「超マニアックなフランス語発音レッスン」受講者受付中

先日、17世紀フランスの演技論ということで、学習院大学で講義させていただいた。

アレクサンドランで書かれたラシーヌ『フェードル』を題材に実演を交えて、演技構築プロセスを話す。アレクサンドランを制するものは、フランス語の発音を制するといっても過言ではない。

なぜなら、アレクサンドラン攻略のためには、「母音」「音節」「リエゾン」「リズムグループ」という、フランス語の美しいメロディーを構成する要素が全てが入っているからである。

フランス人俳優のほとんどが、アレクサンドランを朗唱することができるが、実際、彼らのキャリアにおいて、アレクサンドランの演目は演じることはほぼない。それでも、フランス人俳優が演劇を学ぶ上で、アレクサンドラン(古典)習得が必須なのは、「歴史」を体内に宿らせるためなのではないか、と感じる。

実際、わたしが、フランス語を、単なる外国語ではなく、自身の人生における「第二言語」と呼ぶことができるのは、アレクサンドランとの関係によるところが大きい。

アレクサンドランが「美しい」、「心地よい」と思うまでに、8年間を要した。

その時間は、わたしにとっても、フランスにおける演技や演劇の「歴史」を体内に宿らせる重要なプロセスであり、細胞レベルで何かを美しいと感じるまでに、必要な道のりであったと思う。

西洋史学者の阿部謹也氏は、名著『自分のなかに歴史をよむ』で、「学問の意味は生きるということを自覚的に行う(P57)」ことと記述している。

そのためには第一に「ものごころついたころから現在までの自己形成の歩みを、たんねんに掘り起こしてゆくこと(P58)」であり、第二に「それを《大いなる時間》の中に位置付けていくこと(P60)」であるという。

まさに、今回の講義の準備は、わたしにこの二段階の学びを運んできてくれた愛おしい時間であった。

演劇の三大要素は、「俳優、戯曲、観客」と言われているが、この3つの中で、演劇を特徴づけるものは、一番に「観客」の存在だろう。映像芸術にも、「俳優」や「戯曲(シナリオ)」は存在するが、作品そのものが翻弄されるようなかたちでは、「観客」は存在しない。

劇場という空間においてのみ、「観客」は作品を翻弄し、彼らの存在は、作品をいかようにも変化させてしまう可能性を孕んでいる。「観客」という名の不特定多数の群衆が無意識に持っている特権は「文化コード」である。

演劇祭など、多数の地域から、それぞれのバックボーンを持った観客たちが集結しているような状況を別として、劇場には、ある一定の「文化コード」を共有した観客が集まりやすいという特性がある。

「文化コード」の最たるものが言語である。

彼らは、あるひとつの作品を目の前に、時として、ある「文化コード」に強烈な共鳴を感じ、熱狂する。そして、その共鳴は、その「文化コード」を共有できなかったものたちを、非暴力的に排除し、孤立させるのだ。

フランスにおける政策用語としての「統合・同化」(intégration)という概念がある。移民政策の中で語られ、ホスト社会(つまり、フランス)への参加を促すものとして積極的・肯定的な意味合いをもつ。

もとになる動詞「統合する」(intégrer)には「組み入れる」という意味があり、「ある社会の中に、その外部からやってきた人びとを組み入れ、ひとつにする」作業をさすのだが、果たして本当に促進されるべき価値観なのだろうか。

わたしが、フランスに渡り、演劇を学び始めた当初、すべての願望は、この「intégration」に集約されていたと言っても過言ではない。

日本文化を遠ざけ、なるべくフランス人と同じものを見たり、聞いたり、食べたり、読んだり、話したり、さらには、「感じたり」したいと思っていた。

この「intégration」への激しい欲求は、演劇という、「文化コード」共有の有無によって、作品への理解や接続の仕方が変化してしまう芸術に関わっていたことと深く関係があったのではないかと振り返る。

正解を「フランス人」におき、その「フランス人」に同化することが、社会的に自分の存在を確立させることだと信じて疑わなかった時代、フランス語発音矯正は、地獄でしかなかった。

自分の今までの人生をいったん「殺す」ことでしか手にいれることができないもの、「intégration」のための必須アイテムのひとつが、「アレクサンドラン」であったように感じる。

そして、「intégration」の魔力から、わたしを自由にしてくれたのが、カナダのフランス語圏モントリオールで出会ったフランス語だった。

以降、わたしの人生において、フランス語が「ホスト」ではなく、単なる「他者」という存在に生まれ変わった。ヒエラルキーのない、フラットな関係における、他者としてのフランス語。

フランス語の発音を追求することが、苦行から愉しみに変わり、一生わたしが仕事で使うことはないだろう「アレクサンドラン」が、驚異の存在ではなくなった。

そして、「現在」が更新されるたびに、わたしの「アレクサンドラン」の位置づけも変わっていく。

その変化が楽しくてたまらない。

現在、フランスで演劇学校に入りたいという現役日本人大学生の発音レッスンを受け持っているのだが、「アレクサンドラン」習得を目的とした、かなりマニアックな発音レッスンに需要があったことに大変驚いている。

本当に、普通に、フランスで生活するには、一切必要ないレベルの「超マニアックな発音レッスン」を通して、17世紀フランスの演劇に触れたい人がいればご連絡ください(笑)

まずは、「フランス語は母音が命!」ということがわかる表が、こちら。


コメントを残す