インプロビゼーションにおける確信犯的非効率のすすめ

指導者のいない、私たちだけのスタージュも、
今週で終わり。
何も正解がない、
むしろ、
正解を出さないことが正解のような、
それぞれのプロジェクト「recherche(リサーチ)」のための期間に、
最初は戸惑いでしかなかった。
しかし、ひとたびダイレクトに結果を求めない、
この時間に慣れてくると、
なんとも贅沢で居心地がよく、
将来このメンバーで、
あーだこーだいいながら創作している様子を、
こっそり想像する。
演劇というような、
見せる(魅せる)芸術において、
信頼関係なしには、
この期間は存在しない。
リーダーからの課題を発表し、
たとえ、思っていた通りにできなくても、
終わったあとのディスカッションで、
必ず心ゆくまで言い訳の時間を与えられる。
言い訳しながら、
実際どのような意図があったか、
どうしてうまくいかなかったのか、
他人の頭と時間を使いながら考察していく。
例えば、
私がメインでキャスティングされている、
エドワード・ボンドの3人芝居。
オープニングに、私ひとりで、
10分程度、ひとりで舞台の上にいるシーンがある。
台詞は一切なし。
前回の稽古では、
このシーンのインプロビゼーションとして、
演出家はなんと70分も費やした。
70分間、
演出家と共演者が見つめるなか、
わたしは、一人きりで舞台の上。
インプロビゼーションなので、
やることは一切決まっていない。
もちろん、このインプロビゼーションの目的は、
リサーチなので、
彼らを楽しませることが目的では決してない。
むしろ、彼らの視線や存在からくる、
一定の緊張感を、
こちらがあくまでも利用し、
自分のなかでリサーチ作業をしていくのである。
日本にいたころは、
俳優訓練としてのインプロビゼーションというと、
発想力や、瞬発力を鍛えるイメージが、
漠然とあって、
常に自分というものを図られているという自意識から、
どうしても好きになれなかった。
ただ、指導者という、
一種の権威が存在しないスタジオ(教室)での、
インプロビゼーションが向き合う相手は、
自分自身のみ。
この機会も、状況も、ストレスも、
すべて自分のためだけに利用してみる。
このような作用は、
グループ間でのインプロビゼーションのなかでも、
しばしば起こった。
例えば、
10人で、あるテーマと、
プロジェクトリーダーのディレクションによって行われた
インプロビゼーション。
その日、わたしは、全く気分が乗らず、
輪のなかに入っていくことができない。
できないといっても、
ふりをすることはいくらでもできる。
俳優じゃなくても、
「ふり」をすることはできる。
場に馴染むこともできる。
ただ、
俳優なら、
このリサーチの時間に、
「ふり」をすることは罪だと思う。
リサーチが許されたメンバーに対する信頼関係への冒涜だと感じた。
だから、ひとりぼっちでも、
ひたすら「待つ」
自分の中で起きていることと、
自分の外で起きていることに、
耳を傾けながら、
ひたすら「待つ」
ただ、
アクティングエリアの外に出るという選択だけは、しない。
気分が乗る日も、
乗らない日も、
私たちの職業は、
そう簡単には変えられないから。
なんて、
非効率な時間を、
今月に入ってから、
たくさん過ごしてきただろう。
ただ、
この確信犯的非効率を、
続けられることの、
贅沢さは、
ミシュラン三ツ星だと思いながら、
週末は久々の外食。

繊細に関する個人的な覚え書き。

2年前、
ようやくフランス語で恋バナができる程度に、
話せるようになったころ、
フランス人の女の子から聞いた話。
恋人と身体をあわせるたびに、
身体と身体が触れている場所から伝わる情報量が多すぎて、
感動して、毎回泣いてしまうと言っていた。
この一週間で、
何度この果てしなく洗練された場所で、
愛し合う恋人たちのことを思い出したことだろう。
 
新学期前のプレ稽古。
演劇のない夏休みに耐えられなくなった11人全員で、
一ヶ月早くモンペリエに戻り、
はじめて、
指導者なしの自分たちだけの学校。
私たち以外、
だれもいない学校。
11人には、
時に静かすぎるほどのいくつものスタジオと玄関ホール。
10時から23時まで、
自分たちで、3時間ずつ、
それぞれのプロジェクトを割りふってつくったスケジュール。
つまり、3時間づつ、
くるりくるりと絶え間なく、
リーダーが変わっていく。
ウォーミング・アップから、
エクササイズ、
そして、稽古まで、
一人一人が、綿密にオーガナイズし、
他のメンバーを引っ張っていく。
改めて、ひとりひとりが全く違う演劇観、世界観
そして、夢を持っていることを、
全身で受け止める。
いつのまにか、
自分をリュックサックは、
他人の夢まで詰め込んで、
ぱんぱんに膨らんでいたり。
だから、心地よくも、
この重さに耐えきれなくなったりして、
夜は、ぐったりと疲れてしまう。
私自身の企画は、
ソロなので、
この2週間は、
テキストの執筆という孤独な作業だった。
他のメンバーとのやり取りと言えば、
ドラマツルギーを引き受けてくれた彼だけだけれど、
他人が介在することで、
少なからず、
私だって、
プロジェクト・リーダーになる。
自分の書いた文章が、
彼の身体を通り過ぎていくことで、
2倍にも3倍にも広がっていき、
種まき作業をしてから、
小さな芽が出るのを楽しみにしていたところから、
一気に、夏のひまわり畑のど真ん中に立たされた感じ。
自分から綴られた文章のくせに、
自分では、もう所有することが困難になってしまったときに、
演劇の3Dな創作が始まっていくんだと思う。
ということで、
いつまでも、永遠に、
100%満足いくことはないのだけれど、
これ以上、
もうこのテキストの家主でいることはできそうにないので、
明日からは、
演出家と役者の仕事に、
移行します。
どきどき。
自分も含めて、
自分の作品への愛とか、
他のメンバーへの愛とか、
他人の身体への愛とか、
今この時間への愛とか、
愛なんて、言葉を使うのは、
陳腐だけれど、
本当に、愛としかいいようのないものたちに、
21時も回って、
身体もいい具合に疲れてくると、
背後から、優しく包み込まれていく。
その中で、
他人を見つめたり、見つめられたり、見つめ合ったり
他人の身体に触ったり、触られたり、
そんな単純なエクササイズをするだけで、
そこから伝わってくる、
「生きてること」の情報がどうにもこうにも氾濫してしまって、
愛おしくて、美しくて、嬉しいのに、
どうして涙が出てくるんだろう。
毎回、稽古は、
輪になってのフィードバックで終わる。
わたし、
さっきね、
泣いちゃったのはね、
すごい、ポジティブな涙で、
悲しいとかじゃないからね!
って、
なぜだか、
言い訳みたいに、
息せききりながら、
必死になって発言すると、
そんなのみんな知ってるよ。
って、
10個の笑顔に囲まれる。
そう。
それなら、いいの。
よかった。
また、ずいぶんと、
暑苦しいようだけど、
怒ったり、
泣いたり、
笑ったり、
「大げさに」毎日を生きることも、
私たちの仕事の一部であるような、
そんな感覚に守られた一週間。

メランコリーな日曜日の夜に、反戦を叫ぶ。

日曜日の夜は、
メランコリーになる確立が極めて高い。
ちなみに、この症状は、
個人的なものではないらしく、
日本では、サザエさん症候群という名で存在するらしい。
そんなメランコリーな日曜日の夜に、
さらにメランコリーに拍車をかけるように、
ソロ・クリエイションのため、
フロイトの「エロスとタナトス」の研究を進める。
簡単に言ってしまえば、
精神分析の分野で、
エロス=生の欲動(生存欲求)
タナトス=死の欲動(自己破壊願望)
と、解釈されるもの。
しかし、これらは、
単に表裏一体の関係にあるので、
どちらかが、外に出てくれば、
もう一方が、潜在意識として、
隠れるだけのことのよう。
エロスが高まりすぎることによって、
タナトスが出現することもあるし、
逆に言えば、
タナトスが高まりすぎても、
エロスが戻ってきてくれるかもしれない。
ということで、
メランコリーな日曜日も、
安心して、メランコリーしてみる。
ちょっと、エロスが引っ込んで、
タナトスが浮上してるだけのことだから。
無知な私にも安心な、
光文社古典新訳文庫シリーズは、
文字が通常より大きいというだけで、
正直かなり救われる。
このシリーズで、
エロスとタナトスについて調べていくと、
アインシュタインとフロイトの往復書簡、
『人はなぜ戦争をするのか』に行き着く。
Unknown_20140915055145be0.jpeg
アインシュタインは、フロイトに、
「人間には戦争を行う必然的な攻撃衝動があるのではないか」
という問いを立てる。
フロイトの答えは、イエス。
タナトスと言う人間に本質的に備わった欲動をあげている。
タナトスが外界に向けられた場合、戦争につながり、
タナトスが自分自身の内側に向けられた場合、人間の倫理や道徳になるという。
ここで、フロイトは、
「文化」というキーワードをあげる。
ここに、戦争を阻止するヒントがあるという。
1、知性を高め、欲望を自らコントロール。
2、攻撃的な欲望の矛先を内面にむけること。
メランコリーな夜はゆっくり、ゆっくりと過ぎていき、
「戦争」というキーワードから、
『ヒロシマナガサキ』というドキュメンタリー映画を観る。


この作品は、日系3世のアメリカ人監督、
スティーヴン・オカザキ氏が25年間かけて完成させた、
ヒロシマ・ナガサキ原爆投下に関するドキュメンタリーである。
私は、美しい芸術に関して、
畏怖の念を込めて、
最上級の褒め言葉として、
「怖い(こわい)」という言葉を使うが、
このドキュメンタリーに関しては、
最上級の褒め言葉を与えたくても、
「恐い(こわい)」いう言葉になってしまう。
DVDだったので、
何度も何度も、
一時停止ボタンを押しながら、
トイレに行ったり、
歯を磨いたり、
お茶を飲んだり、
何度となくエクスキューズな休憩を取らずには、
最後までみることができなかった。
本当に、
本当に、
恐かった。
14人の被爆者と、
4人の原爆投下に関与したアメリカ人の証言。
大学生のとき、
大好きだったアーティストグループ、Chim↑Pomが、
2008年に被爆地である広島市の上空に、
飛行機雲で「ピカッ」という文字を描いたアーティスト行為が、
被爆者団体を前に謝罪会見を開く「騒動」に発展した。
そして、この騒動を検証することを目的に、
本人たちが出版した本。
『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』
Unknown-1.jpeg
この本の中で、
広島県原水爆被害者団体協議会理事長である坪井直氏との対談が、
掲載されており、
当時、何故か、トイレでこの本を読んでいて、
坪井氏の言葉に、
発作としか言いようのないほど、
苦しいくらいに、
涙が止まらなくなって、
トイレから、30分近く出られなかったことを思い出した。
そして、トイレから出たあと、
もうどうしていいかわからなくて、
泣きながら、
もはや何を書いたのかも覚えていないけれど、
手紙を書いて、投函した。
そして、なんと一週間後、
どこの馬の骨ともわからない若造に、
坪井氏本人から、
ハガキが届く。
彼の行為こそが、彼ら証言者たちの想いなのだと思う。
『ヒロシマナガサキ』のなかでも、
彼は、証言者として出演している。
ドキュメンタリーの中には、
目を覆いたくなるような映像や、写真も出てくるのだが、
それよりもなによりも、
「恐い」のは、
彼らが、これらすべての忌々しい記憶を、
証言するという行為そのものなのだ。
そこまで、
自分を苦しめても、
彼らは、もう二度と戦争を起こさないために、
戦争で、原爆で亡くなった人たちに対する、
義務を背負って、
証言を引き受ける。
この意志から紡ぎ出される言葉と、
彼らのポートレートそのものが、
このドキュメンタリーのすべて。
私たちに、
エロスの欲動が、
少しでもあるなら、
ただ、単純に戦争が「恐い」と思いたい。
痛いのが「恐い」
熱いのが「恐い」
苦しむのが「恐い」
病気になるのが「恐い」
人が死ぬのが「恐い」
自分が死ぬのが「恐い」
「恐い」
「恐い」
「恐い」
私は、戦争が「恐い」から、
反対する。
毎日、
ほんの少しずつでも、
私に存在するタナトスをコントロールできるように、
内側に向けることができるように、
「文化」しないと。

少しはたくましくなったかと思いきや、やっぱり涙で始まる2年生。

先週、ある友人に、
「恋に落ちるってどんな感じ?」
という、野暮な質問をしてみたところ、
割に、あっさりと、
「何事にも、繊細になる。」
というシンプルな答えが返ってきた。
いまだ夏らしい太陽の日差しの下、
日本から沢山の本と服と食料を詰め込んだスーツケースと共に帰宅後、
30分後から稽古という、
なんとも、モンペリエらしい豪快なスケジュールで、
新学期スタート。
そして、2年に1度の受験が行われるENSADでの、
2年生は、
上級生も、新入生もいない、
「私たちぼっち」
11人で、
学校を占領する。
日本でたくさんの人たちに甘やかされた1ヶ月が、
もう遥か遠く。
今週から、11月に行われる各々のプロジェクト・アーティスティック(LA CARTE BLACHE)の
プレ稽古がスタート。
このプロジェクトは、11人それぞれが、
企画書から、公演まで、
それぞれの企画を遂行するというもの。
ただ、ちょっと特殊なのが、
まさかの同時進行。
11個のプロジェクトが同時にスタートし、
3週間で、11個の作品を11人で発表するというもの。
つまり、ある時は、演出家、ある時は、劇作家、
そして、もちろん他の人の作品に役者として絶対的に参加するという、
なんとも無茶苦茶なプロジェクト。
11個の企画書からスタートし、
現在の時点で、10個のプロジェクトが同時進行中。
稽古を進めていくにあたって、
徐々に絞れていけばいいのだが、
なかなか簡単に、あきらめられるものでもないので、
今は、ほぼ、常に全員で、
3時間ごとに、
グループのリーダー(企画者/演出家)が、
代わっていくスケジュール。
私個人の企画は、
ソロなので、
ようやく、テキストが完成し、
美術プランを考えながら、
舞台稽古に入っていく。
もちろん、同時進行で、
その他の6個のプロジェクトにも、
役者として配役されているので、
稽古、稽古、稽古の日々。
それにしても、
何に対しても、
繊細になりまくりであった、
この1週間を経て、
「私の恋している相手は、演劇か。」
と、ふと実感し、
肩を落としつつも、
思わず、ふふふっと笑ってしまう。
急激な環境の変化のせいか、
五日間で、同級生のオリジナル戯曲、既成戯曲合わせて、
9作品を読みきったせいか、
言葉の自由が全くきかなくなる。
自分でも、まるで、
他人の身体を扱っているようで、
懸命に診察を試みるものの、
全く理由がわからない。
水曜日は、
気の知れ渡った、
家族みたいな10人のクラスメートたちと、
いつものバーで、
一杯飲みにいくことすら苦しくて、
家に帰ってもどうしていいかわからず、
とりあえず、フランス語の参考書を買いに本屋にいき、
語学コーナーにたどり着いても、
どれを選んでいいかわからず、
ぽろぽろ涙が出てしまう。
夫婦デュオとして有名な、
ハンバートハンバートの新アルバムが5月に発売されたというニュースをみて、
曲を聴いてみる。
ふたりの関係を0から100まで、
見てしまったようなこっちまで照れくさいような、
それでいて、
心から優しい気持ちななれる歌声とクリップ。


そして、やっぱり一番は、『おなじ話』
 
よく、歌を聞いて、
自分の人生と重なり合って、
涙が出てしまうという話を聞くけれど、
本当に美しいものは、
もうその美しさの時間の流れがただただもったいなくて、
パソコンのキーボードに、
涙がこぼれる。
恋もしていないのに、
首筋をキラキラと通り過ぎていくメロディーと、
真夏のカルピスみたいな歌声と、
そして、
皮を剥きすぎて、
随分とちっぽけになってしまった、
タマネギの芯のような歌詞。

極めつけに、
日本語でも挑戦したことのないような台詞の量の、
3人芝居にキャスティングされ、
「いっぱいいっぱい悩んだけど、やっぱりあなたにした。」
といった、企画者の女の子の目を思い出して、
喜びとプレッシャーのなか、
ひたすら発音の練習。
30回目くらいに、
突然、
ふわっと今にも甘い匂いを醸し出す勢いで、
イメージが広がって、
やっぱり、
どうして、
また涙がこぼれてしまう。
2年生になったら、
少しくらいは、
こなれてくるのかと思いきや、
私のへっぴり腰レベルは、
大したものだった。
それでも、
今週、ようやく一人芝居のテキスト第一稿が完成し、
ドラマツルギー担当の男の子に提出。
人とつながることで、
頭の中にある妄想が、
一気に、具体化していく。
無理矢理に、
打ち合わせの約束と、
それに伴う、
締め切りを、
つくる。
全員が、
あるときは、社長で、
あるときは、社員。
立場に応じて、
態度も変わる。
社会の中の役も、
作品の中の役も、
変わる、変わる。
責任を持ってみる練習ができる環境に心から感謝。
とは言うものの、
恋ではないので、
繊細になっているだけでは、
前に進めない。
無くした自信は、
無くした場所でしか、
取り戻せない。
また、
1から、
ちぐはぐにも程がある、
大胆な情熱と、
つたない言葉で、
自分の想いを、伝える練習の、
はじまり、はじまり。
自分の想いを伝える=
他人への興味=
愛を語る=
演劇。
宮崎駿監督との名コンビ、
スタジオ・ジブリのプロデューサー・鈴木敏夫氏の座右の銘。
『どうにかなることは、どうにかなる
 どうにもならんことは、どうにもならん』
それなら、
どうにかなるのか、
ならないのか、
私は、
いますぐ、試しにいかなくちゃ!
にゃ

結婚も出産ももう少し先になりそうな私の魔女入門。

フランス語で、
抽象的すぎるとはわかっていながら、
音とイメージがあまりにもぴったり重なり合うので、
どうしてもよく使ってしまう、副詞がある。
esthétiquement [エステティックモン] (副)
-美的観点から言うと
-美しさの点では
自分的には、「美的に」という訳が、
絶妙にしっくりきている。
こんな、esthétiquementの派生語である、
esthétiqueというタイトルの雑誌が、
日本美学研究所より出版された。
美学文芸誌「エステティーク」Vol.1 特集:美
esthetique_bigakukenkyujo.jpg
「美」と日々向き合っている、
さまざまな職業の方々による、
まさしく、「文章」という媒体を用いた芸術作品。
その中でも、特に心臓を激しく愛撫してきたのが、
現代魔女術研究・実践家、谷崎榴美氏による文章『このましくない感じ』
谷崎榴美(たにざきるみ)公式サイト
http://lumitanizaki.com/
魔女という宗教の一信徒として、
私は「魔女です」と名乗っているのです。

さて、そんな彼女の魔女的観点から語られる、
「美」とは?
「このましくないもの」とは?
聞くところによると美しくなることは全女性の宿願らしい。
魔女として言わせてもらえば、
まず「このましくあること」をやめるべきだ。
中庸は、平均は、無条件の甘やかしを提供する無害な存在は、
先ほども述べた通り、
最も美から遠い存在なのだ。

(『エステティーク』谷崎榴美「このましくない感じ」p.56より引用)
この「このましい」という表現は、
言い得て妙だと思う。
特に、フランスの中にあった私の日本人である身体は、
日本の中に戻ってきて、
この「このましい」という感覚は、
惰性を許しながら、
すっぽりと包み込まれるような安心感と、
理由もなく、抗ってみたくなるような、
思春期的衝動と、
この背反するふたつの感情を絶えず与え続けた。
保存の眠りから目を覚まし、
美を貪り美に溺れ、
美の神とともに生きる事。
その誓いの証として私は、
私たちは、
自らを「魔女」と呼んでいるのだと思う。

(『エステティーク』谷崎榴美「このましくない感じ」p.58より引用)
年明けに、たまたま自分の本棚から見つけて、
たまたま読み始めたら、
ついつい夢中になってしまった本、
鹿島茂氏の悪女入門 ファム・ファタル恋愛論を思い出す。
9784061496675_l.jpg
『マノン・レスコー』や、『椿姫』『ナナ』、
そして、『マダム・エドワルダ』まで、
フランス文学界を代表するファム・ファタルたちを、
作品ごとに徹底的に分析された一冊。
真のファム・ファタルは、
谷崎氏が言うように、
まさしく一種の宗教であり、
れっきとした哲学のもとに成り立っているのだと、
改めて感じさせる。
今回の日本滞在で思い知らされたことは、
現在の私には、
「名刺」がないということ。
フランスでは、
国立である学校の名前に少なからず守られている部分があるのだけれど、
一歩外に出れば、
私を説明し、
守ってくれるような組織は、
今のところ存在しない。
「帰属」しないということは、
自由なようでいて、
ふと、しんどくなることがある。
だから、
私は「魔女」を目指す。
自分の「名刺」は、
今、あなたの目の前にいる私自身でしかないのだから。
私の口から、紡ぎ出される言葉。
私の顔から、泳ぎ出る表情。
私の目から、示し出される方向。
私の手から、溢れ出るダンス。
私と、
私の夢を守るのは、
私自身。
とは言うものの、
久しぶりにページをひらいた大好きな写真集、
有田泰而『First Born』を見ると、
やっぱり結婚、出産を、
どんなに素晴らしいだろうと想像に浸るばかり。
ありた
くるま
あろた
被写体は、彼の奥さんと子ども。
ちなみに、この写真集の出版に協力したのは、
彼の二人目の奥さんだそう。
モラルが混在する世の中において、
この関係は何とも、
“esthétique….”