SPAC『マハーバーラタ 〜ナラ王の冒険〜』アビニョン公演に関する私の見解

今から、書こうとしていることは、
とてもデリケートで、
正直すこし怖い。
桜美林大学在学中に、
ダンスの授業で、
木佐貫邦子先生から学んだストレッチを、
かれこれ、8年も続けているのだけれど、
3年経った頃から、
お見事、
「やらないと気持ち悪い」という感覚が訪れた。
努力を習慣にできたら、
こっちのものだ、
と思う。
そして、
このたわいもないブログも、
5年間続けてきて、
ようやく、
「書く」という作業に、
このような感覚の兆候が現れている。
頭が、欲しているのではなく、
身体が、欲している感覚。
身体の欲望は、
自然に最も近い。
身体がほしいものを、
しっかり気づいてあげられるように、
背伸びする装飾物は、
極力排除するようにしている。
そんな、
私の身体で感じた、
SPAC『マハーバーラタ 〜ナラ王の冒険〜』アビニョン公演を、
書いてみようと思う。
http://www.festival-avignon.com/fr/spectacles/2014/mahabharatanalacharitam
悪天候に見舞われて、
中止になった初日。
慌てて、チケットを変更してもらい、
翌日に予約。
バスに乗って、
20分強、
『ライオン・キング』のような、
道と大きすぎる夕焼けをみながら、
Carrière de Boulbon(ブルボン石切場)に到着。
アビニョン演劇祭は、
まさに、
歴史的空間と、
アーティストがどう対峙するかを常に求められている。
ほとんどの会場が、
歴史的建造物の中庭に仮設された野外会場。
中でも、
このCarrière de Boulbonと、
carriereeee.jpg
Palais des Papes(アヴィニョン教皇庁)の会場は、
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別格。
世界中の人が、
「演劇」を求めて集結する、
このアビニョン演劇祭で、
日本人である私が、
同じ日本人であるこの作品を、
限りなくインターナショナルな観客の中で、
観れたことを、
心から誇りに思う。
何はともあれ、
私は、作品の内容を、
自分と作品のコンテクストが上回ってしまう作品に、
何よりも興奮する。
そして、7月12日、
失業保険制度改正に反対するストライキにより、
INのほぼすべての公演が中止となりました。
そこで、
SPACのメンバーは、
アヴィニョン法王庁前の広場で、
パフォーマンスを決行。
http://spac.or.jp/news/?p=10283
演奏や、踊りの部分の、
公演とは関係のないパフォーマンスをやるのかと思い、
足を運んだところ、
なんと、公演の中のシーンを、
いくつかそのまま抜粋したものでした。
このリスクある決断に、
正直、度肝を抜かれました。
なぜなら、
字幕なし、
人が行き交う、広大な広場、
近くで行われている他の野外パフォーマンスの雑音、
公演が行われるCarrière de Boulbonとは、
全く違う、悪条件過ぎる空間において、
有料の公演を、
無料で半分近くみせてしまうということ。
前日に決まった、
この1日限りのパフォーマンスで、
本公演並みのクオリティーを目の前に、
誰がみても、
このためだけに、ただならぬ時間を割いて、
稽古したということは、
一目瞭然。
いくつもの楽器や、
繊細な衣装、
大掛かりな小道具たちの、
搬送。
なにをとっても、
ただならない集団のエネルギーと情熱に、
本当に彼らのアクションを誇りに思いました。
「誇りに思う」という言葉を、
日本語にしてしまうと、
なんだか、薄っぺらいし、
ありきたりな言葉のように聞こえてしまうけど、
これ以外の言葉が見つからないし、
大げさに聞こえるくらいが丁度いいので、
私はあえて、この言葉を使う。
この話を知って、
フランス人の友人は、
真っ先に、
ワールドカップの会場で、
ゴミ拾いをして話題になった日本人サポーターの話を思い出したそう。
「日本は最高!」ゴミ拾いするサポーターを世界が称賛【ワールドカップ】
また、
想像通り、
『マハーバーラタ』を観た数々のフランス人の友人から、
日本人としての感想を求められる。
日本人として、
フランスで演劇を学んでいる身として、
これから、
『マハーバーラタ』の話をされることは、
必然だと思う。
それだけ、まだ、
ヨーロッパにとって、
日本は、
遠い国。
でも、時間をかけて、
じわじわと浸透していく信念が、
すらりと涼しい顔だけをみせている。
海外公演がすごいことじゃない。
よりたくさんの価値観を持った観客を持つことを求める姿勢に、
アーティストとして、
観客と共存することを必須とする芸術:演劇人として、
心から尊敬する。
今より、
もっと若い頃は、
何か、ラッキーなことがあったり、
嬉しいことが続いたりすると、
「幸せすぎて怖い」という感覚に、
よく陥った。
でも、最近は、
そんな飛び抜けた幸せじゃなくて、
このまま続けていったらいいんだって、
そっと肩を押されているような、
海外で飲む緑茶みたいな、
優しくて、静かで、そして、消えない「幸せ」
SPACの皆さんが、
先日、千秋楽を終えて、
そんな当然の「幸せ」を感じて、
無事に、日本に帰国されることを心から願っています。

素晴らしいと言われている作品に、全く感動できなかったらどうしよう?

アビニョン演劇祭から、こんにちは。
アビニョン演劇祭に通い始めて、
なんだかんだ、4年目の夏となりましたが、
初めて行った年に、
一番の感銘を受けたのが、
アーティストと観客による、
le débat(討論会)のコーナー。
アフタートークのような、
オプション的な感じではなく、
公演とは全く関係のない時間と場所に、
たくさんの人たちが集合する。
この熱気に圧倒されて、
議論されていることがわからない、
言いたいことが言えない、
フラストレーションに押しつぶされそうになりながら、
この熱気の居心地の良さに包まれて、
毎日、会場に足を運んでいました。
そして、今年、
…、
内容がわかる!!!
感動。
私にとっては、
この熱気に魅了されて、
フランスに来たということもあるので、
演劇作品をみて、
内容がわかることよりも、
100倍の感動。
最近は、
良くも悪くも、エゴイストなので、
感動という単語をついつい、
外からの刺激よりも、
内面の変化にばっかり使ってしまう。
さらに、演劇祭中は、
毎朝11時から、
“Atelier de la pensée” (考えるアトリエ)という、
入場無料のプログラムが開催されており、
演劇関係者だけにとどまらず、
哲学者、社会学者、政治学者、科学者などなど、
さまざまな観点から演劇について語る講演会が行われています。
http://www.festival-avignon.com/fr/la-programmation/14-07-2014/ateliers-de-la-pensee
まさに、
私にとって、
アビニョン演劇祭は、
俳優である前に、
「観客」の養成講座。
先日、
友人に勧められ、
INのプログラムである、
イスラエルのダンサー、Arkadi Zaides(アルカディ・ザイディス)
の作品を観てきました。
『ARCHIVE』ARKADI ZAIDES
イスラエル軍による、
パレスチナ自治区ガザ地区への攻撃が続いている中での、
B’Tselemと人権団体が、
イスラエルーパレスチナ戦が行われている地域Cisjordanieで、
内密に撮影した映像との、
コラボレーション作品。
アルカディ・ザイディスは、
バットシェバ舞踊団等でダンサーとして活躍した後、
2004年より振付家として活動開始、
現在はテルアビブを拠点として活動。
日本では、
神楽坂にあるセッションハウスでも、
いくつか作品を発表しており、
2012年のダンストリエンナーレトーキョーで、
2009年に制作された『Quiet』という作品を上演しました。
http://datto.jp/artist-arkadi-zaides


自分が歩んできた人生と、
生きてきた環境も、
社会への問題意識も、
アイデンティティーに対する問いも、
なにもかも、接点のないアーティストの作品。
アビニョン市内から、
1時間に一本しかない、
市バスに20分ほど乗らないと、
たどり着けない会場であるにも関わらず、
会場には、当日券を待つ人の数がすでに、
30人以上。
期待高まる中、
公演が始まっても、
なかなか、作品の中に入っていけない。
わかろうとすれば、
わかろうとするほど、
ますます作品に遠ざかられる感じ。
どんどん作品にのめり込んでいく、
となりの観客を横目に見ながら、
私の集中力は落ちていくばかりで、
終いには、
全く理解できない自分に劣等感すら感じる。
1時間15分の公演の終演と共に、
飛交う、「ブラボー」の声。
知らぬ顔をして、
拍手をする、私。
そこで思い出したのは、
最近出会った人の言葉。
「ノー」というのは、簡単。
誰でも、できる。
「イエス」ということこそ、難しい。
全く分からなかった作品に出会って、
つまらないということは簡単。
今思えば、
若いくせに、
たくさん「つまらない」という言葉を、
濫用してきた気がする。
いま、
ようやく、
アビニョン演劇祭の
観客養成講座的側面:知らない世界と出会うこと
つまり、
世界を違う角度から見ること、
を知った今、
「つまらなかった」から、
「わからなかった」から、
辞書を片手に、
プログラムをいつもより、
一生懸命読んでみようと思った。
逆に言えば、
アーティストの使命は、
観客にこのような「気持ちわるさ」を与えることなのかもしれない。
自分が持っている価値観だけでは、
どうにも、
処理できない作品に出会ったとき、
新たな世界の見方を、
追加せざるを得ないような、
ちょっと「やっかいな」作品。
あいかわらず、
アーティストへの道は、
険しく、遠いので、
朝は、講義聞きにいって、
夜は、観劇して、
昼間はちょっと休憩。
ぴんく

新しい美容整形の方法を探す。

昨日は、
アビニョンから、電車で20分のアルル(Alres)という町に、
国際写真フェスティバルをみに行ってきました。
Les Rencontres d’Arles 2014
ビゼー作曲のあの『アルルの女』のアルルで、
ゴッホが、精神病を煩ったときに、
療養していた町としても有名。
フェスティバルは、
1970年から、
毎年夏に開催されており、
参加者も世界レベルの各国から集結し、
町中の歴史的建造物で、
写真が展示されています。
いわば、
写真版、
アビニョン演劇祭。
また、
プロのアーティストの展示だけではなく、
若手にも、大きく間口が開かれており、
フェスティバル・ステーションには、
大きなポートフォリオを抱えた、
フォトグラファーの卵たちが、
ギャラリストに自分の作品をアピールする機会が、
設けられていたことが、
とても印象的。
さて、今年の目玉アーティストは、
英国人ファッションフォトグラファー、
David Bailey (デビッド・ベイリー) 、
76歳。
http://www.rencontres-arles.com/C.aspx?VP3=CMS3&VF=ARLAR1_52_VForm&FRM=Frame:ARLAR1_54
アンディー・ウォーホルや、ダリ、
フランシス・ベーコンらを、
リアル・タイムで撮影した、
まさに、写真で一世を風靡したアーティスト。
特に、有名なのは、
ミック・ジャガーと、
ローリング・ストーンズの写真で、
目にしたことがある人も多いはず。
AR1MSC608.jpg
個人的には、
女性の写真に強く惹かれる。
このジェーン・バーキンは、
もはや、神の領域。
baileylook-p045.jpg
Église Sainte-Anneという教会の中、
高い天井、
壁一面に展示された、
一世風靡した一瞬を切り取られた「顔」たちに、
魅了されながら、
それらの「顔」が通ってきた、
遠くて、そして永いストーリーに、
想いをはせる。
紆余曲折し、
たどりついた一瞬の「顔」は、
どれも心地よく、
写真に居座っている。
自分の歩んできた人生によって、
象られてきた「顔」に、
自然に寄り添うセレブレティーたち。
シモーヌ・ド・ボーヴォワールが、
著書『第二の性』で、
「On ne naît pas femme:on le devient.」
( 人は女に生まれるのではない、女になるのだ)
といったように、
私たちの「顔」も、
生まれつきもって生まれたもののように見えて、
今日もつくられている最中なのだと思う。
40歳くらいになって、
自分の「顔」に、
照れくさくも満足しつつ、
快くおつき合いできるような、
そんな夢を抱きながら、
今日の26歳のわたしの「顔」を見る。
今日読んだ本も、
今日見た写真も、
今日観た演劇も、
今日会った人も、
今日聞いた話も、
みんな、
明日の私の「顔」をつくる材料。
もっともっと、
大人になったら、
大きなポートフォリオを運ばなくていいように、
私のポートレイト:「顔」を持ち歩こう。

燃え尽き症候群からの脱出法。

燃え尽き症候群という言葉を調べてみると、
自分が思っている定義とは、
正反対のことが書かれていました。
燃え尽き症候群(英: Burnout Syndrome)
一定の生き方や関心に対して献身的に努力した人が期待した報酬が得られなかった結果感じる徒労感または欲求不満。
私の個人的な解釈としては、
舞台の本番後に、
必ずといっていいほど訪れる「虚無感」
「虚無」という言葉に初めて出会ったのは、
ミヒャエル・エンデ『モモ』の本の中。
何もない。
悲しくも、
嬉しくもない、
ぼんやりとした、
からっぽの「虚無」が、
自分の身体に出現する。
さて、
この「虚無」やらと、
どうつき合っていくか。
フランス語で、
“accrocher”という単語がある。
なんてことはない、
コートをコート掛けにかけるときに使う、
「掛ける、引っ掛ける」という動詞。
ただ、この動詞、
自動詞になると、
「人目を引く、うまくいく」
という意味があり、
さらに、代動詞になると、
「しがみつく、頑張り抜く」
という意味になる。
燃え尽き症候群気味だった、
夏休みの始まりに、
信用する人からもらった言葉、
“Acrroche-toi.”
コート掛けに、
軽く掛けたコートがずり落ちないように、
普段の生活から、
しっかり自分の目標にしがみついて、
人目も少々気にしつつ、
精神をしっかり維持する力。
”Accrocher”は、
そんなさわやかで軽快な、
現状維持の小さなコツかも。
インプットの時間だからこそ、
出会ったものに、
時間が許す限り、
”Accrocher”してみる。
アウトプット時、沸騰し続けた興奮とは、
また異なるタイプの低温調理。
そんな私は、
7月頭から、
毎年おなじみのアビニョン演劇祭のため、
アビニョンに滞在しています。
http://www.festival-avignon.com/fr/
まち
5日には、
モンペリエの国際ダンスフェスティバルで、
大好きなアーティスト、
ヤン・ファーブルが作品を発表したので、
1日だけモンペリエに戻りました。
アビニョンから、モンペリエは電車で1時間。
モンペリエは、市内から、
トラムにのって、15分で海まで行けるので、
アビニョン滞在中の皆さん、
モンペリエに日帰りで遊びにいくのもオススメです。
それはおいといて、
ヤン・ファーブルの新作を、
50人規模の小さな劇場で観劇。
贅沢過ぎる。
JAN FABRE ATTENDS, ATTENDS, ATTENDS… (POUR MON PÈRE)
そして、もう一本、
ずっと観たかった、
2011年にアビニョン演劇祭で初演された、
ボリス・シャルマッツの「こども」という作品。
BORIS CHARMATZ ENFANT


モンペリエダンスのスタッフから、
この革命的な公演をモンペリエに住んでいながら、
見逃したら一生後悔するとプッシュされ、
アビニョンから、一日里帰りしたけど、
本当にその甲斐がありました。
客席も、
パリの劇場とは全く異なり、
夏休みだからなのか、
会場は、家族連れでいっぱい。
まるで、
小学生の時、
母に連れられて観にいった、
ミュージカル『ピーターパン』の客層。
ただし、内容が超コアなコンテンポラリー・ダンスという、
ちょっと日本では考えられない異様な雰囲気で、
観客マニアの私にとっては、
この会場でこの作品を観られたことがとっても満足。
ということで、
アビニョンに戻って、
昼は、フランス語の試験の勉強、
夜は、観劇な、
ちょっと日本人の私にとっては、
罪悪感を感じてしまうような
のんきな日々だけれども、
すべてのことに、
そして、出会う人たちに、
強く”accrocher”をして、
新学期に向けて、
自信をもって「夏休み」します。

成功を自信に変える、唯一の方法について。

おかげさまで、
『Une Vitalité désespérée』d’après Pier Paolo Pasolin
モンペリエ公演、パリ公演、
無事、千秋楽を迎えることができました。
ぶたい
舞台に立ち始めてから、
もう随分たつけれど、
ほんのすこしずつ、
「俳優のプロフェッショナリズム」というか、
目指すべき場所を、
証明しつつある気がする。
何故かというと、
そもそも、
私が、
本当に、
不器用で、
不安定で、
フラジール過ぎる役者だったから。
むしろ、
そこを売りにしてもいいくらい、
ダメ俳優だったことと、
それでも、
増大し続ける演劇に対する壮大な愛のおかげで、
いい実験台になれたんだと思う。
ENSADに入学してから、
1年間、
言葉のハンデがあるため、
他の人より、
3倍、4倍、稽古するのは当たり前で、
そのことに対して、
無謀だと思ったり、
無意味だと思いながら、
泣いてみても、
状況は変わらない。
ただ、やるだけ。
それ以外に、方法はなかったから。
そこから、
できないところから、
やりつづければ、
できる。
という、メカニズムが見えてきたとき、
不満や、疑問、疑い、
すべてが消えた。
目の前にあることを、やるだけ。
実際は、
終わりがあるものなんて、
何もない。
とにかく、時間が許す限り、
やるだけ。
そこから、
自ずと変わってきた、
作品への取り組み方。
作品に対する、
「投資」力をあげることで、
成功や、失敗に関する、
リスクがどんどん、
あがっていく。
俗にいう、
ハイリスク・ノーリターン
の可能性を背負って、
目指すところは、
ハイリスク・ハイリターン。
ふたつにひとつ。
ポジティブな評価に対する関わり方も変わってきた。
以前は、
常に、腰を低く、
謙虚な態度をとるように心がけていたけれど、
自分を過小評価することは、
逆に、
自分で自分を守ってあげているのではないかと、
思うようになった。
過大評価をするのではなく、
評価がついてきたときには、
ステップを一段あげて、
自分のレベルをそこに合わせるだけ。
このレベル調整を常に行うことで、
新たな課題が自ずとついてくる。
成功を自信に変える、唯一の方法。
おそらく、
チャンスで得た成功ではなく、
「だって、いっぱい練習したもん。」
と言って、
さらりと流せるような成功のことだと思う。
そしたら、
自然に、次の成功のために、
やることは、
もう目に見えている。
「もっと、練習するだけ。」
そして、
昨晩は、3年生との最後の夜。
パリから、戻ってきた私たちを、
学校の庭で、
3年生とバーベキューが待つ。
メインは、
3年生から1年生に、
le flambeau(聖火)を受け継ぐ儀式。
たいか
1年前、
学校に入学したとき、
3年生の公演を観て、
自分たちは、
絶対こんな風にはできないと、絶望したし、
絶対こんな風になりたいと、渇望した。
そんな、私たちの憧れのヒーローだった3年生たちが、
卒業する。
生まれつき才能がないと、
成功できないと言われがちな職業:俳優。
このステレオタイプを、
ちょっとづつ、
ちょっとづつ、
崩していくことが、
今の私の夢。
がくや