自分に自信がない日の舞台の立ち方。

パリ、オデオン座公演、早3週間終了。

公演前も、公演中も、終演後も、同じコンディションであったことは一度もない。

なんで今日こんな調子がいいのだろう!という日もあれば、

なんて自分はくそ下手なんだと思う日もある。

人生で初めて、5週間、週6公演が幕をあげて、渦中にいる今しか感じることができない喜びと苦しみをメモ。

晴れ舞台という言葉があるように、

どんな「舞台」であれ、「舞台」に立つということは、特別なことである。

その特別が、日常になってしまった時、

俳優は、「舞台」の捉え方を根本から変えることを求められる。

パリ公演が幕をあけ、一週目が終わろうとしていた頃、

ほぼ毎日のペースで送られてくる演出家からの全体メールに書かれていたこと。

 

「繰り返せば繰り返すほど、

もう「細部」にこだわることでしか続けていくことができない。」

 

確かに、演出家からのダメ出しも、俳優本人にしかわからないほど「細部」に介入していく。

作品をよくしていくというよりも、

おそらく、作品の鮮度を保つために、「細部」にこだわる必要があるのだろう。

というのも、この作品、去年の10月に初演を迎え、上演数はすでに60回を越しているのである。

今までやってきたことをなぞった途端に、自分を呪い殺したくなるほどの嫌悪感に見舞われることも多々。

そもそも、週に6回も、自分最高!今日も人前に出るのが楽しみだ!というテンションを持続できるわけがない。

かといって、自分に自信がないまま「舞台」に立っていいものを魅せられるはずもない。

では、自分に自信がない日はどうしたらいいのだろう。

私が3週間考え抜いて出した答えが以下。

 

「自信を持つ」という概念を捨てる。

 

そもそも「自信」というものが何の役に立つのだろうという結論にたどり着いた。

もしくは、「自信」という言葉を、英語でいうコンフィデンス的な、「自信」がある「自信」がないというような文脈で使うのではなく、シンプルに分解して、「自」らを「信」じる、としてみたらどうだろう。

単純に、自分がここまでチームと一緒に作り上げてきたものを信じて、舞台に立つだけ。

 

そもそも、ここまで毎日「自信」が必要な状況下に置かれると、いかに「自信」というものが頼りなく、不確定な存在かということが身にしみてわかってくる。

最後に毎日強固に残り続けるのは、肉体のみ。

20代は、少しづつ少しづつ「自信」を積み上げていくことへの執念だけで続けてきたけど、積み上げたと思った途端に崩れていくいく「自信」にとうとう嫌気がさし始めた。

 

それにしても、経験豊富な先輩俳優をみているとなんと日々「淡々と」していることか。

「淡々と」という言葉の意味を調べてみると、

 

あっさりしているさま。特に言動や態度、人柄などについて、しつこさやこだわりがなく、冷静に事を進める様子。

というように出てくるのだが、私には彼らの態度が、

あくまでも、「淡々と」「こだわっている」ようにしかみえない。

 

そんなことを考えながら、去年のノートを何気なく広げたら、

『劇団四季に学ぶプロとアマの違い』というタイトルの手書きのメモが出てきた。

元劇団四季俳優が、個人のブログに記したプロとアマの11の違いを写したものである。

ここで全文読めます:劇団四季で学んだプロフェッショナルとアマチュアのほんの僅かな違い~生き残る人・消える人~11のポイント

そこに書いたあった11項目目が、最近の私が痛感していたことだった。

 

プロは自分をコントロールし、常に並を保つ。

アマは自分をコントロールできず、常に波がある。

解説

プロは、常に自分と対話をし、自分を客観視しています。

精神的に辛い時でも、今はそういう時だと別の角度から自分を眺めます。

復活するチャンスをうかがい、良い時でも決して奢らず鼻も高くなりません。

モチベーションの振れ幅も少ないです。

アマチュアは、自分を悲劇の主人公のように捉え、常に好不調の波に呑まれています。

自分を客観視できずに被害妄想に陥ったり人のせいにしたりします。

プロとは、まさに、私の憧れる「淡々と」「こだわっている」人たちの姿!

これ以外にも改めて読み直して納得させられることばかり。

「晴れ舞台」を維持するために、必要なのは、

波のある「自信」より、

淡々と常にコントロールをしていく並の精神。

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©Anne Guillaume

とまあ、なんだかんだいっても、

一番大切なのは、

元気な身体のみ。

前日の疲れが残っていたら、

気持ちも暗くなる。

よく食べて、よく寝て、あと2週間!

写真は、ウォーミングアップ中の私。

 

 

 

 

 

俳優、職安へ行く。

先週は、連日の公演に加えて、職業案内所での面接というビックなイベントがあった。

フランスにおいて、俳優として食べていけている人たちに不可欠なのが「Intermittent du spectacle」というシステムである。

一言で説明すれば、技術スタッフを含む、上演芸術に携わる人たちのための失業保険制度、というところでしょうか。

intermittentとは、フランス語で「断続的」の意味。

つまり、ショービジネスにおいて、不定期に契約をとって働いている人たちを支援するシステム。

具体的には、以下のような人たちが、給付の対象となる。

俳優、ダンサー、振付家、演出家など、舞台芸術に携わるアーティスト。

サーカス、大道芸人。

そして、舞台・映画などで音響・照明などを担当する技術スタッフ。

最近知ったのは、映画への出演契約も含まれるということ。

なんとこのシステム、体制の変化はあるものの1936年から続いているらしい。

 

2017年現在では、12ヶ月の間に、507時間以上の契約があることが、「Intermittent du spectacle」申請の条件となっている。

私の場合、昨年6月のモンペリエでの公演の契約の時から、時間数を貯め始めたので、

昨年末には、すでに申請の条件は整っていたのだが、そこで問題になったのが、ビザだった。

Intermittent du spectacleは、就労目的をサポートするシステムなので、学生ビザでは申請することができない。

そこで、まずは、学生ビザから、アーティストビザ(パスポート・タレント)への変更が必要となった。

ビザの更新の際、ビザの種類を変えるのには、時間がかかる上に、アーティストビザに関しては、書類審査のようなもので、申請が通らないことも多々。

私の場合は、昨年7月に申請をして、なんと、待つこと9ヶ月!

4月の頭にようやく、ビザが発行された。

 

早速、ビザを片手に、職業案内所(Pôle emploie)のサイトへ。

まず、衝撃だったのが、希望職種の欄に「俳優」という欄が存在するということ。

そこから、その人の「俳優」という職探しのために、適性と能力を測る。

職業に対する希望を答える欄も含めると、

質問の数は50個近くに及ぶ。

中には、「台詞を覚えることができる」「声の色を変えることができる」なんていう項目が存在する。

これらの質問に答えた後に、507時間以上の契約を、公演ごとに入力していく。

フランス人の俳優に助けてもらいながら、かかった時間およそ90分。

めでたく、パリ市内の自分の住んでいる地区にある職安の面接の予約を取り付ける。

不景気のヨーロッパで職安ほど、混んでいる場所はないと言われるが、

案の定、予約が取れたのは約1ヶ月後。

 

現在の現場で、15人俳優がいるのだが、まだintermittentを取得できていないのは、私だけ。

ということで、職安に面接に行くうえでの、アドバイスがあるかと彼らにきいたところ、あまり高級な服は避けるようにと言われる。

一方、スタッフには、一応「俳優」として職安に行くんだから、あんまりみすぼらしい格好は良くないと言われる。

悩んだ末、中間をとって、やたらスポーティーな格好で行くことに。

 

初めての職安は、明るくて、綺麗で、予想外に感じがいい。

予約を取らずに、並んでいる人の長蛇の列には、やはり移民系の人が多い。

私は、個室に案内され、職安に登録することで、これからは、失業者として認定されることを説明される。

フランスにおける失業者の心得。

– 1ヶ月以上、バカンスに出る場合、もしくはフランスを離れる場合は申告する。

– 1ヶ月に一度は必ず、仕事の時間数などを申告する。

– 職安からの呼び出しは最優先する。

– ズルはしない。

以上のことが厳守しろと念をおされる。

ちなみに、フランスには嬉しい失業者割引というものがあって、

学生割引と同じ値段で、美術館、映画、劇場に出入りできる。

つまり、学生が終わった途端に、失業者に認定された私は、ずっと割引料金である。

 

この日、めでたく職安で失業者に認定された私の書類は、

パリ15区にあるintermittent専用の職安に搬送され、次は、そこからのお呼びを待つことになるらしい。

 

アーティスト生活補助金を頂くまでの道は、まだまだ長そうだ。

 

公演は明日から、3週目に突入。

精神的にも、肉体的にも未知の領域。

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フランス語から学ぶ俳優の喉の温め方。

おととい、来週から始まるオデオン座公演に向けて、

予約の取れないボイストレーナーによるプライベートレッスンを、

カンパニーから、俳優15人全員にプレゼントされる。

しかも、レッスン会場は、オデオン座のレッスン室。

スタジオの壁には、モリエールの戯曲の登場人物たちの肖像画が飾られていたりして、入っただけでちょっと感動して泣きそうになる。

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自分の復習のためにも、レッスン内容を紹介。

主に、公演前に毎回行なう、喉と声帯の温め方を学ぶ。

 

まずは、ストロー呼吸。

腹式呼吸のレッスンで、よく「細く」「長く」「一定に」息を吐くと言われるけど、

実際やってみると「細く」「長く」「一定に」息を吐けているのかを自分で判断するのは難しい。

そこで、登場するのが、ストロー。

ストローの先を軽くつまんで、空気の通りを細くして、

息をゆっくりストローから吐ききっていく。

ストローは、フランスでは割と一般的なトレーニング方法なのか、どこの現場でも、割とストローを使って喉を温めてる人をよく見かける。

 

次は、発展ストロー呼吸。

先ほどと同じ要領で息を吐きながら、ド・ミ・ドのメロディーでハミングする。

徐々に音階を上げていく。

ここでは音を出すというよりも、身体に小さな振動を響かせていくイメージ。

ストローを持ってない方の手で、ストローの先から、息が一定に出つづけているか、最初のうちは確認するといいかも。

 

お次は「ヴ」呼吸。

日本語には存在しないVの音が、実は発声にはとても効果的。

上の歯が軽く下唇に触れてる状態で発声する「ヴ」。

必然的に、息を吐き続けることを意識しながら、声(音)を出すことになるので、結果的に、一番喉に負担のかからない理想的な状態となる。

こちらも、先ほどと同じで、ド・ミ・ドのメロディーで行なう。

身体も一緒にほぐしていくため、「ミ」の時に、膝をまげて、一旦下まで上半身ごと下がって、また立っている状態に戻ってくる。

音程が変わっても、呼吸はストロー呼吸と同じ要領で一定を保つように。

 

ここからは、主にフランス語を発声するために必要な口の中の空間を作っていく作業。

ただ、大は小を兼ねるので、日本語の発声にも絶対有効なはず。

大は小を兼ねるというのは、

そもそも日本語は、水平的言語であり、広角を横にひっぱる動きが多い。

よって、口の中に大きな空間がなくても、割ときっちりと発音することは可能。

それに対して、フランス語は、前後、上下の言語。

唇の前後に加えて、広角を上下に広げる動きが多い。

つまり、日本語にあまり必要とされない、あごを下に下げて、口内に空間をつくるということが重要になってくる。

5年間、めちゃめちゃお金のかかっている私のフランス語の発音でも、

録音して聞いてみると、その違いは明らかで、なんだかべちゃっとした印象が残るフランス語である。

 

鼻濁音でガンガンガンガンガン。

鼻濁音で丸み帯びた「ガン」のおとで、ド・レ・ミ・レ・ドの音階で喉の奥を広げていく。

あごを動かして音を出すのではなく、

少し下げた状態で、両手で軽く押さえてストッパーをかけ、

喉の奥だけで、ガンガンガンガンガン♪と音を出していく。

うまくいくと頬骨のあたりがよく響く。

 

お次は、ガンの時の喉の空間を保ったまま、

フランス語のイエスの発音。

oui oui oui oui oui ♪

日本語の「ウイ」よりも、ウで唇を前に突き出し、イで後方に引く。

平面の感覚ではなく、前後・上下・左右と3Dの感覚を持つ。

 

最後の仕上げで、「ヴ」発声。

「ヴ」呼吸と同じ要領で、

ド・ミ・ドの二音目、つまり、ミの途中から「オ」に切り替える。

ヴー・ヴオー・オー♪

 

この時に声は、首の後ろから、頭のてっぺんを通って自分の前方に進んでいくイメージ。

 

この過程を通ってから、フランス語の台詞を言うだけで、

口の中も、体全体も、

2倍くらい空間ができた感じ。

前後、特に後ろ、

そして、上下、特に上の感覚を持つのが、

日本人の身体感覚的には苦手かなという印象。

西洋人にしてみれば、「腹(ハラ)」の感覚とか、「地(下半身)」の感覚が弱いわけだから、

それは、お互い様。

ただ、最初っから持ってない部分は訓練して持っていけるようになっていけばいいだけ。

 

欲をいえば、もうちょっと早くこのレッスンしてほしかったなあ、と心の中で思いつつ、

もう一生入れないかもしれない、

オデオン座の関係者以外立ち入り禁止ゾーンを後にしました。

 

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さて、楽屋の中で、ストロー片手に、訓練、訓練。

 

 

 

 

 

演劇を「再現」芸術から、「更新」芸術に移行中。

おそらくこのブログの中でも、

演劇について最も言及してきたことのひとつが、

演劇(舞台芸術)は、「再現」芸術であるという特性である。

ただ、最近、ひとつの作品を何回も上演していていて思うのが、

人間にとって「繰り返す」ということほど、難しいことはないということである。

まさに、日常生活と一緒で、いまいちリズムの変わらない生活が1年も続けば、人間は、このままでいいのだろうか、と不安になる生き物である。

変化のない「繰り返し」には不安がつきもの。

だからこそ、自分の生活に必然的に変化を伴う要因をあえてつくろうとするのかもしれない。

恋愛とか、出産とか、とかとか。

人間は、本質的には、何かに振り回されたい生き物なのかもしれないとさえ考えてしまう。

ことのつまり、「再現」芸術に関わっている人間=俳優も、いくら舞台は生ものとは言え、「再現」することが目的そのものになってしまったら疲弊してしまう。

そこで、最近、友人からおすすめされた、鮨屋のドキュメンタリーをみて感じたのが、

演劇は、「再現」芸術というより、「更新」芸術だったのだということなのである。

ミシュラン3つ星を得た寿司職人、小野二郎さんを追ったドキュメンタリー『Jiro Dreams of Sushi』(邦題:『二郎は鮨の夢を見る』)

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仕事とは何か、職人とは何か、人生とは何か。

名言と名場面のみで構成されているとしか言えない素晴らしいドキュメンタリーの中で、何故か私の頭に焼き付いたのは、息子の禎一さんが、築地に自転車で魚を買いに行く場面だった。

寿司を握る技術の前に、

いい魚を毎日手に入れることができなかったら、

美味しい寿司はできないのだ。

毎日毎日、寿司ネタを「更新」することなしには、

「再現」「繰り返し」は成り立たないのだと思った。

そして、その姿が良質な舞台芸術の舞台裏と重なって、「再現」という定義にに安住しかけていた私のお尻をひっぱたかれた気持ちになった。

 

再現、つまり、「re-produire」 から、更新、つまり、「re-nouveler」 に意識を移行させること。

再現のモチベーションが、「忠誠」だとするならば、更新のモチベーションは、「向上」といったところだろうか。

同じことを繰り返すなかで、少しでも少しでもいいものをつくりたい、一歩でも先に行きたいと探し続ける態度が「更新」なのではないかと、ひとつの作品を50回近く公演してきて、ようやく気づいた。

そして、この変化の中で、来月から週6日5週間にわたる、恐怖でしかなかったパリ公演が少しだけ楽しみになった。

 

さてさて、今シーズンの地方公演は、今日でひと段落。

来シーズンと再来シーズンのツアーも、無事に決まりました。

いかに、「更新」芸術に携われる人間になれるか、

今日も昨日よりいいものをつくるだけだ。

 

いい俳優は舞台の外でも輝いているか。

心療内科大国フランス。

実際に日常生活を普通に遅れている人たちの中で、心理カウンセリングを定期的に受診している人たちが日本に比べて、圧倒的に多い。

アート業界となればなおさら。

例えば、俳優同士でも、地方公演の行き帰りの電車の中で、必ずと言っていいほど話題に出てくるのが、この心理カウンセリングなのである。

カウンセリングを受けるということは、日本の感覚では、精神的に脆弱な人というイメージがまだあるように感じるが、フランスではその反対。

自分と向き合う姿勢がある勇敢な人、そんな印象さえ受ける。

俳優業界でも、カウンセリングを定期的に受診している人は、私の知っている限りでも非常に多く、ごく自然な、生活の一部として受け止められているようだ。

スポーツ選手にメンタルトレーナーがつくように、俳優という職業にも、精神面をサポートしてくれる存在が必要なのかもしれない。

 

今、私が関わっている仕事は、まさに、「憧れ」の人たちで構成されている。

フランスに来たばかりの頃から、

「憧れ」の演出家に、「憧れ」の女優、そして、この現場で出会ってから「憧れ」を抱くようになった共演者たち。

こんなに恵まれたことはないのかもしれないが、正直、自分が今までこつこつと積み上げてきた自信を完全に崩壊したのも、この現場である。

5年前から、数々の舞台で観てきたある「憧れ」の女優は、

いつでも輝いている。

公演中はもちろんのこと、本番前、ストレッチ中、食事中、終演後、楽屋、カフェ、などなど。

とにかく、彼女の周りには、笑い声が絶えないし、人が集まってくる。

そして、何しろ、彼女は、最高の「女優」である。

このような人間を目の当たりにしていると、仕事とプライベートの境がどんどんつかなくなってくる。

舞台の外での、その人の人間性そのものが、いい俳優かどうかを計るものさしになっている気がして仕方がない。

社交性に欠ける私は、俳優としてやっていけないのではないか。

話が面白くなかったら、俳優としてやっていけないのではないか。

つまらないことだとはわかっていても、舞台の上でも、外でも輝き続ける「いい俳優」たちを目の当たりにしていると、自分のプライベートまで自己批判をして、落ち込んでしまう時がある。

 

カウンセリングでは、

自分の中の自分の「場所(ポジショニング)」を探すことを目的に、

カウンセラーと話をしていく。

 

自分が所属する様々なコミュニティーにおける自分のポジションではなく、

自分という存在の中にあける、自分のポジション。

外部からの様々な影響で、無意識に形成されてしまった自分の理想や、観念の外にある、

自分の内に広がる宇宙の中での、自分のポジションを探していく作業。

 

正直、自分のことが好きじゃない日に、舞台に立つことは辛い。

自分が輝いていない日に、人前に立つなんて考えただけでも、ぞっとする。

でも、その「輝き」って、なんだろう。

キラキラした笑顔で、周りに元気を与えられる人?

面白い話で、周りを沸かせることができる人?

俳優が「輝いて」いなきゃいけない理由なんてある?

 

そもそも、俳優への褒め言葉として使われる「華(花)がある」という言葉は、

世界最古の演劇論集と言われている『風姿花伝』から来ているそうだが、その「花」の定義の中でも、究極のものは、年とともに外見の「花」(輝き)がなくなり、それでもなお、演技の力で観客を感動させる俳優を「花の中の花」といったらしい。

つまり、私みたいな若造が、舞台の上の輝きだの、舞台の外の輝きなどを求めるのは、いわば論外ということか。

 

80歳、90歳まで、ひとつのことをやり続けた「職人」と言われる人たちが、自分の「職」を語るときにこぼれる笑顔に、おそらく答えがある。

 

そんな「輝き」だったら、信じられる。

そんな「輝き」を持っている人の演技は素晴らしいに決まっている。

 

いい俳優は舞台の外でも輝いているか。

その答えを知るのは、あと40年は先かしら。

 

 

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パリ公演のポスターをメトロで発見。

来月中旬から1ヶ月間、闘ってきます。

Songes et Métamorphoses/une création de Guillaume Vincent