パリ同時多発テロから2日目の日曜日。

パリで起きた同時多発テロから2日目。

少しづつ、街に人が戻りつつある。

事件当初、普段モンペリエに住んでいる私は、

週末、今のクリエーションとは、別の稽古のため、

パリに向かうTGVの中にいた。

このブログで書こうと思っていた、

今週の出来事も、

恐ろしい現実の前に、

一気に色を失う。

翌日は、パリにいる思い当たる限りすべての友人たちと、

さまざまな方法で安否を確認しあい、

ほっとしたり、

不安な気持ちに陥ったりしながら、

あっという間に一日が終わる。

久々のパリということで、

私たちの学校の卒業生たちの公演、

『NOBODY』と、

初来日で話題を集めている、

アンジェリカ・リデルの新作『Primera carta de San Pablo a los Corintios』を、

随分前から、楽しみに購入していたが、

非常事態宣言のため、

ほぼすべての劇場、美術館が閉鎖された。

テロの現場が、

劇場、バーやレストラン、スタジアムと、

娯楽的場所が標的となったこともあり、

必然的に、文化人として、

この事件とどう対峙していくかが問われる。

東日本大震災の時にも、

芸術、そして演劇を続けていくことに、

突如として、疑問を感じた人は、

少なくなかったと思う。

私も、間違いなくその一人だ。

それでも、

いま、

事件の起きたパリに滞在していて、

偶然にもその時間と場所を生きている私。

明日は、

来年9月から始まる、

初めてのプロとしてのプロダクションの稽古初日があり、

そんな日曜日を、

私は、やっぱりどんなに場違いであったとしても、

演劇人として、いつも通り過ごすことに決める。

ストレッチして、

ディクションの稽古をして、

台詞を覚えて、

そして、このブログを書くこと。

もちろん、正直、

悲しすぎる情報の氾濫に、

気が散って全く集中することなんてできないのだけれど、

それでも、「いつも通り」やってみる。

そのことが、

どんなに大きな恐怖を前にしても、

文化の価値を信じる者としての、

小さな叫びになればいい。

こんな残酷なことがことが起きる社会で、

演劇をやる理由なんて、

言葉では、説明できない。

だから、続けることでしか、

今は、意思表明ができないのだと思う。

下北沢にある本多劇場は、

事件の翌日、以下のようなツイートを発表した。

劇場やホールという密閉された幸福的空間が標的にされるのは本当に哀しいことです。

わたしたち劇場には、多くの人に心の充足をと願い、場を提供する事しかできません。

本当にそれが必要な人たちにこの想いが届けばと願うばかりです。

こういう時こそ、

私たちに降りかかってきた恐怖に対して、

考えを巡らせながらも、

ひとりひとりが、

ひとりひとりの立場で、

ひとりひとりの日常を、

しっかりと続けていけたらと思う。

なぜなら、それが一番難しいことだから。

そして、

今回の事件に巻き込まれたすべての人たちに、

心から追悼の意を表します。

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Photo: PRESS

身体における「公害」の取り除き方。

木曜日、9時半。
唯一、1年生と合同の武道の授業。
授業開始1時間、
いつも通り、
ほぼ動きっぱなしのトレーニングが続き、
2分間の休憩。
1年生の女の子が、
自分の両目から、
とめどなく流れてくる涙に、
戸惑いを隠せない。
他の1年生の生徒たちが心配する中、
私たち3年生は、
なんとなく、
微笑ましい気持ちで見ていた。
なにしろ、
私たちも、
疲れと激しい感情の波に揺さぶられながら、
理由のない涙と、
この学校で、
何度となく付き合ってきたから。
休憩を終えたあと、
武道の先生が、
“dépolluer” という動詞について話す。
理由もなく涙が出るのは、
dépolluerしている証拠だから、
安心しなさい。
【dépolluer】
…の汚染を除去する。
公害を防ぐ。
どんなに気をつけていても、
人間が生活していく限り、
街は汚染されていく。
私たちの身体も一緒。
どんなに気をつけていても、
気づかないうちに、
疲れが蓄積していく。
そして、
私たちの精神も一緒。
どんなに気をつけていても、
他者、
もしくは自分の外の世界と関わりながら、
生きていくうえで生じる摩擦による、
公害。
そんな自分にとって、
最も近いテリトリー、
つまり、
自らの身体の公害を、
なんらかの方法で、
定期的に除去してあげることが大切だという。
この聞きなれない動詞がやけに気に入って、
日本人の友人に話してみたところ、
それって、デトックスと同じこと?
と言われた。
確かに、
デトックス(解毒)と言ってしまえば、
解剖学を想起させるので、
論理的なのだけれども、
私にとっては、
廃棄物とか、
空気汚染とか、
身体の外で発生する、
公共の病気というイメージがしっくりくるのだ。
つまり、
社会に生きていく限り、
逃れることのできない、
身体と精神の病気。
そもそも、
公害という言葉を調べると、
以下のような定義が出てくる。
こう-がい【公害】
自供活動などの人為的な原因から、
地域住民や公共一般がこうむる、
肉体的、精神的、物質的な種々の被害や、
自然環境の破壊。
この「公共一般」というところが、
キーワードなのだと思う。
1年生が学校に入学したのは、
10月初め。
ちょうど、
朝から晩まで続く、
トレーニングと稽古、
それと同時に、
12人のグループとの密接な生活。
「公害」が蓄積しても、
無理はない。
無意識のうちに、
私たちは、
自ら、自らをコントロールしながら生きている。
公害を除去するためには、
時たまの、
コントロールを完全に解除した状態が必要らしい。
それは、
スポーツかもしれないし、
読書かもしれないし、
映画かもしれないし、
カラオケかもしれない。
別になくても生きていけるものが、
dépollution(公害除去)のヒントだと思う。
だから、
私は、全力でフィクションの力を信じている。
フィクションがなくなっても、
私たちは、
生きていけるし、
死なない。
学校に入学してからもう2年。
この2年間で、
随分と自分に厳しくなったし、
同じ分だけ、
自分に甘くもなった。
この「甘さ」が、
私の弱点であり、
私の原動力でもある。
美しいものに出会えば出会うほど、
それと同じ分だけ、
「公害」が副作用的に、
発生していたことには、
少しづつ気づきはじめている。
そして、
そんな「公害」のことを考えながらむかえた今週末は、
公害とは無縁の、
パリの公害の小さな街で、
レジデンス。
ほっと一息。

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「ぼんやりとした恐怖」との付き合い方を考える。

「きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。

だが、その前に断っておきたいことがある。

きみが笑うのは、なにかを恐れている証拠だ。

一冊の本など、無力なものに見えるだろう。たしかにそうかもしれない。

だが、よくあることだが、きみが本の読み方を知らないとしたら? 

きみはほんとうに恐れる必要があるのか……? 

きみはひとりぼっちか? 

寒気がしているか? 

きみは知っているか、人間がどこまで「きみ自身」であるか? 

どこまで愚かであるか? 

そしてどこまで裸であるか?」

ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』中条省平訳(光文社古典新訳文庫)

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2週間ほど前から「恐怖」について考えている。

かの芥川龍之介が自殺の動機とした、

あの「ぼんやりした不安」という言葉が、

「死」を連想させるなら、

私が感じている「ぼんやりとした恐怖」は、

確実に「生」を想起させるものである。

我が学校、自慢の校長は、

生徒ひとりひとりに対して、

とにかく親身である。

なにか悩みや困ったことがあったら、

各自、遠慮なくランデブーをとって、

個人面談する。

他の学校の生徒に、

この話をしたら、

彼は、校長と一対一で話したことなんて、

3年間で、数えるほどだったと驚いていた。

ある日の私の相談内容、その1。

「初見で、台本がちゃんと読めないので、

演出家にアピールするどころか、

この子、本当にちゃんとできるの?

と、不安にさせてしまっている感じがする。」

「あー、それは、大丈夫。

もし、あれだったら、面白いから、

あらかじめ、初見下手ですって言っちゃいなよ。」

解決。

その2。

「なんか、

最近、

恐怖です。」

「最高!」

解決?!

校長が、以前、

同居していたコメディフランセーズの元トップ俳優は、

2ヶ月後から稽古が始まる台本を、

毎朝、繰り返し繰り返し、

声に出して読みながら、

毎晩、他のレパートリー作品に出演していたという。

そんな思い出話を語りながら、

彼が言っていたことは、

「恐怖を軽減させるために、

稽古しまくるのではない。

むしろ、

稽古をすればするほど、

恐怖は増していく。」

全然アドバイスになってないです、と言ったら、

「恐怖がある限り、

前に進んでいるし、

恐怖がある限り、

まだ続けていける。」

と、ご満悦の表情。

ところで、恐怖を感じているなら、

この本を読めと言い放ったバタイユはというと、

日本語訳の文庫では省略されていた、

本人による序文で、

面白いことを書いていた。

「過剰」について。

過剰とはすべての基礎を超えたものであり、

すべての制限の外に存在するものである。

過剰は、

例外であり、

不思議であり、

奇跡である。

そして、この過剰こそが、

最高の魅力、そして、恐怖を生み出す。

具体的に、

舞台上に置き換えて解釈するならば、

「振り切る」ということだと思う。

稽古の段階で、

演劇とは、

演出家や、共演者、テクニカルスタッフ、

つまり他者とのコミュニケーションの中で、

創り上げていくものなので、

自分の提案がクリアな形で出されないと、

それに対するレスポンスも受けにくい。

それにしても、

俳優なら、

誰でも身に覚えのあることだと思うけれど、

まだ、稽古が始まって間もない、

フラジールな状況下で、

この「振り切る」提案(演技)をするというのは、

とてつもなく恐怖である。

しかし、

この恐怖を最大限に伴った「過剰」でこそ、

最高の失敗と、

最高の成功が待っているのかもしれない。

なぜなら、

過剰とは、

例外であり、

不思議であり、

奇跡なのだから。

だから、

将来に対する「ぼんやりとした恐怖」とも、

気長に、

それでも「過剰」に、

付き合っていくべきなのかもしれない。

最近、以前に増して、

ヒップホップのフリースタイルバトルにはまっているので、

無意識に、

戦闘態勢に入ってしまいがちである。

どうせ、

恐怖感じて生きてくなら、

過剰に恐怖感じたらいいやん。

と思ったり。

恐怖といえば、

日本最高峰のMCバトルULTIMATE MC BATTLE大阪大会にて4連覇を成し遂げ、

2012年、2013年の全国大会UMB GRAND CHAMPIONSHIPで優勝し全国2連覇を成し遂げた、

向かうところ敵なしのラッパー、

R指定が、

まさかの「恐怖」に関するラップを書いていて、

頂点にいる人だけに、

聞き応えがあった。

当たり前のことだけど、

上に行けば行くほど、

恐怖は増していくんだ。

ふるえる足 隠すように大げさに貧乏ゆすり
ふるえる声 大丈夫 大丈夫...大丈夫
ふるえる指で着ける火 これで何本目? 何を怖がっとんねん?
自分で選んだこのHard Way 空き箱握り潰しゴミ箱へ
もうそこまで手は届いてる ってか覚えてる? 俺は一度下手をこいてる
「やっぱり俺には荷が重いです...」
ネガとポジティブ入り乱れて目が泳いでる
忘れない上がりきったハードルに躓いた時の 皆の落胆と嬉しそうな顔
忘れない... 外されたハシゴ 返された手のひら
落ち着き払って気楽に行こう なんてホンマは今すぐにも気が狂いそう
気休めにもならん「頑張ってください」や「応援してます」もみんな嫌味に聞こえる
マイメンとのハグも 握手も 対戦相手からの圧も威嚇も
ロビー活動で媚を売る奴の余裕ぶったギャグも(目笑って無いすよ)
逼迫する状況 心拍数上昇 気が付くと火が着く シナプスの暴走
心配されるほどに勘ぐる イラつく 気安く触れんなよ ニヤつく大人共
こんなもん ハナから笑い者にされに行くようなもん
ありがとうわかってるよ そんな事
こんなもん ハナから笑い者にされに行くようなもん
それでも掴んだこのマイクロフォン

 

 

 

 

女優は問題。女優が問題。女優の問題。

小さいころ、

母の本棚に一際目立つタイトルの本があった。

五味太郎氏の大人問題 (講談社文庫)

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大人は問題。

大人が問題。

大人の問題。

当時は、何が書いてあるのかは、知らなかったけど、

筆者自身が、育児を通して感じた、

子どもの問題に見えるけど、

それ、実は大人”は/が/の”問題なのでは?というエッセイ。

それにしても、

この助詞たちの圧倒的存在感とリズムは、

当時の私の心をさらいとって、

無意味に何度も、

自分の声に出してみたものだった。

さて、

そんな日本語に対してどこまでも粋な態度で挑む絵本作家、

五味太郎氏の言葉をお借りして、

今回のテーマは、

女優は問題。女優が問題。女優の問題。

少しづつ、

このブログでテーマになりつつあるように、

私は、どんどん演出家にとってめんどくさい俳優に成長している。

(過去の記事:演出家にとって、めんどくさい俳優になる授業

先週、まさに私が直面した問題は、

演出におけるフェミニズム。

正確には、

フェミニズムfeminism)とは、

性差別を廃止し、抑圧されていた女性権利を拡張しようとする思想運動

性差別に反対し女性の解放を主張する思想・運動などの総称。

wikipediaより引用)

ということらしい。

フェミニストというと、

男性に嫌われるような、

ちょっとめんどくさい気の強い女性を想像するかもしれない。

ちなみに、フェミニズムの起源は、

今、まさに私たちが創作している作品『ダントンの死』の時代背景、

フランス革命までさかのぼり、

91年『人権宣言』に対抗し、

フランスの女性作家であり女優のオランプ・ド・グージュ

『女性及び女性市民の権利宣言』を発表している。

つまり、フェミニズム運動の先駆者は、

女優であったのである。

この事実を私は、

声を大にして叫びたい。

私は今回、

「ダントンの死」という戯曲の中の、

女性の役の中で、

唯一、2ページにわたるモノローグがある、

高級娼婦の役を配役されたのだけれど、

演出家は、この役に特別な思い入れがあるらしく、

稽古がはじまってそうそう、

オイルを使って、主役の男性にマッサージをしながら、

娼婦がモノローグを語っているイメージがあると言った。

彼との稽古が始まってからの一週間、

慣れるまではつい引っ込み思案にみられがちの私が、

開口一番、

「嫌です」

と、言ったので、

演出家も絶句。

ドラマツルギーにおける検証が一切なされない

セクシャルなシーンはとても危険だと感じる。

極端な例で言えば、

男女が抱き合うシーンがあったとして、

その行為をどこまで舞台の上で見せるかということは、

非常に繊細な問題である。

脱げと言われたから、脱いで、

抱き合えと言われたから、抱き合っていたら、

連日に及ぶ公演を想像したとき、

精神的にも、

肉体的にも、

苦しいと思う。

観客が、

俳優に対して、

フィクションを超えて、

人前でよくあそこまでできるなあと思ってしまうようなシーンこそ、

水面に現れている行為そのものを水面下で支えられるような、

徹底的なドラマツルギーにおける根拠が必要。

相方の俳優と時代背景も踏まえて、

テキストを徹底的に読解し、

その上で、

マッサージよりも過激なシーンを提案。

演出家も、

私たちの提案に対し、

ディスカッションを持ち込んできてくれたので、

「行為」そのものが浮き出てしまわないような、

性的なシーンを構築する経過を辿り始めることに成功。

はっきり言って、

クラシックの戯曲に女性のヒーローが出てくることはまずない。

主人公、つまり、男性の妻、もしくは、愛人であることがほとんど。

必然的に、

男性に付随する役所が女優に与えられる可能性が非常に高くなる。

この現実の中で、

女優は、

俳優である以上に、

女優であることを、

常に、

意識していく必要があると思う。

どんな美しさも醜さも消費されてはならない。

女優は問題。女優が問題。女優の問題。

8年前にオペラ座で、

出演者がほぼ全員裸のワーグナーのオペラを見て以来、

舞台芸術における「性」というものの見方が、

観客としては随分変わって、

今では、そんなに驚くこともなくなってしまったけれど、

だからこそ、

俳優としては、

常に、日常からはみ出た部分、

つまりとても自分自身の身体と親密な要求にこそ、

慎重に、かつ、尊厳をもって答えていくことが重要だと思う、

今日この頃。

28歳を「聞く」。

慌ただしく、

誕生日を迎えて、

新一年生を迎えて、

本番を迎えて、

新たなクリエーションが始まった。

最終学年である今年は、

30代、40代、50代、60代の4人の演出家と、

私たち11人の俳優で、

同じ空間を用いて、

4つの作品を作り上げるという、

とてつもない企画がスタート。

まずは、一番若い30代の演出家と、

ゲオルク・ビューヒナーの『ダントンの死』の、

稽古がスタート。

実はこの作品の中の有名な娼婦のモノローグを、

以前、別の演出家のスタージュで配役されたことがあった。

(過去の記事:https://mill-co-run.com/2014/10/04/living-beahavior-生命的行為へのために、私自ら「実験台」に/

今回の演出家は私が出演していた別の作品を見て、

私に、この娼婦の役を配役しようと決めていたらしく、

私が以前にやったことがあると言って、

岩波文庫の翻訳も持っていたので、

驚いていた。

もはや、フランスで俳優をする上で、

必要な本は、

だいたい自分の本棚から見つかるという今日この頃。

少しづつ、

フランスの演劇界に浸かり始めてきた感じ。

それにしても、

フランスに来て、

もう4年も経つのに、

どうしてもひとつだけ、

惨めで惨めで仕方ない時間がある。

それは、本読み。

台本が渡されて、

初見で、本読みをするときに、

どうしても、

同時に理解して、

台詞を読んでいくことができない私は、

俳優として、

かなり頼りない姿を見せることになってしまう。

こんなわけで、

毎回、新しいスタージュが始まってから、

演出家への信頼を得るまでの、

1週間は地獄。

はっきり言って、

台本を渡されて、

その場で、

理解しながらすらすら読めるようになるには、

少なくとも、あと5年はかかる気がする。

何しろ、今回の作品の舞台背景は、

フランス革命なので、

歴史的背景まである程度わかっていないことには、

台詞を覚えるどころではない。

たぶん、

去年までの私だったら、

完全パニックに陥って、

絶望していたと思うけど、

最近、

少し、「聞く」という行為に力を入れているので、

以前よりは落ち着いて、

この惨めな状況を通り過ぎることができた。

日本の伝統的な芸道のひとつで、

一定の作法のもとに香木を焚き、

立ち上る香りを当てっこすることを、

香道という。

香道では、

香りを嗅ぐのではなく、

香りをに対し、

「聞く」という動詞を使うそう。

心を傾けて香りを聞く、

心の中でその香りをゆっくり味わう、

という意味があるそう。

フランスでは、

この聞くという動詞をやたら舞台芸術の場で多用する。

[écouter]

俳優を褒めるときにも、

彼は「聞く」のがうまいというのをよく耳にする。

ここでいう「聞く」は、

単に、共演者に対して「聞く」のではなく、

空間に対して、

身体に対して、

時間に対して、

香道の「聞く」と同じで、

聞こえないものを「聞く」力が必要とされているのではないかと感じる。

昨年は、

日常生活の中でも、

何かを学び得ようという気持ちよりも、

もう少し、

受動的な気持ちで、

今、自分が置かれている状況を、

「聞く」ことで、

ゆるりゆるりと味わっているうちに、

いつのまにか解決していたり、

ふと振り返ると前進していたりしたようなことが、

多々あった。

いっとき、

日本で話題になった「アンチエイジング」という言葉も、

言い換えれば、

自分の身体を「聞く」ことと同じことだと思う。

「聞く」ことで、

私は、最近、

アンチというよりも、

ウィズという感覚で、

エイジングと付き合っている。

ウィズエイジング。

稽古や本番で、

ハードな日程が続くほど、

身体の感覚が、

確実に20代前半までとは、

違うことがわかる。

食べることも、

運動することも、

眠ることも、

欲求よりも、

自分の身体の意見を優先する。

身体を「聞く」こと。

フランスの現場では欠かせない、

ディスカッションも、

今までは、

自分の意見をいうだけで、

精一杯だったけれど、

他人の意見と、

場の空気を、

まず「聞く」ことで、

そっと考える(味わう)時間をあたえてくれる。

28歳は、

私を「聞く」1年になったらいい。

どこまでも、

些細な音に耳を傾けて、

その香りが消えてなくなるまで、

ゆっくりゆっくり味わうのだ。

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それにしても、

初日は、

台本の内容が全くわからなかったので、

悲しすぎて日本に帰りたくなったので、

ノートにトトロを描いて、

気持ちを落ち着かせました。

その香りが消えてなくなるまで、

ゆっくりゆっくり味わうのだ。