コンテンポラリーダンスって何?? (アビニョン演劇祭通信vol.7)

昨日は、振付家そして造形作家でもある
クリスチャン・リゾ CHRISTIAN RIZZOの『Sakinan Göze Çöp Batar』というダンスを観てきました。
http://http://www.festival-avignon.com/fr/Spectacle/3386
私は踊れないのに、大の「コンテンポラリーダンス」好きで、
とりあえず、前知識なしに、
行ってみました。
Kerem Gelebekというダンサーのソロで、
舞踏の室伏鴻さんとも、仕事をしたことがある方だそうです。
50分間、
割とスローテンポな動きが続き、
ノイズ的な音楽がアンニュイな雰囲気を醸し出し、
板や、リュックサック、小石、本の束、などなど、
何かのメタファであるだろうオブジェが徐々に舞台上に増えていき、
終演。
正直、何もわかりませんでした。
久しぶりに、こんな「コンテンポラリーダンス」っぽい、
「コンテンポラリーダンス」を観たな…、と思い、
ふと、私にとって、
「コンテンポラリーダンス」ってなんだっけ?
と思い返してみました。
今からさかのぼること7年!!
2005年の1月に革命的な出来事がありました。
桜美林パフォーミングアーツプログラムvol.25
『Cats and Dogs』
http://http://www.kisanuki.jp/news/cats.html
ダンサー、そして、桜美林大学の教授でもある木佐貫邦子先生の振り付けで、
今は、もう桜美林を卒業して各地で活躍されている、
超豪華キャスト。
この公演が私にとって、はじめての「コンテンポラリーダンス」の公演で、
まさに、度肝を抜かれました。
一言でいってしまえば、
「感動した」で終わってしまうのですが、
理由のない感動というものを味わったのが生まれてはじめてで、
頭でも、心でもなく、
反射的に、
内臓がえらく興奮したらしく、動きまくっている。
公演後、
考えてみてもやっぱり意味はわからないし、
言葉にできないからそのときの状況を説明することすら出来ない。
まさしく、
あのときあの場所でしか、
起こらなかったカタルシスによって、
それが、たまたま「コンテンポラリーダンス」と呼ばれているものらしかったので、
私は、「コンテンポラリーダンス」の虜になりました。
1つだけ、私の中で決定的だった今まで観て来たダンスとの違いは、
ダンサーの顔が見えたこと。
ユニゾンで踊るシーンでも、
ダンサーひとりひとりがしっかり認識できたことが、
ひどく物語的で、
leaf.jpg
小さい頃、母とお芝居を観に行った帰りに、
どの役の人が一番好きだったか、
を質問し合ったことを思い出しました。
それぞれが、
それぞれの身体を通して、
それぞれのフィクションを作り上げる。
そこから生まれる、
プロットのない物語は、
何もないだだっ広い舞台の上で、
ぞっとするほど美しかった。
いつのまにか、
「コンテンポラリーダンス」を観すぎて、
「理解できない」ことにも慣れてしまいました。
「コンテンポラリーダンス」に限らず、
コンセプチュアルな作品全体に言えることだと思いますが、
きっと、「難しい本」と一緒。
今、24歳の私、竹中香子にはわからなかった。
10年後に読み返してみたら、もしかしたら面白いかも。
でも、それが出来ないのが舞台芸術の
とても不毛で、
すこし虚しくて、
だからこそ、
いい作品に出会えたときの「プレミア」の力は、
世界を変える!

ダンス:Raimund Hoghe『Pas de Deux』

先週観たダンスについて。
「いい」作品とは、
大きく分けて2種類のものがあると思う。
一つは、
その場に居合わせた人全員を満足させてしまうほど圧倒的なもの。
そして、もう一つは、
社会に認められなくても、
たった一人の人生を変えてしまう可能性を孕んでいるもの。
パリの秋のフェスティバルのプログラム作品、
レイモンド・ホーゲの『パ・ド・ドゥ』
男性二人のダンサーによる、2時間にわたるスペクタクル。
http://http://www.theatredelacite.com/#/spectacle/218675/raimund-hoghe
きっと、この作品は、後者だと思う。
なんと、共演者は、Takashi Uenoさんと日本人。
HogheRosaFrank350.jpg
Raimund Hoghe氏は、1980年から1990年までの10年間、
ピナ・バウシュのウッパータール舞踊団にて、
ドラマツルギーをつとめていました。
以後、自らの作品を年に一回ペースで発表し続けています。
http://www.raimundhoghe.com/index.html
raimund_hoghe_3.jpg
この写真でもわかるように、
彼は、背中に大きなこぶがあります。
この、自分の身体のと向き合うところが、
彼のダンスの出発点だったそうです。
タイトルの『パ・ド・ドゥ』とは、日本語で「2人のステップ」という意味。
バレエ作品において、通常、男女二人によって展開されるダンスのこと。
ちなみに、同性二人で、踊る場合は「デュエット」といい、区別されている様です。
今回は、もちろん、男性二人によるデュオ。
今作品のすべての出発点は、
前作で共演した、Takashi Uenoさんと出会ったことだそうです。
前作を観ていた友人が、
前作ではそんなに目立ってなかったけどなあ、と話していたけど、
作品が始まったら、
どうして、彼が選ばれたのか、
一瞬にしてわかりました。
全体を通して、ゆったりとした動き、日常的な動きが続き、
派手なテクニックを要するような「ダンス」は、
ほぼ見られませんが、
二人の間の信頼関係が、もうにじみ出て、溢れ出て、
私は、心地よくもぐったり疲れてしまいました。
例えば、冒頭、
Takashi Uenoさんが、舞台の後方に向かって、
ゆっくりゆっくり歩いて行くシーンがあるのですが、
この振付に対する、
疑念とか、不信とか、そういったものが一切ない。
そんなの当たり前だと思うかもしれませんが、
こんなに目に見えてしまうくらいの振付家に対する信頼、
そして、彼の身体のために作られた振り付け。
これらが、時間とともに、
どんどん空間を浄化していく。
浄化(カタルシス)というと、
アリストテレスは悲劇の効果のひとつとして言及したことで有名ですが、
フランスの詩学では、
これは、「おそれとあわれみ」によって、観客にもたらされる効果とされているそうです。
「おそれとあわれみ」、
これは、今回の作品に当てはまると思う。
なぜなら、決して「共有」ではないから。
舞台芸術作品の提示の方法として、
その場、その瞬間に立ち会ったと実感できるものと、
見ては行けないものを、覗いてしまったと実感してしまうものに、
分けれるとしたら、
絶対に、後者。
カタルシスを伴うほど、神聖なものは、
もはや、人に見せるために作られたのかどうかさえ、
疑ってしまう。
そして、このような、
決して万人受けするとは言えない作品を、
自信を持って、
毎年フェスティバルに呼んでいるフランスには、
やはり頭が下がる。
こういう作品のために、
「作品」と「観客」の橋渡しをする、
「プロデューサー」という仕事があるんだな、とつくづく思いました。