共演者は、最良かつ最初の観客になる。

「卑屈」あけの竹中香子です。
最近の演出家の目標は、
日付けが変わる前に、稽古を終わりにすること。
ということで、
毎日、深夜に及ぶ稽古が続いております。
家族以外の人と、
毎日、1日2食ともにするには、
いつになってもなかなか慣れない。
除夜の鐘は、
108回鳴らして、
人間の108の煩悩を取り除くと言いますが、
108のうち、
一体いくつくらい表に出てしまっていたのだろう、
と思うくらい、
自分の煩悩が露出してしまったので、
いい機会と思いながら、
いろいろなことを考えてみました。
なんて、演劇は効率の悪い芸術なのだろう、
という結論に至りつく。
同時に、
効率の悪い過程だけが生み出す、
科学では説明できないものの言葉にできない魅力。
どんなに入念にサランラップで包んでも、
決して保存することができない空間と時間を、
存在させるために、
できることは、
ただひとつだけ。
繰り返すこと。
Presentation ではなく、
Representation であるということ。
稽古中、
自分の出番がなくても、
その空間に共演者が存在しているのは、
自分のためだと思っていた。
同じ作品に出ているわけだから、
他人の稽古をみて、
自分のためになるなんて当たり前のこと。
しかし、それ以上に、
舞台の上で稽古している俳優にとって、
他の俳優が客席で観ていること、
同じ空間に存在していること、
彼らの反応、
彼らの集中、
これら、すべての循環が、
演劇の稽古には必要なのだと思う。
共演者は、最良かつ最初の観客になれるのかも。
観客が入る前の、
「試写会」的な緊張感のなか、
稽古ができたら、
観客が入っても、
風通しのよい、
サーキュレーションを満喫できるのではないだろうか。
風通しの良さは、
風水の基本。
ポジティブなエネルギーを循環させることで、
相手の演技が変わる。
自分の演技が変わる。
直接的に関わるシーンがなくても、
共演者という、
定義と意義が自ずとかわり、
自分のために、彼らがいて、
彼らのために、自分がいたい、
と思えてくるから、不思議だ。

30秒でできる私の卑屈度チェック

今週の私の卑屈度と言ったら、
人様にとてもお話しできることではないのですが、
俳優にとって、
絶対無視できない問題だと思うので、
あえて、触れてみたいと思います。
ひ‐くつ【卑屈】
[名・形動]いじけて、必要以上に自分をいやしめること。また、そのさま。
何を隠そう、
今回の私の「卑屈」の原因は、
出番が少ないこと。
今回、5週間のクリエーションで、
最終日に、2作品を上演する予定なのですが、
私の出番は、片方の作品だけ。
しかも、その中でも、台詞も出番も一番少ない。
それに伴い、演出家と行う稽古時間ももちろん少なくなる。
学校のスタージュの場合、
プロの公演と違って、
最終的な上演よりも、
その過程が重要になってくるので、
配役の偏りは、基本的にないに等しいといっても過言ではないのですが、
それでも、諸事情により、
今回のように顕著に現れてしまう場合もある。
私の場合は、
もちろん、言葉によるハンデがあるので、
完全にスタートダッシュで出遅れたことが要因。
みんな、次々に台詞を覚えて、
シーンを提案していき、
それがそのまま配役につながっていった。
私の場合、
最初に自分で選んだ、
冒頭の15分近くに及ぶモノローグで、
随分ながいことつまづいていたら、
気づいた時には、
もう、他のシーンはあまり残っていなかった。
クリエーションも3週目に突入し、
連日13時から、22時まで、
遅い時には、23時半近くまで続く稽古のなか、
ほとんどの時間を客席で過ごす。
最初のうちは、
人の演技を見ながら、
学ぶことも多いものの、
やはり、自分が舞台で稽古をしているときの、
あの躍動する感じ、
あっと言う間に過ぎていく時間の流れを、
感じることはできない。
シーンが少ないからこそ、
綿密に稽古ができる、と自分に言い聞かせてはみたり、
今までに、
こういう想いを他の人がしていたかもしれないと、
思ってみたり。
ただ、
ひとりで待っている時間が長くなってくると、
果たして、この現場に自分という存在は必要なのか、
という問いが生まれてくる。
悔しさに、
孤独が混じり始めたら、
危険信号。
「卑屈」がこぼれはじめているかも。
悔しさをバネに!とはいうものの、
「卑屈」はバネにならないのが残念なところ。
水曜日、
ただでさえ、
出番が少ないのに、
まだ、稽古が付けられていなかった私のシーンが、
演出の都合上、
他の子に回される。
いつ、このシーンの稽古が始まってもいいように、
台詞も完璧に覚えていたのに。
演出家に言われたときは、
もう可哀想な自分にただただ寄り添ってあげていたくて、
一刻もはやく「卑屈」になりたくて、
何も言わずにいたけれど、
「卑屈」になったって、
自分のことを可哀想と思ってくれる人は、
残念ながら自分しかいない。
下手すると、
私は、「卑屈」を「頑張っている」と勘違いしてしまうことさえある人間なので、
ここは、ひとつ、恥を捨てて、
演出家に直談判。
「演出の都合上、
配役に差ができてしまうのは当たり前のことだと思うけど、
私も、みんなと同じ立場で、
このスタージュに参加している以上、
できてもできなくても、
同じだけのことに挑戦する権利があると思う。
だから、ただでさえ少ない出番がなくなるのは、
とても悲しい。」
日本人の感覚では、
自分が、不利な立場にいるときに、
自分の意思を伝えることは、
恥ずかしいこと、
できるなら、避けたいことのように思いがちですが、
フランスでは、あいさつと同じくらい当たり前で自然なこと。
日本の教育を受けてきた私にとっては、
もうフランスにきて、
3年以上たっても、
自分の意見をしっかり伝えるということは、
大仕事。
頭の中で、
しっかり用意した言葉を、
演出家の目をみて、
少しづつ、
口からこぼしていく。
言葉と一緒に、
用意していなかった涙までもが、
両目から、
ぽろぽろ、
こぼれていく。
27歳にもなって、
泣きながら、
出番が少ないことを訴えている状況に、
自分でも、思わず笑ってしまって、
なんだか、中学生みたいでごめんなさい、と謝る。
一ヶ月ぶりくらいに泣いたので、
(昨年はもっと頻繁に泣いていました…。)
みんなも心配して、
理由を聞いてくれたので、
台詞がなかなか覚えられないから、
出番が少ないのは当たり前なのだけれど、
もっともっと壁にぶつかりたかったんだ。
と、素直に気持ちを伝える。
今回、発見した「卑屈」の新たな性質は、
ぶり返しです。
ちゃんと意思を伝えて、
すっきりして、
自宅に帰宅したかと思うと、
さっきまでの恥ずかしさとか、
どうせいくらやっても無駄とか、
どうせ私なんかいらないとか、
どうせうまくならないしとか、
どうせ才能ないしとか、
「どうせ」節の波にのまれて、
あっという間に、
「卑屈」がぶり返してきました。
そこから、また1時間くらい泣き続けて、
泣きはらした自分の目が哀れすぎるのをみて泣いて、
泣いたまま眠ったら、
夢の中でも、
「卑屈」になっていたのか、
夜中に腹痛で目がさめる。
目の前に巨大な壁が現れて、
それを乗り越える苦しみは、
本当の苦しみではない。
そんな苦しみは人を輝かせる。
本当の苦しみは、
探しても探しても、
乗り越えるための大きな壁が現れないときである。
そんな時、
私は、「卑屈」になる。
「卑屈」になったときに、
一番やってはいけないことが、
「どうせ」節を他人にぶつけることである。
「どうせ」節は、
他人の免疫力もさげるし、
自分の免疫力もさげる。
「卑屈」は、
自分とだけ、
分かち合う。
分かち合いながら、
「乗り越えるための大きな壁」を、
一緒に建設してしまったらいいのかも。
何かに向かって戦っている人は、
かっこいい。
ただ、人間、いつだって、
ヒーローになれるとは限らない。
自分がヒーローの時もあるし、
隣の人がヒーローの時もある。
そんな隣の人がヒーローだった時、
一緒に素直に喜べるような「寛容」は、
どうやったら手に入るんだろう。
競争や、批評に常にさらされる演劇界で、
すらりと生き残っていくために、
俳優訓練期間には、
「卑屈」と上手く付き合いながら、
ライバル、そして、同志に対する、
「寛容」を手に入れることが、
絶対条件のように思われる。

国家に終身雇用された作家:ヨン・フォッセと、俳優の終わりなき戦い。

2015年最初のスタージュは、
フランスの巨匠、演出家クロード・レジと組んで長年仕事していた
パスカル・キルシュ氏がプログラムされた。
創作内容は、
2010年国際イプセン賞を受賞し、日本でも話題となったノルウェー人作家、ヨン・フォッセ。
2010年国際イプセン賞 ヨン・フォッセが受賞
『北欧の舞台芸術』([編著者]毛利三彌+立木燁子)という本の中で、
彼のインタビューが紹介されています。
北欧の舞台芸術を相対的に知る上でも、
欠かせない一冊。
http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/294.htm
北欧
同じくノルウェー出身の劇作家、
「ヘンリック・イプセンの再来」と評価され、
ノルウェー政府は、彼に終身のサポートを約束したそう。
まさに、ノルウェーの誇り。
私の2年間に及ぶ国立演劇学校受験闘争中、
最低限必要だったのが、
古典1シーン、
現代1シーン、
受験者自ら作品を選んで、
シーンを創ってくること。
ヨーロッパにおける現代戯曲に関する知識がなかったので、
各国の作品を読み漁りました。
フランス語に翻訳されている戯曲の数が、
膨大であるため、
フランスにいるからといって、
フランス語圏だけの現代戯曲の中から選んだのでは、
歯が立ちません。
ドイツはもちろんのこと、
スペイン、イタリア、イギリス演劇は当たり前。
さらに、北欧、南米をおさえて、
ようやく一息というところでしょうか。
そんなヨーロッパ中の戯曲が読めるフランスでも、
格段に一目置かれている作家がこの人、
ヨン・フォッセ
実は、私がはじめて読んだのは、
日本語でした。
2004年に、太田省吾さんが演出された作品、
『誰かくる』
これは、作家であった彼が、
1994年にはじめて書いた戯曲。
なんと、40ヵ国以上の言語に翻訳されているそう。
目の前にある、戯曲。
ページを、開く。
句読点なし。
完全改行スタイル。
思わず、「紙がもったいないよ!」
と言いたくなってしまうような、
たった二文字のあとでも、
躊躇なく改行していくスタイルに、
まず度肝を抜かれる。
文章としてではなく、
ページ構成としても完結しているような、
戯曲に、
俳優がどのように足を踏み入れていくのだろう。
「絶望」と「甘美」と「誘惑」の狭間にはさまって動けない俳優を、
「静寂」の中、
そっと見つめる
作家の「洗練」と「挑発」に満ちた流し目。
何度となく繰り返される、
個性のない言葉たちの周囲に、
絶え間なく漂う、
ページの余白部分。
もう、2年以上前のこと。
フランス語に翻訳されているほぼすべての彼の戯曲を、
フランス語が読めないのに買い尽くしたのは、
この「余白部分」のためだったのだと、
いまさらながら、気づく。
余白に、
静寂に、
何もないことに、
お金を払うなんて、
なんて、
ロマンチックなのだろう。
ノルウェー。
海。
フィヨルド。
海はもはや背景ではなく、
人間の関係性の一部。
海。
フィヨルド。
闇。
包まれる。
波の音。
遠く。
から。
聞こえる。
記憶。
不安。
聞こえる。
不安。
包まれる。
遠い。
フィヨルド。
から。
記憶。
聞こえる。
から。
波の音。
聞こえる。
闇。
そして、
現実はの稽古場はというと、
台詞との戦い。
作家本人も、
言葉は簡単でも、
彼のテキストは詩で構成されているので、
対話文であっても、モノローグである可能性を、
常に孕んでいるという。
というわけで、
今回に限っては、
いつも台詞が覚えられない私だけではなく、
ひたすら繰り返される、
単語と、
変化する語順の中で、
全員、悪戦苦闘していました。
先週からクリエーションも本格化し、
2週間後のプレゼンテーションに向けて、
毎日10時間近くに及ぶ稽古。
2作品発表するので、
今のところ、
上演時間は、5時間と予定されています。
俳優と俳優のあいだ、
言葉と言葉のあいだ、
俳優と観客のあいだ、
言葉と観客のあいだ、
を、
流れる、
目に見えない「余白」が、
耳に聞こえない「余白」が、
手で触れられない「余白」が、
生まれますように。
そして、
ヨン・フォッセの台本の、
壮大で贅沢な「余白」に書き込みまくった、
鉛筆のメモが、
「余白」の、
「余白」たるものとしての権威を、
思う存分振るうことができますように。

「シャルリー・エブド」以降

1月7日は、
フランスで冬季セールが始まる日で、
ハイヒールが安くなっていたら買いたいな、とか、
そんな平凡なことを思っていた日に、
「シャルリー・エブド」襲撃事件が起きました。
http://www.asahi.com/articles/ASH176S4RH17UHBI01D.html
学校に行っても、
話題は、「シャルリー・エブド」で持ちきりで、
震災のような外側の変化は一切ないのだけれど、
人々の内側は、そして、関係は、
一瞬にして、
昨日までのそれらと違っていることが、
外国人の私にもはっきりわかりました。
フランスに来て、もうすぐ3年。
はじめて、社会で起きていることが、
ダイレクトに自分の思想と理想にアクセスしてきて、
情報の多さと足りなさの間で、
翻弄されていました。
モンペリエでも、
家から数分のところで、
「シャルリー・エブド」事件の翌日に人質事件が起こり、
最終的に、事件と直接的な関わりはなかったものの、
授業を中断し、
学校を完全に閉鎖し、
数人の子が過呼吸に陥ったりしながら、
目に見えない暴力に心が震えました。
毎日、朝6時に起きて、
2時間近く、
日本語で読める情報とフランス語でしか読めない情報の間で翻弄されながら、
さまざまな情報と、
出会っては別れ、
別れてはまた出会い、
すこし疲弊しはじめた頃には、
全く文章を書く気分は残っていませんでした。
11日の日曜日には、
追悼と「表現の自由」を守るための、
静寂の行進が各地で行われ、
私たちは、11時から21時の稽古の合間に、
2時間休憩をとって、
この行進に参加しました。
私が現地にいるからといって、
この事件を語るには、
あまりにも知識がなさすぎるけれど、
フランスと日本での報道を比べて、
一番感じるのは、
この事件はただの襲撃事件ではないということ。
ただ、12人の人が殺されたという事件ではないということ。
この事件の詳しい背景に関しては、
フランス文化研究家の飛幡祐規氏が書かれているコラムをお勧めする。
http://www.labornetjp.org/news/2015/0119pari
アメリカの医師、ダンカン・マクドゥーガル氏は、
人間が死ぬ際の体重の変化を記録することで、
人間の魂の重さを計ろうと試みた人である。
結果的に、「人間の魂の重さは21グラムである」という結論を導いたわけなのだが、
それなのに、
依然として、
人の命が重いのなぜだろう。
人の命が「重い」のは「想い」のせい。
その人の身体がこの世から消えることよりも、
その人の過去から続く、
長い長い「想い」が、
人の命を重くする。
今回の事件で特に感じたのが、
思想の死であり、
残された人たちに突きつけられたは、
理想の再構築だったのではないかと思う。
日本を離れてから、
日本語で綴るこのブログや、
日本語で書き始めていた小説、
他国にいながら、
日常生活では、もうほぼ使うことがないこの言語で、
感覚を、感情を言葉にしていくこと。
この言語を使う人たちと、
つながっていたいと思う気持ち。
そんな書くという作業が身体の一部になり始めていた頃。
あの事件以来、
文章を書くからあっという間に遠のき、
むしろ、恐怖すら感じていたと思う。
そして、昨日、
授業終了後、
先週から予定されていた、
私がフランス語ではじめて書いた戯曲の読み合わせがあった。
昨年の9月に書き上げたこの作品。
ドラマツルギー担当の生徒以外には、
まだ誰にもお披露目していなかったので、
俗にいう、緊張と不安と楽しみで、
胸がいっぱいだった。
学校の印刷機をあえて使わずに、
近くの印刷屋さんで、
自分でお金を払って、
上質な紙に印刷する。
読み合わせを始める前に、
簡単な概要とどのようなかたちで、
協力して欲しいかという旨を全員に伝え、
一人芝居の戯曲なので、
Kyokoの役とト書きを、
10人が回しながら声に出して読んでいった。
心臓が胃の方まで侵食して、
内臓全体が脈打っているようなくすぐったい気持ちで、
みんなの読み合わせを聞いていた。
自分でしか読んだことがなかったから、
当たり前だけど、
Kyoko役のフランス語が上手すぎて、
変な感じで笑った。
そんなみんなの声が奏でる、
はじめて立体化した自分の文章を聞きながら、
また書こうと思った。
やっぱり、
いろんなことがあるけれど、
産み続けたいと思った。
産んで、育てて、巣立っていくことの繰り返し。
いじめにあうことだってあるだろうし、
挫折することだってあるかもしれないけど、
どんどん産みたい。
どんどん産んで、
どんどん傷つかせて、
たくましい作品になったらいい。
2015年から就任した、
我が学校の新しい校長、Gildas Milin氏の言葉:
絶対に、rentabilité(収益性)を考えるな。
どんなに時間をかけて、
1行しか書けなくてもいいし、
どんなに予算がなくても、
お城みたいな舞台美術を考えろ。
最終的に、どんなにシンプルな作品ができても、
どれだけ夢をみたかで、密度が変わる。
だから、とにかく夢をみろ。
暇さえあれば、夢をみろ。
ということで、
自分の中で、
どうしても書けなかったこのブログも、
あっけなく再開。
今は、来月から始まる、
映画の撮影の一部分で使う、
(夜見る)夢に関するテキストを執筆中。
朝、
夢から醒めても、
夢をみる生活をつづけられますように。

雌伏期ソナタ2015

あけましておめでとうございます。
年末年始は、自分の家族と、
さらには、他人の家族に囲まれながら、
奇妙かつ無性に暖かい時間を過ごしました。
そんな私の2015年の目標は、
地味ではありますが、
地底で低音やけど寸前の温度で、
じわじわと、
じわじわじわと、
「雌伏期ソナタ」を満喫することです。
し‐ふく【雌伏】
[名](スル)《雌鳥が雄鳥に従う意から》人に屈伏して従うこと。
また、実力を養いながら活躍の機会をじっと待つこと。
「雄飛」の対義語であるこの言葉は、
雄鳥が大きな大志を抱いて活躍するのに対し、
雌鳥は屈服して従うという、
女性には、少々聞き捨てならないお言葉。
とは言っても、
健康第一の私にとって、
人生はまだまだ長い。
そんな甘えん坊の悟りに身を任せて、
今年は、きっと、
派手なことはないかもしれないけれど、
しっかりと着実に実力を養いながら、
雌鳥として、「雄飛」の機会を待つ「雌伏期」
バロック時代のソナタには、
教会ソナタと室内ソナタというものがあって、
以下のように分類されているそう。
教会ソナタ – 緩−急−緩−急の4楽章、舞曲風の楽章を含まない
室内ソナタ – 急−緩−急の3楽章が多い。
いずれにせよ、複数楽章から成るソナタという形式は、
緩−急の繰り返し。
自分でいうのもなんですが、
念願の演劇エリート校に合格し、
昨年の6月まで、
振り返る間もなく突っ走ってきたけれど、
9月から幕を開けた2年目は、
1年生の時と同じように頑張っても、
なかなか納得のいく、
ミラクルな創作に到達できないことが多くなった。
それでも、前に進んでいくために、
演劇だけにとどまらない、
さまざま性格をもつ「ソナタ」のような形式が、
必要になった。
そして、
いつのまにか、
生活の一部になっていた、
小説、
写真、
絵。
新しい角度から、
自分のやりたいことを見つめ直してみる。
わたしの、
書きたいこと。
撮りたいこと。
描きたいこと。
私にとっての、
演劇は人生に寄り添っている部分が大きいと思う。
自分の人生そのものを、
いかにクリエイティブな場所に置き続けられることができるか。
自分のライフスタイルをコーディネートすること自体が、
演劇であって、
ただ、
それが、人目につくかつかないかの違いだと思うことがある。
苦しいときは休憩しても、
意味がない。
苦しいときに助けてくれるのは、
続けていくことだけ。
昨年の10月あたりから密かに始まっていた
私の「雌伏期」
2015年は、バージョンアップした、
雌伏期ソナタとして、
自信を持って、
「演劇」なんて枠は、
どんどん大きくしちゃえばいい。
なんでもかんでも地底から、
じわじわ吸収していく、
独りよがりな雌伏期を思う存分満喫してやろうと思います。
皆様にとって、
素敵な2015年になりますように。