私を60分で筋肉痛にさせたクロード・レジについて vol.2

クロード・レジ来日に関する新たな情報を頂けたことと、
自分でも、思い出したことがいくつかあるので、
vol.2を発行したいと思います。
なんと、静岡の演劇祭中に、『Brume de Dieu(神の霧)』上映会があるそうです!!
http://www.spac.or.jp/f13mist.html


この映像でもわかるように、
実際彼は、ため息が出るほど美少年なのですが、
その美しさが、
どんどんどんどん、
瞬く間に、
歪んでいく。
思い出すのは、
キャサリン・ダンの小説『異形の愛』
あい
http://www.amazon.co.jp/異形の愛-キャサリン-ダン/dp/4893422278
見せ物劇団の団長が、妊娠中の妻にあらゆる薬物を投与し、
奇形である<フリーク>の子どもたちを産ませていくおはなし。
型にうまく入らない、
「パッケージ」できない存在は、
極力無視していこうとする最近の世の中で、
どうしても、ごつごつした嫌悪にも似た感情こそが、
幾度となく、
長年に渡って、私を振り向かせようとするのはなぜだろう。
この「異形の美」こそが、
実際、『Brume de Dieu』の上演中に
彼らが浮かび上がらせたもの。
美しいものは、どうやら流行廃りがあって、
入れ替わり立ち代わり去っていくのに、
「異形の美」は、引っ掻き傷をつけていって、
そのときの、カサブタは未だに消えない。
以前、自身のブログでも触れた、
(過去のブログ:私が一番嫌いなエクササイズと演劇における『不確か性』について
私のバイブル、
エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』
(Erika Fischer-Lichte/Ästhetik des Performativen)
4846003280.jpg
http://homepage2.nifty.com/famshibata/
彼女が、この本で、第七章 世界の再魔術化 1「演出」の項で、
「演出」とは、「世界の再魔術化」であると述べています。
(以下引用)
何かが起こり得るような状況を構想すること、
それこそが演出なのだ。(中略)
そこに現れるもの、目に見えないもの、日常のものが目を惹くようになり、
まさに変容して現れること、
そして、他方では、知覚者がその知覚行為の中で、
動きや、光、色、音、匂い等々に、いかに触発され、変容されるかに気づくようにすること、
それらを目指すのが演出なのである。
この意味で演出は、
世界の再魔術化、
そして上演にかかわる者の変容を目指す一つの手続きとしても定義し、説明することができるだろう。
この文章を読むと、
観客としての私に生じた「筋肉痛」が、
いかに、尊く、奇跡に満ちあふれた経験だったかということがわかる。
1952年から現在に至るまで半世紀以上も、
演劇界の頂点に君臨し続け、
それでも、すべてのことがらに「寛容」を持って、こだわり続けてきた
演出家クロード・レジだからこそ、
常に「今」の観客と、
「今」を生き続けられるのだと思う。
トゥールーズでも『Brume de Dieu』公演の前に、
彼が、学生向けに行ったレクチャーのあと、
彼と一緒に仕事をしたことがある友人のあとについて、
私は、片言のフランス語で挨拶した。
まだ、なんの経験もない、
フランス語も満足にしゃべらない私が、
「コンセルバトワールに入って演劇をやります」
と、言ったら、
満面の笑顔で、
「すばらしい」
と、一言。
冬の寒い日の夜に、
誰かが先に入って、
あっためておいてくれた布団の中みたいな柔らかさだったと思う。

私を60分で筋肉痛にさせたクロード・レジについて

静岡で毎年6月に行われている、
国際演劇祭にフランス演劇界の巨匠クロード・レジ(Claude RÉGY)がやってきます。
メーテルランク『室内』
http://www.spac.or.jp/f13interior.html
私のクロード・レジ初体験は、2011年。
『Brume de Dieu』(神様の霧)
http://www.theatregaronne.com/saison.php?idevent=228
この公演のためだけに、
既に初演を観て、人生が変わったと言い張る友人と、
一泊二日でパリからTGVに乗って5時間かけていったトゥールーズのThéâtre Garonne
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なんと、レンヌのThéâtre National Bretagneの学校を卒業したばかりの、
Laurent Cazanave(当時21歳)
一人芝居。
そして、現在24歳にして、
すでにこの経歴。
http://www.laurent.cazanave.com/cv_infos.cfm/305661_laurent_cazanave.html
実は、映画『アメリ』にも出演していて、
最近ではパリ・オペラ座等でも活躍している、
コンテンポラリー・ダンスのAngelin Preljocaj(アンジュラン・プレルジョカージュ)
とも仕事をしているそう。
さらには、自分のカンパニーまで創立。
Compagnie La Passée
ローランの話は、この辺にして『Brume de Dieu』について。
この作品は、ノルウェーの作家Tarjei Vesaasの『Les Oiseaux』(鳥)という作品の抜粋で、
当時、フランス語の出来なかった私は、
正直、全くどういうストーリーなのかわかりませんでした。
後で知ったのですが、
フランス人にとっても、
かなり難解なテキストだった様です。
幸運にも、最前列で観ることが出来たのですが、
余りの熱量に、開演とともに息苦しさを感じ、
そこから60分、ほぼ身動きせずに観劇。
『畏怖』
[名]おそれおののくこと。
敬う気持ちと、
恐れる気持ちは、
紙一重。
昔、私にとっての『畏怖』は、
一緒に住んでいた祖母で、
怖くて、怖くて、
いつのまにか、私が祖母の面倒をみるようになっても、
彼女が亡くなるまで、どんなときも怖かった。
でも、この一見ネガティブな「怖い」という気持ちが、
「優しさ」に対する好意を軽く超えて強い感情だということを
私は知っている。
そして、彼女が私の前から、姿を消した瞬間から、
限りなく「崇高」な存在になった。
レジの作品は、
怖い。
恐怖は、
こんなにも人を不安にさせ、
己の脆さを突きつけてくる。
一言も役者から紡ぎ出る言葉がわからないのに、
彼の発するエネルギーに身体が麻痺して、
動けない。
SPACのサイトにアップされたレジのインタビューを見て、
「わからなかった」ことを、
少し誇りに思った。


翌日の肩から首にかけての痛みは半端なかった。
舞台に出てないのに、
観客の分際で、筋肉痛になってしまいました。
パフォーマンス空間で、
何かが「起こる」
その瞬間に、
傍観者としてではなく、
素材の一部として、居合わせること。
極上の贅沢。

「ゲイシーン」の天才と言われた午後。

ドラマツルギーの授業のエクササイズは、
わりと画期的なもので、
なんと台詞を覚えなくても、
上演を可能にするというもの。
ここで、必要不可欠なのが、
携帯、もしくは、iphoneのボイスレコーダー。
まず、課題の戯曲をその場で発表され、
2人組をつくる。
制限時間は、約30分。
グループごとに、演出プランを考え、
ト書きを作成し、
演技プラン(声の調子など)とともに、
すべてを、ボイスレコーダーに吹き込む。
そして、それを他のグループに渡す。
彼らは、その場で、吹き込まれた指示に従って動き、
聞こえてくる台詞をそのまま追いかけてしゃべる。
本日の課題は、
以前、自身のブログでも扱った、
マリウス・フォン・マイエンブルク『le moche』
過去の記事:http://millcorun.blog.fc2.com/blog-entry-249.html
その中で、私たちが選んだのは、夫婦のシーン。
妻が、気づいていない夫に、
「あなた、相当、醜いわよ。」と伝えるシーン。
普段は、登場人物に関係なく、
女性の録音は女性に、男性の録音は男性にボイスレコーダーを渡していたのですが、
今回は、オプションの課題として、
「性差の逆転」付け加えられました。
私たちのグループは、女子2人だっとので、
妻役も、夫役も男性になるということになります。
2人がベッドの中で、
愛の営みをはじめる直前に、
妻が、「あなた、相当、醜いわよ。」と、
告白するところからスタート。
夫は、一気に冷めますが、妻の興奮は、もうおさまりません。
創作段階では、
あまり最終的に男性2人になることには余りこだわらず、
この状況の設定だけを忠実に守り、
夫の性器に語りかける、
妻をはねのける、などなど
シンプルなト書きを入れながら、
演技を録音していきます。
この録音エクササイズは、
かなり画期的で、一瞬にして役者を究極の集中状態に持っていきます。
頭ではなく、耳から入る情報のみで瞬時に動いていくため、
感情などに働きかけるまでもなく、
外側から勝手に創られていくのです。
まさに、操り人形。
でも、実際、私たちは、操り人形ではないので、
うまくいくと、不思議と内部も埋まっていきます。
私たちの録音を受け取った2人の男性も同様。
男同士なんてことを、頭で考える暇もなく、
「激しくキスをかわす」
という、ト書きを耳から受け取って、
その指示通りに演技を進めていきます。
終わってから、先生は、思わずため息。
そして、一言。
「なんて、美しいの。」
私の録音を渡された妻役の男性の演技があまりにもうまくいっていたため、
「こんなにも、ゲイのシーンを美しく抽出出来たのは、アルモドバルとあなたぐらいよ。」
といわれ、
一同爆笑。
ペドロ・アルモドバルは、スペインの映画監督で、フランスでも大人気のアーティストです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ペドロ・アルモドバル
ちなみに、今フランスで公開されている彼の最新作。
『Les Amants Passagers』


ドラマは、緻密で具体的な状況で起きる。
ふたりが同性か異性かという設定より、
重要なのは、ふたりが愛し合っているのかいないのか、というコンテクスト(文脈)。
このエクササイズにおいて、
最も重要なのは、間接的なコミュニケーション。
自分の頭の中のイメージをどのように正確に伝え、
さらに、
他人の頭の中のイメージをどのように正確に受け取るか。
そして、
他者から発せられる指示、
声のトーン、
演技質、
すべてに、身体をゆだねて、
いつのまにか、遠くにいくこと。
自分から、遠くにいってしまってみること。
とにかく、前半の「演出サイド」にしても、後半の「役者サイド」にしても、
難しくて、なかなかうまくいかないのに、
一度やると、病み付きになるのがこのエクササイズ。
今年一番の、私のドラックです。

「私は、何も知らないということのみ、知っている」by.ソクラテス

As for me, all I know is that I know nothing.
「私は、何も知らないということのみ、知っている」
これは、古代ギリシアの哲学者ソクラテスのことば。
金曜日のドラマツルギーの授業は、
3時間あますところなく、
滝のような知識を浴びせられ、
まさに、このソクラテスの言葉を考えずにはいられない。
テーマは、1月から変わらず「現代ドイツ演劇」なのだが、
そこから、派生していく情報量と言ったら、
完全に世界規模。
そして、毎回メモを取りまくり、
家に帰って、すべてのキーワードをインターネットや本で調べるだけで、
もはや6時間以上かかってしまう。
特に、芸術分野で、日本語に翻訳されている文献は少ないので、
理解するのにも、一苦労。
本日の課題、
80年代のシャウビューネとPeter Stein(ペーター・シュタイン)の仕事。
ちょうど、今、オデオン座で、
ペーター・シュタイン演出の
Eugène Labiche(ウジェーヌ・ラビッシュ)の『Le Prix Matin』が、
公演されています。
http://www.theatre-odeon.eu/fr/2012/11/03/le-prix-martin
ちなみに、ラビッシュとはフランスの喜劇作家で、
生涯でなんと165本もの戯曲を執筆し、
80年にアカデミー・フランセーズの会員に選ばれたすごい人です。
そして、この話題から飛んだのは、
なんとドイツの電子音楽グループ「Kraftwerk」(クラフトワーク)
http://ja.wikipedia.org/wiki/クラフトワーク
2012年にMOMAで8日間に渡る連続ライブを決行した伝説のバンドです。
http://www.moma.org/visit/calendar/exhibitions/1257
その後、1975年に発表された『Radio-Activity』という曲を、
反原発バージョンとして、日本語の歌詞で発表し、
フランスでも、相当話題になったそうです。


以下、歌詞です。
Tschernobyl
Harrisburgh
Sellafield
Hiroshima
Tschernobyl
Harrisburgh
Sellafield
Fukushima
日本でも 放射能 Nihondemo Houshanou
今日も いつまでも kyoumo Itsumademo
福島 放射能 Fukushima Houshanou
空気 水、全て Kuuki Mizu,Subete
今でも 放射能 Imademo Houshanou
今すぐ 止めろ Imasugu Yamero
この動画は、2012年のROCK IN JAPAN FESTIVALの時のもので、
J-WEVEの坂本龍一さんのラジオでも、取り上げられていました。
RADIO SAKAMOTO:
http://www.j-wave.co.jp/original/radiosakamoto/program/120708.htm
先生が、彼らを扱ったのは、
彼らの行為が真に芸術的だったから。
つまり、彼女にとって、
政治的であることこそが、芸術としての存在価値。
社会を通すことで、
初めて本当の職業になる。
社会を知らずに、自由になることはだれでも出来る。
芸術家の仕事は、
きっと、
社会を知った上で、
それでも、自由でいられること。
As for me, all I know is that I know nothing.
1年目のミラクルは終焉を迎え、
2年目のフランス生活は、
全くといっていいほど、
前進を感じることができない。
ほしいのは、時間の尺度を変える力。
明日までの成長なんて、もちろん高がしれている。
5年後、10年後、そして30年後。
人生はそう簡単には終わらない。
逆に、少しでも成果が出たときには、
「運」がよかっただけだと捉えて、
自分が何も知らないということのみを、知り続けること。

強い女の作り方。

誰もが一度は感じたことがある感覚だと思うけど、
感情的な「不在」は、「後悔」に変わることが多い。
なぜなら、一生、自分が「存在」すべきだった場所で流れた時間を感じることは、
もう、決して出来ないから。
ずる休みした日に限って、
教室で、
なにか特別なことが起こったりする。
もしくは、4時間ある授業のうち、1分たりとも得るものがなかったりもする。
もしくは、出席したせいで、1日中ブルーな気分になったりする。
今年に入ってからずっと月曜日のコンセルバトワールの先生と冷戦が続いているので、
小学生みたいだけど、
学校に行くか行かないかの躊躇の時間が半端なく長い。
そして、いやいや学校に行くから、
私のモチベーションは低く、
「冴えない生徒」と化する。
長らくの間、先生の前で作品を発表するのを避けてきたけど、
昨日いろいろ反省したばかりだし、しょうがないから発表しようとしたら、
「お前は、生きているのか?」
と言われた。
死んでいるように思われるって相当だなと思い、
ポール・クローデル『L’échage』を発表。
そして、終わると「悪くない!」と一言。
何をしゃべっているかわかると言われた。
また、発音のことしか言及してもらえないのか、と思いきや、
「発音のことしか言うことがなかったから、発音のことしか言わなかった」
と言われた。
「演劇において、役者は、状況の中でしか存在できない。」
発音がいいとか悪いとかじゃなく、
最低ラインとして、「意味」が伝わらないと、
役者は、もはやそこには存在しない。
つまり、相手役との関係性だったり、シチュエーションだったり、
そこがわかった上で役者が見えてこないと、
どんなにその役者が面白くて芸達者だったとしても、
「演劇」としては成立しない。
なぜなら、一方的なテクニックは、
創る側の「アイデア」でしかないから。
頭に突如ひらめいた「アイデア」は、
まるで輝かしい、飛び級した天才児のようだけど、
彼を彼のまま、扱うのは危険。
「アイデア」は「アイデア」らしく、
謙虚に待機して、
充分に耕してから。
それから、久々の声楽の授業。
出来ないとしっかり自覚していることに関しては、素直。
先生の言われるがままに、声を出していったら、
すごく褒められて私だけ、
発声だけじゃなくて、歌曲まですすめた!
トンマーゾ・ ジョルダーニ作曲のアリエッタ『カーロ・ミオ・ベン』(伊語:Caro mio ben )


次のレッスンまでに、
フランス歌曲かイタリア歌曲を一曲選んでくるように言われた。
音痴な私が、オペラ歌曲に挑戦する日が来るなんて、感激。
締めくくりは、ドラマツルギーの先生に絶対に行け!と言われた映画、
アティク・ラヒミ(Atiq Rahimi)監督のアフガニスタン映画
『Syngué Sabour – Pierre de patience』(シンゲ・サブール、忍耐の石)
か
2008年のゴンクール賞受賞作で、
なんとアティク・ラヒミ著者本人が監督を務めている作品。
白水社から「悲しみを聴く石」(関口涼子訳)というタイトルで2009年に出版されています。
http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=09005
私は、フランス語訳でしか読んでないのですが、
一冊を通して、女性のモノローグのような形式になっていて、
とても演劇的。

ゴルシフテ・ファラハニ(Golshifteh Farahani)によって演じられた主人公の女性像は、
強く、そして、美しい。
過酷な環境や、彼女を取り巻く男性との関係が、
彼女を強く、そして、美しくしたのではなく、
やはり、
物語の中の女性が、
そして、
彼女を演じる女優が、
強くありたいと、そう強く望んだから、
この映画のラストの極上のカットが存在するのだと思う。
映画界にこんなにも美人な女優たちが溢れているのに、
彼女たちと同じ「女」という性に生まれてよかったな、
と思えるまでの作品に出会えることって、なかなかない。
強い女の作り方。
他者の評価を介してではなく、
自分自身で自分に評価を下せること。
そして、
守られることよりも、
守るものを持つこと。
余談ですが、
実際一番苦しいときに、
助けてくれるのは、
you tubeの「情熱大陸」と、
いまだに尊敬しているマツコ・デラックスの動画です。