは忘れて、作品に集中しようとしてしまいがちだが、実は逆の可能性もあるんじゃないか。

だって、今日の私は、現実世界で、そのショックをもう生きてしまった私であることは、取り返しのつかない事実なのだから。その状態をあえて肯定して、舞台にあげてみる。

舞台で観客の前で俳優が生きるフィクションと彼らの日常生活のあいだに、境界線をすこしずつなくしていくことが、俳優を仕事にしていくということなのかなと思い始める。

極論、親が死んだ時もその悲しみを丸ごと背負って、その日の舞台に上がることなのかと思い始める。

 

友達のお母さんに、感情は過ぎ去ったと思っても、筋肉に蓄積して残ってしまっている、という話を聞いた。

自分の経験を踏まえて、かなりしっくりくるセオリーで、筋肉にまだ残ってしまっているであろう負の感情を取り除く作業に全身全霊をそそいだ1ヶ月だった。

 

 

とにかく、私が相当ビッグな不幸の経験者として言いたいのは、

いろいろあっても、そんな簡単に舞台で崩れることはないから大丈夫だということ。

少なくとも私は、現実に起きたことが原因でその日の演技が変わってしまう俳優をプロ失格とは思えない。ただ、俳優だったら、マイナスにもプラスにも、その日の自分の状態を舞台上で楽しんでややるくらいの度胸は必要だと思う。

 

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©Guillaume Vincent

 

本番前に、最近カメラに夢中の演出家が撮ってくれた写真。

 

 

ダンサーにとってのバーレッスンは、俳優にとっての何か?

学校を卒業して半年、そろそろ俳優として生活していく上での新しいリズムを見つけていく時期になった。

現在、私は、公共劇場のプロダクションである作品に関わっていて、その公演の本番が、1週間に3日程度地方で行なわれている。

そのほかに、自分が主宰しているプロジェクトがあり、こちらの作品の方を一緒に創っている演出家と年末に話したことが、頭から離れない。

俳優の学校が、俳優に一番教えるべきことは何か?

この問いは、実際に、学校に入って、卒業し、俳優として、一旦社会に出たものに、自ずと突きつけられる問いである。

彼自身、スイスで、演出の学校を卒業し、今は、フランスの国立演劇学校で、演出家として招かれて、学生と作品を創ったりしているのだが、テクニック的なことを教える気はないという。

学校にいる時は、常にやることに追われて、一番理解できないけれど、常に念頭に置いておかなければいけないことは、

卒業後、在学時に過ごしているようなクリエイティブな空間を自分でオーガナイズしない限り、仕事以外で与えられることはないということ。

つまり、仕事がない時間、どのように自分を身体的にも精神的にもトレーニングし続けられるかにかかっているということ。

フランスの国立演劇学校を卒業したあと、一握りの人間は、アンテルミッタンスという国からの補助を受けながら俳優を続けることができる。

ただ、このアンテルミッタンス受給者の場合、日本で俗にいうアルバイト的な仕事をすると次の更新の時のマイナスになるらしいのである。

例えば、職安で仕事を探す時に、レストランやカフェで働くカテゴリーと俳優というカテゴリーが分かれているため、両方を同時に施行することは、不利になるらしい。

ということは、「俳優」を職業として生活しているものにとって、少なからず、「暇」な時間が生まれる。

実際、私の場合、公演日の前後を挟んで週に4日から5日はパリに以内にしても、週に3日から2日は完全に自由な時間が約束される。

2月には、1週間まるまる時間があくときさえある。

この「暇」をどう使うか?

「暇」をどう自分のものにするか?

そこで、演出家に言われたのが、ダンサーにとってのバーレッスンに値するものを、まずそれぞれの俳優が見つけるべきだということ。

本番があるなしにかかわらず、踊るために適切な身体を維持するためのトリーニングが、演じるもののためにもあるはず。

学校在学中に、ひとりひとりが最優先に見つけなければいけないのが「暇」の過ごし方。

私の場合は、いろいろ試したけれど、ヨガは必須。

それに加えて、もともと弱い喉の筋トレ。

あとは、クリエイティブな頭を保つために、3つくらいの場所で、別々の文脈でできた仲間たちと、お題を出してテキストを書きあったり、シーンをつくってみたりということを定期的に始めてみた。

しかし、これは、すべての社会人に共通することだと思うけれど、お金に結びつく活動がありながら、非営利な活動を、しかも、自分のために施すというのは、思ったよりも困難で、強靭な意志を必要とするものであると気づいた。

本番がない時くらいダラダラしていたいけれど、やはり学校にいた時の常にクリエイティブな空間に置かれていた身体と頭が恋しいのである。

私たちの職業に永久雇用はない。

この現実をプレッシャーに感じることなく、気楽に、そして気長に付き合っていくためにはどうしたらいいか。

結局、職業って、それ自体に向いてるか向いてないかは別として、その職業における生活のリズムが自分に向いているかいないか、そのリズムの中で力が発揮できるかできないかだと思う今日この頃。

理系俳優への道。

怒涛の2016年下半期が無事に終わった。

今日が、今年最後の本番。

7月にパリに引っ越してきてから、自分のアパートで寝たのは数えるほどだった。

同じ公演を何回繰り返しても、

俳優と本番前の緊張とは切っても切り離せない関係がある。

逆に、十分に緊張していないと、意識が散漫している感じがして、逆に緊張したりする。

11月に学校でのクリエーションのツアーを終えて、

本格的に学校と離れてから、

理由なき鬱期に突入し、

今まで3年間少しづつ少しづつ積み上げてきた自信が一気に崩壊した。

自信というものが、ここまで確信のないもので、迷信的な存在だとは思わなかった。

理由のある鬱はない。

芥川が、手記の中に書き残している不安のかたちこそが、

鬱の根源であると思う。

”少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。

何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。”

6月に学校を卒業してから、すぐに仕事が始まって、

演出家にも、共演者にも恵まれて、

最高の環境で、クリエーションをして、

新しいアパートに住んで、

家に帰るといつも温かい食事が待っていて、

こんなにぜいたくなことはないと、いつも感謝しながら、

心の底では、全く自分を肯定することができなくなっていた。

いつだって、戦うために必要な涙を流してきたのに、

流れていることさえ気づかないような役立たずの涙が音も立てずに頬を伝った。

俳優にとって、はったりでも、「自分イケてる!」って思えずに、

舞台に立つことは、苦行でしかない。

私の場合、今の作品にも、演出家にも、共演者にも、スタッフにも、心から好意を持っていて、

その中に存在する自分だけに、好意を持つことができなかった。

俳優が、他者からの評価との付き合いかたに注意しなければいけないのはもっともだけど、

私がいつも心がけているのは、

3方向からの評価を決して、混同しないということ。

演出からの評価、

観客からの評価、

そして、自分からの評価。

これら3方向からの評価に向き合っていく、それぞれの姿勢が必要であると思う。

その中でも、最もデリケートで、私の中で重要な場所を占めているのが、

自分からの評価である。

観客に喜んでもらえても、演出家にほめられても、自分自身で納得のできるものができないと、ずっと満足することができなかったい、それでいいと思っていた。

ただ、自分に厳しくあることとか、周りの俳優たちに圧倒されて、自分を下手だと思うこととか、下手すると、なんで自分なんかがこの場所にいるんだろうと疑問に感じることとか、

自分に集中しすぎる態度って、果たして「謙虚」、または、「誠実」と言えるのだろうかという疑問にぶち当たる。

これって、もしかして、逆に「傲慢」??

組織の中での、自分の小ささを嘆いて、縮こまるよりも、

小さな自分だからこそ、

組織に向かって、心も体もひらいていく必要がある。

俳優っていうと、「努力」とか、「鍛錬」とか、

精神論的なものがつきものだけど、

果たして、私たちの仕事ってそんなにミステリアスなのか?

決まった時間に、観客と俳優とスタッフが待ち合わせて、一定時間の間、「物語」が始まる。

その時間に合わせて、必要なピースを整え、パズルを完成させては崩し、また翌日、同じパズルを作り上げていく。
その繰り返し。

そう考えると、実はとっても数学的。

もちろん、人間だから、落ち込む日もあるし、自信がなくなる時だってあるけれど、

それらに対し、感情を表す形容詞を使ったところで、絶対に解決しない。

うまくいかないシーン、もしくは、居心地の悪いシーンがあるならば、

共演者、もしくは、演出家とも話し合い、

再度、稽古の時間をとって、調整していくのみ。

ある作品において、ひとりの俳優だけが、下手ということは、演劇的にほぼありえない。

解釈、もしくは、共演者との間に問題があるだけ。

すべての問いに、答えがある。

どんな難しい数式にも答えがあるように。

ただ、明確な問いがなければ、正しい答えは導き出せない。

 

 

文系と思われがちな「演劇」だからこそ、

舞台の外では、「理系」でクールな「演劇」との付き合い方が必要なのではないか?

俳優が抱える問題は、感情論で押し込めようとするのではなく、

具体的に、まずは、問題をクリアにし、そこから、他者と話し合う。

個人プレイの仕事ではないので、少々めんどくさいけれど、これらのステップを確実に踏む必要があると実感する今日この頃。

「感情」と対峙して仕事をするのは、あくまでも、舞台の上の話。

舞台を支える、舞台の外での土台は、不安定な「感情」抜きに、きっちり数学的に設計していくこと。

そんなこんなで2016年度のツアー終了。

来年はまた年明け、文化都市ナントからスタート。

とりあえずは、ほっと一息。

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