『ほったらかしの領域』:教師は「教えるべきこと」について、「すでに知っているはず」の存在か。

先週日曜日2020年M1が終わった。

M-1グランプリ』は吉本興業が主宰する漫才の日本一を決める大会である。

私はすべての大会を見届けてきているが、

今年は、教職研修の真っ只中ということもあり、

漫才よりも審査員の方により目がいってしまった。

まず、審査員が現役の「芸人」であるかということが重要なポイントになってくる。

若手芸人は漫才にしてもコントにしても、みんな「ネタ」をつくり、舞台に立ちながら芸を磨き、M1やキングオブコントのような、いわゆる「賞レース」に参加する。

「賞レース」はテレビで放映されるため、ここで結果が残せれば「芸人の人生が変わる」と言われている。

テレビに出演する仕事が増えるからである。

テレビ番組で面白いことをいうことと、劇場で観客の前で「芸」をすること。

このふたつは、違う種類の専門性を伴う仕事であるように感じる。

このメカニズムを演劇に置き換えれば、劇場で舞台俳優として「芸」を磨き、テレビドラマに出演が決まる、

という、「今までやってきたこととは別のアウトプット方法を求められる」キャリアアップなのかもしれない。

今回のM1審査員のなかで、漫才の舞台に立ち続けることに関して「現役」であったのは、「オール阪神・巨人」のオール巨人師匠である。

この人の立ち振る舞いから学ぶことが非常に多かった。

まず、若手の漫才をとにかく観ているということ。

ほぼ無名に近い若手芸人の過去の芸風や、作品まで、非常に詳しい。

また、他の審査員が無名の若手を「ツッコミの方」「ボケの方」と呼ぶときも、オール巨人師匠は、絶対に名前で呼ぶ。

「お笑い賞レース」という、審査員と参加者の間に、すでにヒエラルキーが存在する場所で、「人を名前で呼ぶ」という当たり前のことから感じられる敬意は計り知れない。

また点数の付け方も的確で、全く「テレビ用」ではなかった。オール巨人師匠が「学びのプロセス」の中に身をおいているということが、発言の端々から感じ取れた。

作品を観る、名前と顔を覚える。

このふたつは、自分が「現役」であり続けるためにもお手本にしたい。

フランスの演劇教育者国家資格取得のための研修では、

とにかく、教育者でありながら、演劇に関わるアーティストとして「現役」であることの重要性を強調される。

演劇教育に関する考察という論文の課題でも、自身の「現役」としての活動と結びつけた、演劇教育を考案することを求められる。

私が生徒さんたちと過ごした日々を振り返ると、教育者が「現役」でいることの意味とは、

「教師は教えるべきことについて、すでに知っているはずの存在である」という当たり前を疑うという点にあると思う。

「現役」である限り、どんなに生徒たちより経験と知識があっても、芸に対して、すでにすべて知っているということは、ありえない。

「現役」とは、日々、悩んだり模索したり、恐怖を感じたり、失敗したりしながら、芸を磨いている「過程」にいる人のことである。

その「現役」の言語感でもって、確信ではなく、疑いを持ちながら、生徒に言葉を伝えていく。それは、正解ではなく「過程」を教えているとも言える。

こんなお笑い大好きな私が、木村覚さんの『笑いの哲学』(講談社選書メチエ,2020) を読みながら、再度「笑い」について勉強していたとき、

まさに生徒さんたちに伝えたい、うつ治療で有名なデビッド・D・バーンズ氏の「レッテル貼り」の危険性に関する文章が引用されていた。

レッテル貼りは自己破壊的であるばかりでなく、不合理な考え方です。あなたの自己はあなたの行為と決して同一ではありません。人間の考え、感情、行動は常に変わっていきます。言い換えれば、あなたは銅像ではなく、川の流れなのです。

私たちは、「銅像ではなく、川の流れ」。

今日確信していた考えや体感が、明日になったら、180度かわっているかもしれない。

教師という「権威」をもつ立場になっても、この「非確実性」しっかりと認められることが重要。

私たちは、「川の流れ」の中にいるのだから、変化して当たり前。

このように考えていくと、教師は教えるべきことについて、すでに知っているはずの存在でなくてもいいんじゃん?と私は考える。

教師が、自分の「現役」として日々感じる「困難」を自覚することこそが、流動的でクリエイティブな場をつくってくれるのかも。

私も外国人として非常に悩まされた「教師は生徒の前でどう振る舞うべきか」という問いに、「現役」として答えたい。

『ほったらかしの領域』合宿メンバー募集は、本日23時59分にて締め切らせていただきます。

たくさんに方に興味を持っていただき、とても嬉しく思っています。以下詳細 ↓

https://mill-co-run.com/2020/12/14/%e3%80%8e%e3%81%bb%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%82%89%e3%81%8b%e3%81%97%e3%81%ae%e9%a0%98%e5%9f%9f%e3%80%8f%e5%90%88%e5%ae%bf%e5%8f%82%e5%8a%a0%e3%83%a1%e3%83%b3%e3%83%90%e3%83%bc%e5%8b%9f%e9%9b%86%e4%b8%ad/?fbclid=IwAR3LapoySrG3eM4rsf_q3dMmVhaTRfL4WntBtaOvHulXIXo507kJjSYC89Y

『ほったらかしの領域』:舞台芸術におけるフィードバックの重要性

フランスでコロナ第2波ロックダウン中の演劇の実習クラスで、

絶対守らないといけない超めんどくさいお約束がいくつかあった。

1. マスクの着用義務。

2. 生徒同士、及び教師ともに、身体に触らない。

3. 小道具はなるべく共有しない。止むを得ない場合は、アルコール消毒をする。

4. ひとクラスの人数は、教師、生徒、見学者(実習のため)含め10人以内にすること。

今考えるとこれらのお約束を守りながら、よく実習を行ったと思う。

生徒とやりたかったエクササイズやゲームなど、私は身体を扱うものを得意としていたので、泣く泣く諦めたことも、マスクを着用したまま、大きな声で長時間しゃべって、生徒さんの前で酸欠になってしまったこともあった。

こまめにアルコール消毒をしていたり、即興でも身体の接触は意識して避けていたりと、生徒たちの中に、明らかにコロナに対する緊迫した空気はあった。

それもそのはず、私たちが実習していたサンテティエンヌのコンセルヴァトワールの演劇クラス担任がコロナ陽性になり、生徒さんたちにも、実習生の私たちにも、保健所から濃厚接触の通知が届き、1週間は自宅隔離で過ごすという時間があったからである。

それまではコロナをそこまで身近に感じてなかったため、マスクも途中で外したり、真面目にお約束を守っていなかったのだが、この事件以降演劇クラス続行のため、「めんどくさいお約束」厳守を徹底した。

その状況下で、私は演劇クラスにおけるフィードバックの重要性に心奪われていく。

まず、マスクで生徒たちの表情が半分以上見えないというのは、教師にとって非常に不安な状況である。

今、彼らが興味をもって楽しんでくれているのか、疑問をもっているのか、冷めているのか、80%以上の情報がマスクによって阻害される。

また、自分ひとりが2分以上しゃべると息苦しくなるという経験から、いかに、「発言」を分散できないかと考え始めた。「私の分も生徒さんしゃべって」作戦である。

新しい戯曲に着手する時も、こちらが内容を説明するというより、「問い」形式でしゃべることによって、生徒さんたちに「発言」を分散させる。「発言」が分散されればされるほど、彼らの興味の現状把握にも大変有効である。

私はいまだかつて、フランスの教育で重要視されている「フィードバック」というプロセスにそこまで興味をもてないでいた。理由は単純。時間がかかる。そして、自分がそこまでしゃべれない。

自分が演劇学校で過ごした3年間は11人という超少人数クラスであったが、フィードバックを始めると1時間は余裕で超える。話しが盛り上がってしまうと、3時間かかることもざら。

そこまで語学力がなかった私は、フィードバックしてる時間あったら帰って台詞の練習がしたいと常々思っていた。

最近、日本の伝統芸能や武道における「わざ」の研究書(『「わざ」から知る』生田久美子 著)に面白い記述を発見した。

そもそも、「わざ」というものは、「教える」「学ぶ」プロセスとは区別して、「盗む」プロセスであると解釈されていた。そして、「わざ」の特徴として、「模倣」「非段階性」「非透明な評価」があげられていて、日本由来の「わざ」の伝達としては「身体全体でわかっていくわかり方」が基本であったということである。

また、「わざ」に関しての言語の介在方法も非常にユニークである。

「わざ」の習得プロセスにおいて見逃せないのは、そこには特殊な、記述言語、科学言語とはことなる比喩的な表現を用いた「わざ」言語が介在しているという点である。(『「わざ」から知る』p.93 生田久美子 著)

学習者にわかりやすく翻訳するというより、教師の身体のなかの感覚をありのままに表現することによって、学習者の身体のなかにそれと同じ感覚を生じさせる効果を期待するものである。

つまり、「わざ」言語において、発話者は「教える」側に限られる。

私の人生において、伝統芸能を学んだ経験は皆無であるが、学習者側の「沈黙」が私の身体にも植え付けられていたようである。

フィードバックの主役は学習者であり、これが舞台芸術において非常に有効な理由として、舞台芸術が「再現性」を求める芸術媒体だということがあげられる。

今、つかんだ感覚を、もう一度再現する必要があるのは、教師ではなく学習者である。

「わざ」習得における「身体全体でわかっていくわかり方」と西洋的な「言語化する力」を組み合わせたところに、フィードバックの面白さを感じている。

自分が演劇学校でフィードバックの時間に参加していた時は、フランス人は、誰でも人前で自分の感覚を論理的に、普遍性も交えて言葉にするのがうまいなあ、これは、文化の違いだなと、「カルチャーショック」として処理していたのだが、

今回、高校生や20代以下の国立演劇学校受験準備クラスの生徒たちを担当して、フランス人全員が初めから「言語化する力」を持っているわけではないということがわかった。

フィードバックも、筋肉と一緒。やればやるほど上達するものなのである。

実際、私も、語学力の上達だけではなく、フィードバックという環境に何回も何回も身をおくことで、発言する前も心臓がバクバクするということはなくなった。

身体で起こった感覚を言葉にする。

まずは自分のために、そして、他者と共有するために、他者と共有することで、またその感覚がより明確となって、自分の身体に還元されるというサイクルが、理想的なフィードバックでは生まれる。

演劇教育において、私が心掛けていることのひとつに、「演劇はひとりでは学べない、と自覚する」という過程がある。

俳優というと、ひとりで頑張ってスターまでのし上がっていくというイメージが多少ある。

しかし、そういう俳優を育てることは、俳優教育ならありえるのかもしれないが、「演劇」教育ではありえないであろう。

学びの過程で、「他者が必要」だと感じること、「他者ありきの上達」があること、「他者に傾注する面白さ」を感じられることが、非常に重要だと考えている。

毎日日当たりが最高すぎる自宅にて。

自信がなくなる時の6割は生理のせいにしよう。

無事、2ヶ月半に及ぶ教職研修を終了し、パリの自宅に帰宅。

来年からは、めでたく実地での教育実習に駒を進める。

コロナ禍では、日本の自宅でぬくぬくと過ごしていたので、ハードな環境に耐えられるかビクビクしていたが、自分でも自分を褒めてあげたいほどやり切った。

最大限に主観を取り除いて、今回の勝因を確実にふたつあげることができる。

一つ目は、実技でも理論でも、自己紹介、発表、発言、質問は、すべて一番に答えるという謎の目標を立てたこと。

二つ目は、生理がなかったこと。

まあ、なんだかんだフランス演劇生活9年目の功も多少はあると思うが、具体的にあげるなら上記の二つの要因は大きい。

まず、「一番に答える」ということに関して。

おそらく渡仏してから9年の間、言葉の問題もあり、私が、学校のクラスや、創作の現場において、一番に発言するということは、数える程しかなかったと思う。

最初は、質問の内容がわからなかったりして、周りの人の答えを聞きながら理解しようとしていた。

場にそぐわないことをいってしまうことも怖かったので、「言わぬが花」ということで、まわりの反応を伺ってから、自分の意見をいうことが常だった。

わからないことがある時も、他の人全員がわかっているのに、自分が質問したら、みんなの時間の無駄になると思って質問を飲み込んだことも多々。

ただ、今回は、30代の厚かましさからか、「えいや!」と、精神論は抜きにして、具体的に「全部一番に答える」という目標を掲げた。

いつのまにか、週に2回は新しい講師がやってくる環境で、自己紹介はいつも私から。

質問や異議を唱えるのもいつも私。3週間後には、いつのまにか、クラスの「ご意見番」化していた。

数人の先生には、さぞかし「めんどくさい外人」と思われていたことだろうと思う。

「めんどくさい外人」「めんどくさい俳優」上等!

私がめんどくさくあるということは、クラスの学びに貢献しているということでもあるのだ。

(10年前は絶対にこんなふうには考えられなかった)

実際、ある講師と軽く喧嘩になった時、案の定クラスメートにお礼を言われたこともある。

初めてフランスにきた時は、本当にクラスで一番素直で、微笑みを絶やさない真面目な日本人だったな。懐かしい。

そして、二つ目は生理がなかったことに関して。

私は、6ヶ月前から子宮内膜症の薬を服薬していて、排卵を止めているため、生理がない。

子宮内膜症は、現在30代以降の女性に非常に増えている病気で、フランスでは10人に一人が抱えているそう。

子宮内膜症が原因でできる「チョコレート嚢腫」という病気は、

卵巣にできてしまった子宮内膜症が毎月の生理のたびに出血し、

卵巣内に血がたまってしまい、嚢腫ができてしまい、不妊の原因にもなる。

要するに、子宮内膜症というのは「子宮内にあるはずの膜が他のところにできてしまう症状」のこと。

女性の出産時期が遅くなっていることで、人生で生理がやってくる回数が単純に増えているということも原因の一つと言われている。

「チョコレート嚢腫」の場合、治療法として、服薬、もしくは、手術が考えられるが、

服薬の場合、ピルを飲んで排卵を完璧に止める。

フランスでは女性の33%以上が内服しているという低用量ピルの場合、出血期間が短くなり、月経量も減るものの、生理自体はなくならない。

月経痛や月経前症候群(PMS)も軽くなるとはいうものの完全にはなくならない。

しかし、「チョコレート嚢腫」で処方されるピルは完全に排卵及び生理をストップさせる。

生理がなくなってみて初めて、いかに生理に苦しめられてきたかということを思い知った6ヶ月だったのである。

まず、必ずと言っていいほど、月に一回やってきていた理由のない悲しみと自信の低下が訪れない。

もちろん自信がなくなる日や絶望する日があっても、どこを解決すればいいのかがなんとなく分析できるので、割と冷静に対処することができる。

生理痛で、ベットから起き上がれない日もないし、とにかく精神が安定しているのである。

男性はこのように日々過ごしていたのかと思うと、正直、上に立つ人間に圧倒的に男性が多いという現実も納得してしまう。

そして、生理のない生活を体験しなければ、女性は一生、月に一回悲しくなったり無性に自信がなくなったりする原因が生理にあるのだということに気づくことはない。

ただ、自分の能力のせいだと思うだろう。

だから、私は、自分の個人的な話を持ち出しても、女性が理由もなく自信がなくなる時の6割は生理に原因があると伝えたい。

そして、生理、及び問題は、人類存続のためにも、男性と女性が一緒に考えていくべき問題であると切に思う。

前にも、このブログで紹介した『禁断の果実 女性の身体と性のタブー』は本当におすすめ。

『生理中の舞台出演(裸)での愉快な裏話』

https://mill-co-run.com/2019/12/17/%e7%94%9f%e7%90%86%e4%b8%ad%e3%81%ae%e8%88%9e%e5%8f%b0%e5%87%ba%e6%bc%94%ef%bc%88%e8%a3%b8%ef%bc%89%e3%81%a7%e3%81%ae%e6%84%89%e5%bf%ab%e3%81%aa%e8%a3%8f%e8%a9%b1/

子宮内膜症の本で読んで、心にずっと残っていることがある。

生理は大風邪と一緒。大変な風邪を引いたら、みんな家族や職場に伝えて休ませてもらうのに、生理は我慢するものだと思い込んでいる。数日間、血を流しているなんて、身体への負担は大変なもの。職場にいうのは、さすがに難しくても、しっかりと家族やパートナーには伝えること。そして、気遣ってもらって当たり前のこと。

私は「生理がない」を経験したことで、「生理」が身体や精神に及ぼす影響を身を持って知ったので、少しでも、生理のせいにして、気持ちが軽くなる人が増えたらいいなと思う。

初めてフランスで性について扱った作品を作ったのも生理だった。

初音ミクの「女の子には生理があるの歌」で、生理のダンスを作って発表した。

女の子に生理があるのは
いらない卵子を外部に出すため♪
男の子の精子が飛び出す
子どもにつながる受精卵〜♪

もっともっと生理について気軽に話せる世の中がやってきますように!

念願のハラスメントに関する実技授業をフランスの若者たちへ!!

私はこの15年間、自分でも問題にしてこなかったけど、フランスに旅立つ前、創作現場で壮絶なパワハラを受けた可能性がある。

そもそもハラスメントには2種類あると思っていて、

双方に原因がある場合と、片方だけに原因がある場合である。

私の場合は、あきらかに前者だったので、今でも、ハラスメントをうけた「可能性がある」というぐらいにしか言えない。

当時、自分の俳優としての態度にも相当問題があったし、俳優とは演出家に言われたことを「実行に移す」人のことだと思っていた。

そもそも創作という「プロセス」よりも、本番という「結果」が、常に人と関わることを必要とする演劇という媒体においても、重視されてきたことにも問題がある。

俳優や演出家の「心構え」を変えれば、ハラスメントがなくなるかというと、ことはそんなに簡単ではない。なんとなく、俳優と演出家の関係ってこんなもんだろうと「出来上がってしまっている」関係は、「心構え」なんかで変化するほどやわなものではない。

具体的な「実践」を伴う必要がある。

そこで、私が若者たちに伝えたかったのは、「俳優は常に自分のプロポジション(提案)を持つ」ということである。

自分の「提案」を持つとは具体的にどういうことか。

演出家があれこれ言ってくる前に、自分だったらどう演出するか、自分だったらどう演じるか、自分だったらどう解釈するか、ある程度自分のプロポジションを「持って」リハーサルに出向く。

提案を持つことによって、俳優は圧倒的に、「自分」を守ることができる。

なぜならば、提案には、「私自身 (what I am)」と「私がやっていること (what I do)」を切り離してくれる力を持っているからである。

「私自身 (what I am)」を批判されることは、耐えられない苦痛だが、

「私がやっていること (what I do)」を批判されたなら、「じゃあ、これは?」とめげずに新しい提案をすればいいだけのこと。

このことを、実技クラスで伝えるために、生徒さんたちに宿題を出した。

一つ前のクラスで「戯曲(舞台空間)において『女性』が発言するということ」というテーマで授業をしたのが、その中で扱ったスキャンダラスなさまざまな女性モノローグから、好きなテキストを選んでもらい、そのテキストを自分が演じるならどういう提案をするかを考えてきてもらった。

男子生徒たちは、自分が男性として、女性のモノローグを演じるならというところまで言及して準備してきた。

なによりも、自分たちが考えてきた演出プランを語るときの生徒の目の輝きが忘れられない。

ひとりの生徒が持ってきた提案をもちいて、みんなで「創作」をしてみた。

最初は、私に「答え」や「評価」をもとめていた生徒たちも、私が、「んーん、どうだろう。わたしもわからない。だれかわかる人いる?」を繰り返していたら、自分たちで、さまざまな「提案」をだしてきて、全部やってみながら、適切な「提案」を探して行った。

ハラスメントをなくすということは、演出家が俳優に率直に意見を言えなくなるということではない。

どんな演出や意見を受けても、「私自身 (what I am)」が批判されたのではなく、「私がやっていること (what I do)」に意見をいわれたのだなとすんなりわかる環境を構築することであると私は思う。

それは、俳優同士がお互いに意見をいいやすくなる環境にもつながる。

日本の文脈で起きたことに関して、

日本語でずっと考えてきたことを、

フランス語に言語化して、他者に「伝える」という作業は思いの外大変だった。

実習を担当していた先生に言われた言葉:

「教育とは、今まで自分が当たり前にやってきたすべてのことがらを、ひとつひとつ言葉に変換していく作業」

自分が興味があるテーマ、

俳優として感覚で気をつけていること、

コツやカン、

自分がなんとなく大切だと思っていること、

それらすべてに「なぜ?」を突きつけ、言葉にして答えを出していく。

果てしない作業に、絶望しそうになるけど、

生徒さんたちのマスクの下に隠れる笑顔を想像すると嬉しくなっちゃう。

一刻も早く、マスクなしで演劇の授業をさせてくれ、と願う今日この頃。

そして、なんとフランスは12月15日から劇場再開で、去年からツアーしている『千夜一夜物語』最終公演が、12月15日から17日にマスタードの街ディジョンで上演できるとのこと!! 

去年の9月に初演して、コロナに阻まれながらも、1年以上公演した作品の最後。

無事に舞台に立てますように。

芸術観賞教室『視点の学校』

教職研修も後半戦にさしかかった今週の課題は、芸術観賞教室におけるファシリテーションについて。

リヨンから『école des regards(視点の学校)』という名前で活動している、

芸術観賞教室のスペシャリストを招いて、観劇後のディスカッションにおけるファシリテーションについて学ぶ。

小学校中学校を通して、日本で芸術観賞教室をやった記憶があるが、

「芸術作品に触れる」ということが、芸術観賞教室の目的だと思っていた。

『視点の学校』の目的は、「好き・嫌いの感想を超えて、自分の言葉で観賞時に得た感覚を言語化する」ということ。

また、言語化する過程で、「好き・嫌い」という感想が「可変」的なものであると気づくことも大切。

本来なら、演劇作品を観て、そのあと生徒さんたちとディスカッションをするというクラスなのだが、今回はコロナで11月以降に予定されていた観劇がすべて中止になってしまったので、映画観賞で実施。

お題は以下のふたつ。

16年間で44本の映画作品を発表し、37歳の若さでこの世を去った天才、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『不安と魂』(1974)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%AE%89%E3%81%A8%E9%AD%82

近年フランス演劇界でドキュメンタリー演劇作家として注目を集める演出家、モハメッド・エル・カチブ監督作品『Renault 12』(2018)

https://fr.wikipedia.org/wiki/Mohamed_El_Khatib

『不安と魂』は、発表当時カンヌ映画祭で二冠をとり、ファスビンダーの名を一躍有名にした作品。掃除婦として働くドイツ人のおばさんとドイツで外国人労働者として働く若いモロッコ人男性の、歳の差、国際カップルの愛と苦悩の話。

『Renault 12』の方は、モロッコ系フランス人である作家の母が死んだことをきっかけにフランスに暮らす作家が、母との思い出を辿りながら、モロッコまでルノー社の車にのって旅するロードムービー。モロッコに住む作家の家族も登場し、「ドキュメンタリー」を思わせるつくりになっているが、実はシーンによっては俳優や作家自身が「ドキュメンタリー」を演じていたりと謎の多い作品。

今回は6人の研修生が2グループにわかれ、3人ひと組でファシリテーションを行う。今までは、一人で生徒さんたちへのクラスを準備する課題ばかりであったが、ここにきて、共同で準備することの難しさを思い知る。

わたしは、『Renault 12』に配属されたが、生徒さんとのディスカッションが始まる前に、まず、わたしたち3人の扱いたい方向性が全く違うので、その違いをわかり合うことに多大な時間と苦労を要する。

例えば、わたしの日本人でフランスで演劇をしているという立場からこの作品を分析すると、自分の母国(家族がいる国)と自分の働いている国の文化の違いや、多言語での生活とは、というところに焦点を当てたいと思う。

もう一人は、映画にも詳しかったので、「フィクション」「ドキュメンタリー」「ルポルタージュ(報道)」の違いに関して。

さらにもう一人は、家族の死を作品として扱うことに関して。

それぞれの想いを汲み取りながら、私たちが私たちの考えをベラベラ話すのではなく、生徒さんたち自身に語らせるためのさまざまな「問い」を構築していく。

もうひとつ重要なのは、ひとつの作品から派生して、いかに多くの芸術作品を参照するきっかけとなるか。

つまり、ファシリテーターとして、『Renault 12』を新しい視点で考察するきっかけとなるような絵画、映画、演劇、本、美術などから、紹介する。

『Renault 12』に関しては、モハメッド・エル・カチブが、多大なる影響を受けた映画監督アラン・カヴァリエ氏の自分の妻の死に関するドキュメンタリー的作品『Irène』の一部をみんなで鑑賞した。私たちには馴染みのある映画監督でも、15歳近く年の離れた生徒さんたちは、名前も聞いたことがないという。

私は、是枝裕和監督の助監督としても知られる砂田麻美氏の初監督作品『エンディング・ノート』を紹介した。この作品は、末期がんを宣告された砂田氏の実のお父さんが、”エンディングノート”を作成し自らの死に向けての準備を始める姿を追ったドキュメンタリー作品。http://www.bitters.co.jp/endingnote/about/index.html

『Renault 12』では、作家の家族が、「家族を見せ物にするな」と言って、映画に撮られることや、プライベートの生活を暴露されることを嫌悪するというシーンがあるのだが、「エンディング・ノート」は、作家の実の父親の映像作品として、自分の死が残されることへの同意がある。

自分がアーティストとして生きていく上で、さまざまな局面での「家族の同意・不同意」について、生徒さんに考えてほしいと思った。

私自身が、家族とコミュニケーションをとる言語(日本語)では言いにくい(例えば性的なセリフや暴力的なセリフ)も、フランス語では躊躇いなくいえてしまう。フランス語は自分にとって、「フィクション」を扱うための言語なのかもしれない。

という話をしたら、2時間くらいディスカッションにほとんど参加しないで、黙っていたチュニジア人の両親を持つ男の子が、「自分にとっては、家族と話す言葉がチュニジア語だから、フランス語では「親密」なことはなかなか話しにくい」と自分の想いを言葉にしてくれた。

自分の意見を人前でいうことは、誰にとっても難しい。

それでも、安心して自分の気持ちを「言語化」できる「空間」と「問い」と、自分を自身と距離を保つことができるような「材料」を準備してあげることによって、自分の口からはじめて出てきた「言葉」たちと出会えたらいい。

「『ドキュメンタリー』と『ルポルタージュ』の違いはなんだと思う?」の問いに対して、5分くらいひとりであーでもないこーでもないとしゃべっていた女の子が、自分の「答え」にたどり着いて、思わず「やったー!!!!!言えた!」と叫んで、水をごくごく飲んでいる姿がこの日の宝物だった。