演劇における「コピー」の美学

先日、来年度の公演に向けた
1度目のワークインプログレス公演が行われた。
ジャックリヴェットの映画『OUT1』をもとに、
主に、インプロビゼーションの手法を用いて、
創作をしてきた5週間。
その中で、ひとつのメインテーマだったのが、
「コピー」について。
美術界で、
初心者にとっては、
避けては通れない、
この「コピー」という概念が、
演劇界で使われると、
たちまち、ネガティブな言葉のように、
聞こえてきはしないだろうか。
だって、俳優には、
人とは違う何か、
個性、そして、オリジナリティが必要、
ってそれ本当?
例えば、素描(デッサン)は、コピーの原点ともいえるであろう。
美術の基礎訓練として多くの美術学校が、
入試試験に課しているし、
美術系の予備校でも、主要なカリキュラムの一部になっていることは言うまでもない。
対象を見たまま、写真のように正確に紙の上に描くということ。
スポーツにおいても、
まずは正確な身体のフォームというものを、
真似るところから始まる。
「演技」というもの自体が、
そもそも自分ではない別の人物を真似る、
という特性に基づいているにもかかわらず、
「俳優」には、やたらとオリジナリティが求められるのは何故だろう?
演技における「コピー」は、
「できる」という前提のもとには、
おそらく、
いかなる魅力も発しない。
やろうと思えばできるが、
そのような行為には価値がない。
同じ人間は、二人いらない。
だから、コピーしても仕方がない。
はたして、演技において、
「コピー」とは、
本当にタブーなのであろうか?
この演技とコピーの関係を探るに渡って、
私たちが繰り返し行ってきたのが、
イヤホンエクササイズ。
その名の通り、
誰かが録音した声を、
リアルタイムで、
イヤホンから聴きながら、
観客の前で、
聞こえたままに言葉を発していく。
30分も続けると、
自然に、他人の言葉のリズム、メロディーが、
自らの身体に浸透してくる。
ただ、観客の前に提示されているのは、
紛れもなく自分の身体そのもの。
今回、私たちとクリエーションを共にした、
演出家であり、美術家のロバート・カンタレラは、
この手法を用い、
哲学者ジル・ドゥールーズの講演会の録音を、
1回60分で、
観客の前で、
発表するパフォーマンスを4年以上も続けている人。


毎回、ひとつの講演録音は、一回限りしか、
観客の前で発表されることはなく、
準備も一切なしというルールを決めているそう。
つまり、初めてイヤホンから耳にするドゥールーズの声を、
観客の前で、
自分の口から、そして、自分の身体を通して、
発していく。
ドゥールーズは、フランス人にとって、
哲学界におけるアイドル的な存在なので、
毎回、このイヤホンシステムが公表されているにもかかわらず、
ドゥールーズが、まるで、生き返ったような錯覚にとらわれて、
涙する観客がいるそう。
また、映画のシーンを、
transposition(置き換え、転位)していくというエクササイズでは、
より役者の身体に特化して、
モノマネをするというより、
本質的な他者の特徴をいかに、
掴んで自分の身体に転化していくかということを、
実験していきました。
そんな演技における「コピー」という概念を考える毎日に、
たまたま見た2011年公開の映画:
歌舞伎座さよなら公演 記念ドキュメンタリー作品『わが心の歌舞伎座

歌舞伎界を代表する歌舞伎俳優たちが、
歌舞伎座との思い出や、想いを語りながら進んでいく。
特に、興味深かった幾つかの言葉をあげておきます。
ー歌舞伎は主演俳優が演出する。
ー松本幸四郎「歌舞伎の人たちは、歌舞伎のことを演劇とよぶ。」
ー片岡仁左衛門「目や耳でなく、肌で感じさせるために、魂で演じる。 」
そして、市川団十郎氏が、
歌舞伎における「コピー」について、語っていました。
コピーではなく「写す」
「写す」作業において、
完璧は存在しない。
コピー機を使わない、
手書きによる「写す」作業のようなもの。
つまり、
「原本(オリジナル)」を、
何回も、
見る。
まさに、
素描と同様のシステム。
何回も、何回も、
見て、
捉えて、
写す。
その繰り返し。
例えば、シェイクスピアの戯曲が書かれた時代には、
もちろん、コピー機などという便利な文明は存在していないので、
「写す」作業においてのみ、
彼の言葉が受け継がれてきた。
「写す」作業における、
やむを得ずも、愛おしい、
写した本人の「個性の介入」
このように考えていくと、
シェイクスピアという像が、
シェイクスピアを愛し写した、
いくつもの顔によって、
構成されているように見えてくる。
一体、
いままでに、
何人のシェイクスピアたちが、
この歴史をまもってきたのだろう?
そもそも、
人間である俳優は、
完全「コピー」なんて、
できないのだ。
私は、「個性」という言葉を信用していない。
少なくとも、
たかが、27歳の私が、
「個性」という言葉にすがること自体、
お門違いもいいところだと思う。
それでも、
学びの現場における、
コピーへの到達に、
全身全霊を尽くす過程における、
じわじわと滲み出るような、
どうしたって「隠せない」個性を、
垣間見たときには、
その俳優から目が離せなくなる。
「コピー」における考察は、
今後もまだまだ続きそう。
答えは、出ないまま、
コピーにおける、
個人的なワークインプログレス的結論は、
「学びは、コピーから」??

上演時間8時間の作品を経て、正しい「自慢」の綴り方を模索する。

じ‐まん【自慢】
[名](スル)自分で、自分に関係の深い物事を褒めて、他人に誇ること。
(goo辞書より)
他人にうまく「自慢話」をすることができる人は、
優れた才能の持ち主だと思う。
自分に起こった素敵な出来事における、
「事実」というよりも、
むしろ、その「感覚」を他人と共有ことができる人。
直接、誰かに「自慢」をすることができたら、
話の内容よりも、
いかに、その出来事が本人にとって素晴らしかったのかということが、
その話し方によって、
「感覚」的に 伝わると思う。
しかし、文章で「自慢」するとなると、
この「感覚」を伝えることは、
随分と難しいことのように感じて、
さっきから、
「自慢」を綴る方法を考えていた。
ブレヒトの異化効果ではないけれど、
「自慢」を始める前に、
前置きしてみたらどうだろう。
皆さん、
これから、「自慢」を始めます。
「自慢」されたくない人は読まないでください。
前置きが長くなりましたが、
昨日、私たちが過ごした時間は、
本当に特別で、
本当に本当に最高だった。
前日の夜に、生徒だけで5時間かけて用意し、
午後13時から、21時まで、
8時間に及ぶ作品を、
10人で演出家の前で発表した。
映像、朗読、シーン、インプロ、写真、ゲーム、音楽、ダンス、録音、電話…
ありとあらゆる手段を使って、
12時間40分に及ぶ、
ジャック・リヴェットの映画『OUT1』を、
私たちの方法で、
interpretation (解釈/通訳/演技)した8時間。
トイレに行くのも、
食事をするのも、
コーヒーを飲むのも、
タバコを吸うのも、
すべて、作品の一部になっていく。
スポーツと一緒で、
よく、
素晴らしいアーティストが、
素晴らしい指導者だとは限らない、
という言葉を耳にしますが、
演劇の場合はとくにそうだと思う。
俳優教育というと、
日本の場合、
演出家が担うことが多い。
もちろん、フランスでも、
クリエーションの場合は、
演出家が招聘されて、
学校にやってくることが多い。
ただし、
学校、
つまり、教育機関におけるクリエーションの場合、
いかに、学生たちが自立して、
作品と関われるかということが問われる。
言われたことを、
こなすのではなくて、
自分の関わり方次第で、
作品の内容自体が変わってくるような可能性を孕む必要がある。
簡単に言ってしまえば、
学校で行われるクリエーションこそ、
ゴールが見えているべきではないのだ。
例えば、今回のプロジェクトの場合、
2015年4月:リサーチ/プレ稽古期間5週間
2016年 冬:本稽古5週間
2016年 夏:初演 
2016年 秋:ツアー
という流れが組まれている。
学校において、
今回私たちが過ごした、
稽古前のリサーチ期間に、
俳優として、演出家と対等に、
プロジェクト関われるというのは、
当たり前、
かつ、財政面でいえば、
やはり、恵まれていると思う。
さて、「素晴らしい」指導者とは何か?
若い俳優にとって、
実際の現場で、
俗に言う、「有名な」演出家と、
クリエーションができるということは、
願ってもいないチャンス。
それと、同時に、
最近よく思うのは、
このメンバーの中で演劇ができて最高!
と、すぐとなりにいる俳優たちを
「自慢」したくなってしまう環境を創れる指導者は、
ファシリテーターとしてとても興味がある。
私を、「自慢」することよりも、
自分がいるグループ、
そして、
周囲の人々を通して、
そんなところにいる私、最高!
と、「自慢」できる環境が、
学校には必要だと感じる。
なぜなら、
カンパニーなど、
すでに、気の合う仲間が集まって、
コミュニティーが派生している場合と違って、
学校の場合、
「たまたま」その年に居合わせメンバーが、
「たまたま」学びをともにしているのだから。
この「たまたま」を誇りに思えるようになったら、
しめたもの。
俄然、学びの効率もあがる。
普段は、脳が疲れ果てて、
授業のあとは、一目散に家に帰る私だけれど、
8時間に及ぶ、
「自慢」の仲間と、
「自慢」の作品のあとには、
「自慢」話がしたくてたまらないので、
みんなでピザを食べにいった。
8時間のプレゼントに、
ご満悦な演出家。
普段は半分しか食べれない、
ヨーロピアンサイズのピザを、
まるまる食べて、
ご満悦な私。

「ぬか漬け」哲学で、プチ鬱解消。

先週から、舌の先の口内炎に悩まされている。
もともと、ビタミンが欠乏しやすい体質なので、
口内炎には慣れっこだが、
舌の口内炎というものが、
このほんの小さな舌の先のできものが、
ここまで、悪魔的なエネルギーを兼ね備えているとは知らなかった。
というのも、
何をするにも痛い。
水を飲むのも痛い。
食べるのも痛い。
歯を磨くのも痛い。
うがいをするのも痛い。
しゃべるのも痛い。
究極、口の中で、
舌が歯に触れただけでも激痛が走るので、
何もしなくても、痛いのである。
そんなこんなで、
無気力に陥る。
やらなきゃいけないことが、
たくさんあるのに、
進まない。
だるい。
いっそ、風邪でもひいてしまえば、
惜しげも無く休めるのだが、
所詮、口内炎なので、
休むことへの口実にもならない。
常に、
頑張って、
上へ上へと向上していくこと、
簡単に言ってしまえば、
忙しいこと、
つまり、睡眠不足が美徳とされるような現代社会において、
いまいち、
頑張れないときほど、
辛いことはないし、
疲れることはない。
2015年の時間の流れの中に、
口内炎ごときで、
自分を甘やかすことを許してくれる思想は、
ない。
そんなとき、
いつも、本棚から、
適当に、哲学書を一冊抜き取って、
よくわからないまま読み進めるという、
治療法がある。
哲学は、
時間の流れを変える力を持っているから。
二つの歴史がある。
ひとつは政治の歴史であり、もうひとつは文学と芸術の歴史だ。
前者は意思の歴史であり、後者は知性の歴史だ。
だから、政治史は始終、私たちをおびえさせ、おそろしい。(中略)
これに対して文学・芸術の歴史は、たとえ道を踏みちがえたくだりを描いているときも、
隠遁生活をおくる賢者のように常に好ましい晴れやかさをただよわせる。
その根幹をなすのが哲学史である。

以上は、ドイツの哲学者、ショーペンハウアーの
『読書について』(鈴木芳子・訳)の中の一節である。
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現代の時間の流れから逃れて、
哲学の時間の流れに助けを求めて、
身を委ねた本の内容が、
「読書は自分で考えることの代わりにしかならない。
自分の思想の手綱を他人の手にゆだねることだ。」
つまり、
安易な読書への痛烈な批判書であり、
アナーキーに富む内容だったので、
思わず笑ってしまった。
人生を読書についやし、
本から知識をくみとった人は、
たくさんの旅行案内書をながめて、
その土地に詳しくなった人のようなものだ。(中略)
これに対して、人生を考えることについやした人は、
その土地に実際に住んでいたことがある人のようなものだ。
そういうひとだけがそもそも語るべきポイントを心得、
関係ある事柄に通じ、
真に我が家にいるように精通している。

俳優が書かれた台詞を語るときに、
書かれた言語を、
自分の身体から出てきたもののように扱えていない時、
「propriété」できていない、
というふうにフランス語で言われるが、
「propriété」とは、主に土地などに用いる「所有」という意味の単語で、
大家さんのことを、「propriétaire」という。
つまり、自分が発している台詞の「大家さん」になりきれていないということ。
ショーペンハウアーが言うように、
他から得た知識を、
「真に我が家にいるように精通している」レベルに持っていくには、
相当の時間と労力が必要なのである。
読んだものをすべて覚えておきたがるのは、
食べたものをみな身体にとどめておきたがるようなものだ。
私たちは食物で身体をやしない、
読んだ書物で精神をつちかう。(中略)
私たちはみな、自分に興味があるもの、
つまり自分の思想体系や、目的に合うものしか自分の中にとどめておけない。

そして、思想体系がない人が読書しても、
なにも、自分の中にとどめておけない、
という、とどめの一言で締めている。
「思想」を扱う人の言葉は、
とにかく気長である。
日本でいうなら、
「ぬか漬け」の極意である。
ぬか床(思想体系)ができたところで、
ようやく材料(読書)を入れることができる。
漬け込んだあとは、
毎日手入れすることで、発酵が進む。
そして、風味が増していく。
哲学の時間の流れの中には、
口内炎の痛みで、
本日はどうにもやる気が出ません、
という甘ったれな気持ちを、
包み込んでくれる優しさがある。
寛容な時間のゆったりとした流れがある。
おそらく、
人間は、
こういうときに、
いつも頑張ってるんだから、
今日ぐらい休みなよ、
と誰かに言って欲しい生き物なのだ。
それだけで、ほっとしたりできる生き物なのだ。
ただ、残念ながら、
いつもそういう人が周りにいるとは限らないのが現実。
バーチャルな世界に、
逃げ込むよりも、
今日は、哲学しながら、ぬか漬けを思う。

ウィトゲンシュタインに学ぶ、社会人準備講座。

随分と私の前方を走っている大学時代の同志に再会。
同志という言葉を使うことをためらうほど、
遠くに行ってしまった彼だけど、
自分への戒めと、
幸運を運んでくれるであろうジェラシーのために、
あえて、「同志」という言葉を使いたいと思う。
彼から、
「才能とは勇気」という言葉を教えてもらった。
イギリスで主に活躍した、
オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインの言葉だそう。
家に帰って、インターネットで調べたところ、
実際に、ウィトゲンシュタインが残した言葉は、
「天才とは、勇気ある才能のことだ」
ということが、判明。
つまり、
彼に教えてもらった言葉、
「才能とは勇気」とは、
私の友人の脚色だったわけだけど、
どう考えてもこっちの方がしっくりくる。
生涯を通して、「言葉とは何か」「意味とは何か」を追求した、
ウィトゲンシュタインの哲学は、
世界を「言葉」と「思考」によって定義したと言えるだろう。
有名な彼の言葉、
「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」
実は、この文章の前に、
「私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ」
と記述しているそう。
日本とフランスの距離、9980km。
どんなに離れていても、
どんなに時間がたっても、
人と比べることをやめることは難しい。
あの人に比べて、
私はなんてダメなんだろう、とか、
私は一体何をしているんだろう、とか、
もっとがんばらなきゃ、とか。
「才能は勇気」
勇気をもって、
自分の言語とともに、
自分の世界を確立し続けることで、
すこしでも、
前に進めるなら、
それは、才能なのかもしれない。
インターネットの普及に伴い、
他者の言語といつだって隣合わせの私たち。
気がついたら、
他者の言語の狭間で、
溺れていた。
成功者たちのインタビュー。
今すぐにでも真似したい習慣、
そして、彼らの信念。
どれも、影響されたいことばかり。
世の中は、
素晴らしい人たちで溢れかえっている。
私の言語は一体どこに行ってしまったのだろう。
「才能は勇気」
情報社会の中で、
自分の考えを言語化すること。
成功談の前に、
夢をしっかりと、
自分の言語で語ること。
自分が尊敬している人の前で、
彼の言葉に同意するだけでなく、
自分の言語を並べていくことは、
思っているより難しい。
自分が尊敬している人に語るということは、
社会に言葉を置いていくことと同じだと思う。
友達でも家族でもない、
少し遠くにいる、
ちょっと近づき難いけど、
すごいなって思っている人に、
しっかりと自分の意思を伝えることは、
社会とコミットしていくはじめの一歩。
社会の中でも迷子にならない、
自分だけの言語を探していく。
学校生活、
ちょうど半分をきったところで、
社会人への準備講座。

12時間40分の映画を見ながら、合理的とは何か考える。

先週から演出家Robert Cantarella (ロバート・カンタレラ)を迎えて、
来年のモンペリエでのフェスティバルとパリツアーに向けてのプレ・クリエーションが始まりました。
テーマは、ヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画監督、
ジャック・リヴェットの伝説的映画、
「Out 1: Noli me tangere」(1970)
上映時間はなんと、760分(12時間40分) !!!
昨年のフェスティバル・アビニョンにて、
Thomas Jolly(トマ・ジョリー)が、
シェイクスピアの『ヘンリー6世』を休憩含み、
18時間かけて上演しましたが、
(過去の記事:18時間演劇で、極上の疲労感。
45年前の映画界で、
すでに、こんなに歴史的かつ破壊的作品があったとは。
無知の恐ろしさだけを知る、毎日。
日本では、ユーロスペースにて、
2008年に、ジャック・リヴェット レトロスペクティブが行われていますが、
http://www.eurospace.co.jp/detail.html?no=131
アウト・ワンの上映はなかったようです。
ジャック・リヴェットは、
ゴダール、トリュフォーをはじめとする、
名だたるヌーヴェルヴァーグの映画監督たちの中でも、
最も演劇に近かった人であると思う。
内容を見ても、
圧倒的に、演劇、俳優というテーマを扱った作品が多い。
http://movie.walkerplus.com/person/74095/
アウト・ワンは、8つのエピソードからできており、
各エピソードの冒頭に、
ひとつ前のエピソードの内容が、
写真で回想される構成になっています。
ちなみに、字幕なしならyoutubeで、
全編12時間40分視聴可能。


出演俳優は、
ほぼ全員、なにかしらの映画で見かけたことがある、
ヌーヴェルヴァーグのスターたちばかり。
エリック・ロメールまで俳優として出演している。
ふたつの劇団が、
インプロヴィゼーションを用いて、
稽古を進めている。
最初の方は、
永遠に続くかと思うような、
終わりなき、
演劇的エクササイズのシーンが続く。
徐々に、舞台は、
このふたつの稽古場の外へ進んでいき、
それぞれの人生そのものが、
「演劇」化していく。
そして、
気づいた時には、
もう戻れない。
舞台の外、
現実の中の、「悲劇」

先週のスタージュでは、
2エピソードづつ鑑賞するごとに、
課題として、
それぞれのエピソードに関する作品を、
創作していく。
基本的に、映画の上映が終わるのが21時過ぎ、
22時から稽古をして、
翌日に発表する作品をつくるという流れ。
それにしても、
3時間以上、
フランス映画を見続けた後の私の脳の状態といったら、
ほぼ寝起きの状態に等しい。
前半は、いまだかつて出会ったことのないような珍味を、
どう味わっていいのかわからず、
情報を処理するだけで、
胃がぐるぐると音を立てている感じでしたが、
一度癖になったら、
もうやめられない。
演劇って何?
映画って何?
俳優って何?
演じるって何?
グループって何?
何か新しいことを始めてから、
10年後からやっとはじまるような、
本質的かつ初歩的すぎる疑問が、
立て続けに浮かび上がってくる。
作品創作は、
3人組から始まり、
ソロ、
5人組、
そして、
最終日は、10人全員(現在、一人の生徒が外部の仕事のため、休学中)で、
行われました。
ソロでは、
トリュフォーの映画には欠かせない、
フランスの天才俳優、
ジャン=ピエール・レオの動きだけを抽出し、
ダンス作品を作ったり、
グループでは、
街にでて撮影を行い、
30分の映像作品を作ったり、
課題を創作している時間そのものを、
120分撮影しっぱなしにして、
作品にしてしまったり、
もう、
メタのメタのメタ。
リアルが介入してくる中での、
演技というものについて、
まさしく、
経験の中で、創作していく感じ。
経験の中の創作に、
必要不可欠なのが、
不必要な時間。
つまり、
決して無駄ではない、
究極に「無駄な」時間。
なにしろ、
アウト・ワンの構造と全く一緒で、
時間の経過とともにしか、
行き着けない場所があり、
その場所にたどり着く過程でしか、
実験できないことがある。
そして、その実験を通してでしか、
ありえなかった結果がある。
最終日、
連日の稽古で疲れ果てているなか始まった、
10人全員によるクリエーション。
深夜23時を回っても、
いっこうに意見がまとまらない。
翌日12時には、
作品を発表しなくてはいけないのに、
絶対絶命のピンチ。
3時間、
話し合いを続けても、
いまいちピンとこない内容で、
ラストシーンも決まらない。
思い切って、
深夜0時、
あやふやなまま解散し、
翌朝、
再び集まることに。
一晩寝かせたところで、
昨日、3時間以上話したこととは、
まったく違うアイディアに、
30分で話がきまり、
発表。
演出家から、好評をいただき、
うちらの昨日の3時間ってなんだったのー?
と、みんなで笑いました。
だって、いつものこと。
いつだって、
膨大な「無駄」が、
最後に表面に現れる、
ほんの1パーセントを、
支えてくれる。
今は、そのことを知っているから、
できる限りの「無駄」をしたい。
みんなで、
お菓子をつまみながら、
基本エンドレスの「無駄」な話し合いをすることができる環境、
これが、私の合理主義。